「パンサーズ対ソルジャーズ戦もいよいよ九回裏!パンサーズエースピッチャー、綾瀬川の完全試合達成が刻々と近づいています!」
試合開始直前。ロッカールームで長年バッテリーを組んできた平沢が神妙な面持ちで近づいてくる。それに気づきながらも、素知らぬふりして肩周りの柔軟を続けていた。
「綾瀬川」
「……どうしました?」
「今日ほんまにあの投球でええんか?監督にも秘密で」
キャッチャーという職業柄か、抽象的な言い回しを避ける平沢さんが言う『あの投球』という表現。言葉にするのも憚られる暴力的な投球。
「すいません。あれがいいんです」
返す言葉の腰は低くとも、断固として今日だけはピッチングを変えるつもりはなかった。一度した決意は揺らがず、遠回しの勧告をわざと雑に流した。
こうなっては扱いようがないようと察し、諦め半分で溜息をつかれる。ざわざわと球場に溢れかえる観客の声の中、彼の吐息はやけに浮いて聞こえた。
「多分おまえの実力なら、実現できる。けどな、シリーズもまだ中盤やし、そないな体の使い方してたら冗談やなくてほんまに使い切りになってまうで」
顰められた目は俺の右腕に、視線を注ぐ。平沢さんは俺の選手生命を考慮した配球をしてくれる。勝利への最短経路にするよう、俺を『使う』人も多い中で。ただ今はその優しさが煩わしかった。
「今日だけ。次からはちゃんと言うこと聞きますから」
片手間にしていた柔軟を止めて、しっかりと目を合わせて笑う。相手の目にはまだ少し躊躇が窺えたが、最終的には俺の投球に付き合ってくれると確信していた。
別に先輩相手にお願いするから愛想を売っている訳じゃない。有無を言わせたくがないための笑み。往年の付き合いだから真意はきっとばれてしまっているけれど。
「……そうか。ちゃんとケアしとけよ!説教のネタ増やされんのは勘弁やから!」
「言われなくてもしますよ!俺が怒られる時は大体平沢さんも道連れだからなあ」
複雑な心情を映し出していた顔がぴくりと痙攣し、三、四歩空いていた距離を詰められた。打って変わってにこやかな表情が近づいてくるのが怖い。半歩後ろにずり下がる。
手を、顔と顔の間に出されたと思えば、野球選手そのものの手でデコピンを食らわされた。
「いった!」
「わかってんのやったら、そもそもやるな!」
監督の怒り具合によってはお前に奢って貰うからな、と一方的な口約束を取り付けられる。大阪に来てから長いけど、やっぱり関西の人って空気悪いまま終わらせないよな。そこにも地域性でるんだ。平沢さんはなんだかんだでいつも俺の意見を尊重してくれて、苦労が絶えないだろうな。
それぐらいで済むのならお釣りが帰ってきますよ、と軽く了承して、俺は真剣な空気を吹き飛ばせるように馬鹿みたいに笑った。
反省する気のない笑い声を発する俺に突っかかりながら平沢さんは扉を開く。扉で隠れる一瞬前、半ばやけくそみたいな顔で忙しなく人が行き交う廊下へ出ていった。
重い扉が閉まるのを見届けてから、もう一度ストレッチをし始める。肩、肘周り、手首、全身くまなく。
実際、俺の体は前シーズン頃からガタが来始めていた。ピッチャー不足の球団で先発投手で休みなく投げていればいずれそうなる運命だっただろう。ワンシーズン離脱して手術をして戻ってくるという手もあったが、それは選ばなかった。
ずっと、今日、この機会で全てを終わらそうと思っていたから。
ここまでの試合は騙し騙しで投げ続けてきたが、今日はそんな生温い投球じゃダメだ。俺の持てる全力で完膚なきまでにうちのめさなければ。
「この試合で野球も大和もお別れだ」
断固な決意の言葉が誰の耳にも届かず消えていく。
冷たい闘志を持つ、透き通った瞳で自身の手の平を見つめた。
手の平から放たれた白球は、迎え打つバッドにかすりもせずミットに体当たりする。慣れ親しんだ破裂音が聞こえた。
もうあと一人!
プロになってから、一試合投げ抜くと、心体共に消耗が激しく焼き切れていく心地になった。子供の頃とは違い、飛び抜けて大きかった身体のアドバンテージはなく、知力とコントロールで出し抜いていかなくてはいけない。
特に今日は疲弊が酷かった。打たせて取る、のセオリーを無視して誰のバッドにも触れないトリプルプレイで試合を進行させているからだ。
心臓が張り裂けんばかりに拍動し、右腕は痛みと痺れがどっちつかずになってきた。これ、アイシングじゃどうにかなんないレベルじゃん。頭の片隅で呑気に試合後を心配しつつ、視線の先のバッターボックスに目力を入れて焦点が合わせる。
疲弊と痛みはピークでもピッチングは不思議と冷静なままで、虎視眈々とバッターボックスに立つ彼の弱点を突こうとしている。
絶対に打たせてやらない。その志が綾瀬川の体を突き動かす。
平沢さんの労りのないサイン通り、絶好球をストライクゾーンに投げ撃つ。瞬きする間もなく痛々しいミットの音が響いた。放物線を描いた返球を受け取り、ボールを右手に収める。次のコースを考える暇を与えずに投球体制を取る。
感覚がスローモーションのようにゆっくりと流れていく。踏み出した左足の体重を使って、長い腕を素早く回す。白球の縫い目に指が引っかかって、カーブの軌道に乗る。綾瀬川の優れた動体視力は平沢の手にボールが収まるまでを鮮明に見届けた。
観客席の興奮が最高潮に達する。口汚いヤジや意味をなさない叫び声が飛んできた。
「パンサーズ、一点のリードを守り抜き完全試合なるか⁉︎それとも起死回生の一打が飛び出すか⁉︎」
ラスト一球、無心だった。人生で投げる球はこれで最後。野球も最後。
そう思えば痛みも苦しみも、しがらみはは全て消え去って、白球は自己最高速度で飛び出していった。
