神の愛し子 天に近い山を超えたその先、ひっそりと存在している小さな村――その名を、天行村という。天に通じる道を行くとして、その名がついたとされている、険しい山で囲まれた盆地にひっそりと存在している村だ。けれど、地図には載らず、また訪れる人もいない。だが、ここには確かに人々が暮らし、古くから続く小さな神社が村の最奥に位置する神山の中腹に鎮座していた。
その神社の境内に、ひとりの少女がいる。年の頃は三つ。足元が多少おぼつかないながらも、笑顔だけは無垢な天使のようだった。今日はお参りに来た祖母の目を盗み、ひとりで社裏の林までやってきてしまったのだ。
――静かな昼下がり。ふくふくとした小さな手が、足元に咲いたタンポポを摘もうとした、その時だった。
「なぁ、何してるんだ?」
ふと聞こえてきた声に驚くでもなく、少女はゆっくりと振り向く。そこに立っていたのは、十にも満たない年齢の少年だった。大きな御神木の低い位置にある枝へと腰掛け、少女を見下ろしながら柔らかく微笑んでいる。服装は村の子供たちとさして変わらず、瞳だけが日差しを受けてキラキラと不思議な色合いをしていた。大人であればいくら木登りが得意なわんぱく坊主でも、そこまで登るのは難しいことに気がついたのかもしれない。けれど、少女は不審がる様子もなく、にこっと笑って彼の下まで駆け寄ったのだった。
「にいに、だあれ?」
「オレ? ……んー、ただの“兄ちゃん”かな」
「……?ふふ、へんなの!」
名前を名乗らなかったことに首を傾げた少女に、寂しげに微笑みかけた少年は、けれど何を言うでもなく隣へ降り立つとしゃがみこむ。
「なぁ、何してたんだ?こんな所で」
「おばあちゃん、まってたの」
「ばあちゃん?なんで?」
「かみさまに、おねがいするんだって」
へぇ、と。興味のなさげな返事をしたくせに、少年は微かに目を伏せる。少女は足元に咲いたタンポポを摘むことに夢中で気が付かない。
「 ね、すぐねつでちゃうの。だから、おねがいするんだって」
「ああ、なるほどな。“通りで”ここに来られるわけだ」
「え?なぁに?」
「いや、なんでもない。……じゃあ、少しだけオレと遊ぼうか」
「っうん!」
悲しげに、けれどそれを声音に乗せることはしなかった少年の言葉に、嬉しそうに笑った少女。小石を集めて積んだり、タンポポの冠を作ったり。少年はとても優しく、少女の無理なお願いも笑いながら髪を撫でて叶えていく。そうしているうちに、いつの間にか空が赤く染まっていた。
「……そろそろ“かえして”あげなくちゃな」
足の間に納まって、くふくふと満足気に笑う少女の頭を撫でていた少年が、小さく囁く。少女は首をかしげた。それもそうだろう。だってまだ祖母の呼ぶ声は聞こえないのだから。
「かえすって、なにを?」
「……ばあちゃん、心配するから。ほら、帰ろうな」
そう言いながら少女を膝から降ろした少年は、小さな手を引いて微笑んだ。その顔はどこか寂しげで、首を傾げながら名を呼ぼうとした瞬間、遠くから自らの名を呼ぶ祖母の声に気を取られてしまう。
「にいに……、あれ?」
いつの間にか離れてしまっていた手の先を辿るように振り返っても、既にそこには少年の姿はなかった。まるで、最初から誰もいなかったかのように。きょとり、と。辺りを見回して気がつく。少女はひとり、神社の狛犬の前に立っていた。
「――ああ、 !どこに行っていたの……!」
駆け寄ってきた大人たちの中から、真っ青な顔をした祖母が飛び出して、涙ぐみながら少女をその腕の中へと閉じ込める。それもそうだろう。少女は楽しかった記憶ばかりに引っ張られ時間の感覚を失っているが、祖母と共にこの場所を訪れたのは昼下がり。今は昼と夜の境目、逢魔時だ。齢三つの子供がひとり、四時間も消えていたとなれば、小さな村では一大事なのだから。
「にいにと、あそんでたの!」
「……お兄ちゃん?」
「うん!しらないにいに!やさしかったの!」
けれど、その異常性には気がつけない幼子は、キャラキャラと笑うだけだった。そんな少女の言葉を聞いた神主が、この場にいる大人たちの中でひとり、ふっと顔色を変える。
「……それは、どこでだ?」
「んーとね、おっきなきのとこ!」
少女の無邪気な声とは裏腹に、神主の表情は凍りついたままだった。大きな木なんて、社の中にはカイドウの木しかない。それが御神木を指すことなど、大人たちは皆、気がついている。それでも、その木に隠された秘密を知っているのは、神主を抜いてこの場にはいない村長のみだ。
