離れ方を知らなかった ──あの時「じゃあ付き合ってみようか?」に軽く返したのが、最大の失敗だった。
出会いは、たしか合コンだった。スバルの友達の友達の職場の先輩──っていう、ややこしい伝手でその場に来てたのがユリウス。
最初は、ただの落ち着いた兄ちゃんだと思ってた。静かで礼儀正しくて、でもなんか妙に、スバルのことをよく見てた。
それで、帰り際に「今日は楽しかったよ。また会いたい」とか言われて、つい浮かれてしまって。
まさか、その数日後に本当に二人きりで会って、なんとなくのノリで「いーよ、やってみよっか」なんて返してしまった自分を、今なら殴りたい。
「……あー、もう……別れたい……!!」
付き合って、今日で20日目。
『明日は、10時に駅前でどうかな? テーマパークまで少し距離があるから、早めがいいと思ってね』
LINEで届いた丁寧な文章を見て、スバルは思わずベッドに倒れこんだ。
別に性格に問題がある……わけではない。ただ、別れることを本気で検討していた。
そのためにできることを最大限やってやる。
「……遅刻してやったぜ」
駅前の時計は10時17分を指していた。ユリウスとの待ち合わせは10時。
普通なら、怒るか、めちゃくちゃ不機嫌なはずの時間。
スバルはダッシュのフリをしながら、内心ニヤついていた。
今朝はあえて起きるのを遅らせ、髪も整えず、服もいつもよりダサめをチョイス。
ネットで調べた“恋人にされて冷めた行動ランキング”の上位を忠実に再現してきた。
──もう限界だった。
付き合ってからわかったけど、ユリウスは重い。というか、丁寧すぎて息が詰まる。
デートのあと毎回「今日は君と過ごせて本当に幸せだった。」みたいなメッセージが届く。しかもぜんぶ敬語。付き合ってるのに敬語。距離感が謎すぎる。
──だから、自然に別れようと思った。傷つけず、嫌われて、終わらせる。それが今日の目的だ。
「よ、お待たせ」
遅れてきた罪悪感を見せないどころか、開き直った態度で声を掛ける。それなのに、
「気にしなくていい。寝坊でもしたのかい?」
ユリウスは、いつもの微笑みで出迎えた。ややカジュアルめな白シャツにスラックス。髪は完璧にセットされている。
「……まあ、うん。そんなとこ」
「なら良かった。体調を崩したのかと思って少し心配したから」
遅刻しても、ボサボサ頭でも、まるで気にしていない。 ──違う。そうじゃねぇんだよ。
そうやって何でも笑って許されたら、余計に逃げられねぇだろ。
「行こうか。君が行きたいって言ってくれて嬉しかった」
「いや俺、行きたいなんて言ってないけど?」
「でも誘いに乗ってくれただろう」
──それは、お前が勝手に決めて、俺が断れなかっただけなんだけど。
でもそういうの、ユリウスは“イエス”として都合よく解釈する。
そんな感じで始まったテーマパークデート。
「……四十分待ちかぁ」
ジェットコースターの列は、想像以上に長かった。
夏の空気が容赦なく照りつけて、スバルは表示された待ち時間を見て、小さくぼやいた。
「別のアトラクションにしようか?」
隣で聞いていたユリウスが、すぐに声をかけてくる。その声はあくまで穏やかで、提案というより“譲歩の余地”を残した響きだった。
「……いや、並ぶよ。別に、どうしても嫌ってわけじゃねーし。せっかく来たんだしな」
スバルはちょっと顔をそらして言った。
(……これくらいなら、よくあることだろ)
そう思いながら、わざとテンション低めで列に並ぶ。
でもそれは“無意識っぽく”やる。あからさまに不機嫌にはなりたくない──けど、伝わってほしい。
けれど、ユリウスは相変わらず、隣で静かに笑っていた。
それどころか「暑くないかい?」「飲み物、買ってこようか?」と気遣ってくるその言葉は、どれも自然で、真っ直ぐだった。
その真っ直ぐさが、逆に刺さる。
アトラクションが終わったあとは、園内のカフェに入る流れになった。
「ここなら、落ち着いてて良さそうだ。どうだろう?」
「……うーん」