「……三球三振!綾瀬川次郎、二度目の完全試合達成!プロ野球史上初の記録を打ち立てました!」
その日一番のどよめきで球場が揺れる。歓声が耳を劈いた。ベンチから飛び出したチームメイトがこちらへ走ってきている。
完全試合……、これで投げ切ったんだ……。
喜びと昂揚で我を見失う他人と一転して、綾瀬川は安堵していた。
もちろん嬉しい気持ちはある。けれど仲間と、スタンドの狂喜乱舞が磨りガラス一枚隔てたように遠い。ゆっくりと辺りを見回しても、うっすらぼやけていてどこか他人事だ。肩の荷が降りた思いと現実を受け止めるので精一杯だったから、周囲の熱量に当事者が追いつけなかった。
慥かな視界を求めて、意図せず空を仰いだ。
目を見開いて、息を呑む。
「……あお」
空の青だけががあまりに眩く網膜にこびりつき、驚嘆する。切迫感が解け、張っていた肩肘をだらりと下に下ろす。詰まっていた息も勢いよく身体に酸素が駆け巡るように吹き返した。
広く遠い空で全て埋め尽くしたくて、帽子を地面に落とす。雲がゆっくり、マウンドに薄く影を落としながら流れるのを見て、
今自分が成し遂げたこと。完全試合に喜んでくれるチームメイトと観客がいること。徐々に実感が湧いて、野球人生の結末に相応しいような切ないようなどっちつかずで困惑する。しかし表情は安らぎ、微笑みを零していた。
過労に飲まれて、さよならを忘れたをような気がして、ふとバッターボックスに目をやった。誰もいない空っぽの打席。脳みそがぐらりと揺れた気がして、喝采を受け止めながら瞼を閉じた。
八時近くの繁華街。この時間ともなれば飲んだくれが増えてきて、特段身を隠さなくても誰にも気付かれないと気付いたのはいつからだろうか。ふらふらと彷徨う人と相対して、迷いのない歩みで約束の店へ入る。
「何名様でお待ちでしょうか?」
「二人です。先に連れが入ってます」
あ、予約した時の名前言った方が良かったかも、とも思ったが、あいつが前に伝えていてくれたようで難なく店の奥側の襖の個室へ引導される。店内は忙しそうで、靴を脱いでいる間には既に店員は次の接客に勤しんでいた。立て付けがガタガタで力一杯引いたら外れてしまいそうな襖に焦らされつつ慎重に開く。
向かい合う形で座る掘り炬燵の入り口の近い方に、約束の相手が座っていた。入ってきた俺に気づいて、くるりと上半身で俺を顧みる。暖色の照明に照らされても、大空の下日が射しても真っ黒な瞳と視線がかち合った。
「ごめん、待っただろ」
「あっ綾さん。お疲れさまです。僕もさっき来たとこやわ」
「嘘つけ。待ち合わせから一時間近くたってんじゃん」
「綾さんインタビューまみれで遅なったんやん。知ってるから、そない申し訳なさそうな顔せんでええのに」
「……お詫びにいくらでも奢るからさ、好きなだけ飲めよ」
「すんませんもともと奢られるつもりで来てましたわ」
「そういうとこだよ!おい大和!」
流れるような軽口を叩きつつ、後ろめたさを拭い去ってくれるいつも通りの口ぶりに気が抜けてしまう。自分が迷惑かけたのに大丈夫と言われると底知れなさが怖いから、いっそのこと責めて欲しいと思うのに、大和はそんな面倒臭い思惑なんかをすっ飛ばしてしまう。口下手ってどこがだよ、基準バグってんじゃねえの。
お品書きを机の真ん中に置いて、裏返った文字を辿る。やかましいフォントで打たれた文字は思いの外見づらかった。迷いながら読み進めていくと、勿論腹は減っているが、フードメニューより今はアルコールに唆られる。今日くらいへべれけになったって文句言われないでしょ。ずらりと書き並べられたアルコール類の中から一種類、対して迷わず選択した。
「腹どのぐらい減ってる?」
「一応減ってるってくらいやなあ。なんか大皿で頼みたいのあるん?」
「んーじゃあ俺とんぺい焼きとよだれどり食べたい。大和は?」
「だし巻きとよだれどり頼みますわ」
「りょーかい、あとは個人で」
机脇の呼び出しボタンを押す。一瞬の話の途切れ目で大和は試合内容について問いかけてきた。食いつきの早さからして、ずっと聞きたくてうずうずしてたんだろうな。
「今日の試合、また綾さん攻めたなあ。最近のピッチングと雰囲気違うたけど、あんな組み立て事前に決めてたん?」
「うん。事前にあれを投げられるだけの調整は済ませてた。けど試合並の球数でやったことはなかったよ。今シーズンは打たせて取って、球数減らしてこうって方針だったから。」
「球団の方針?綾さん自身に合わせた方針?」
「……俺に合わせた方。慢性的に肘やってて。内側側副靱帯」
半袖のため露出している、生身の自身の右肘を見遣る。机の上に乗せられたそれは手術などの外傷もなく、インナーを常着しているため生白いままだ。ぱっと見では爆弾を抱えてるだなんて見当もつかない。
「そうなんや……やっぱりピッチャーにはついて回るんやな」
「そうだな。影響出るギリギリまで黙って、継投なしでいってたからってのもあるけど」
のもあるけど。野球始めてすぐから、球数制限あれども変化球も割と投げてたし、長身に見合わない筋肉量だった時期も長かったからこうなるのは必然であったとも思う。
「そうなんや……」
大和が押し黙る。色々言いたいこと聞きたいことあるだろうに、口に出すか迷うなんてらしくない。表情は何ら変わりないがそれなりに心を砕いているのだろう。
助け舟を出そうかと思って話題を振ろうと考えていると、ふと勘づいた。
「さっき呼び出し押した時って音鳴ってた?」
忘れていたがそういえば、話し出す前に注文の呼び出しボタンを押したのだった。時間はそれなりに経ったが、俺と大和と同様忘れているのだろうか?