「……まさか、綻び始めているのか……?」
震えながら低く呟いた言葉は、誰の耳にも届くことなく消えていく。村の宝でもある幼子が見つかった安堵に包まれた大人たちは、一様に笑顔で去っていくのみだった。
数日後。少女は庭先でひとり、唄を口ずさんでいた。
「ななつのまえは おかみのこ……♪
ひとよにまよいて とこしえの……♪
むかえがきたら おくりましょ……♪」
透き通るような舌っ足らずの歌声に、通りがかった神主が足を止めて、再び顔を青ざめさせる。目を見開き、持っていた箱を地面に落としても、気にした様子もなく少女の前へとしゃがみこむ。いつもは優しく笑うだけの神主の反応に驚いた少女が尻もちを着いても、お構いなしにその華奢な肩を掴んで揺さぶった。
「……その唄、誰が教えた!?」
「……に、にいに。……いっしょに、うたったの……。っい、いたい!」
「…………」
「…… ?――何をしているんだい!」
痛みと恐怖に耐えきれず、泣き始めた少の声で駆けつけた祖母が驚いてその手を振り払っても、血の気が引いた神主は冷や汗を流すだけだった。
~~~~~~~~(中略)~~~~~~~~~
その夜、雪はまだ降っていなかった。けれど、空気はどこまでも冷たく、風が吹き抜けるたびに木々が軋んだ。七歳の誕生日を目前に控えた少女は、昼間から高い熱を出していた。頬は赤く火照り、意識は朧。熱に浮かされるようにして、汗ばんだ額を祖母に拭われながら、何度もうわごとのようにあの少年のことを呼んでいた。
「兄さ、ん……」
祖母は静かに眉をひそめて、けれどそのお兄ちゃんとやらに心当たりなどないまま、濡れた手ぬぐいをまた水に浸す。やがて夜が更けて、家の中がすっかり眠りについたころ、少女の部屋に、ひとつの影が立っていた。
「……やっぱり、ダメだったか」
酷く冷えた、落胆の滲んだか細い声だった。壁に映った影が風もないのに揺れる。障子の隙間から差し込む月明かりが、眠る少女の枕元に立つ“それ”の輪郭を浮かび上がらせていく。穏やかな、けれどどこか物憂げな顔。優しげな光を湛えた目元は、少女を見下ろすたび、揺れて滲んでいた。
「……お前が七つになるまで、守れると思ったんだけどな」
声をかけられても、少女は目を開けない。けれど、そのまつげがぴくりと震える。まるで、夢の浅瀬を揺蕩うかのように。眠ってなどいないかのように。
「ごめんな。……もう、会えなくなる」
その言葉が、夢か現か判別のつかない空気を切り裂く。薄く開かれた焦点の合わない少女の瞳が、ゆっくりと少年を捉える。口元が微かに動いて、呼ぶことに慣れてしまった名がこぼれ落ちた。
「……兄さん……?」
「あぁ、オレだ。ここにいる」
少年はいつものように微笑んだ。けれど、その表情にはもう、遊びに誘う時の無邪気な明るさはなかった。何もかもを知っていると言わんばかりの、どこか遠くを見ている目だった。
「言っただろ?“ななつまでは おかみのこ”。……お前は、そういう運命だった」
「…… 、おかみのこじゃ、ないよ……」
「あぁ、そうだな。お前は、おかみのこなんかじゃない。 は、人の子だ」
「……兄、さん……むずかし、い……」
未だ高熱で朦朧とした少女は、少年の言うことを理解できないとしかめっ面をする。わかるようにお話をして欲しいと。そう願おうとした少女の額に、少年はそっと手を置いた。ひんやりとした指先。けれど、不思議と嫌ではなかった。
「知らなくていい。……忘れちまえばいいんだ、オレのことなんて。顔も、声も、何もかも」
小さく首を横に振った少女は、かすれた声で「いやだ」と呟く。けれど、手を伸ばすことすらできない。熱に縛られた身体は動かず、ぼんやりとした視線だけが縋るように少年を見つめている。涙は流れなかった。ただ、その目にうつる姿を、どうか、どうか忘れたくないと。願うように、少女は瞬きをやめて少年を見つめ続ける。
「全部、忘れちまえ。……そうすれば、お前は生きていける。人として、“こっち”で――」
その言葉の続きを、少年が口にすることはなかった。何もかもを諦めてしまった顔で静かに身をかがめ、少女の額にひとつ、キスを落とす。それはまるで祈りのようだった。別れの印であり、何かを封じるような呪いにも似た動きだった。
「……愛してるよ、 」
焼き付けるために見開いていた視線の先で、次の瞬間ふっと滲んだ少年の姿。白い息と共に、帳へと淡く溶けていく。まるで、最初から存在しなかったかのように。
