天国までのまがり道 バースデーケーキの起源は、古代ギリシャの時代まで遡る。月の女神アルテミスの誕生を祝うため、人々は蜂蜜たっぷりの丸いケーキを焼き、一本のろうそくを立てた。ろうそくの火は月の灯りを示しており、願いを込めて吹き消すという行為は、現代の文化にも通じるものがある。のちに、その文化は十三世紀のドイツに渡り、やがて様々な国へと広がった、らしい。
どうして王九がそんなことを知っているかというと、今さっき調べたからだ。スマートフォンとは驚くほどに便利な道具で、知らないことがあれば親指一本で何でも検索できてしまう。店の検索も同じことで、マップを開いて検索タブに〝ケーキ屋〟と打ち込めば、大学から歩いて行ける距離にある候補がこれでもかというほど出てくる。さすがの王九も困惑した。候補というのは無さすぎても困るし、ありすぎても困る。
王九は評価を見て、値段を確認し、気になる店名をレジュメの裏に書き連ねた。午後の授業が終わったばかりの時間帯であり、教室で個人的な作業に従事しようとも、それを咎める人間はいない。王九は「〜……」と伸びをして、スマートフォンの画面に視線を落とした。実はケーキなど買ったことがなく、そもそも既製品を食べたこともない。母親は手作りにこだわる少し面倒な人間だったが、彼女がつくるケーキは確かに美味しかった。スポンジがふわふわで、生クリームの甘ったるさも控えめで、生地の間に薄く塗られた苺ジャムの酸味もちょうど良い。王九の誕生日は、いつも同じ味だった。それが変わったのは大学に進学し、下宿を始めた頃で、下宿先の主人は王九の誕生日前後になると、必ず馬拉糕をくれた。それも、ふかふかで、もっちりしていて、どこか懐かしい美味しさだった。
だから、ケーキ屋というのは、何を基準に決めたらいいのか分からない。見た目か。味か。値段か。立地か。それとも、なんだ。勘か。考えるのが面倒になり、馬拉糕でもいいかと思い始めた辺りで、誰かが王九の肩をポンと叩いた。
「アニキじゃん。何してんの?」
同期の女だ。後頭部を短く刈り込んだショートヘアの女は、ゼブラ柄のゆったりとしたバルーンスリーブを揺らしながら、王九に軽く手を挙げて挨拶する。
「てめぇのアニキじゃねえよ」
この世界で王九のことを兄貴と呼ぶのは、今のところ蛙仔だけだ。偶然二人で歩いているところを目撃され、ついでに兄貴と呼ぶところまで現認されたことで、何故かアニキというあだ名だと勘違いされてしまった。それどころか、学内では少し浮いた存在である王九のことを「アニキ」と呼び、臆することなく近づいてくるのだから、変に度胸のある女だと思う。
彼女はノミと刃とんぼを握る豆だらけの手で、画面に映し出された店をトンと指さした。
「ケーキ買うの? ここ、めっちゃ美味いよ」
「どこだ」
「これ。イルクオーレっていう店」
「バースデーケーキ売ってるか?」
「うーん……予約は必須だけど、たまにショーケースに飾ってあるの売ってくれる時もある」
忙しなくメモをとる王九を眺めていた女が、「誰かの誕生日?」と問いかける。
「……知り合いの」
「あ、わかった。この前のデカいお兄さん。なに、いつ? せっかくなら予約しようよ」
「一昨日」
「おとと……終わってんじゃん」
「うるせえな。いいだろ別に……いつだって」
蛙仔の誕生日を知ったのが今朝なのだから、今さら何を言っても遅いのだ。過ぎてしまったものは仕方がない。バースデーケーキなんて、誕生日の次の日も、余ればまた次の日も食べるのだし、結局は同じことだ。
「アニキの誕生日っていつ?」
「半年先」
「なら、プレゼントも買えば? お返し期待して、恩着せがましいやつ」
王九は机に広げていたレジュメを雑にかき集めると、ファイルにまとめてトートバッグに突っ込んだ。気に入っている画家の個展で購入したトートバッグは、デザインもサイズ感も丁度良いので使い回している。古くからの知り合いには「カバン持つのか」や「手ぶらのイメージ」と言われるが、知ったことではない。何を言われようとも、思うことは一つだ。価値観をアップデートしろ、馬鹿共め。
「なに買う?」
「買わない。アイツが欲しいもんなんて知らねえし、ケーキがありゃあ充分だろ」