「わからへん」
「カチッっとはしたような」
「ならいけてるんちゃいます?」
「あ、嘘。覚えてない」
「ほなら念のためもう一回押しときましょ」
再度サイドに備え付けのボタンを押すと、今度はわかりやすく個室の外でピンポーンとなる音が聞こえる。もしかしなくてもこれ押せてなかったじゃん。幾ばくもなく襖がノックされ、店員が中へ注文を取りに入って来た。
注文を済ませながら、真実、ないし原因に気付いたであろう大和にちらりと目配せをする。やらかしはったな、とでも笑うように目の輪郭が柔らかく弧を描いた。それにつられて、商品の文字列を唱える俺の口角もうっすらと笑みを浮かべた。
「ほんま最後まで圧巻のピッチングやったなあ。今し方完全試合して来たなんてほんま信じられへん」
「信じられないってなんだよ!俺の身の丈にあった実力を発揮してきたと思うけど!?」
「はは。そうやんな、綾さん有言実行の男やもん」
大和が大ぶりのジョッキを呷る。いくら飲んでも外見に変化がないから、飲酒する姿すら試合中の水分補給のような爽やかさがあった。酔いが回った頭で視線を大和から降ろすと、机の上には空のジョッキと皿がずらりと並んでいた。話に盛り上がりながら片手間に飲み食いしてただけなのに。スマホを取り出して時間を確認すると、会ってから三時間弱経っていた。本当はもう少し時の流れを無視していたかったけど目の前で時計を見る姿を晒してしまったから念の為聞いておくしかない。オフの飲みといえど、俺たちはプロ選手だから予定は不規則だし、体調管理のこともある。一応先輩だから年功序列で言い出しづらいかもしんないし。
「ねーもう十一時超えたんだけど、そういえば大和明日予定とか大丈夫?」
頬杖をつきながら大和にねだるように問う。大丈夫と聞きながらもやっぱりまだ帰したくなんてなかった。心底楽しい今の時間を終わらせたくないけれど、閉店の時間だけは確実に近づいて来ている。
「もうそんな時間なんですか。予定は何もあらんけど」
「うん。そろそろラストオーダーだし店出よっか?」
お開きを促すと大和は素直に頷き、掘り炬燵の中のカゴのから鞄を取り出す。綾瀬川は、彼が立ち上がる前に素早く襖の近くに立った。
「けど俺もう少し飲みたい。俺の家近いしまだ付き合えよ。泊まっていってもいいし」
出入り口を塞ぎ、その手には伝票を持っている。提案に見せかけた軽い脅迫のようなものだ。小細工なんてしなくても話に乗ってくれそうだが、念には念を押してどうにか実現したかったのだ。まだ話したい。泊まっていって欲しい。そう言えばいいのに、染み付いた傍若無人な口ぶりが素直な心に蓋をする。
「こんな急でええの?なら綾さんちお邪魔するわ」
いつも通りの朴念仁な顔で、綾瀬川が密かに発する圧にも如何とない様子で返事が返って来た。彼の精悍な顔つきに嵌め込まれた黒い瞳には、何の外聞も混じっていない純真な綾瀬川が反射している。本当、こんな時には大和の鈍感さが有難い。
配送待ち時間にコンビニに寄って、軽いおつまみと適当な酒を買った。間も無くやって来たクラウンの扉をばたりと閉め、行き先をドライバーに伝えると車内は静寂に包まれる。
二人きりだとあんなにも饒舌に回っていた口は、存在感を消していてくれても、一人他人が増えるだけで黙り込んでしまった。五十後半程の運転手。声をあまり発しすぎると帽子を目深に被っていてもバレる可能性が上がってしまうというのもあるが。
隣の大和は、車内に入ってからヘッドレストに頭を預けて窓の外を眺めている。都会のビルの灯りとヘッドライトとテールライトが交わる色を流し見ていた。
バッターボックスでのような眼光はなく、些か眠たげにも思われる表情で、ぼうっとしている。その横顔は選手同士の関わりだけしか無かった頃には知らなかったものだ。
大和の性格は第一印象とは一変して、気楽で執着が少ない人だった。別に執着がない訳でなく、ある対象と、無い対象がきっぱり分かれてる感じ。美里さんと話した時に、あの子は何が好きなのか、選択肢は沢山用意したつもりだったけれど結局自分で選びとったのは野球だけ。と教えてくれた。そうして彼を育てあげた生活環境が、野球自体にも振り回されず自らの思う方へ突き進んでゆける性格にも繋がったのだろう。
交差点でタクシーが止まる。電光スクリーンが煌々と大和の輪郭を浮かび上がらせる。
ぐいと推し出た鼻根、太めの眉、切れ目が入ったような唇。漆黒の瞳と髪。首から下は流石パワーヒッターなだけある分厚い身体で、身長の不利を補っている。初めて出会った頃よりはるかに成長した容貌。彼の努力が具現化したようで、放心してしまう。
あんなにちっこくて短足だったのに、高校生の時には一般的にはそう言われないぐらいまで成長してた。アスリートとか、俺よりかは断然チビだけど。成長して、思考に体が追いついて戦績を残していくに連れて大和のことを知っていく奴が沢山いる。古参感出しやがって、大和の原石そのものを発掘したのは俺だよと内心思う。
首元をぼうっと見つめていると、視界の隅の大和の顔が俺の方を顧みた。影になって暗くて表情の機微はよく見えないけれど、お互いの視線がかち合っている気がする。
静寂を打ち破らないよう、声を出さずに大和は読み取りやすく口を動かす。
「綾さん、どしたん?」
「……なにもねーよ」
同じように口をぱかぱかと動かした。大和がこくりと頷く。意思疎通は成功したようだ。
綾瀬川次郎ではなく、「俺」自体に気づいてくれて、けど勝手に推し量ったりしない。愚直に全部聞いてきて、俺を丸裸にしようとする。大和と一緒にいるときの俺は不公平を知る前の俺のままで、そうしていられる時間が勝利よりも何よりも心地良かった。
用件もなく見つめていたのか、と少し納得がいかなさそうな顔は、首を傾げたあの緑の鳥みたいで、思わず破顔してしまった。あの鳥と似ているって最初に言った奴、まじで才能あると思う。
「綾さんここ住んではったんや。球場近いし交通の便も良さそうや。ええとこやなあ」
エレベーターを出てマンションの廊下を歩く。大和は夜でも随分明るい夜景を見ながら呟いた。
「そうだな、移動時間短いのはやっぱ楽だし、ここオートロックとかセキュリティもしっかりしてるから安心なんだよね。長期間家空けてても大丈夫かなーって選んだ」
プロ入りしてすぐ、下宿のようなアパートに住んでいた頃、アクシデントで家に帰ると、ぼろい家の鍵にガチャガチャ針金を突っ込んでいる奴がいた光景を思い出す。幸い、俺の姿を捉えた犯人が逃げ出して行ったから、家財に損害はなかったが、綾瀬川に苦い思い出を与えた。
今までも俺の野球面について、干渉してくる他人は沢山いたけど、プロ入りするとなれば金が絡む分私生活を切り盛りすることも強いられる。公私混同も甚だしい。プライベートまで粘着されるのは絶望に等しかった。
堅牢な鍵二つと電子ロックを解錠し、大和を家に迎え入れる。
