あなたのまなざし 棘は悩んでいた。
元担任の五条悟の言った言葉が頭から離れなかった。
「その気がないならそんな目で見ないでよ」
何の前触れもなかった。ただ普通に会話をしていただけだった。それなのに、五条は唐突にそう言った。
そんな目とはなんだ。どんな目だ。
素っ気ない言い方に、棘は少しだけムッとした。
どういう意味?
ムッとしたことを隠さずに問うと、五条は、さあね、と言った。答える気は無いようで、自分で分かってないの? とまで言った。心外であった。
大体、その気、というのも何だかわからなかった。術師としての意気込みの事だろうか? 今更そんな事を言い出すのだろうかこの人は。とにかく自分は迷いなく突き進むだけであって、いつだって真面目に物事に取り組んでいるつもりであった。たまにふざける事もあるけれど、そんなものは学生の戯れと五条も容認しているはずなのだ。
なぜ今更そんな意味深な事を言ってくるのか、棘にはまったく分からなかった。
それから棘は五条を意識するようになった。
皆で輪になって話している時も、何となく五条の方に顔がむいてしまうとふいと逸らした。そんな目でなんか見ていませんよ、という風に。
しばらくそうやって過ごしていたある日、棘はついに五条に捕まってしまった。
ちょうど昼休みの時間、一人廊下を歩いているタイミングだった。
「その態度はなに?」
言い放つ五条の声は少しだけ鋭かった。
すぐに五条の顔を見ないように過ごしている事だと気が付いたが、棘の方も何だか腹が立っていたので、なんの事? と不機嫌そうに返した。
「なんでわざと目を逸らすの?」
五条は言った。
鋭さは消え、わずかに速度を落とした、言い聞かせるようなトーンだった。
わざとだと気付かれている。棘は思った。わざとだと気付いていて、その意味を知りたがっているのだと。
「めんたいこ?」
気になるの?
自分でも何でそんな言葉が出たのか分からなかった。別に、そんな目で見ないでと言われたからあなたを見ないだけですよ、と正直に返してもよかったのに。何か文句ありますか? と。子供みたいに仕返ししているだけですよ、と言ってもよかったのに。
何で自分は、気になる? なんて挑発的な言葉を投げ掛けてしまったのだろう。何で自分の行為を気にかけている先生を見て、こんなにも喜んでいるのだろう。
「棘はその目の秘密を知らないんだよね。 気付いてないならそのままでもいいと思ってたけど」
棘は五条を見つめている。一時も逸らす事なく。そんな自分の瞳がどうあるのかなんて、分かるはずがなかった。
だけど、本当は逸らしたくなかった。ずっと見ていたかった。見ないでよなんて言わないで欲しかった。それだけは、もう分かってしまった。
「やっぱり、気付いてなくてもその目はちょうだい」
そう言われた瞬間、心臓が大きく鳴った。
どく、どく、どく、どく。胸の内側を急かすように叩きはじめる。
「おかか」
目はあげられないよ。
そんな馬鹿みたいな返ししか出来なかった。
「そりゃそうだ」
五条は笑った。
「前みたいに棘の視線をちょうだいよ」
五条はアイマスクを外し、その瞳を棘の前に晒した。
「僕を見てって事」
そのまま廊下の壁に棘の背を押し付けて、棘を覆い隠すようにして視線を縫い付けた。
自然と上目遣いになった棘は、そのままそろりと五条を見上げる。五条はじっと棘を見下ろしていた。その美しい瞳には自分だけが映っている。今まで感じた事の無い熱が溢れていた。
「おかか」
棘は五条の熱い眼差しに耐えきれなくなって目を瞑った。
そんな目で見ないでよ。そう言って。
言ってからハッとした。
同じなのだ、五条の言った事と。
棘はあの日の五条と同じ事を言っている。
もう一度そろりと目を開けて見上げた。
五条の瞳は美しかった。その美しい六眼が、じっと、棘を見つめている。棘は、これが自分だけに見せる瞳の色だったらいいのにと思った。
「僕はその気があるからいいんだよ」
(ああ、またその気の話をする。気持ちの話? 先生は、その気があるから俺をそんな目で見てもいいんだ。気があるって、そういうこと?)
