きみのまなざし 五条悟は、狗巻棘の眼差しに困っていた。
その瞳は、夕暮れ時に時折あらわれる奇跡のような色をしていた。その奇跡の色が、まるで夕と夜の狭間いっぱいに宝石を敷き詰めたような輝きをもって自分を見つめてくるのだ。
あまりにも熱心で、だけれど瞳以外の言動を見れば、それはきっと無自覚なのだろうと思わせた。
そもそもなぜ五条が困っているのかというと、その視線を無視できなかったからだ。
五条は、棘の真っ直ぐな眼差しと、静かで、だけれど本当は情熱的なその心を好ましく思っていた。
汚濁を見つめながらも、自身の中には決して汚れを招き入れる事は無い。黒を見ても黒に染まらない。そんな強さを持った人間だと評価していた。棘を可愛い生徒の一人だと思いながらも、実のところ少しだけ特別に思っていたわけである。
そんな五条に、あろう事か棘はキラキラな視線を寄越してくる。五条の気も知らず、じっと美しい目で五条を見つめてくるのだ。
ある日ついに我慢ならなくなって、別にそんな空気でも何でもなかったのだが言った。
「その気がないならそんな目で見ないでよ」
少し素っ気ない言い方になってしまったが、こちらは随分と我慢したのだから致し方ないと五条は思った。
しかしその言い方が気に食わなかったのであろう棘は、なんの事? と五条に尋ねてきた。
謂れのない事に少しだけ腹を立てている様子であった。
ああやはり気付いていないのか。
「さあね。自分で気付いてないの?」
分かってはいたが、少し残念な気持ちになった。自分は、棘が熱い視線を寄越してくれるその理由を知りたがっていたのだ。五条はこの時初めてそれに気が付いた。
それからの棘はことごとく五条の顔を見ないように過ごしていた。視線がかち合いそうになるたびに、ふいと逸らされる。初めの頃はそう来たかと思うだけの五条であったが、それも続けばだんだんとあからさまな態度が嫌になってきた。正直に言えば、棘のあの視線が恋しくてたまらなかった。
ある日、五条は棘が一人で廊下を歩いているのに出くわした。すぐさまチャンスだと思って腕を引いた。
「その態度はなに」
鋭く言い放ってしまった。詰め寄りたい訳では無かったのだが、結果的にそういう形になってしまった。
しかし、なんの事? と不機嫌そうに返す棘を見て言い方を改めた。
「何でわざと目を逸らすの?」
聞いてみたかった事だ。
どうせ無自覚なのだろうとは思うが、棘の口から直接目を合わせてくれないその理由を聞きたかった。
「めんたいこ?」
気になるの?
棘は言った。
含みのある言い方だった。
無自覚ではないのか。気付いているのか。
それとも、気付こうとしているのか。
「棘はその目の秘密を知らないんだよね。 気付いてないならそのままでもいいと思ってたけど」
棘はじっと五条を見ていた。以前のように熱く輝く瞳が、静寂さを湛えながら五条を見つめている。
やはり、その目が欲しいと思った。
「やっぱり、気付いてなくてもその目はちょうだい」
棘の反応はあからさまだった。
顔を赤らめながら、目はあげられない、と言う。
そりゃそうだと五条は笑って、言い直した。
前みたいに棘の視線をちょうだい。
僕を見て、と。
後ろは壁、目の前には五条悟。逃げ場のない棘は、五条の顔を一度だけそろりと見上げると、すぐに目を閉じた。
そんな目で見ないで、と。
少し前の五条と同じ事を言った。
それを聞いた五条は、棘も自分を少なからず想っていて、きっとまだ自分自身で答えに辿り着いていないのだろうと思った。というよりも、そうであって欲しいと願った。
五条はアイマスクを取り払って、ありのままの瞳を晒していた。
「僕はその気があるからいいんだよ」
別に隠すつもりはなかった。
いい加減気付かせてもいいだろうと、実に自分勝手な事を思っていた。
ねえ棘は? 棘も多分ね、一緒なんだよ。
棘にその気があったら、僕は全力で応えるんだけどなぁ。
まるで誘導するような言い方だった。が、五条には、棘とのやり取りはこの機に押せるだけ押さねばうやむやになって終わってしまうような気がしていた。五条と棘の瞳の交わりは、ここでその意味を明確にしなれば変に拗れてすれ違ってしまいそうだと。
棘は何も言わず、じっと何か考える素振りを見せていた。
そして、ぽつりと言った。
「ツナマヨ」
好きかも。
続けざまに、先生が好きかも、と。
そして最後に、多分、と付け加えた。
言わせてしまった。
好きかも、と。
五条はすぐに多分、の部分を笑い、自分も棘が好きなのだと答え、その目を僕だけに向けて、逸らさないで、と切実な声で告げた。
どうかこれが夢で終わらないで欲しい。
そう願って、始まりの予感ごと棘を強く抱き締めた。
密着する身体の中で、視線は交わらない。
だけれどこの熱い気持ちは、今確かにこの瞬間二人の間で溶け合えている気がした。
わかった、と呟く棘の声を聞いて、瞳に宿した秘密の名が恋だということを実感する。腕の中にくるまる美しい少年が、自身の心の内側までその澄んだ瞳で見つめていたのかと思うと、胸の奥がぞくりとした。
いつの間にこんな風に想い合うようになったのか、分からない。だけれど、この清廉な少年の眼差しを、五条はもう二度と自身から逸らさせはしないと誓った。
抱き合ったままの二人の世界に予鈴が鳴り響く。時間だね、と五条が言った。現実を知らせる鐘の音はいつだって憎たらしいものであったが、今日はその恨めしさもひとしおである。
五条は、何も言わず頷く棘の手に力が入るのを感じた。それがたまらなく嬉しくて、愛おしかった。離したくないのは自分も同じなのだ。このまま二人きりになれる場所へ連れ込んでしまいたい、そう思う気持ちを振り払って棘の手を解かせた。
「続きは後で」
そう言って去ろうとする五条の背中に、棘は抱き着いた。
「しゃけ高菜ツナマヨ! いくら!」
これからもっと好きになるから! 多分!
「すじこ明太子」
気付かせた責任とってよ。
去っていく五条の背中を惜しんで、引き止めたくて叫んだのかと思うと、五条は棘が可愛く思えて仕方なかった。
「だから、多分って何」
五条は笑って、絶対でしょ、と棘の発言を訂正した。
「おかか。すじこ明太子」
自惚れないでよ。さっき気付いたばっかりでいちいち恥ずかしい。
あまりにも可愛らしい事を言うものだから、五条はお腹を抱えて笑った。そして、嬉しそうに綻ぶ顔を隠しもせず、また棘に向き直る。
「責任はとるよ」
そう言った五条は、そっと棘の顔に影を落とす。
まなざし
恋に落ちたその瞬間も、きっと僕は君のその瞳を見つめていた。
初め淡いまなざしだったものは、今やこんなにも彩やかに見える。
それは君の瞳が色付いたせいなのか。
それとも僕の瞳が熱を持ったせいなのか。
いたずらな笑みも、健やかにはしゃぐ姿も、
余すことなくこの目に映そう。
いつか悲しみで何も見えなくなるその時、
襲いかかってくるあらゆる災厄を前に、
いつでも君を思い出せるように。
目を閉じても、瞼の裏に君の姿が映し出されるように。
幸せの予感を迷わなくていいよう、
今目の前で笑う君を、見つめる。
本当は意味なんて無くてもいい。
ただ、好きなだけ。
君のまなざしが。
見つめると、見つめ返してくれる。
そのまなざしが、たまらなく好きなだけ。