君が居た夏に 夏の、とある日のこと。本当に何でもない、ただ平々凡々とした日であった。隼人は何とはなしに屋上に繋がる扉の前に立っていた。何か屋上に特別な用事があったわけではない。何となく、もしも強いて言うならば、呼ばれた気がしたのだ。何かに。
出入りの禁じられているわけではない屋上の扉を開け放つと、ギィ、と酷く軋む音が踊り場に響いた。この学校が何年前に建てられたか、なんてことは分からないが、既に老朽化しかけている屋上に訪れたがる生徒はやはり少ない。いつ柵だとかが崩れ落ちてしまうか分からないからである。扉の向こうには、やはり誰一人の影も見えることはなかった。ジリジリと、身を灼くような暑さからの逃げ場がない屋上は、ゆっくりと廻る一年の中でもこの季節が一番不人気だ。何かに導かれたかの如く、隼人は屋上で唯一の影が出来上がっているところへ向かう。陽の酷く眩しい光に身体が、眼が襲われる。耐えるために瞬きを何度もしながら辿り着くと、そこには先客が座っていた。誰も居ないだろう、と高を括っていた隼人は驚いて思わず足を止めてしまう。ゆっくり歩いていたとはいえ、いきなり足を止めたために生徒用のスリッパが音を立てると、壁に凭れ掛かるようにして座り込み、眠っていた先客がぱちりと目を開いた。
「ぅわっ」
「ん?」
眠っていると思っていた人間が急に起きたものだから、隼人は声を上げて後退する。先客の男はまるで猫かのようにぐぐーっ、と伸びをして横に立つ隼人をようやっと視界に入れ、驚いたように目を見開いた。
「……こんな時期に屋上に来る生徒が俺以外におるなんてなぁ。ね、お前名前は?」
隼人は男の付けているネクタイをちら、と見る。その色は目の前の男が三学年──隼人の一つ上の学年だ──であることを示していて、こんな先輩居ただろうか、と思いつつも隼人は口を開いた。
「加賀美隼人、です。……先輩は?」
「ウワ、先輩なんてやめてくれん」
「え、っと」
「堅苦しいの、あんま好きやないんよ」
随分寛容、というか適当な雰囲気を醸し出している人だ。しかし、そうは言われたものの先輩相手に口調を崩すのは躊躇われる。ただでさえ、普段から同級生相手にも敬語を使っている隼人だ。隼人が特段丁寧な性格をしている、というわけではないが何というか落ち着かない。
「俺は不破湊。ハヤトの一つ上の学年やな。気軽に湊って呼んでや」
湊と名乗った先客は、にっかりと笑って隼人に手を差し伸べてくる。そこでやっと、隼人は湊の容姿を視認した。太陽に反射してキラキラと光る銀白色の髪に、紫色のメッシュが混じっている。藤色の瞳は真っ直ぐに隼人を捉えていた。影から出て日差しを真っ直ぐに浴びている姿は随分と暑そうに映るが湊の顔が火照ったような様子はない。どこまでも涼し気だった。初対面の人間と握手、なんて思春期の高校生からすれば少し小っ恥ずかしい行為ではあれど、厚意を断ることはできない。おずおず、と隼人は湊の手を握った。思わぬところで先輩と出会って緊張でもしていたのだろうか。自分の手が、湊のものとは違って酷く熱を持っているように感じたのだった。
「湊せんぱ……湊さん、はどうしてこんなところで寝ていたんですか?」
湊先輩、と呼ぼうとするとちょっぴり不機嫌になったかのような表情を浮かべるのだから、妥協案として“さん”付けで読んでみる。まだ不満げだったが、先輩と呼ばれるよりは良かったのだろう。隼人の問いに答えるために口を開いた。
「う~ん、何ていうかさ、俺にはこのくらいの気温が心地良いんよね。教室なんて寒くて寒くてかなわん」
「……難儀な体質ですね」
こんなにも暑いというのに、湊は長袖を着ている。見ていてこちらまで暑くなりそうなものだが、本人の体質のせいだと言うのならば仕方のないことだろう。
「ハヤトは? 夏に屋上に来る人なんて、物好きの他ないやろ」
「その、なんていうか……」
何かに呼ばれたような気がしたなんて初対面の後輩に言われてもおかしい奴だ、なんて思われてしまいそうなものだが、どうしてかこの人には言っても良いだろう。そんなことを、思ってしまった。隼人は、何も考えぬままに口を開いてしまったのである。
「何かに、呼ばれたような気がしたんです。それで、ここに」
「にゃはは、もしかしたら俺が呼んじゃったんかもしれんね」