「ちゃんと掃除してないんだけど、文句言うなよ」
「構いまへんよ。お邪魔します」
家主らしく先導し、家の電気を次々点けていく。廊下の途中の洗面台へここ使って、と指差した。
大和が手を洗っているうちに何か見せるのに都合が悪いものが落ちていないか探した。洗濯物ほっぽり出したりしないし、大して物もないしやらかしてはいないだろう。台所の流し横の唯一のごちゃつきを棚の中にまとめて、或いはゴミ箱に入れて、そのまま手を洗った。
ハンカチで手を拭きながら大和がリビングへ借りて来た猫の様に出てくる。そして部屋全体を一瞥して戸惑っていた。
「ほんまにここで一人暮らししてはったん?」
「……そうだけど?」
「いや、散らかってるイメージもなかったし、でもまさかここまで生活感ないとは思わんかってん」
そんなに想像と合わなかったのか?別にテレビもハンドグリップを放置したまんまのソファもある。ダイニングテーブルには大袋のプロテインだって置いてあった。
「オフシーズンとかは結構ここにいるよ。家具とか色揃えたからそれじゃない?多分」
「うん、住んでる感じはすんねん。やけど何と言うかそれ以外がな……ふゎ」
大和が俺に背を向けて欠伸をする。テレビ上の時計を確認すると日付が変わりそうになっていた。そら健康優良児のあいつは眠くもなるか。うっすら自分も眠気がやって来たような気もする。
「お前風呂入ってきなよ。ある物なんでも使っていいから」
すぐに寝させてやりたいものだが、夜風が吹いているとは言えこの季節は風呂に入らなきゃ寝辛い。大体は風呂場に置いてあるけど棚の中にしまってあるバスタオルと化粧水はわからないだろうから出してやんなきゃ。準備しに大和の横を横切ろうとすると、振り戻った大和に服の裾を掴まれた。
「大丈夫です僕まだ眠くないです」
「嘘つけ!欠伸で目うるうるしてんじゃん!」
「綾さん、飲み足りないんでしょう?」
適当に拵えた誘い文句を律儀に掘り起こされる。これ以上飲んだら悪酔いしそうだからそれは避けたい。
「そんなんいいってガキは寝とけ」
「ガキって……さっき僕一緒にお酒飲んでたでしょう」
「年下はみんなガキだよ、はいお風呂!」
されるがままの大和の肩を押して洗面所に放り込む。脱力しているというのに鍛え上げた体は存外重かった。棚や三面鏡を躊躇なく全開にしていって、必要なものの位置を教える。
「これタオル、ちっちゃいのはこっちね。蒸し暑かったら換気扇つけて。ここらへんのスキンケアは化粧水、乳液……お前しなさそうだな。これもらったスポンサーから貰った試供品、オールインワンだからこれつけとけ。ごゆっくり!」
情報量に目が回っているうちに、あいつを脱衣所の扉でバタンッと閉じ込める。扉に背を向けて中の音を聞いていると、しばらくして、衣擦れの音が聞こえたので素直に入浴したようだ。
ふぅと一息ついた後、自身の寝室にあるクローゼットへ急いで向かう。店から直で連れて来ちゃったけどあいつの着替えどうしようか。タンスの奥深くに仕舞われていた、乾燥機に入れたせいで縮んでいるTシャツを取り出す。下はどうしようもなかったので、腰回りを調整出来る紐が付いたスウェットにした。前の家に住んでた時は、大和にあったものをちまちま置いていたのだが、逃亡のような引っ越しをする際に捨ててしまった。ちょっと皺をのばしてから脱衣所の洗濯機の上に置いておいた。
あと何用意すればいい?歯磨きは予備あるからオッケー。やばい、朝ごはん。
廊下を駆け、冷蔵庫を忙しなく調べ始める。厭な予感の通り冷蔵庫冷凍庫共に空に近かった。食パンはあったはず。卵とか生物は無くしてから家出たから、冷凍した野菜と肉くらい……?流石にこれは明日は外で食べた方がいい。来客に食べさせるラインナップではない。
球団のみんなみたいに、ハウスキーパー頼んでたら良かったかも。面倒事を増やしたくなかったから避けていたけど、既製品みたいな感じで家に持って来てもらうタイプだったらまだありだったかもな。一人暮らしだとどうしても食生活が単調になる。
己の段取りの悪さに辟易する。下読みしてないと厳しいものがある。
俺が大和ん家行った時、どうしてもらってたっけ。予めに連絡せずにいきなり訪ねてた気がする。若きりし頃の自分の無礼に悶える。突然の訪問に寛容に応えてくれていた美里さんには頭が上がらない。昼くらいにお邪魔して、美里さんと雑談したりご飯の用意しながら大和の帰りを待って、たまに夜ご飯もご馳走してもらってた。真一さんも一緒にご飯食べたこともあったな。
園家は両親の人柄が顕著に出たのか、時がゆったり流れるような穏やかな空間だった。雄弁は銀、沈黙は金。二人は俺の事を根掘り葉掘り聞こうとしなかったから、二回目にあった時には既に俺は身構えようとも思わなかった。自身の家が居心地が悪い訳では無い。ただ、家族は俺を取り巻く環境について身を案じて心を痛ませている。家にスカウトが押しかけてきたのにはもう暗澹たる気持ちだった。巻き込みたくないと思うのに不可抗力で心労をかけてしまうから、帰省する頻度はどんどん減っていった。
大和の家に泊まらせてもらったのは多分、二、三回くらいだった。何度か誘ってもらってたけど二日丸々休みのタイミングがなかなか無かった。
高三の冬、ドラフトで球団が決まって引越しの前に下見をしに来た機会に、追加でうちで一泊どう、と初めて泊めてもらった。広い家で、庭があって、部屋は幅広く物がきれいに整頓されてる。大和のおおらかな人格形成の源を見た気がした。
その日は真一さんも早く帰ってきて、四人で鍋をつついた。卓上コンロで土鍋を煮込みながら食べていると、海鮮が山盛りに入っていてびっくりした記憶がある。そこから好きな鍋の話になったら、全員が違うものを答えて「なら私これからは四種類用意しなくちゃねえ」と戯けられた一件を追想した。
元々物件を下見するためにホテルをとっていたため、泊まれるだけの荷物は持ってきていた。しかし急遽追加で一泊となると、服だけは足りなくて、明日帰る時に着る服は洗濯にかけてもらったけれどパジャマだけは借りてしまうことになった。この家で一番大きい服は真一さんのものだったけれど、お父様から借りるのは忍びないので大和が持っている中で一番オーバーサイズのものを借りた。
風呂からあがって着てみれば、案の定丈は全くもって足りていなくて、大和が声を上げて笑う。
「成長期の子供みたいやなあ」
手首が丸見えのスウェットに、脛までしかないズボン。床暖房はついてるけど冷えるやろからと渡されたハイソックス。大男が着ると見苦しすぎる。
「子供に見えるサイズじゃねえし、お前の服がちっせえからだろ!」
「あはは、ごめんなあ」
丈の足らないあの服が、どんなデザインだったかは忘れたけど、口を開けて笑い崩れる大和の顔だけは頭にこびりついている。
「綾さん、お風呂空いたで」
