回帰 ―夏を喰らわば 皿まで―本作品は主人公表記になっておりますが、製本の際には意図的な空白として作成予定です。ご自身のお名前を入れてお読みいただければと思います。また、作中は過激な描写を含んでいます。体調等にご配慮のうえ、お楽しみいただければ幸いです。
くうくうと。小さく鳴る音を聞いて、一体何日が過ぎたんだろう。ある時を境に、あんなにも大好きだったマヒルの手料理すら味気ないものに変わってしまったあの日から、私のお腹は鳴り続けている。
「おなか、すいたなぁ……」
ポツリ、零れ落ちた言葉を拾う人はいない。この家の主人であるマヒルは、仕事に行ってしまっているからだ。テーブルの上には色とりどりの果実。けれどそれに手を付ける気にはならなかった。どうせ食べても瑞々しい果汁の甘さを感じるどころか、砂でも口に含んだかのような気持ちの悪い無味が広がるだけだと知ってしまっているから。
「……おなか、すいた」
ぼんやりと同じ言葉だけを繰り返し呟きながら、ソファに凭れて目を閉じる。遠のく意識の中で思い出すのは、いつだって大好きなマヒルの笑顔だった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「……ただいま」
小さな扉の開閉音と共に、聞き慣れた声が私の意識を引っ張り上げた。いつもと何も変わらない、疲れているはずなのに優しい、大好きな声。それなのに、そんなマヒルの声ですらもどこか遠くからノイズ混じりに聞こえてくるのだから、私の身体はもうダメなのかもしれなかった。
「主人公……?寝てたのか?」
ゆっくりと近付いてくる足音。ソファに沈んだ身体がほんの少し揺れて、ようやく重たかった目蓋を押し上げる。すっかり暗くなってしまった室内の闇に全てが溶けそうな中でも、執艦官の服と帽子を脱ぎ捨てたマヒルの姿だけは、見つけられて安堵の息を吐き出す。ネクタイまでをも放り投げた彼は、手袋を外した左手で私の頬に触れた。
「……顔色、悪化してるな。まだ食欲は戻りそうにないのか?」
心配をしているんだと分かっているのに、食べていないことを責められているように感じてしまって。それを感じ取った胃がぎゅうっと縮むから、返事をすることもできないまま唇を噛み締めるしかなかった。本当は、ずっと。ずっとずっとお腹が空いている。けれど、大好きだったマヒルの手料理の味を感じられないことが、私を苦しめていることなんて彼は知らないから。気が付かれないままでいたかった。おかしくなってしまった私の舌は、もうマヒルの手料理じゃ満たされないことなんて――知らないままでいて欲しかった。
「……マヒル。お願い、聞いてくれる?」
「……聞くよ。お前の願いなら、なんだって叶えてやる」
誤魔化すには、随分と適当な言葉だった。それでもマヒルは笑顔を崩さない。柔らかな声に導かれるまま、ゆっくりと
重たくなってしまった腕を持ち上げる。幼かった時によくしてくれていたように、今はただ何も言わないで慰めて欲しかった。
「ぎゅって、して……」
「……もちろん」
小さく吐息だけで笑われたような気がしたけれど、恥ずかしさなんて全くなかった。ふわり。美味しそうな香りがして、世界一安心できる場所へと、私の身体がすっぽりと収まる。くうくうとかわいらしく鳴いていたお腹が、途端にもう限界だと言わんばかりに音量を上げて、それを誤魔化すように擦り寄った逞しい首筋から香ったのは、濃いりんごの香りだった。背中を撫でる大きな手はいつもと変わらないのに、胸の奥がざらついていく感覚。鼻先を押し付けたそこが微かに上下して、静かな声が耳朶を掠めていく。
「……病院、行くか?いい加減、しっかり調べてもらった方がいいだろ。果物にすら手を付けなくなっちまったんだ」
「……だって、味がしないんだもん。マヒルからは――アップルパイの匂いがするのに」
「……は?」
もたれかかっていた身体が微かに強張ったことには気が付いていた。けれど、それがどうしてなのかを考えることすら
今は億劫で、頭の中を埋め尽くす空腹感から気を紛らわせるためだけに、マヒルの声へと耳を澄ませる。
「……匂い?」
「うん、すごくいい匂いで……美味しそう。最近はずっとアップルパイの匂いがしてる。……艦隊のおやつはアップルパイなの?」