「湊さんが?」
「夏に屋上に居るのなんて俺くらいやで。そうやと思わん?」
「まぁ、確かに」
とんでも理論ではあるが、少し納得してしまって、隼人は小さな笑みを口元に浮かべた。誰も居ない屋上であったら仄かな怖さが後も残っていたのだろうが、こうして湊と出会えたとなればどこか必然的なものを感じる。
そこまで考えて、隼人は首を傾げそうになってしまった。隼人本来の気性が人懐こい、というわけではない。だというのに、初対面の先輩にどうしてこうも気を許してしまっているのだろうか。どうってことはない、同じ学校に通っている先輩なだけなのに。それに、元来隼人は所謂運命だとか、必然だとか。そういったものを信じる性質ではなかったはずだ。そういった類のものはあるかもしれないが、心の底から信じるほどの信心深さを持ち合わせてはいない。まァ、きっと。夏の暑さに脳がやられてしまったのだろうと一時的な答えを出して、隼人は湊の隣にほんの少し距離を開けて腰を下ろした。
「湊さんは、昼休みずっとここにいるんですか?」
「ン? まァ、そうやね。昼休みは大抵屋上におるわ」
「そう、なんですか」
なら、明日も来て良いですか。なんて、単純な言葉が紡げない。自分が自分でなくなってしまったような感覚に、思わず隼人はきゅ、と眉を顰めた。
「いつでも来なよ。俺、昼休みの間はずっとここで暇しとるからさ。丁度話し相手が欲しかったとこ」
「気が、向いたら来ます」
なんて、まるで隼人の心を読んだかのように告げられてしまえば、内心驚愕して少しだけ素気のないような返事になってしまう。昼休みの終了を告げるチャイムが鳴って、どこか名残惜し気に隼人は去って行く。それを湊は、どこか諦めの含んだような表情で見つめていたが、振り返らない隼人にそれが見えることはない。
学友は存在すれど、こんなにも隣にして、涼しく感じる心地の良い人間に会うのは、初めてだった。
あぁは言ったものの、本当に今日も湊が屋上にいるかどうかは分からない。隼人は昨日屋上に入った時よりもずっと、緊張した様子でドアノブをゆっくりと捻った。ギギィ、と重い音を立てて開いた扉の向こうには、やはり誰も居ない。隼人は扉からは死角になっていた、影のある場所に迷いなく進み、そこで昨日と同じような体勢で目を瞑らないままに雲一つとて浮かんでいない、キャンパスいっぱいに青色と水色を混ぜて広げたような空を見上げている湊を見つける。
「湊さん」
声をかけると、湊は空に向けていた藤色の瞳を隼人に向けて、詰まらなさそうにしていた表情を、まるでぱぁっ、と花開くかのようにして綻ばせた。湊が己の横の地面を軽く叩くと、その意図を察した隼人は失礼します、なんて言って湊の隣に腰を下ろす。
「ハヤト! よう来たね」
「……話し相手が欲しいと、言っていたので」
「はは、優しいね、お前は」
今日もいるのだろうか、と期待していた自分を隠すようにして言葉を紡ぎながら、隼人は湊を眺める。陸上部に所属している隼人の肌は、軽く小麦色に焼けている。外の部活をしている隼人の肌がそうなっているのは勿論のことだが、湊の肌は、隼人のものと比べなくても随分と白い色をしているような気がした。言うなれば、陶器のような。室内の部活だとしても、こんな場所にいるというのに全く以て焼けているようには見えなくって。そう思ってまじまじと見つめてしまっていた隼人の視線に気が付いたのだろう、隼人が何かを言おうとするよりも早く、湊が口を開いた。
「なに、そんな見つめて。俺がイケメンやから?」
俺って罪な男だな、なんておちゃらけるような言葉が放たれたものだから、虚を突かれたように目を大きく見開いて、一拍置き、隼人はけらけらと笑いを零す。
「ばか、違いますよ」
昨日とは打って変わって、何だか打ち解けた様子を見せる隼人に、湊はどこか嬉しそうに笑う。話し相手がいるというのが、本当に嬉しいのだろう。いつから屋上に居るのかは分からないが、隼人が来るまで一人だったのは明らかである。
違う、とは言ったものの確かに湊の顔は整っている。俗に言う格好良い、とか、綺麗、だとかそういうものではなくて。見ていて惹き込まれるような、どちらかと言えば、それこそ美術品だとかそういった類のものに抱くような印象を、その身に隠していた。