過去の記憶から現実に戻ると、俺の場合とは異なり、相応に俺の服を着こなした大和が立っていた。Tシャツだから袖が余るとかないし、短パンは紐で縮めているから違和感がない。もっとでかいの渡してやれば面白くなり得たのに、残念だ。
まだ湿っている黒髪を肩にかかっていたタオルで粗雑に拭いてやる。
「ん。じゃあ俺入ってくる。眠たいんだったら洗面所の棚の下の歯磨き使って先寝とけ」
こくりと頷く大和の側を過ぎ去ると、俺の服を着た大和の匂いがして面映い心緒に襲われた。
ぼんやりと作業のように風呂に入り終えると、リビングから大和の声でない人の声がした。水気を持った髪のまま服を素早く身につけて向かう。
『綾瀬川二者連続三振!この調子でいってほしいですね』
アナウンサーの声と球場の咆哮がテレビで流れていた。画面にはマウンドに立つ俺の後ろ姿が。
さっきの時点で大和は睡魔にすぐに負けそうな雰囲気だったが、今はテレビで録画していた俺の試合を食い入るように見ていた。こいつ人の家来て人のプレイ映像分析すんなよ。
前のめりにソファに腰掛ける大和の横に太々しく座る。荒々しく座ったせいでスプリングが跳ねて上下に揺れるのもお構いなしで試合映像に没頭していた。
野球星人であることに諦念と安堵感を持ちつつ背もたれにぐったり上体を預けて、こいつの馬鹿真面目な姿を斜め後ろから注視する。短くて濃いまつ毛となだらかな頬、少し伸ばし気味の襟足。成長したようで全部が全部変化したわけでない。悪戯心で襟足をうなじからかきあげると、わっと言ってようやく意識がこちらへ帰って来た。
大和も同じように後ろにもたれて、肩が密接する。じんわりと高い体温が伝わってくるのが気持ちよかった。試合の様子から目を離し、至近距離で見つめ合う。
「この試合のとき綾さん、ちょっと焦っとるか怪我痛かったりせえへんかった?ナイピやねんけど無理に安定させてるように見えんねん」
僅かに眉が下がった柔和な顔つきで問いかけられる。野球をとことん探求したい気持ちは勿論だろうが心配心も透けて見える。誰が敵バッターに原因教えるかよ、突っぱねてしまった方が賢明なのに、蕩ける空気感に抗えない。
いつの時の試合だろうと、詳細を見る。球はほぼストライクゾーンに入ってる。それは大体いつものこと。対戦相手とクリーンナップを確認して覚えと一致した。
揺蕩った意識から醒め、溜息をつく。もう少しこのままでいたくて、感じ取らないようにしていたのに。
「あぁ、あの時の……」
「ん?」
今し方と同じ表情で覗き込まれるが、その顔を直視できない。
「……寝不足だったんだよ。怪我はそんな関係ない」
迷った末、無難な返事に落ち着ついた。寝不足は事実だし、言葉にしたところでしょうがない。
「はあ、そうなんや。ヤジとかにも反応せんから相当切羽詰まってんのかなって思っとったわ。天才って言われんの嫌いやん」
テレビから発される音を聞いても、怒号ばかりで何を言われているかはっきり聞こえないが、大和が一人で見ているうちに多少聞き取れるヤジが流れたのだろう。
「嫌いだよ。けどもう言い返すには慣れすぎた」
一言目は本心。二言目は誰にも言えなかった本心。
夜で頭がふわふわしてるから、隣にいるのが大和だから。胸の奥底で固く凍りついていたのに、ぽろぽろと本音が溶け出していく。
「本当に天才って言葉が、天から貰った才能って意味で使われてるんだったらここまで嫌にはならない。体格とか、体の特性はある訳だしね。けどみんな、違う意味を含めて使うんだよ」
じっと見つめられるけれど、純粋な彼に鬱屈とした心中を明け渡すには躊躇する。瞼を浅く伏せて、組んでいる自分の手元に焦点を合わせながら話し続けた。
「俺を「天才」に仕立て上げていれば、俺は何言っても傷付かない。それ以上の贈り物をもらった存在だからって無意識に扱われるんじゃん。俺は一言一句に言い掛かりつけられるのに。天才って言葉は無闇に当たっても大丈夫って免罪符なんだよ」 それが一つ目の、一番最初に嫌になった理由。
天才は自他の分別をされる。俺はただ一緒に楽しみたかった。成功と失敗に一喜一憂する。負けてもそれでも仲間と共闘した時間が楽しい。
野球を始めて最初の最初。求められるけど特別扱いはされない、遊びの延長線上あの時間が一番「楽しく」野球をやれていた時期だった。鬼ごっこでタッチされても恨んだりしないのと同じ、ガチじゃない勝負。幼い淡い記憶。
実力を見出されてからは、勝つ者の振る舞い・思想を押し付けられた。最初から境界線を引かれているのが当然。同じ立場で、互いに頑張ろうなんて言ったら眉を顰められる。
優しさなんてちっとも願われていないのだ。だから俺は望み通り暴虐を尽くす。踏みつけて、「お前のせいで辞める」と叫ばれても尚高みに昇り続ける。勝てないことが普通になれば、存外周りは攻撃はしてくるものの、道を退くことは無くなった。
元の性格では耐えられないことも、不遜な態度を上部だけで取り続けていれば麻痺してくるものだ。もうあとには戻れないが。
外面は硬く覆われた、矢も通さない鋼鉄。中身はくたびれて投げ捨てられた雑巾みたい。仕打ちだけは一丁前なのに。いつしか自他だけでなく自身の中にも乖離が進んでしまっていたのだ。
手持ち無沙汰に弄っていた指先が、ぬくもりに触れられた。
硬い皮膚が、薄い手の甲の皮を滑っていく。手首を掴まれてくるりと翻された。突然触れられたものだから驚きに少し肩が跳ねる。
「きっと、妬ましゅうて綾さんをよく観れてないんやろなあ。ちょっと不器用なとこあるけど、優しいのに」
従順に胼胝だらけの手で両手の指先を一本一本撫でられていると、大和がテーブルに置いてあったニベアのハンドクリームをおもむろに掴み取る。一人分には些か多い量を手のひらに出して、綾瀬川の手に塗り込んだ。
手のひらの皺一筋も見逃さないようにじっくり撫でられるからこそばゆい。
「綾さん一気にバッティングも上手なったやろ。ピッチャー時の戦略を活かして、身体も一足飛びで合わせてったから。特に小指の付け根が硬うなってるな、正しいスイングのサインや」
「右手の人差し指中指なんかまんまピッチャーの手やん。やっぱ縫い目に力入れるからなあ。ばんばん変化球投げる分少し変形してるな。痛ない?」
静かに横に首を振る。ボールを握り込む長い指は、二本が反るような形に変形していた
た。ぱっと見痛々しいが数ヶ月で曲がったようなものではないので、痛みは感じない。
「昔はつるつるの手やったのに、今や本気で野球をやってるごっつい手やん。プレイでも勿論感じるけど、これは努力してきた人の証やろ。観たらわかんで」
労わるような手つきで手全体をマッサージされて、大和の体温で温かくなった柔らかいクリームが染み込んでいく。指の付け根の胼胝、歪んだ骨の指、短く切り揃えられた爪。道具だった手が綾瀬川の身体の一部として舞い戻る。血行障害で冷えが酷い指先にぽうっと火が灯ったようだ。