「え〜……それじゃあ、うちのチビ呼ぶ? アドバイザーとして」
「呼ばんでいい。ややこしくなる」
「男子の意見欲しくない?」
「いらん。十歳のガキだろ」
バッグを肩にかけて立ち上がった。王九が教室を出ると、同期がその後ろに続く。同期が呼び出そうとしているのはかつて殺しあった男で、そいつは今、この女の親戚として転生していた。記憶があるのか無いのか不明だが、王九に会いたがっているという話を聞くに、記憶持ちなのかもしれない。最近は玩具の小刀――なんとなく匕首を想起させる――を欲しがっているらしく、再会した瞬間に殺意高めで来られても困るので、因縁のある子供に会いたいとは思わなかった。
「大人顔負けのオシャレさんなのに」
店までの案内表示を確認しながら、マップの指示にしたがって歩く。大学から徒歩十五分程度の場所にある店は、女子ウケや写真映えを狙った派手なケーキではなく、シンプルなデザインを売りにしているようだ。口コミも悪くない。
「アニキも髪切って、髭剃ったら? こんなチンピラみたいな見た目の学生いないよ。うーん……私の見立てでは、爽やかなハンサムお兄さんになる気がする」
「それじゃあ〝らしさ〟がねえだろ」
「なに、らしさって」
「分かるやつには分かんだよ。てめえんとこのクソガキにでも聞いてみな」
髪も髭も、まだ伸ばしている最中で、らしさと呼ぶには程遠かったが、少しずつ〝あの頃〟の自分に近づいてきたと思う。王九は後ろでひとつに結い上げた毛先を弄りながら、左手を顎にすべらせた。ざりざり、ちくちくした感触が手のひらに伝わってくる。過去は過去、今は今。外見を〝あの頃〟に合わせる必要はないと分かっているが、それでも、王九のアイデンティティ、ルーツはいまだ果欄(あそこ)にあるのだ。
「アニキ?」
「……なんだよ。ついてくんな」
「いいじゃん、ケチ。だって暇なんだもん。どんなケーキ買うのか見たいし」
「見せもんじゃない。金とんぞ」
右手のひらを相手に差し出し、指をくいくいと曲げる。
「うっわぁ、あこぎな商売」
「言ってろ」
大きな商業ビルを目印に歩き、その裏手のやや入り組んだ細道を行くと、件のケーキ屋が姿を現した。一見すると、洋風の小さな家だ。扉の横にメニューボードが立てかけられていなければ、気付かずに素通りしていただろう。扉にはオープンの木札がかけられ、カタカタと風に揺れている。
王九は一瞬立ち止まって、ドアノブに手を伸ばした。カランカランとベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
店員の声には品があり、揃いの制服は洗練されたデザインだ。店の中は香ばしくて甘い匂いに満たされている。暖色の明かりと、ゆったりとしたオルゴールが、店内の洒落た雰囲気を引き立たせていた。前世から数えても、まったく縁のない場所と言っていい。王九は少し気まずい顔をして、足を一歩踏み出した。袖口や裾を絵の具で汚した白いツナギは場違いも甚だしいが、店員は気にしたふうもなく、「ゆっくりご覧ください」とにこやかな対応だ。
緊張気味に視線をすべらせる。正面のショーケースにはカットされたケーキが、壁沿いには焼き菓子が並んでいた。しかし、所狭しというわけではなく、ところどころ列に抜けがある。視線だけを動かして、ホールケーキを探した。ロールケーキ、パウンドケーキのコーナーはあるが、丸い形は見当たらない。台座だけだ。――つまり、ホールケーキは完売していた。
「なかったかぁ。まあ、五時半過ぎてるし……バラ売りのやつ、六個買ってホールにしちゃえば?」
「バースデーケーキなのか、それ」
「大丈夫大丈夫。大事なのは気持ちだから」
気持ち。王九は首をかしげながらショーケースを眺めた。シンプルながらも華やかなケーキばかりだ。見た目で味の想像がつくものは、片手で数えられるほどしかない。さて、どれにしよう。