「湊さんって、どこのクラスなんですか?」
「なに、呼びに来てくれるん?」
「えっ、いや、そういうわけでは」
「ごめんごめん、揶揄っただけ。ハヤトの反応が一々面白くてさ」
くすくすと笑う湊は、隼人の問いについ、と首を傾げてから口を開く。
「当ててみる? ヒントは、この屋上だけ。絶対にクラスに聞いて回ったりしないこと」
「俺が不利すぎません?」
「や、いけるいける。ハヤトが俺のこと見付けるの楽しみにしとくわ」
この学校、どれだけクラスあると思ってるんですか、と拗ねる様子を隼人が見せるものだから、更に楽しそうに湊が笑う。だいぶ不利な問題だけれど、謎解きみたいでほんの少しだけ面白そうだ。それに、湊に会いに来る口実が増えたような気がして、悪い気分ではない。
「ね、ハヤトさ」
「何ですか?」
「……なんか甘い匂いする。お昼何食べたん?」
「あ~……菓子パンのクリームを零してしまって。多分、その匂いでしょうね」
今日は弁当を忘れてしまって、隼人は購買でおかずパンを二つ、甘いパンを一つ買って昼食にしたのである。食べる際、中にクリームがたっぷり詰まっているパンの後ろの方から豪快にクリームが零れ落ちて、スラックスにべったりと付いてしまったのだ。目立つような染みは消えたが、匂いは取れていなかったらしい。クリームを零したことをバレたのが恥ずかしくて、隼人は自分から話題を逸らすために口を開いた。
「湊さんは何を食べたんですか? ……というか、ご飯食べてるんです? 屋上に来るの、すごい早いでしょ」
隼人は自分でも食べるのが早い方だと思っているのだが、もしかしたら湊はそれ以上なのかもしれない。昼ご飯を食べていないのかもしれない、とも考えたものの、そうであればこんな暑いところに居たら倒れてしまうだろう。その考えは、吹き飛んでいく。
「俺? ……カレーパン。カレーパン食べたわ。俺の家の近くにパン屋さんがあったんやけどさ、そこのカレーパンが絶品で」
思い出すように空を見上げながらカレーパンの美味しさを湊は語る。食べたばかりだというのに腹が鳴りそうで、隼人は明日も購買に行こうと決める。確か、カレーパンもあったはずだ。
きっと、明日も屋上に来よう。どんなパンが良いだとか、まるで数年来の友人かのように話しながら、隼人はそう決意したのだった。
キィ、と屋上の扉を開けるコツを掴んだ隼人は昨日、一昨日よりも控え目な音を響かせて扉を開く。この瞬間、まるで知らぬ世界へと通じる扉を開けるような感覚に陥るこの瞬間が、隼人はどうにも好きになってしまっていた。それ程までに、湊と会話をすることが隼人の中で楽しみなことになっていたのである。まだ会って三日目だというのが信じられない懐き方だな、と自分でも呆れるが、会いたいものは会いたいため、今日も隼人は影のある場所へ向かおうとする──したのだが。
扉を開けた瞬間に、どこからかひゅう、と風を静かに切るようにして何かが飛んできたのだ。思わず、驚いて隼人はそれを掴んでしまう。隼人の手の中に収まったのは、小振りな紙飛行機だった。
「あれ、おるん? ハヤト」
「湊さんが作ったんですか、コレ」
奥の方から湊の声が聞こえてきて、隼人は紙飛行機の羽の部分を掴んだままに声の聞こえた方に向かう。影のある場所には湊が座っており、そこには何枚かの画用紙と、何機かの紙飛行機が置かれていた。
「紙飛行機のこと? そ、俺が作ったの。意外と自信作だったりして」
自慢げに紙飛行機を掲げる湊は、そのままひょいと飛ばす。すぐに落ちてしまうかと思ったのだが、まるで示し合わされたかのように風がひゅうと鳴いて重力に従って落ちようとする紙飛行機を掬い上げ、空高く舞い上がらせた。しかし、思ったより風が強くって 、手の届かぬ場所まで紙飛行機は飛んでいく。そのまま紙飛行機は屋上の柵を飛び越えて、やがて力を失ったかのようにひらひらと地面へと落ちていってしまった。
「落ちた」
「……落ちましたね」
ちぇ、と詰まらなさそうに、子どものように湊は次の紙飛行機を手にする。飛ばされては浮いて、沈んでいくその姿は子供の遊ぶような紙飛行機の無邪気さとは裏腹に、どこか儚ささえ垣間見えるようで、隼人は瞬き一つせずにその様子を見守っていた。
「そんな量の画用紙、この学校にあったんですね」