バッターボックスに立って、相手の本質を浮き彫りにする大和が、淡々と「俺」を教えてくれる。慣れてなくて口下手だけど、直接的な肯定じゃなくてちゃんと証拠を出してくるところがまた大和らしかった。そんな追い詰めんとって、と聞こえてくる感じがする。
手を見る大和の一途な眼差しにには尊敬と愛おしさがじんじんと伝わってくる。誰も知ってくれなくても、俺でさえぼやけてしまっても、こいつだけは観れば気付いてくれるのか。くすりとか細い笑みを溢すと、大和は顔を上げる。
テレビの喧騒も、時計が秒針を刻む音も何も聞こえない、二人の箱庭のようなひと時。
「そうだね……」
全てを吸い込んでしまいそうな黒瑪瑙の双眸で、幾年ぶりに和らぎを得たピンクゴールドの瞳が穏やかに笑っていた。
暗闇の中オレンジのスタンドライトがとっくに日付が変わった目覚まし時計を浮かび上がらせる。
「はあ?なんでそんなとこで頑固な訳?客なんだから黙ってベッド使っとけよ!」
「家主でアスリートの人を差し置いてとかあかんやろ」
「客でアスリートの方が駄目なの!俺布団で寝るから!」
マンションなので、一応声量は抑えつつも口論は止まらない。あの雰囲気は何処へ霧散したのか。
クローゼットの収納から客用布団を取り出し綺麗に引いて、間接照明を消せばもう寝る、と思った矢先だ。綾瀬川はベッドは大和に譲って、薄べったい布団は自身が使うつもりだった。この家に引っ越す前まではこれを使っていたし、何より大和を地面に寝かせるという考えがなかった。
しかし大和が相反する考えを持っていたせいで、話が上手くまとまらない。
「じゃあ年功序列だから俺の意見飲み込めよ、ベッドで寝ろ」
「綾さん僕より年上なんやから身体に気ぃやってベッド使うた方がええと思います」
「おじさん扱い?二つ差じゃん!?バッターは腰大事だろ、マットレスある方がいいって」
「腰なんてみんな大事ですわ。肘怪我してはるし無理せんと柔らかいベッドで寝ましょうよ」
本当に埒が明かない。苦肉の策でベッドに突き飛ばしてみようとする。大和は一歩退いたが、がっしりとした体幹で耐え切ってしまった。口を一文字にむん、とした顔に腹が立ってしょうがない。
「俺はお前にベッドで寝てもらわないと困るんだけど?」
「僕だってそうやわ」
「あーもう!布団で俺寝るし!おやすみ!」
ベッドの脇に敷いている布団に俊敏に滑り込む。寝転んでしまえばこちらのものだ。枕から大和を見上げると口をぽっかりあけて絶句している。どうだ、俺はお前が思っている通り手段を選ばない男なんだよ。
完璧だと確信し、瞼を閉じたのに布団が捲られて驚く。諦め悪すぎるだろ。
掛け布団を引き剥がされるかと思っていたのに、大和は普段通りの無表情で綾瀬川の横に押し入ってきた。突飛な行動に唖然とする。
「ほら狭なったやろ、ベッドやったら広々寝れんで」
こいつ、目的の達成のためならには脇目も振らないタイプじゃん。想像を超えられて何となく苛つき舌打ちをする。
シングルサイズの布団に成人男性二人、さらには片方は百九十センチ近いとなると、この状況は拷問でしかない。こんなウォータースライダーを滑る時に指示されるようなポーズで寝れる訳なかった。
ベッドはダブルサイズ。あっちに移れば両手両足伸ばして寝れるぞ、と悪魔が囁く。そろそろ綾瀬川の理性も限界が近かった。
「あー、なんなら二人でベッドで寝る?そしたら二人とも体痛めないんじゃない」
自分と相手の、最低最大限譲歩が重なる提案をする。流石に諦めて欲しいが、最悪この案が通っても、大和が寝ついた後に俺が布団を抜け出せばいい話だ。
「そうしよか。いっちゃん平和的解決やわ」
あっけらかんとした態度に拍子抜けする。悩みすらしてなかった。ムキになるあまり恥ずかしさは吹っ飛んだのか。大和はぎゅうぎゅうの布団からするりと抜け出し、ベッドの右側を占領した。体を真っ直ぐに伸ばして一人で寝っ転がる姿は間抜けで可愛い。
自分から言った以上後には引けないので、左側に座り込み、照明を消した。
暗くなって何も見えない上に、手足を広げなければ当たらないから、特段何も気にならなくなってきた。掛け布団をたくし上げて中へ入り込む。
冷房によって適温に保たれていた体温が、掛け布団と大和の体温によって僅かに上昇する。大和が寝落ちするのを待とうとしていたのに、どっと疲れがやって来たのか身体が言う事を聞かない。
瞬きの回数が段々と減っていって、綾瀬川は微睡の中へ沈んでいった。
夢の中で、俺に野球がなかった場合の世界を夢想する。ボールもバッドも一度も触れずに終わる生涯を。
リトルに入っていなければ、放課後は友達と遊んだり、土日は家族で出かけたりしていたのだろうか。それはきっと色とりどりに楽しい生活になっただろうな。学校から帰って、すぐにイガとヤスと公園でゲームしたりして。夏はかき氷作ったりとか……いや、会うことはなかったのか。
イガとヤスに会えない小学生時代なんて嫌だな。他に仲のいい友達は学校にいたけれど、それとこれは別だ。リトルで辞めればよかったのに、大和にホームラン打たれて、悔しさを抱えてシニアに上がったから。
シニア。足立フェニックス。これから野球と共に人生を歩むことを結論づけてしまった時期。マヨさんに示して貰った、エースのあるべき姿。立場に合った人が選ばれるのではなく、立場に下りたのなら自ら作り変えることを知った。期間を被らせたくなくて、関わる時間を縮めてしまったけど大切なことをたくさん教えて貰ったシニアは無かったことにしたくない。シニア最後の公式戦で大和に打たれなければ高校には持ち越さずに済んだ。
高校生活は、今までの人間関係がイガ以外一切入れ替わった。それである意味好転したのだ。ずっとこのチームでずっと野球してたいと思う程に。毎日駄弁った寮までの帰路。血反吐を吐いた合宿。仲間達と立つ炎天下のマウンド。全てが鮮明に思い出せる。大和に負けた無念だけで泣いたんじゃない。この夏の終わりが、高校野球最後と同時ということを実感して泣いたんだ。
今までの全ての思い出と敗北の挽回を掲げて、またプロ野球のマウンドに立っている。しかし、ここ数年の野球の趣旨は違った。
ふと目が覚め薄ら目を開くと、眼前に自身のTシャツのロゴの印字が見える。どうやら枕から逸れて大和の胸元で寝ていたらしい。申し訳なさが芽生えるが、すうすうと聞こえる寝息に胸を撫で下ろす。もう少しだけ、と自分を甘やかしてその姿勢のままでいると、止めどなく涙が溢れてきた。涙が顔を過ぎってシーツに染みを作った。
嗚咽は出さずに静かに泣くけれど、余計にどうしようもなくなってしまう。耐え切れず、大和の左胸にそっと右手を添えた。規則正しく脈打つ胸に酷く打ちひしがれて涙が止まらない。その胸の温もりが綾瀬川を締め付ける。夢は最後まで夢であって欲しいと願うのに、どうして。
「綾さん……?」