スバルは入り口のメニューを眺めて、ちょっとだけ悩んでみせた。
(ここで断れば、「相性悪いかも」って思ってくれるかもしれねぇ。でも)
「……ま、悪くはなさそうだな。せっかくだし、入ろうぜ」
断れなかった。ユリウスが自分の意見を押しつけてくるタイプじゃないからこそ、逆にスバルは強く拒否しづらい。
入ったカフェの中で、ユリウスはスバルの好きそうなメニューをさりげなく勧めてくる。
「……あ、ああ。ありがと。……覚えてたんだな、そういうの」
「もちろん。君のことは、できるだけ知っていたいから」
その言葉に、スバルは思わず視線を伏せた。甘い。優しい。なのに、どこか窮屈だった。
日も傾き始めて、観覧車の前まで来た頃。
「どうする? 乗ってみようか」
「……いや、別にいいや。そろそろ帰ってもいいかなって」
ユリウスは少しだけ目を細めたあと、頷いた。
「そうだね。今日はたくさん歩いたし、君がそうしたいなら」
その微笑みは、変わらず優しかった。でも──どこか“寂しさ”の混じったような色にも見えて、スバルは少しだけ胸が詰まった。
(……これじゃ、ダメなんだよ)
うまく伝わらない。距離を取っても、やんわり冷たくしても、ユリウスはそれを“理解”に変えて受け取ってしまう。否定も、怒りもなく、ただ「いいよ」と笑ってくる。その優しさが、どこか怖かった。
テーマパークデートから帰って、数時間後。スバルのスマホが振動した。
『今日はありがとう。君の表情をたくさん見られて、とても嬉しかったよ。また一緒に出かけられる日を楽しみにしている』
スバルはベッドに寝転んだまま、呆れ気味に画面を見つめた。優しい、誠実、そこに嘘はない。……けれど、その“完璧な彼氏ムーブ”が、どうしても息苦しかった。
自分が悪いのはわかってる。
でも、ノリで付き合った関係のはずなのに、ユリウスは最初から“本気の熱量”をぶつけてくる。それはまるで──恋人というより、献身的な従者みたいだった。
『今日はありがとな。いろいろ疲れたけど、楽しかったよ』
適度にマイルドな文面。感謝は伝えつつ、温度は下げておく。
──すると、返事はすぐに来た。
『来週の土曜、会えそうかな?もし君がよければ、静かな場所で食事でもどうだろうか?』
少し距離を置く余裕もない。スバルはスマホを見ながら考えた。どう返せば──。
そこで思いついたのが、“他の男の名前”を出す作戦だった。
『んー、昼は友達と飯行くかも。Aってやつが最近やたら誘ってくんだよな』
ほんのり“男の影”。あくまでさりげなく。過度に怪しまれないラインを狙って、送信。
(……よし、これで少しは様子見るだろ)──と、思っていたのに。
『ご友人とも、仲が良さそうで何よりだ。君の時間をもらえるだけで嬉しいよ。夜に会おう』
普通なら、絶対気にする場面だ。むしろ「夜に会えるだけで嬉しい」って、どんだけストイックな愛情なんだよ。
スバルはスマホを見つめたまま、ため息をついた。どんどん、逃げ道がなくなっていく気がして、心臓がざわつく。
夕暮れの街を抜けて、落ち着いたレストランに入った。照明は柔らかく、騒がしさもない。ユリウスが選びそうな“静かな場所”だった。
スバルは口数少なめに、出された料理を淡々と食べていた。特に会話が盛り上がるわけでもない。けれど、ユリウスは終始落ち着いた表情だった。
「今日は、ありがとう。昼は友人と一緒だったんだろう?」
「ああ。まぁ、普通に飯食っただけ。特になんもねーよ」
「そうか。……楽しそうにしてると、私も安心する」
「……」
その言い方が、なぜか引っかかった。
“束縛”でも“嫉妬”でもない。だけど、“把握している”という空気が確かにあった。
レストランでの食事を終えたふたりは、ユリウスの車で駅まで向かっていた。
車内は静かだった。カーステレオも切られ、夜の道路を走る音だけが、空間を満たしていた。
助手席のスバルは、窓の外を見ていた。ユリウスの横顔が、窓に反射して視界の端にちらちら映る。
(このまま、何も言わずに駅まで行くのか?)