湊の周りを埋め尽くしている白は、まるで花でも咲いているようだ。まだ折られていない真っ白な画用紙を拾い上げて問うと、湊は含みのある笑みを浮かべて両手に紙飛行機を持ち、同時に飛ばす。
「ふっふっふっ……俺、実は超能力が使えるんよ。好きなものを好きなだけ出せる、ってわけ」
「ふは、確かに湊さんならできそうですね」
冗談めいた口調で告げる湊にくすりと笑って乗ってやると、湊は嬉しそうにケラケラと笑った。隼人は画用紙を掻き分けて湊の隣に腰を下ろし、一枚画用紙を取って幼い頃の記憶を辿りながら紙飛行機を折っていく。掠れてしまった記憶では上手く手が動かなくて、隼人が仕上げたのは少しだけ不格好な紙飛行機だった。納得のいかぬような表情で紙飛行機を摘まみ上げ、どうだ、と湊の方をちらと見遣ると、どこか寂しそうな表情を浮かべていた。ただ、それは一瞬だけの話で。すぐに、今までのような底知れなさを含めた笑いに変わって、隼人の作った紙飛行機を興味あり気に眺めていた。
「下手やなぁ、お前」
「……湊さんが上手いだけですよ」
「ね、ほら、ハヤト。貸して」
横から覗き込んでいた湊が、隼人の手の中にあった紙飛行機を奪い取って、軽く手直しをする。見た目の不格好さは直らなかったものの、飛ぶ様子を全く見せない紙飛行機のソレではなくなっていた。
「よし、俺の最高傑作と飛ばそ」
「湊さんの?」
「そ。どっちが長く飛ぶか勝負!」
「絶対湊さんが勝つじゃん」
「やってみなきゃ分かんないやろ、な?」
ただ単に、隼人と紙飛行機で遊びたいだけなのだろう。一つ上の先輩に、どこか子供らしいところを見付けたのが何だか嬉しくって、隼人は流されるがままに一部自作の紙飛行機を手に取った。
「「せーの」」
まるで、今のこの時間だけ子どもに戻ったような気分だった。二人で声を合わせて、同時に紙飛行機を遠く、遠くへと飛ばす。湊の紙飛行機の方が見た目的にも遠く飛びそうなものなのだけれど、隼人のものも負けてはいない。やがて、どうしてか、隼人の作った紙飛行機の方がまだ空を飛んでいる内に、湊の紙飛行機がすとん、と地面に落ちてしまった。
「俺のが先に落ちちゃった」
「落ちちゃいましたね」
「え~、結構自信あったんやけどなぁ」
何が悪かったんやろ、と湊は飽きかけていたのを払拭して紙飛行機と向き合い始める。湊の紙飛行機に置いて行かれてからはスピードは落ちたものの、隼人の紙飛行機はずっと、ずっと、長く飛び続けていた。早く落ちた湊と、飛び続ける隼人。その後、何度勝負しても同じ結果ばかりが残っていた。隼人と湊は、昼休みの終わるチャイムが鳴り響くまで、子どもの頃に戻ったかのように紙飛行機を飛ばし続けていた。
放課後。家路を辿ろうとした隼人が、紙飛行機の落下地点であろう生徒玄関を少しの間だけ捜索したのだったが、アレだけ飛ばした筈の紙飛行機は、ただの一機も見つかることはなかった。
ビニール袋を手に引っ提げて、隼人は屋上の扉の前に立っていた。これを屋上に持っていくかはだいぶ迷ったのだけれど、と隼人は購買で購入したアイスの入った袋をがさりと揺らす。クーラーのガンガンに効いた教室が苦手なのだという湊は、恐らく冷たかったり寒かったりが苦手なのだろう。夏の今でアレなのならば、冬はどう生きているのか気になるが、今の問題はそれではない。湊はアイスを食べることができるのだろうか。隼人でさえ袋を持っていても冷気を感じるくらいだ。こうして迷っているのに、どうしてアイスを買ってしまったのか、というと。購買でぽつんと売れ残っていたぶどう味のシャーベットが、どうにも屋上でポツンと寝ていた湊と重なって。何も考えずに見た瞬間、思わず買ってしまったのだ。湊が断ったら教室に戻った後に食べよう、なんて考えて隼人は屋上に通じる扉を開いた。瞬間、身を直接灼くような光が襲い掛かって来る。今日はいつもよりずっと暑くって、その場に立っているだけでも額に汗が伝うほどだ。ビニール袋の音をがさがさと立てながら湊のいるであろう場所に向かうと、珍しく湊が顔を手で仰ぎながら寝転がっていた。
「めちゃ暑いなぁ、今日」
「ニュースでも話題になってたくらいですからね」
「そうなん? こんな気温、俺でも溶けちゃいそうやわ」
