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    ki_natto

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    鑑くんっぽい誰かと、私っぽい誰か 進捗報告

    インナー・へヴン(仮題) 彼女は冷静じゃなかった。ローファーを履いた足で、力強く地面を蹴った。
     交通量の多い通りを早足で進んだ先には、ひときわ高くそびえるビルディングがあった。書泉ブックタワー。秋葉原駅のほど近くにある大規模な書店に、彼女――佐山陶子は足を踏み入れた。
     陶子の嫌いなものは、人の悪意である。わざとじゃなければ大抵のことは流すし、反対にわざとそうされたのだと判明すると、怒りを滲ませることが多かった。
     陶子はいじめっ子のような社会悪が憎かった。パワハラやセクハラが許せなかった。昔、街で見かけた幼い姉妹の姉が、喉の乾いた妹に施したくないがために、自分の手元にあるペットボトルの中身を飲み干してしまったので、そのときでさえ陶子は怒りを覚えた。
     その日も、陶子は人に悪意を向けられて、怒っていた。あるいは、ナーバスになっていたかもしれない。陶子の足音は普段よりもやや大きく、静かなフロアの空気にカツカツと響いた。
     やがて、陶子は「心理学」の棚の前で立ち止まった。難しそうな本に混じって、平易な言葉づかいで書かれた入門書が、平積みにされている。陶子はそれに手を伸ばして、ふと、右隣に人の気配を感じた。
     顔を上げると、一人の青年がそこにいて、難しそうな心理学の本を手に取ろうとしていた。その男性は、白いワイシャツにスキニーのズボンを履いている。髪は濡れたように艶やかな黒色で、目鼻立ちがはっきりとしている。
     彼は、ふとこちらを見た。透き通った茶色の虹彩が、陶子の目の前にあった。
    「困りごとですか」
     彼は言った。陶子は初め、なんの話だかわからなかった。
     彼はまた言った。
    「ほら、泣いているから」
     陶子は驚いて、一歩後ずさった。その瞬間、両の瞳からぽたりと雫が落ちて、手に取った心理学の本の、PP加工のカバーを濡らした。それで初めて、陶子は自分が泣いていることに気がついた。
     青年は肩かけ鞄を開けて、中から青いハンカチを取り出し、陶子のほうへと差し出した。
    「白河渚」
     青年は名乗った。


     ――遡って、その日の午前。
     陶子が普段働いているのは、秋葉原駅から十分ほど歩いて、路地に入ったところにある、小さな編集プロダクションだ。「ソレイユ株式会社」。彼女は八ヶ月前に中途採用されてからというもの、そこで駆け出しの編集者として働いている。
    「おはようございます!」
     あいさつは元気に。それが陶子のモットーだ。彼女は機嫌よく振る舞うことをマナーと考えており、ニコニコとよく笑う女性だった。しかし、オフィス内の編集者たちは一瞬しん、と静まり返り、それからぼそぼそとまばらにあいさつを返した。いつものことである。陶子はそんな様子を気にも留めないふうで、自席に着いた。
     PCを開くと、受信トレイに大量の新着メールがなだれ込んできた。陶子は小さくため息をついてから、それらをひとつひとつ確認していく。作家からの提出物、クライアントからの新規依頼、連載の最新話の初校の出校の連絡。大事なものに印をつけていくと、あっという間に受信トレイがカラフルに色づいた。また帰宅が日付けを跨ぐだろうな、と、陶子は思った。
     まずは作家からの提出物をあらかた確認し終えると、陶子はちらりと時計を見た。長針と短針は、出社時間からずいぶんと位置を変えて、午後二時を示している。そろそろ休憩でもと、陶子は立ち上がった。その瞬間、ふらりと小さく立ちくらんだが、陶子は椅子にそっと寄りかかって体勢を立て直した。
    「佐山さん」
    「はい」
     声をかけてきたのは社長だった。ソレイユは小さな編集プロダクションのため、陶子も社長とよく直接話した。
    「佐山さんの売上を見ていたんだけど、暇そうだね」
    「……そうですかね?」
     陶子はニコニコと笑って、しかし社長の「悪意」ある言葉を許さなかった。
     社長が言っているのは、陶子の売上が低いため業務量も低いと判断せざるを得ない、という話だ。しかし実情は違うと陶子は思う。彼女の持っている連載は単価が安いものが多く、どうしてもほかの社員より売上が安くなる傾向にあった。
    「だから、来月から追加の仕事をお願いして、売上を目標額まで届かせたいんだ」
    「今でも結構忙しいと思ってたんですけど、あはは」
     陶子は不満があったり、自分の意見を言わなければならないとき、笑ってしまう癖があった。空気を悪くしないための処世術だと陶子は思っているが、社長はその意図を知ってか知らずか、「とにかく頼んだよ」と話を締めくくり、席に戻っていった。
     陶子は、ホワイトボードに「休憩中」のマグネットを貼って、街に出た。路地を抜けて、大通りを早足で進み、書泉ブックタワーへとやってきた。
     ――そして、彼女は渚と出会うことになる。