そう思うと、急に胸の奥が重くなる。罪悪感。言葉にすれば簡単だけど、それだけじゃない。逃げようとするたびに優しくされて、そのたびに罪の意識だけが増えていく。
「……なぁ、ユリウス」
「何か話したいことでも?」
運転席から視線を向けずに応じる声。スバルは、少し間を置いてから言った。
「本当は──気づいてるだろ?」
ユリウスの手が、ハンドルを握る指に少しだけ力を込めたのが見えた。けれど返事はすぐに返ってきた。
「気づいてるよ。君が、私から離れたがってることも」
「……わかっるのに、なんで」
自分でも、出た声がひどく小さく、頼りなかったと思う。スバルは唇を噛んだ。
「俺、別れたくて、いろいろやってた。」
「あぁ。分かっていた」
「……分かってて、なんで、あんなふうに接してくるんだよ。意味わかんねぇよ」
「君が、無理に傷つけないようにしてたのも分かったからだよ。」
ユリウスは静かに言った。声に怒りはない。ただ、どこまでも穏やかだった。
「そろそろ、一か月になるね。君が応えてくれてから」
「そんなの……」
「君は軽いノリだったけどね。でも、私は本気だったよ」
スバルは、額を手で押さえた。
「……なんなんだよ、お前」
「私は君を手放すつもりはないよ」
視線を向けられない。けれどスバルは、答えを返せなかった。
帰宅して、ベッドに倒れこむ。スマホを何度も見ては、閉じて、また開いて──を繰り返す。
『今日はありがとう。おやすみ、スバル』
ユリウスから届いたメッセージは、たったそれだけ。シンプルな言葉なのに、胸に妙な重みが残っていた。
「……はぁ。なにが“ありがとう”だよ」
誰に聞かせるでもなく、ぼそっと呟く。けど、声は弱々しくて、自分で自分にイラついた。寝返りを打って、天井をにらむ。
(なんなんだよ、あいつ。顔がいいだけのくせに。声も……ちょっと落ち着いてて、なんか腹立つし。あと、敬語も固すぎて胡散臭ぇし、言ってることも回りくどいし。でも、嘘はないんだよな。ずっと真面目で、正直で、誤魔化さないで……。こっちが適当でも、合わせてくるし。なんか、距離感ちょうどいいとこ突いてくるし。あいつ、たぶん……他の奴にもああなんだよな)
そう思った瞬間、喉の奥がじくりと熱くなった。
(……他の奴にも、あんなふうに優しくしてんのか?……いや、でも……)
どこかで違うと分かっている。あれは“自分に向けた”やり方だった。
スバルは、枕に顔を埋めた。
「……顔がいいだけ、じゃねぇよな。クソ……」
そこまで思って──スバルは、ふと固まった。
いま、自分は……なにを言った?いや、なにを思ってた?必死に理由を探して、嫌いになろうとして、そのくせ出てくるのは、全部──
「は?」
ベッドの上で、スバルは自分の頭を押さえた。混乱とともに、じわりと頬が熱くなる。
(俺、まさか……)
けれど、否定の言葉は出てこなかった。
次の日の昼過ぎ。
スバルはスマホを手にしたまま、ずっと同じ画面を見つめていた。メッセージアプリのユリウスとのトーク履歴。
(送るか……いや、やっぱやめよう。てか、なんだこの文面……軽すぎ? 重すぎ?)