湊の言葉を聞いて、隼人は少しだけ安心したような表情を見せる。買ってきたアイスを一人で食べる羽目にはならなそうだったからだ。寝転がっている湊にも見えやすいようにビニール袋から取り出したアイスを掲げ、隼人は悪戯気に笑う。涼し気なパッケージを視界に入れた湊は、がばりと起き上がって目を輝かせた。
「アイス⁉」
「購買で買ってきたんです」
二つに割るタイプのアイスを湊の隣に腰を下ろして開ける。二つ飛び出ている棒を持って少し力を入れると、パキッと軽快な音を立ててアイスが二つに割れた。片方だけ大きくなってしまった方を、隼人は湊に差し出す。それが当然であるかのように湊は受け取り、待ちきれないといった様子でアイスを口に含んだ。隼人もそれに倣ってアイスを齧ると、シャク、なんて心地の良い音が鳴って涼しさが一気に口内に広がる。
「美味ぁ」
「ね、美味しいですね。寒くなってないですか?」
「俺そんなか弱くないで」
ケラケラ、といつものような笑い方じゃなくって、くすりと笑うような。夏に吹くカラッ、とした風のような、そんな笑い方。なのに、どうしてだろうか。湊が目の前にいないような、すぐに消えてしまいそうな感覚に陥ってしまって、隼人がぴたりと止まってしまう。
「ハヤト?」
動きを止めていた隼人の頬に、ぴた、と湊の手が当てられる。暑さで倒れてしまいそうになっていないか、確認したかったのだろう。それに反応を返すよりも、隼人は驚いて思わず湊の手を掴んでしまった。冷たい。冷たすぎるのだ。湊の、手が。まるで先まで食べていた、アイスのように。いつもよりも高い気温に隼人が参って、体温が上がっているわけではない。本当に、何の偽りもなく。氷のように湊の手が冷えているのである。まるで、血の通うことのない人形のように。
「な、んで」
「うん?」
「なんで、そんな冷たい、んですか」
冷たい? と自覚のないように湊は首を傾げる。それから一拍ほど間を置いて、隼人が何を言いたいのか理解した湊は、どこか誤魔化すようにして小さな笑みを口元に浮かべた。ひとりぼっちなのを寂しがるような、迷子の子供のような笑みに、隼人は思わず息を呑んでしまう。しかし、その表情が湊の整った顔に浮べられたのは先程と同じで、一瞬で。すぐにいつもの表情に戻って、湊は一口分だけ残っていたアイスを食べきっていた。
「言ったやん、俺元からこういう体質なの」
「けど、」
「そんな心配せんでも、俺はここにいるのに」
「……分かってますって」
誤魔化そうとする湊に、拗ねたような表情を隼人が浮かべてやると湊は楽しそうに笑って、まるで近所の弟でも扱うかのように湊が隼人の頭に触れ、わしゃわしゃと弄った。
髪を弄る際、何度か冷たい手が隼人の耳に触れる。やはり確かな生気のようなものは一切感じることができなくって、隼人は言葉には表せぬどうしようもない不安に、駆られたのであった。
夢を見た。あまりに静かな、夢を。夢の中で、隼人は、隼人ではなかった。別の、誰かであった。ふらりとした足取りのまま、一段、一段、階段を登っていく。乳白色の色をした壁には、見覚えしかない。ここは、学校だった。隼人の意思は伴わないまま、ゆっくりと、しかし確かに足は進んでいく。ぱた、ぱた、という音だけが、静かに響いていた。隼人は、ただ見ていることしか、できなくて。自分が誰なのか、どうしてこんな夢を見ているのか分からない。これが、本当に夢なのかも、分からない。彷徨うように、けれどとある場所に導かれるようにして足が進む。自分のものか、それとも他の誰かの物ものか。酷く、心臓が音を立てるように跳ねていた。どこに向かっているのか、踊り場に辿り着いた時点で気が付いてしまう。目の前には、見慣れた扉があったからだ。キィ、と静かに扉が開かれる。夏の爽やかな風が吹き抜けた瞬間、鼓動は落ち着いて、リラックスをし始める。そのまま、足は進んで。一歩、また、一歩。影のある場所ではなく、柵の方へ、向かっていく。ただ単に、屋上から景色を見るだけではないことは、隼人にでもわかった。脳が、急激に冷めていくのを感じる。いくら止めようとしとも、意思に逆らって動く足というものはそう簡単に止まりはしない。ぱた、ぱた。青空の下、スリッパが地面を叩く音だけが、響いている。ほんの少し躊躇うようにして、それから。スリッパを脱いだ足で、柵を乗り越えた。ひゅうと、夏の風が吹く。自然と、鼓動は落ち着いていた。階段を登っていた時よりも、ずっと、ずっと。くるりと身体が反転して、屋上の扉が視界に入ったかと思えば、突然青が飛び込んできた。雲一つない青空。キャンパスに、絵の具を一気に広げたような、そんな。風が下から吹き上がる。瞳を完全に閉じる前、最後に見たのは風に靡く太陽に反射してきらりと光る銀白色だった。