     コメダ珈琲に来たのは、陶子にとって久しぶりのことだった。赤いベルベットのソファーに座って、陶子は出会ったばかりの渚と向かい合っていた。
     陶子の手元には、渚から借りたハンカチが置かれていた。ふたりはメニュー表を開いて、陶子はウインナーコーヒーを、渚はアメリカンコーヒーを注文した。店員が二杯のコーヒーと豆菓子を運んできて、ふたりの間のテーブルに並べた。ふたりとも、去りゆく店員に小さく頭を下げると、また無言で向かい合った。
     陶子は、所在なさげにウインナーコーヒーを見下ろす。店内のざわめきがBGMとなり、陶子の心を追い詰める。と、渚の座っているほうから、息だけで笑うような柔らかい音がした。
    「泣いていいと思います。俺は」
     言って、渚はアメリカンコーヒーを啜った。慰められているのだと気づき、陶子は顔を赤くした。
    「……それは、たとえどんな理由でも?」
     陶子は聞き返す。
    「ええ」
     渚は頷いて、またコーヒーを啜った。
    「話してくれるつもりなら聞きますし、話したくないのならそれでいい」
     陶子は顔を火照らせたまま、渚の仕草を目で追った。渚の指先が、コーヒーカップをソーサーに戻す。そして、俯いた拍子に顔にかかった毛束をつまみ、耳にかけた。渚の指先は、陶磁器のように白い。
     話してくれるつもりなら聞きますし、話したくないのならそれでいい。渚の言葉には含蓄があった。
    「……なんだかなぁ」
     陶子は呟いて、瞬きをひとつした。両方の瞳が水気を含んで、店内の照明器具の明かりを反射した。ぼろぼろと涙がこぼれ落ち、陶子は慌てて目を擦る。
    「擦らないで」
     渚は言った。陶子の顎から雫が伝い落ちた。陶子はそれを、渚のハンカチで受け止めた。
     昔、幼い陶子の好きだった小説に、ティーン向けの恋愛小説があった。母親が古本屋で買ってきて、つまらなかったからと言って陶子に譲ったものだった。陶子はそれを何遍も読んだ。
     特に、使用人が、泣いている主人公の涙を拭ってあげるシーンが好きだった。使用人は「女の子が人前で簡単に泣いてはいけない」と言った。そして、「誰かに涙を見られて恋をされたら大変だから」と続けたのだ。幼い陶子は、自分の涙を見て恋してくれる誰かに憧れたものだった。
     今。陶子は泣くのが得意ではない。泣いている自分は、顔もぐしゃぐしゃで、きっと鼻水だって垂れていて、ひどく醜い気がした。あの主人公みたいに、綺麗に泣けたらいいのに、と思った。
     ようやく涙が枯れてきた頃。顔を上げると、渚の茶色い瞳と視線がかち合った。まさかずっと見られていたのか、と、陶子はたじろいだ。
    「すみません、お見苦しいところを」
    「ああ、すみません。気を使わせるつもりじゃなくて」
     渚は、薄く、柔らかく笑っている。
    「見苦しくなんてないです。あなたは……失礼」
    「あ……佐山、陶子です」
    「どうも。陶子さんは、自信を持つべきだ」
    「そんなことを言われても」
     陶子は目元をハンカチで押さえながら、首を横に振る。決して自信を持っていないわけではないと、陶子は思っていた。渚からは、これでも自信がないように見えるのだろうか。
     カタン、とテーブルが揺れた。渚が伝票を手に、立ち上がっている。陶子は、食事を奢られることに慣れていなかった。渚がレジに向かうのを見て、慌てて荷物をまとめ、その後ろ姿を追いかける。
    「あの、私のぶんは払いますから」
    「いえ、結構です」
    「そういうわけには……」
     会計を手早く済ませると、渚は陶子のほうを振り向いた。陶子の、泣き腫らした目元をじっと見つめてから、微笑む。
    「会ってくれるのなら、また会いましょう」
     渚は陶子の手にメモを握らせて、店を後にした。陶子がメモをひっくり返すと、そこにはメールアドレスと携帯電話番号が記してあった。
     陶子はメモをつまんだまま逡巡していたが、時計を見ると休憩時間がとっくに終わっていたため、慌ててメモを財布の隙間にねじ込み、足早に店を出た。