じゅわりと口の中が唾液で溢れていく。甘くて瑞々しいりんごと、たくさんのバターが溶けた香ばしい――堪らなく美味しそうな香り。きっとこの薄い皮に歯を突き立てて口いっぱいに広がる甘さを感じれば、私の飢えは満たされるんだろうと、ぼんやり霞のかかった思考で思う。
「ッ主人公……!」
「……ぇ?」
頭の中で煙っていた霞を追い払う鋭い声が響いて、一気に思考がはっきりとする。ちゅぱ、と。耳障りな音を立てて唾液にまみれた唇が、マヒルの首筋から離れる。……あれ、私……何しようとした……?サァッと血の気が引いていく感覚。もう気が付かないフリはできなかった。私、今……マヒルに噛み付こうとした。
「オレのこと……美味そうだって、思った?」
呆然と俯いた私のつむじに、微かに震えた吐息が落ちてくる。違う。マヒルのことが美味しそうだなんて思っていない。ただ、美味しそうな香りがしたから、この香りのものが食べられたら、私の飢えを満たせると思っただけで……。そう告げようと顔を上げた私は、結局何も言えないまま目を見開くしかなかったのだけれど。
「……お前は、オレを食べたいのか?」
いつもと変わらない、優しい笑顔と声だった。けれど、私を覗き込む夏の夜明けを閉じ込めた宝石だけが、何も映さずに艶めいている。あ、ぶどう味のキャンディみたい。おおよそ、人の目を見て出る感想ではない言葉が頭の中に浮かんで、空腹でグルグルしていた胃がひっくり返る感覚に唇を噛み締める。
「――ぉえッ、ふ、ぐ……ッ」
唐突に湧き上がってきた嘔吐感によって、生理的な涙で滲んだ視界が鬱陶しくて堪らずに目を閉じた私を、マヒルがどんな顔で見つめていたのかなんて気が付けるわけもない。空っぽの胃から上がってくるものは何もなくて、それなのに口の中は唾液で溢れるから、縋りついたままだった彼の身体を突き飛ばして、身体を折り畳むように蹲る。
「ち、がぅ……!っぅ……食べ、たくない……!違う……!」
「食欲がないんじゃなくて、味がしなかったんだな。ごめん。もっと早く気が付いてやるべきだった」
「違う!や、」
「な、嘘つかなくたっていい。教えてくれ。――お前の“腹”は、何を求めてる?」
微かに震えた大きな手がそっと背中を撫でる。その度に広がるアップルパイの香りでおかしくなりそうだった。
――ううん、違う。きっと私はもう、とっくにおかしくなってたんだ。
「や、だぁ……!すい、てない!おなかなんて、すいてない!」
くうくうと鳴り続ける空腹を訴えている胃を、押し潰すように抱え込んで小さく丸まる。本当は怖いくせに。どうしていつもと同じように笑うの。イヤイヤと頭を振る私を引き寄せて、さっきと同じように抱き締めてくるマヒルのことがもう分からない。
「……本当は、少しだけ嬉しかったって言っちまったら、お前は怒るんだろうな」
「っ離して!」
「オレ、お前にだったら食われちまってもいい。それでお前の苦しみがマシになるなら、オレは嬉しいんだよ。でもな……」
「やだ!聞きたくない!離し――」
「でもな、お前に選んで欲しいんだよ。オレが食いたいって、オレじゃなきゃ嫌だって」
何を言っているのか理解できなかった。違う。理解したくなかった。たったひとりの“唯一”を、美味しそうだと感じてしまったことも、それを彼が簡単に受け入れてしまったことも。全部全部理解したくなくて、唇を噛み締める。
「お前が望んでくれるなら、オレは何もかも差し出したっていいんだ」
唇を噛み締めてかすかに震え続ける私とは違って、マヒルはもう少しだって震えていなかった。それが堪らなく恨めしくって、止まらない涙と唾液が溢れてボタボタとこぼれ落ちる。怖い、悔しい、どうして、嫌だ。伝えたい気持ちは沢山あるのに、そのどれもが言葉にならない。嫌だよ。私、マヒルを食べたくなんかない。だって、食べたらマヒルが減っちゃう。瑞々しい宙色の瞳も、面白そうな歯応えの爪も、甘い美酒のような血も。どれも欠けさせたくはないのに――。
「……い。ま、ひる……。たべ、たい……」
震え続ける喉から吐き出された言葉は、彼の望んだ言葉だった。顎先から滴っているのがなんなのかすらもう分からない。それでも、何もかもを受け入れた顔で嬉しそうに笑うマヒルから目が逸らせなかった。
「ん、おいで。もう我慢しなくていい」