「ッ……‼」
ざぶん、とまるで無理矢理に水から引き揚げられたかのようにして意識が、浮上する。力が入っていたのか、ベッドがぎしりと軋んだ。まだ頭がぼんやりとしたまま、頬を、手を、腕を、足を触る。あぁ、夢だったのだ、と。ようやくそこで実感して、深く、深く息を吐いた。全身に、汗をかいていて一気に不快感が襲い掛かって来る。このまま学校に行くのも、何だか嫌で母親に断りを入れてからシャワーを浴びた。どうして、あんな夢を見たのか、分からない。適当に髪をセットしながら、深い思考に身を沈める。まるで、誰かの記憶をそのまま再生したかのようだった。誰のものかは分からないけれど、分かりたくは、ないけれど。最後に、起きる前に見たあの色が、どうにも忘れられなくて。ずん、と沈んだ気分のままに家を出る。
一日を友人たちと過ごせども、今朝の夢のことだけは妙に忘れることができなかった。今日だけは、どうにも屋上に行く気分には、なれなかったのである。
「湊さん」
今日は、青が少ない。晴れてはいるものの、大きな雲が、空を覆っているのだ。青を隠した雲をじぃ、と目で追うように眺めていた湊は、隼人の訪れに気が付いてひら、と手を振った。
「一日振りやね、ハヤト」
「はい、一日振りですね」
隼人はいつものようにして湊の横に腰を下ろす。なんてことのない日常、なんの、変哲もないような。一日置いて落ち着いたものの、見た夢の内容が、酷く気になって仕方がない。普段通り、普段通りと自分に言い聞かせようとしても、柵の方ばかりに視線が向かってしまう。言葉の少ない隼人に、湊が首を傾げて問うた。
「どうしたん、ハヤト。体調でも悪い?」
瞬間、ふわりと風が吹く。風に従うようにして、湊の髪が靡いた。
「あ、」
気付く。気付いて、しまう。どうしようもなく、理解してしまう。夢の、髪の持ち主は。
「ハヤト?」
ふらりと、隼人の身体が傾く。力が抜けて、地面に倒れた事実に隼人が気が付いたのは、心配そうに隼人のことを覗き込む湊の顔が見えた時だった。その時にはもう、意識は落ちかけていたのだったが。
「……気付かれたかぁ」
湊のその言葉が夢か、現か。ぷちりと糸の切れるようにして意識を失った隼人には分からなかった。
ぱちり、と隼人は目を開く。見慣れない白い天井が視界を支配していた。一体何があったのだったか、と思い出そうと痛む頭を押さえながらいつの間にか寝ていたベッドから起き上がる。ベッド、と言っても家のベッドではない。白一色のベッド、ここは。
「保健室……?」
思わずそうやって声を放つと、奥の方からカタン、と小さく何か物を置くような音がした。隼人はベッドの下に置いてあったスリッパを履いて、仕切りになっているカーテンを開く。やはり想像通り隼人は保健室で寝ていて、先の物音は養護教諭がコーヒーカップを机に置く音だったようだ。
「大丈夫? 覚えてるかな、屋上に続く階段で倒れていたのを運ばれきたんだ」
その親しみの持ちやすさから学年問わず人気を誇っている養護教諭は、まだ戸惑ったような表情を浮かべている隼人に声を掛ける。養護教諭の言葉にどうも違和感があって、隼人はぱちくりと瞳を瞬かせた。確か、屋上で倒れた筈で、それなのにどうして階段で倒れていたのか。
「俺を、運んだのは……?」
「君と同じクラスの子だよ。授業が始まってもやって来ない君を心配して探していたらしくてね」
あの子、凄い汗をかいていたから後でお礼を言ってあげてね。と告げる養護教諭に隼人はこくりと頷く。湊は、どうなったのだろうか。養護教諭に勧められて、隼人はベッド近くにある小さな机の椅子に腰掛けた。
「軽い熱中症だね。最近は暑いからあまり屋上に行かないようにするんだよ」
「はい」
その言葉を守ることはできなそうだ、と思いつつも返事をする。屋上に行って、湊と会わなければいけない気がするのだ。拒まれる可能性があるのはほんの少し怖いけれど、顔を合わせて話さねばならない気がする。