静かな夜が、また訪れる。
翌朝――。
目を覚ました少女の身体を蝕んでいた熱は、跡形もなくすっかり下がっていた。けれど、少女は部屋の中を見回して不思議そうに首をかしげる。
「……あれ?兄さん……?」
そう呟いてから、「兄さんって、誰……?」と、眉を寄せた。何かを忘れてしまった気がして、それがすごく大切なことだったはずなのに、欠片も思い出すことができない。パタパタと冷たい廊下を駆けて、台所にいた祖母へと尋ねてみても、「何を寝ぼけているの」と笑われるだけだった。
それから数日後、少女はもうそのことさえ思い出さなくなっていた。顔も、声も、温度も。――兄と呼んだ少年の、何もかもを。
――けれど、神社の奥。御神木の根元にだけは、どうしても近づくことができなかった。理由は、なぜだか分からない。ただ、そこに行ってはいけない気がしたのだ。
そうして七歳の誕生日を終えた少女は、何事もなく健やかに成長を重ね、もうすぐ十六回目の誕生日を迎えようとしていた。
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十五年目の秋の夜、村は朧気な灯りで満ちていた。風に揺れる提灯、神楽の太鼓、篝火の煙――全てが静かな夜を彩っていく。
神降ろしの祭。
それは、この地を守る神に感謝を捧げる日でもあり、同時に神に愛された子と守り神の婚姻の儀を結ぶ日でもあった。けれどこの年は、その“神に愛された子”が見つからなかったという噂だ。だからこれはただの収穫祭、そう言って笑う大人たちの声に混じって、私はひとり、喧騒から離れるように境内の奥へと歩いていた。
理由なんてない。ただ、誰かに呼ばれている気がしたのだ。ふらふらとした足取りで鳥居をくぐり抜けた先、神様が住んでいるとされる社の奥、一際目を引く鮮やかな紅に染まった大きな御神木の根元。――そこには、ひとりの男が立っていた。
ぼんやりと佇むその人は、闇に溶けそうな黒い羽織の裾を風に靡かせている。背を向けたその姿に、なぜか胸の奥がきゅう、と締めつけられた。
「……誰?」
思わず問いかけてしまった声に、男の人はゆっくりと振り返る。狛犬の面の奥に隠されてしまった表情は見えない。けれど、静かな、全てを見透かすような――それでいて何かを懐かしむような、そんな目を隠している気がした。
「よう。祭りは、楽しめたのか?」
優しい声だった。どこかで聞いた気がした声に近い、柔らかな低音が鼓膜を震わせる。昔――とても、遠い昔に、私はこの声を聞いている。
「……あなたは、誰?」
気が付けば、心がざわめくままに、そっと問いかけていた。男はゆっくりとお面に手を伸ばす。けれど、顔を隠してしまっているお面を外すことはなかった。代わりに小さく告げられたのは、村の中で聞いたことのない言葉。
「マヒルだよ。オレの名前はマヒル」
「マヒル……?」
その音の響きに、私の胸がまた締めつけられる。きゅうっとした苦しさと共に、何かを思い出しそうになった。けれど、それは輪郭だけをなぞって、形を成す前に指先から零れ落ちていく。知らないのに、村にはマヒルなんて名前の人はいないのに。それなのに、なんだか泣きそうになってしまうくらい懐かしくて、思い出せないことが悔しかった。
「……あなたに、会ったことなんてないはずなのに。思い出せないけど、懐かしいの……」
「ああ、いいんだ。思い出さなくていい」
言葉はどこまでも柔らかいのに、どうしてか祈るような声だった。ほんの一瞬、お面の奥にあるはずの目を細めて笑ったような気がして――私はやっぱり泣きたくなる。
「……なんで、思い出さなくていいの?」
小さく囁いた言葉が、考えるよりも先に口から零れ落ちた。どうしてだか、思い出さなければいけないと思ってしまったからだ。それなのに、マヒルと名乗った彼は、何も言ってくれなかった。段々と冷たくなってきた秋風が、私たちの間をすり抜けていく。まるで雪が降る前触れのような、静かで底冷えのする風だった。
「思い出さない方が、きっと……お前は幸せでいられるから」
「……それって、あなたにとってじゃなくて? 私の“幸せ”を、あなたが勝手に決めるの?」
皮肉を込めたつもりの問いだった。それなのに、返ってきたのは驚くほど静かな答え。
「ああ。そうだな。……オレの勝手だよ」
あっさりと認められて、言葉が詰まる。その時、ほんの少しだけ――狛犬の面が傾いた。まるで、マヒルが微笑んだようにも見えるそれに息を呑む。