     思った通り、家に帰る頃には日付が変わっていた。
     陶子が住んでいるのは、暮らしやすいけどこれといった特徴のない、ベッドタウンだ。そこから毎日、JR線を乗り継いで秋葉原に通っている。
     白い外観のアパートの、二階の角部屋に、「佐山」の表札が掲げられている。比較的新しい建物で、鍵は番号認証式だ。
     陶子は慣れた手つきで番号を打ち込むと、気だるげな緩慢さでドアを開け、玄関に入るなり大きなため息をひとつついた。
     廊下を進み、ひとつしかない部屋に入ると、陶子は荷物を床にすべて下ろしてよろよろと椅子に腰かけた。
    「……」
     ようやく仕事から解放された陶子の頭に、ふと、休憩中のできごとがよぎった。
     ――誰かに優しくされるというのは、陶子にとって珍しい体験だった。
     陶子にとっての優しさの原体験は、中学生のとき。当時、陶子は学内に味方というものがいなかった。いじめっ子グループに目をつけられて、毎日のように嫌がらせを受けては笑われていた。
     そんな中で、陶子はある日、いじめっ子を恋い慕っている自分に気がついた。理由は今でもわからないが、誰も興味を抱いてくれない中、唯一自分に興味を持ってくれていたのがいじめっ子だったというだけかもしれないし、あるいは連日の嫌がらせで心が壊れて、感覚がおかしくなっただけかもしれない。理由はどうあれ、陶子はいじめっ子に告白をした。
     その日から、いじめはぱたりとなくなった。いじめっ子は、陶子に甘い言葉を囁くようになった。
     優しさとは、何かを捧げた対価としてもらうものなのだと、陶子は学んだ。
     ――だからこそ、白河渚の行動は、陶子にとって不可解だった。陶子が何も捧げていないのに、彼は陶子に優しくした。一体なぜ? 陶子は頭を悩ませる。
     まさか、こんな自分に気があるとでも言うのか。否、そんなはずはなかった。渚の姿を思い出す。あの完璧な美貌、女性に困るはずがない。
     しかし、陶子は下心のない優しさを知らない。だから、渚が自分に接近したのは、自分に下心があるから、でなくてはならなかった。
     陶子は立ち上がり、荷物の中から財布を引っ張り出すと、昼間そこにねじ込んだメモを取り出した。
    『また会いませんか』
     メール作成画面に、それだけ打ち込んで、送信する。返事はすぐに来た。
    『では、土曜日に秋葉原駅で』
     どちらの文面も淡白だった。陶子はスマートフォンの画面を落として、机に突っ伏した。
     物音ひとつ立てずに、夜が更けていく。陶子はやがて、そのまま寝息を立て始めた。
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