「あと授業は二十分だね。あと一限残ってるけど、次の授業は出れそう?」
「次の授業なら、まぁ」
出れます、と隼人が肯定を示すと偉いじゃないか、と小さな子供の相手でもしているかのように養護教諭は告げる。この学校に来る前──と言っても十数年前の話だ──は、小学校の養護教諭をしていたようで、その癖が今になっても抜けないらしいのだ。隼人の他には保健室に誰もおらず、静かな空間で養護教諭は隼人と話をすることに決めたらしい。コーヒーを片手に、養護教諭はとりとめのない話を隼人に投げかけていく。受け取ったスポーツドリンクを飲みながら、話が途切れたところで。隼人は一つの小さな希望と、認めたくはない確信を持って声を出した。
「湊、って生徒知ってますか?」
「湊?」
「三年の、一個上の先輩なんですけど」
隼人の問いに、養護教諭はうぅんと唸って考え込む素振りを見せる。
「一応全学年の生徒の名前は憶えているけど、湊って子はいたかなぁ……? 苗字も聞いていい?」
「……不破。不破湊さんです」
不破湊。そう聞いた瞬間、養護教諭はぱちくりと瞳を瞬かせる。まるで、心当たりのあるような反応に、隼人は今にも椅子から立ち上がりそうになってしまった。
「知ってるの?」
「知ってるの……って、先輩じゃ、ないんですか?」
「不破湊さんは、七年前にこの学校に居た生徒だよ」
七年前の生徒。それが自然化のようにして告げられたものだから、今度は隼人が目を瞬かせる番だった。だって、湊にはさっき会って、会ったばかりで。
「七年前」
「そう、七年前。だいぶやんちゃな子、だったんだよ」
そこで言葉を区切った養護教諭は、少し躊躇うようにして視線を彷徨わせた。その様子に、養護教諭が紡ごうとしている次の言葉を察してしまった隼人は、嘘であってくれ、勘違いであってくれ、と心内で強く、強く願いながら口を開いた。
「そ、の人は、今」
何をしているんですか。最後の言葉は、声には出なかった。声が震える。氷のように冷たい湊の体温が手の中に蘇ってくるようだった。
夏でもずっと長袖で、同じ場所に一日たりとて変わらず留まっていて、それで。人肌なんてものを感じさせないような冷たい肌。現実的ではない。思い浮かんでいる考えの中で一番現実的ではないのだけれど。すべての不可能を消去して、最後に残ったものは、信じたくない程に奇妙なもので。
「六年前に、ね」
それ以上は語られることはなかったけれど。それは、隼人の考えを肯定する一番の答えだった。
(一体、何者なんですか)
それ以降、養護教諭の話は隼人の耳に一言も入ってくることはなかった。
「来ちゃったんだ、ハヤト」
隼人が屋上で倒れた翌日。脳がごちゃごちゃになってしまう程の情報が交差しているのを何とか受け止めた隼人は、変わらず屋上に訪れていた。六年前に亡くなったという生徒、不破湊は、今もこうして隼人の目の前に存在している。湊の肌に触れた、共にアイスを食べた。まるで人間とさして変わりのないように見える湊は、とっくの昔に命を落としている筈だというのに。こうして、隼人の前だけに姿を現している。
「あなたは、もうとっくの昔に」
震える声で問う。どこかで合唱をしている蝉の声に負けてしまいそうなほどの、小さな声だった。とっくの昔に。その、次の言葉が口を出ない。言いたくない、けれど。どうしようもない、事実で。
「死んでしまって、いるんですね」
確信めいたその問い。養護教諭から湊の特徴を聞いたわけではない。けれど
けれども。あの日見た夢の内容と、養護教諭の口ごもり方から、全て察してしまって。真実を少しずつ解いていくような隼人に、湊は小さな笑みを浮かべた。今まで見てきたかのような、揶揄いの存分に含まれるような、夏の昼に浮かぶ太陽の如く笑みではない。それこそ、病みに包まれた夜を淡く照らすような、月の。
「……うん、そう。俺はね、六年前に死んじゃった。ここから、飛び降りて」
湊の口から放たれたのは、隼人の思い浮かべた最悪と同じであった。
「なんで気付いたの?」
「養護教諭に、あなたの名前を聞いて」
「あ、そっか。先生に聞いちゃダメって言っとらんかったなぁ」