はだけた襟元から覗く首筋へと、大きな手に導かれて唇を寄せる。くらり。嬉しそうな声が「我慢しなくていい」なんて囁くから、私は何もかもが許されたような気になってしまう。いつだってそうなのだ。兄さんは――マヒルは、どんな時でも私を否定しない。それがどれだけ私にとって支えになっているのか、きっとこの人はきちんと理解している。だからこそ、今だけは受け入れて欲しくなかったのに。
「いただき、ます」
「……あぁ、召し上がれ」
それなのに私の口から零れたのは、拒絶の言葉なんかじゃなくて。大切な人相手に使っていい言葉じゃないのに、マヒルがやっぱり嬉しそうに囁くから。
「――ッ、ぐぅ……、は、」
「……ん、んっ」
加減も分からないまま差し出されていた首筋に歯を突き立てて、溢れた赤へと夢中で舌を這わせる。鼻から抜けていく空気は爽やかさを含んでいるのに、舌に絡みつくのは喉が焼けるような甘さ。胃の奥が燃えるように熱くなって、くうくうと鳴いていたお腹が少しづつ満たされていく。
「……ッ、ふ、……。じゅ、」
「……やっぱり、お前は泣くんだな」
小さな子供をあやす時のような柔らかな声には、さっき零れた痛みはもう滲んでいない。縋り付く私の背を撫ぜていた手が柔く髪を掻き乱す。宙色の瞳をキャンディみたいだと。そう考えてしまった自分が堪らなく気持ち悪かったはずなのに、実際に口へと含んだマヒルはどこまでも“美味しくて”、吐き気なんてとうに消えてしまっていた。今、私を満たしているのは、心地のいい満腹感だけ。おかしくなったんじゃない。私はとうに人間であることをやめていたんだ。ワンダラーに引けを取らない怪物になっていたんだって。数週間ぶりにクリアになっていく思考の片隅で思う。
くうくうと。あんなにも鳴り止まなかった音が今はもう少しもしなくて、満たされた胃があたたかくて、それを少しだって気持ち悪いと思えないことが嫌だった。けれど、マヒルがそれでいいんだって笑うから。舌先に絡みつく甘さとあいまって、ドロドロに私の思考を溶かしていく。
「お、いしい……。マヒルは、こんなにも……おいしかったんだね……」
「はは、嬉しい。お前にとってのご馳走になれてるなら、それだけでもういいか」
やっぱりいつもと変わらない優しい声で笑うマヒルが、どんな顔をしてるのか分からなくても、満たされていくお腹に嘘は付けなくて。ぼろぼろと零れるままにしていた涙がそっと、つめたい指先で拭われる。再会してからはその冷たくなってしまった右手が大嫌いだったのに、今は唯一私のお腹を満たすことのできないそれが救いに見えた。いつだって、私はマヒルに守られてばかりのどうしようもない妹で、それは今だって変わらないのかもしれない。お腹を満たしてくれた私の唯一が、こんなことで嬉しそうに笑う顔なんて、見たくなかったのに。
「血だけで……十分だよ……?」
「……あぁ、久しぶりの食事だもんな。さすがに固形物は無理か……」
きっとみっともなく唾液と血液に塗れている唇を舐めながら、そっと吐き出した声。一瞬眉間にシワを寄せるも、マヒルはすぐにまた優しく笑った。まるで風邪でも引いていて、久しぶりにご飯を食べられたあの頃と何も変わらない口振りに、また涙が溢れていく。違う、違うんだよマヒル。あなたは私の唯一であって、決して私のための“食事”じゃないんだよ。どうか簡単に受け入れないで。じゃないと、いつかマヒルは、私のためだって笑いながら指を口の中に押し込むでしょう?そんなの、私には――耐えられない。
「お腹、いっぱいだから……。ね?マヒルも、ちゃんとご飯食べなきゃ……」
どの口が、と思ってしまって、もうダメだった。震えを隠せない口の端が歪んで、咄嗟にそんな顔見せるものかと手のひらで覆う。
もう、ずっと。逃げられない悪夢の中にでも閉じ込められている気分だった。
ここからは、グロテスクな描写、表現を含んでいます。
お読みになる際は、体調などにご考慮ください。