「ねえ棘は? 棘も多分ね、一緒なんだよ」
(そう、一緒の事を言ってた。さっき、見ないでって。そんな目で見ないでって。そんな、大好きな人を見るみたいな目で見ないでって。だけど、そんな風に見られる事が本当は嬉しいんだって、なんでだか分かった。だから、見られなくなった事が寂しかったんだって、分かった。)
「棘にその気があったら、僕は全力で応えるんだけどなぁ」
「ツナマヨ」
もう、きっと、間違いなかった。
好きかも。
「ツナマヨ」
先生の事が好きかも。
「棘」
「いくら」
「多分、って何。僕は好きだよ。だからその目を僕だけに向けて。逸らさないで」
ぎゅうっと抱きしめられた。これでは五条の顔が見えない。
だけどもう分かっている。
五条の目が自分と同じなのだということが。
瞳に宿した秘密の名が、恋だということが。
棘は五条の腰に手を回した。胸元に顔を埋めて、わかった、と返事をした。
いつの間にこんな風に好きになってしまったのだろう。五条はいつから自分をこんな風に見ていたのだろう。分からない事だらけなのに、今この瞬間に抱き締められる感覚が心地よくて全てがどうでもいい事のように思えた。
無情にも時間は過ぎゆき、予鈴が辺りに鳴り響く。
五条は尚も棘を抱いたまま、時間だね、と言った。棘は五条の胸の中で頷いた。
この人にこんなにも触れたかった事にたった今気付いたのだ。離れがたい。行きたくない。ずっとこうしていたい。今の時間がもっとたくさんあればいいのに、そう思った。昼休みがあと一時間あれば、きっともっと五条の事を好きになる。そんな確信めいた想像が恐ろしくもあり、ぎゅっと手に力を込めた。
先に力を抜いたのは五条の方だった。
腰に回った棘の腕に自分の手を重ね、やんわりと解かせる。
「続きは後で」
名残惜しむように身体を離し、そう言った。
「また連絡するね。棘からも頂戴、ラブレター」
去って行こうとする五条の背中に、棘はもう一度抱き着いた。
「しゃけ高菜ツナマヨ! いくら!」
これからもっと好きになるから! 多分!
「すじこ明太子」
気付かせた責任とってよ。
去っていく背中がさみしくて出た言葉がこれとは、我ながら幼稚だなと棘は思った。
「だから、多分って何」
五条は笑って、絶対でしょ、と言った。
「おかか。すじこ明太子」
自惚れないでよ。さっき気付いたばっかりでいちいち恥ずかしい。
アッハハハ、ツボに入った五条は可笑しそうに笑う。
「責任はとるよ」
真剣な眼差しで言った。
そして、艶のある唇がそっと棘に近付いた。
まなざし
貴方の瞳が綺麗な事は、きっと俺が思う以上にたくさんの人が知っていた。
でもきっと貴方の瞳が俺を見る時にだけ特別な色に変わるのは、俺だけしか知らない事だった。
恋を知らなかった俺に、このまなざしが恋だと教えてくれた。教わった俺は、ピンとこないながらも、その答えを、貴方の瞳から学んだ。貴方の目が、俺にとっての答えだった。
晴天の下、青の瞳が、光を吸って輝く水面のように揺れるのを見ていた。
見つめながら、夜の中で薄暗く蕩ける瞳を思い出していた。
俺の名を呼んで、よりいっそう瞳を溶かして、目を閉じて、またゆっくりと開ける。貴方の仕草を思い出していた。
他愛のない事で盛り上がって、おかしくて笑って、ふと貴方を見た時に、貴方もまた俺を見てくれる。
見つめると、見つめ返してくれる。
貴方のそのまなざしが、今日も明日も、どうしようもなく好きだと、知らなかった頃の俺にはもう戻れない。
俺は、あなたのまなざしに恋をしている。