くすりと笑う。やっちゃった、なんて軽い言葉が、紡がれる。ぐぐぅ、と伸びをした湊は、隼人の隣から立ち上がって、ゆっくりと歩き出す。
「色々、あったんよ。虐められてたわけじゃないで? むしろみんな優しかった。……俺はさ、高二の時に事故で両親を亡くした」
それから、なんか、気力を失っちゃって。そのまま。
「俺に優しくしてくれたみんなには、感謝しとるよ。けどね、どうしても虚しくなっちゃって」
酷い人間やろ。そう告げる湊に、隼人は言葉を紡がないままふるふると首を横に振る。先輩が、もう死んでしまっているなんて。酷い事実だけれど、あまりに現実的ではないけれど。納得できない訳ではない。
「辛いだろう、悲しいだろう。そうやって慰めてくれる子たちには、優しい父さんや母さんがおるんやって考えると。虚しくなる。俺のこと、何も分からん癖に。俺だって、会いたいのに。会って、色んなこと言いたいのに。今日の学校は楽しかった、とか、帰りに蝉が鳴き始めていた、とか」
まるで、濁流のようだった。川が止まらないまま流れるようにして、湊の口から言葉が漏れ出ていく。隼人のことを見ない湊の表情は見えない。思わず、隼人は立ち上がって足を進めようとしたけれど、それを咎めるように湊は言葉を紡いでいく。
「会いたい、って思ったら止められなかった。気が付いたら、屋上に居て空を見上げてた。飛行機雲が一個あるだけの、青空。その奥に、二人ともいるのかなって考えたらさ」
勝手に足が進んでた。そう言って、湊は思い出すように空を見上げた。青が広がる、穢れの一切ない空。綺麗で、けれど、どこまでも無責任で。
「……よく覚えてる。綺麗な空、真っ白なキャンパスに青だけを広げたような綺麗な空。それが最期の景色やった。そうやって俺は、死んじゃった」
何とでもないように告げる。まるで、今日の夕飯の献立を告げるような、声色で。
「でもさ、なぁんか心残りがあったみたいで」
あのさ。そう言って、悪戯っ子のように湊が笑ったのが聞こえた。
「俺、俺の事情とかなぁんも知らん奴とバカなことしたかった」
「……」
「そりゃ俺とバカなことしてた奴は数人おったよ。けどさ、父さんも母さんもいなくなってから、皆俺に気遣うようになり始めて。……それが、すごい嫌やった。皆とバカみたいにはしゃぎたかった。辛いこと、忘れられるくらい」
それだけが、心残りで。
「出会ってから何日だっけ?」
「……七日、ですよ」
「七日か。そう、たったの七日間やったけどさ、」
歩いていた湊は足を止めた。もうすぐそこに、屋上の柵が迫っていた。嫌な予感がして、隼人は駆け出す。駆け出した、けれど。
「お前はさ、俺の一番の友達や」
「湊さん、まって」
「でもさぁ、俺生きてないんだよ。お前を此処で縛るわけにはいかないの」
けどさ。ほんの少し言いにくそうに、反省している素振りは見せないような表情で、湊は笑った。
「俺ね、ハヤトに俺のこと覚えてて欲しい。忘れないでいて欲しい。……俺ってさァ、酷い奴だからさ」
身を乗り出す。夢で見た景色を、三人称視点で見ているようだった。
「俺のこと、覚えててくれるやんな?」
「ずっと、ずっと覚えていますから! だから、はやく、戻って」
「ン、ありがと」
空を蹴るようにして、飛び出す。もう死んでしまっている存在に重力があるか、どうかは分からないけれど。まるであの日のように、一緒に飛ばした紙飛行機のように、力を失って湊の身体は落ちて行く。
「ず~っと約束守れよ! ハヤト!!」
最高で、最悪の言葉を遺して。まるで空気の中に霧散するように、湊の身体は消えた。消えて、しまった。柵にガンッ、としがみつく。もう何も見えない。どれだけ身を乗り出して見下ろそうとも、何も見えなかった。地面しか、残っていない。
「俺だって、貴方とバカみたいなことやりたいって」
言いたかった。言わせてくれなかった。手のひらに爪が食い込むくらいに、握り込んで、屋上の床に、倒れるようにして座り込む。
「ひどい、ひと」
最期の夏を、鮮やかなまでに奪い取って湊は姿を消してしまった。まるで、夏の太陽の光に攫われてしまったかのように、隼人の前から姿を消した。光景と共に、一生忘れられないであろう思い出を置き去りにして。屋上に残されたのは、崩れ落ちた隼人だけで。
──いつの間にか、七日目を迎えた蝉の合唱は、ぴたりと止んでいた。