「でも、お前はこうして来てくれただろ。呼んでないのに、オレを“見つけた”。それだけで、もう十分すぎるほど、分かってしまうんだ」
「……何が?」
「オレが……ずっと、お前を見てきたってこと」
言葉が、息になる。灯籠の灯りが揺れた。マヒルの羽織の裾が、夜風にゆるやかに流れる。初めて会ったはずなのに、どうしてか懐かしくて。知らないはずなのに、知っていると思ってしまった声に、心が震えた。なのに、思い出せない。涙が出そうになる理由さえ、私には分からなかった。
「ずっと、ずっと見てきた。……触れられないほど、遠い場所から」
低く、愁いを帯びて掠れた声が囁く。私の知らない何かを知っているその言葉に堪えきれず、足元の落ち葉をぎゅっと踏みしめて、一歩距離を縮めた私は問い返す。
「どうして、私を見てたの? どうして……会いに来てくれなかったの?」
質問に答えてはくれないマヒルは、代わりに片手をそっと伸ばしてきた。少しだけ躊躇うように彷徨った指先が、私の頬に触れる。指先は驚くほど冷たいのに、その触れ方はどこまでも優しかった。
「……夢を見たの。ずっと昔に、何度も私と遊んでくれた、優しい兄さんがいた夢。でも、それは夢だったって、そう思ってたのに……」
はっきりとしていた声が、段々と震えていく。そうだ。私は夢を見た。優しくて、大好きな兄さんと、一緒に遊んだ幼少期の夢。けれど、今なら言える。あれは絶対に、夢なんかじゃなかった。だって、私の言葉を聞いた瞬間、マヒルの肩がわずかに揺れたんだから。
「……そうだな。それでいい。これは“夢の続き”だ。今夜だけの、な」
「――違う。夢なんかじゃ、ない」
みっともなく震えた声だった。泣くのを我慢した鼻の奥が、ツンッと痛い。それでも、私はもう“忘れたく”なかった。
「夢だったら、こんなに胸が苦しくなるわけない……!」
けれどマヒルは、何も言ってはくれなかった。否定も、肯定もされないまま。面の奥に隠された目を伏せるようにして、少しだけ俯いてしまったこの人の考えていることが分からない。どんなことでもいいから、言葉をくれたのなら。それだけで、私は私の心の声を信じられたのに。今度は私が俯く番だった。頬に触れたままだった指先から、逃げるように下を向く。唇を噛み締めて、何を言ったらいいのか分からないのに苦しい胸の痛みに、じんわりと滲んでいく地面を睨みつける。
「……お前は、変わらないな」
困ったような口調にはそぐわない、どこか嬉しそうなその声は、あまりにも優しい響きをしていた。逃げた私の頬にもう一度触れた指先が、そっと目尻をなぞっていく。やっぱり冷たいままなのに、どこまでも優しく触れる指先がくすぐったくて。ほらね、夢じゃなかった、なんて。言えない言葉を飲み込んで、小さく笑ってしまったのだった。
気がつけば、社の灯りはひとつ、またひとつと消えていき、境内の喧騒も遠のいていた。秋風が、私の髪を優しく揺らしている。何も言わない私たちの間に流れる沈黙は、苦しくはなかったけれど――どこか切ないもののように感じて。
「……祭り、終わっちゃうね」
ぽつりと呟いた言葉に、マヒルは微かに頷くだけだった。それが何だか寂しくって、口の中で小さく彼の名前を呼んだ瞬間、そっと微笑んだマヒル。けれど、それが嬉しさからなのか、それとも悲しみからなのか。面の奥の表情まではやっぱり見えなくって、私はまた何も言えなくなってしまう。
「……ありがとな」
「……え?」
「また、会いに来てくれて……嬉しかった」
それは、まるで永遠の別れを告げるような響きだった。それを受け入れたくないと、今度は私から手を伸ばして、頬に触れたままだった指先を掴む。
「……また、会えるよね?」
返事は、すぐには返ってこなかった。その沈黙が、湧き上がってくる不安を大きなものにしていく。どうして、頷いてくれないの。ただ頷いてくれるだけで、それだけで私はまた会えるんだって、信じられるのに。
「ごめんな、約束はできないんだ。……でも、いつかまた、お前に会えることをオレも願ってる」
「……どう、して?」
「その時が来たら、ちゃんと話すさ」
そう言って、マヒルは私の手をそっと放した。名残惜しげに、けれど突き放すように。背を向けて村とは反対方向の林の奥へと、歩いて行ってしまう彼の背中を、私は見送ることしかできない。狛犬の面を最後まで外さなかったマヒルは、境内の灯りが全て消える頃、その姿をそっと夜に溶かして消えた。