傷口に包帯を巻く時よりも、血を拭き取る時よりも、ずっと時間をかけたのは、肉を切り分ける作業だった。何かあった時のためにと用意していた麻酔薬を、自らへと使うことになるとは想定していなかったものの、それでも役に立っているんだから文句はない。ミシ、と握り締めたナイフの柄が悲鳴を上げる。ナイフの刃が、ゆっくりと皮膚を裂いていく。太腿の内側に走った動脈を避けながら、慎重に剥がした皮膚の下からは、赤と黄色が混ざり合ったただの肉が顔を覗かせた。使いものにならなくなった二本目のナイフを放り捨てて、脂塗れになってしまった手をタオルに擦り付ける。動脈を締めた致命傷には成り得ない傷を指でなぞってみれば、痛みは感じないものの微かに痙攣しているのが分かった。まだ自分の一部でしかない肉はあたたかい。そこに、新しいナイフの刃を入れて丁寧に削いでいく。さっきまでとは比べものにならない血の滴る音が、バケツの中で一定のリズムを刻む。肉塊を切り離した瞬間、心と同じように軽くなったような気がした足に笑ってしまう。
「硬い枕だって怒られちまったから、きっとオレはどこを削いでも柔らかくはないんだろうな」
もうしてやれる機会のこない懐かしい重さに思いを馳せつつ、局部麻酔が効いているうちに傷を焼いて塞ぐ。どこまで失えば人は死ぬのか。それを嫌というほど叩き込まれた頭はどこまでも冷静だった。部位ごとに丁寧に小分けした肉の中から、今日の食事に使う箇所を選ぶ。
部屋を汚さないように敷いていたシートに飛び散った血は捨てて、バケツの中に溜まった血はソースなり固めてデザートにするなりすれば使い道がある。
「味覚が変わっちまっただけで、生肉は害にしかならないってことを忘れてたのは、オレの傲慢さなんだろうな……」
いつまでも腹を空かせて泣いている彼女の腹を満たしてやりたい気持ちだけが空回りをして、結局オレはアイツを苦しめてしまった。いつだって後悔ばかりの人生なんだ。あの時こうしていれば、もしこうしなければ。叶いもしない“たられば”は、常にオレを縛り付ける。それでも、もう後悔する日は来ないだろう。
――じゅう、という音が、油のはねる音にまぎれて消えていく。熱したフライパンの中で、丸を模られた肉塊がじわじわと色を変えている。丸めた生肉の中には、刻んだ玉ねぎとパン粉、卵が練り込まれていた。見た目だけなら、アイツが好きだと言った普通のハンバーグだ。違うのは――それがオレ自身の身体から削がれた肉だということだけ。
「……冷めちまうと、余計硬くなっちまう。でも、焼き加減には気をつけないと。また腹を壊しちまったら、今度こそ食いたがらなくなるだろうしな」
静かに裏返すと、こんがりとした焼き目が現れる。じんわりと滲む肉汁は、赤く濁っていた。横の小鍋では、血を煮詰めたソースがとろりと泡立っている。赤ワインとバターによって艶やかな色に変わったそれは、どこから見たって血には見えない。煮詰めるたびに濃くなるその色合いは、彼女が美味しいと笑ったレシピと同じだった。皿に焼きあがったハンバーグを乗せて、ソースをたっぷりかける。隠し味に入れた蜂蜜がふわっと香って、血の匂いを隠してくれていたけれど、アイツにしてみれば甘い匂いしかしないんだから関係なかったなとため息をひとつ。色味は深くて、黒に近い紅。
綺麗な焼け目から滲んだ血が、ソースの中に広がってグラデーションを作り出す。
――それでも、皿の上は、どこか神聖だった。命を捧げる儀式に相応しく、どこまでも美しく整っている。
「……主人公の望む、いい兄ちゃんでいてやれなくて……ごめんな」
そっと彼女の席に皿を置いて、まだ寝室で眠っている主人公の名前を呼ぶ。聞こえないことを理解している今だからこそ吐き出した言葉が、まだ湯気の立ち上る皿の上に落ちた。祈るように、懺悔するように、許されないことを自覚しているオレは、彼女にとっては迷惑でしかないだろう願いを囁く。
「オレの全部を食べて、お前の中で永遠に生かしてくれ」
一番捧げたかった心臓は、取っておくと決めてしまった。だからこそ、それ以外の全てで主人公の腹を満たしてやると決めたのだ。また勝手に決めたことを知ったら、お前は怒るんだろうな。泣いて、癇癪を起こして――それでもきっと。最後にはオレの望みを叶えてくれるって信じてる。オレも大概だけど、お前も昔からオレには甘かったから。だから、これはお互い様なんだ。
「もう二度と、オレはお前のそばを離れたりしない」
たとえそれが、もう二度とお前に触れられなくなる方法だったとしても。主人公の中でひとつになれるなら、それ以上の幸せはない。閉じていた目を開く。目の前にはまだ湯気が立っている皿。
冷めて硬くなっちまう前に食ってもらわなくちゃな。未だ麻酔の効いた足を引き摺って、主人公のいる寝室を目指す。ゆっくりと閉まっていくキッチンの中は、綺麗に片付いていた。