頭上から、対応に困っているであろう小さな声が降ってくる。
「……ごめん、起こした」
「別にええよ。どしたん?」
「なにもない」
心配の声を突き放して押し黙ると、ぽんと右肩に大和の手が置かれた。あの硬い、分厚い手が。
「……あんな、明日」
その言葉の続きは、まだ希望を持たせてくれるのか。けれど表情なんて見なくても、もう察してしまっているから耳を塞ぎたくなる。
「明日、————行かへん?」
「……」
どうやら幸せな夢心地で終わらせる気なんて毛頭ないらしい。そしてすっかり冴えてしまった頭で既にこの夢の結末を理解してしまった。もし断れば、なんて考えるけどそんな選択肢は選ばない。ぐっと覚悟を決めて返答する。
「いいよ。行こう」
校門をくぐり、見ず知らずの中庭を通り抜ける。この学校の間取りなんてわからないので大和に引導されるまま着いていく。
「お前、この学校には何回ぐらい来たの?」
「確か、長期休みの度に来てたから五回やないかな」
「へえ、東京まで」
「監督同士が仲ええらしいわ。しょっちゅう会うてるもんで、生徒らも顔見知りなってくんねん」
人一人いない校舎横を歩く。俺らの話し声とコンクリートの上の石を踏み締める音が反響した。
「高校生の遠征とか、大体貸切バスとかだよな。俺、あれ狭くて苦手だった」
「綾さんみたいに足長かったらそら大変やわ。僕は幅とらへんからいつも隣の席争奪戦してはったなあ。こぞってでかい人らばっかり来はんねん」
「普通に可哀想……」
「おもろいからええねんけどな」
自分の隣はほぼイガが座っていたけど、もしかしたら毎度窮屈だとか思っていたのかも。足は畳んでいたし、肘掛けも使わなかったのでそう思われていないと信じたい。
四階建ての校舎とは違って、二階建ての建物前を過ぎる。ガラス張りの中を覗くと、長机とパイプ椅子が何列も並んでいた。
「食堂だ」
「そやな。ちなみに二階が遠征ん時泊まらしてもろた場所や。今でも思い出すとちょっと寒気するわ」
「そんなにやばかった?」
「六時から練習開始で昼休憩以外晩御飯までぶっ通しやったんよ。で、晩御飯ぱんぱんまで食べて意識飛びそうなってる状態でミーティング。合宿部屋の目覚まし時計の音トラウマやねん」
「なにそれ囚人じゃん……」
綾瀬川は地方の中堅校へ進学したため、合宿も少なく期間も短かった。まさか大所帯の強豪校はここまでの仕打ちを受けているとは想像もつかなかった。
「金煌大阪と二校でずっと練習してたの?」
「いや、多分県外で近い高校も日帰りで何校か来てたで。泊まりでひたすらやってたんはうちんとこと天川高校さんだけやな。通学してるんだからお家近いのにって嘆いてはりましたわ」
「なら総当たり戦か……しんどすぎるね」
「そやったなあ。あ、綾さんここで待っといて。すぐ帰ってくるわ」
「え、うん」
校舎と校舎を繋ぐ、渡り廊下の下の陰で突然大和に置いて行かれた。どこに行ったのかは死角になって見えない。人影はないけれど往来を塞ぐのが申し訳なくて、近くにあったベンチに座る。表面の木が少し剥がれるぐらいのぼろさで、座ると木がしなっていた。
暇を持て余して、周囲を見回す。右側には建物に半分程隠れているが、砂のグラウンドと野球場があった。グラウンドの境目は金網のフェンスが一列並んでいるだけなのが懐かしい。ここの生徒もファウルボールを誰が取りに行くかで揉めたりするのかな。
特に何もすることなくぼうっと待っていると二つのグローブ、三球の硬式球、バットをを持った大和が現れた。
「お待ちどお」
「え、お前それどこから持ってきた⁉︎」
「ここの野球部の倉庫は鍵開けっぱやねん。前こっそり教えてもろた」
「それいいの……」
現実味のないこじつけに若干己の倫理観を疑うが、考えるのはやめて立ち直る。大和と横並びになって野球場へ向かった。
鉄枠の重い扉を開いて、黒土を踏み締める。スパイクとは違って凹凸のないスニーカーなので、違和感があった。
肩慣らしにキャッチボールをしたくてレフト側まで回る。ボール一球とグローブを貰って、大和はバットと残りのボールをグラウンドの端に据えた。
約十五メートル距離をとって、向き合う。通常、入念なウォーミングアップを経てから投球練習に入るのだが今日はもういい。肩をぐるぐると回してから、一球目を大和の胸元に投げ込んだ。緩い山なりを描いて、もとよりそこにあったかのように的確に入る。
大和のもとへ渡ったボールが、滑らかに返球される。破裂音と同時に重みが左手にのしかかる。バッティングを特筆されがちだが、こいつはフィールディングもそれなりに出来るのだ。
戻ってきた球の縫い目をなぞる。この引っ掛かりが、自身の強みの変化球を一生に作ってきたのだ。粛然としたグラウンドでぽつりと呟いた。
「ここ来ると、最期なんだなって感じるよ」
深く息を吸い込み、面をあげ、次の言葉は離れた相手によく聞こえるように、声を張る。
「大和!天川高校との試合結果はどうだったの⁉︎」
問いかけと共にさっきより強い力の投球。狙いは外れず、まるでそこにあったかのようにグローブに収まる。
確かめるように、何度も何度も繰り返し、ボールが往復する。
「僕が知ってる限りでは一勝二敗やったわ!」
「何負けてんだよ!お前打てよ!」
「三試合で五得点は取ってたんよ。天川高校さんは打線が強いねん」
「ふうん。大和より?」
「どうやろな、あの四番バッターは……」
大和が過去の対戦相手に思い耽りながら投げたボールは、綾瀬川の頭上に大きく逸れた。力一杯手を伸ばし跳んでキャッチする。
「馬鹿。僕の方がええバッターです、ぐらい即答してよ!」
少し間隔を広げてから速度を上げてボールを投げる。
「そんな恐れ多いわ。あの人すごい選球眼が良かってん」
「俺を唯一ばかすか打ったんだから、もうちょい胸張ってよね」
「そやなあ。綾さん僕のこと抑えれへんのに敬遠絶対せえへんもん」
「俺は三タコ五回くらわせるまで辞める気なかったんだよ」
大和との対戦の時、敬遠は一度もしなかった。不利になると戦略上では理解していたが、完全に私情を貫いていたのだ。待ち望んだ奴との一対一を態々白紙にする奴がいるか。勝利を蔑ろにしてでもお前と当たりたかったんだ。
なのに。お前が先に死んで辞めるなんて。おじいちゃんになるまで野球するんじゃなかったのかよ。
俺がお前に勝っても、変わらず野球に打ち込む姿が見たかった。みろよ、俺に負けても身を輝かす奴がここにいるんだぞ、って。綾瀬川はお前が言うような加害者じゃなく、勝者だっただけだって。
幼い頃の自分にとって、負ける側の心情を気にしなくていい彼との野球は、楽しかった。負かすことに罪悪感が湧かない。全力でぶつかってた、俺を食らおうとする大和だから。
けれど、俺がお前に勝つのは通過点でよかった。
だって、本当に俺が望んでいた最後は。
「でも、本当は、大和に打たれて終わりがよかった」