打っては消し、また打っては消す。何度目かのため息とともに、スバルは思いきって文章を打った。
『なぁ、来週ヒマ? この前テーマパークちゃんと回れてなかったから、もう一回行ってもいいかなって』
そして、送信。すぐに既読がついて──数分の沈黙。
(やっぱ変だったかな……)
そう思いかけたところに、通知が鳴った。
『君から誘ってくれるなんて、驚いたけど──嬉しいよ』
その返事を見た瞬間、心臓がドクンと跳ねた。顔が熱くなる。でも、その熱は嫌なものじゃなかった。
当日、入園ゲート前。
「……よ、ユリウス」
「やあ、スバル。今日も来てくれてありがとう」
いつも通りの笑顔。いつも通りの丁寧さ。でも今日は、それが鬱陶しくなかった。
もちろん遅刻なんてしないし、身だしなみも整えてきた。それと、この前とは違う意味で心臓がうるさい。
園内をまわりながら、前回スルーしたエリアにも足を伸ばして、日が傾き始めた頃、スバルは観覧車の方向を見上げた。
「あ……乗ってく?」
何気なく言ったつもりだった。けど、自分の声がわずかに震えてるのに気づいた。
ユリウスは、少し驚いたような顔をしてから、優しく笑った。
「……今日は、誘ってくれるんだね?」
「……うっせぇ」
顔を背けたままそう返すと、ユリウスが微笑を深めるのが視界の端に映った。
観覧車の扉が閉まると、対面する形で座り少しだけ身を縮めた。ぐるりと動き出す箱の中。ガラス越しに見える夕焼けが、ゆっくりと遠ざかっていく。
「……けっこう高いな、これ」
「高いところは苦手かい?」
「いや、平気だけど……なんか、落ち着かねぇ」
返す声が少しこもる。狭い空間に二人きり。会話の逃げ場もない。そんな空気に堪えきれなくなって、スバルは口を開いた。
「……なぁ、ひとつ……聞いていいか?」
「うん」
「なんで、そこまで俺のこと……好きになってくれたんだ?」
スバルの声は、ほんの少しだけ震えていた。自分にそんな価値があると思えなかった。試すような態度を取って、傷つけたはずなのに、それでも「手放さない」と言ってくれた、理由が……核心が知りたかった。
ユリウスは少しだけ迷うような表情をしてから、視線を窓の外へと向けた。そして、穏やかな声で、静かに語り始めた。
「──君のことは、最初から知っていたんだ」
「……は?」
「たぶん、君は覚えてないだろうけど……私は、前にも君と出会っている。違う場所で。違う世界で」
スバルは一瞬、言葉を飲んだ。
「冗談に聞こえるかもしれない。でも、夢の中のような記憶じゃない。私ははっきりと、君と生きた時間を覚えている」
夕日が観覧車の窓を照らし、ユリウスの横顔にオレンジの光が差していた。
「君は、たくさんの人のために、自分を犠牲にして生きていた。愚かなくらい、他人のために必死だった」
その声は、どこか苦しそうで、でも優しかった。
「何度も傷ついて、何度も死にそうになって……それでも君は、誰かのために立ち上がった。私はそれを、何度も見てきた。……だから、今度は私が、君を手放さないと決めたんだ」
「…………」
「君がもう、誰にも壊されないように。今度こそ、幸せになってほしかったから」
静かな告白だった。激情はなく、ただ穏やかに、けれど深く刺さる言葉だった。
スバルは、ただ黙って聞いていた。その分心臓がうるさかった。どこかでずっと欲しかった言葉を、ようやく受け取った気がした。
「……重すぎだろ、お前」
小さく呟くと、ユリウスは苦笑した。
「それでも、私は君を手放せない。……受け止めてくれとは言わない。でも、傍にいさせてほしい」
観覧車の頂上が近づいていた。
「……そういうの、ズルいんだよ」
スバルは照れくさそうに、けれどはっきりと答えた。
「お前のこと、多分、好きだ。……ちゃんと、好き」
はっきり言葉にした瞬間、顔が一気に熱を持った。でも、それでも目はそらさなかった。
ユリウスは驚いたように瞬きし、それから小さく笑った。
「……ありがとう。聞けて、すごく嬉しいよ」
ゴンドラが、ゆっくりと頂点に差し掛かる。地上は遠く、風の音も止んだように思えるほど静かだった。
スバルは、目の前に座るユリウスの顔を、まっすぐに見つめた。
「……俺、たぶん、ずっと怖かったんだと思う」
「うん」
「好かれることも、信じられることも。信じようとする自分も。でもさ、たぶん、もう言い訳できないくらい──お前のこと、好きだよ」
その言葉に、ユリウスの瞳がわずかに揺れる。
そして、静かに立ち上がると、スバルの隣へと腰を下ろした。
距離が縮まり、ユリウスの手がスバルの頰に触れる。
「……いいだろうか?」
その問いに、スバルは目を逸らしながら、ふいに小さく笑った。
「こんな高さで断られたら、俺なら飛び降りるかもな」
冗談混じりのその言葉に、ユリウスは目を細める。
そして──優しく、けれど迷いなく、唇を重ねた。
それは、ただ静かで、あたたかいキスだった。言葉よりもまっすぐで、時間よりも深くて、“今度こそちゃんと始まる”という確かな実感があった。
離れたとき、スバルは一瞬、息を吸うのを忘れていた。
「……お前、やっぱ顔いいな。ズルい」
「それを言うなら、君の目が綺麗すぎるのも罪だと思うけどね」
「バカ」
でも、その言葉にもう怒りはなかった。
ただ笑って、横に座った相手と、初めての“未来”を想像した。