吐息混じりの震えた音吐は小さく、しかし確かに幻影に伝えた。軽快なキャッチボールを止めて、俯きがちになる。地面がぐらぐらと水面のように歪んで見えた。
天才と呼ばれる綾瀬川が、同じく天才と呼ばれる園に打たれる。大和に負けてんのに俺が天才って今でも意味不明だとは思うけど。それが俺の不調でもまぐれでも何でもない大和の実力。
綾瀬川の選手人生で園以外にもホームランを打った選手はいた。彼らは綾瀬川に勝つために勝った。綾瀬川を負かすために勝った。
大和だけは、俺に野球を辞めさせないための、会心の一撃を放つんだよ。
きっと今までのスポーツ人生の終焉に最高の祝福だ。
歳になって、引退試合の最後の最後に大和に打たれるんだ。それで俺は「お前のせいで負けっぱなしで終わる」ってふっかけてみる。そしたらきっと、まだやってくれるん?もう一回現役復帰せえへん?とか平気で言うんだ。八百長して負けてやる気なんかこれっぽちもないくせに。
打たれて終わりたいなんて、今までと真反対のことを言って、大和はどんな反応をするだろう。目の前の大和を見つめてみるけれど、貼り付けたような無表情で、何も言わずに立っている。空っぽで、ただそこにいるだけだ。
今話している大和は幻で、この場所も全部俺の幻想。だから本当に俺が聞きたかった返事は聞けない。悟った上で、まだ話しかけるのも虚しいが、どうせなら未練はなくそう。せっかくの機会なんだし。叶うことのなかった夢の続きを。
「なあ、お前ボール三球持ってきてたじゃん。一打席だけしよう」
「ええ、綾さん肘大丈夫なん?やるんやったら全力投球するんやろ」
大和が葛藤する表情と声になって安堵する。違和感なく映し出される表情で違和感に蓋を無理矢理する。大丈夫、ちゃんと幕切れまでやれる。
「いいんだよ。大和こそ縦のスライダーも組み込んであげるかもしれないのにチャンス逃していいの?」
「投ってくれんの?やりましょすぐに」
「現金な奴!」
大和が小走りで道具を持ってきて渡して、そのままバッターボックスの後ろにネットを張りに急ぐ。そんな慌てなくても。大和は野球が絡むと異常な行動力を発揮していた。
てんやわんやする大和を傍目にゆっくりとマウンドに登る。スパイクじゃないから多少球威は落ちるだろうか。まあ大和もスニーカーで公平だしいいや。
もう二度と踏み締めることのない感覚を、五感に刻み込む。絶対に忘れない、苦楽を共にし半生を過ごした地を。
「綾さん!準備できたで!」
ヘルメットもバッ手も着けていない、そのままの大和がバッターボックスに立つ。暴投したらどうすんだよ、と伝えようとしたけれど口を噤む。大和がバットを慣れた動作で構える立ち居振る舞いを見て、鳥肌がたった。あぁ、お前が死んでから沢山投げてきたけど、お前以上はやっぱりいないよ。
じりじりした気迫を感じながらも、堂々と。片足を上げ、体重移動し、押し込む。永遠と投げ込んで染み付いたベストのピッチング。
大和に一直線に向かったと思われた球は直前で軌道を変え、露の間にストライクゾーン右上を撃ち抜いた。ネットが大きく波打つ。
初球、大和はバットを振らなかった。油断はしない、次の球でばっちり合わせてくることも、こいつなら有り得る。
二球目は、大和に投げることはなかった、縦のスライダー。先に言った分注意されているだろうが、フォームを変えて挑む。過去には大和のために取っておいていた戦略。例え妄想であっても、高揚が抑えきれない。やっとこいつに叩き込める。
地面に置いた二つ目のボールを手に取る。死ぬほど握ってきたそれは、身体の一部のようにしっくり馴染む。
ゆっくりと溜めて、テンポを撹乱させる。初見のフォームにどこまで対応出来るか。事前動作を解明出来なければければ、あとは俺の心の内を読むしかない。プロになって、さらに身体も増量してスピードも上がった。ここからが大和の腕の見せ所だ。
まさに一球入魂と形容する二球目も、同じく緑のネットにつつがなく吸い込まれる。
大和の表情を見やると、驚きと興奮が隠せていなかった。瞳孔かっぴらけて、俺を捉えられて、心地好い緊張感に包まれる。試合で対峙できなかったのが惜しいだろ?
残されたのはあと一球。一度は最後と言っていたのに、結局妄想の中でもう一度握っていることに呆れる。あんなに辞めたい辞めたい駄々捏ねたのに、野球自体にも執着はあったんだな。野球が好きだからなのか、己の一部となっていたからなのかは自分でもよくわからなかった。けれどこれが、正真正銘のラストになる。
お前の知らない投球で、お前の知らない実力で、正面から叩きのめしてやる。
ワインドアップの体制に入ると、スローモーションのように時が流れ始めた。爪先から指の末端の細部まで、動作がありありと認識できる。神経の全てを網羅した気分だった。痛みを訴える肘も、血行障害のある指先もなかったかのように躍動した。
見当違いに気を使われた幼少期。敵意を突きつけられた少年期。
存在を願われなかった俺は、戦って欲しいと心から渇望するお前に、救われたんだ。
闘志を宿す指から離れた白球の軌道が、網膜に焼き付く。真っ白の球が、太陽の光を浴びて白い光のように輝く。
永劫とも思える感覚で、綾瀬川はしかと運命の行き先を見届けた。
高校球児さながら、マウンド上で一礼する。深く、深く全てを思い出すように。視界中の足元がじんわりとぼやけていく。大和と試合に当たった日は泣いてばかりだ。きっと顔もぐちゃぐちゃに崩れてるんだろう。
正面に直って、18.44mの距離で水膜で滲む大和のシルエットにささやいた。
「ありがとう。俺が野球を続ける理由をくれて」
視界が黒土とスタンド席で縦割りに半分になっている。わらわらと尋常じゃなく蠢く人塊から非常事態を察する。
黒く狭窄していく世界が、自身がマウンド上で倒れたことを理解させた。球団の人達が必死の様相で俺を囲んで、奥の方からは救急隊員らしき人が走ってきている。
これ、大和も似たような景色見たのかな。でも昼休みって言ってたな、じゃああの食堂でってこと?美里さんに聞けばよかったのかもだけど、「野球」と同義の俺には心を閉ざされてた感じがしたから無理だったし。最期までわかんなかったや。
ぼんやりとした思考では答えに辿り着くことはできなかった。正面の平沢さんが叫んでいるのに、辺りは無音で何も聞こえない。
さっきまで見てたのは走馬灯?有りもしない、知りもしない光景だったから夢と言った方がいいのかも。どこまでが本当でどこからが、俺の妄想の補填なんだろう。ひさしぶりにあいつと話したり、一打席勝負したりして幸せだったのに全部俺の夢か。色々本音も打ち明けたけど、結局は俺が言って欲しい言葉を言わせただけじゃん。
重い瞼はそこまで確認した所で、ぱたりと閉じてしまう。
『本物』の大和は、どう言ってくれるかな。
期待を込めて、悠遠にいるあなたの元へ、最期の答え合わせをしに行こう。