まず一つ目は、ショートケーキ。バースデーケーキといえばこれだ。雪のように白い生クリームのうえに、ちょこんと赤い苺が乗っている。二番手はチョコレートケーキ。オペラという名称らしい。とろりと柔らかそうな、艶のあるチョコでコーティングされている。アクセントはラム酒。まあまあ良さそうだ。それからフルーツタルト。並べるには他と比べて高さが足りないが、まあ、円を描ければ問題ない。たっぷりと敷き詰められたフルーツが新鮮なのは、一目見て分かる。次、スフレチーズ。ふわふわしていて、なんとなく馬拉糕に似ているから選んだ。五つ目、シャルロット。木苺のムースという説明書きに惹かれた。最後、ウィークエンドシトロン。選出理由、見た目が洒落ていた。以上。
とまあ、このように感覚でケーキを選び終えた王九は、手早く会計を済ませて外に出た。追いかけてきた同期が「センスいいね」と王九を褒める。隣に並んで、自身の手に持った紙袋をかさりと揺らした。
「私もクッキー買っちゃった」
だからなんだ、と思いつつ、王九はピタリと足を止める。
「お前、家どっちだ」
「あっち」
「俺はこっち。じゃあな」
「あれ、送ってく流れじゃない?」
「流れじゃねえだろ」
「はは、確かに。じゃあまた……学校で」
去り際に「喜んでくれるといいね」と言って、同期の女は駅の方向に歩いて行った。その後ろ姿を眺めていた王九は、背中が消えたところで踵を返した。ここから蛙仔の家まで三十分かかる。バスに乗るか、タクシーに乗るか迷って、最終的に歩くことに決めた。ケーキを購入してすぐに向かうのは、渡すのを楽しみにしているみたいで、なんとなく気恥しかった。このまま歩けば、到着予定は六時半過ぎ。蛙仔も帰宅している頃だろう。
片手に箱をぶら下げてフラフラと進む。王九は視線を手元に移した。店名も入ってない白くて無地の箱だが、これはケーキの箱だと、誰が見てもひと目で分かる。なんとも不思議なデザインだ。蛙仔もすぐに気づくだろうか。気づいて、そして、なんと言うだろう。喜ぶのか、驚くのか、特に反応は無いのか。まったく想像がつかない。
考え事をしていた王九の肩に、ドンと誰かがぶつかった。大きな舌打ちが聞こえてきて、顔を上げる。正面から歩いてきた柄の悪い連中が、無言で足を止めた王九をたちまち取り囲んだ。全部で五人いる。そいつらは「ぶつかってんじゃねぇぞ」と口々に呟き、苛立ちをぶつけるように靴底をアスファルトに擦りつけた。煙草、サングラス、派手な服装。かつての自分たちを彷彿とさせる格好だが、いまいち垢抜けず、野暮ったい。人通りの少ない道は、こちらの様子を訝しげに見ていた若者二人がそそくさと逃げ出したことで、急に閑散とした雰囲気になった。
「慰謝料として金目のもん置いてけや」
今世では普通を体現して生きているはずなのに、こうして時々、素行不良の人間に絡まれることがある。絡まれ過ぎたせいで、対応についても手馴れたものだ。王九は静かに肺を膨らませた。アンガーマネジメント。六秒間の深呼吸。一九八○年代とは違い、今の王九は一般人である。品行方正でないにしろ〝まとも〟な価値観で生きることを心がけているし、そしてなにより、問題を起こして下宿先の主人にドヤされることを嫌っていた。
一秒。
「ケーキなんか買いやがって」
二秒。
ケーキの箱がもぎ取られる。
三秒。
勢いづいた白い箱が宙を舞い、かたい地面に吸い込まれた。ぐしゃりと、叩きつけられる音がする。
四秒。
気づいた時には、王九の爪先が男の頬にめり込んでいた。男は「ぐえっ」と苦しそうな悲鳴をあげ、もんどりうって仰向けにひっくり返る。男の口から飛び出した歯がコツンコツンとアスファルトを転がり、排水溝に落ちた。
「ー……ったくよぉ……めんどくせぇ……」
上着の袖をまくり、ポキリと首を鳴らす。
「全員まとめてかかって来いよ。一分あれば充分だ」
結論から言うと、三十秒で事は済んだ。服の埃を払う王九の周りには、顔面を血だらけにした男たちが横たわっている。王九は今も昔もべらぼうに強かった。物事の分別がつかない子供の頃は、近所の公園で絡んできた同世代のガキをぶん殴って泣かせていたし、身体能力も高かったから、近道と称して塀や屋根をぴょんぴょん飛び回っていた。習わずとも、理解していた。硬気功が使えなくとも、喧嘩のやり方だけは魂に刻み込まれている。
そういうわけで王九の体には傷ひとつ付かなかったが、その代わりに、白い箱は潰れていた。箱を拾い上げて、上下左右満遍なく観察する。転がったせいで四隅はひしゃげているし、取っ手部分も外れている。中身は……確認せずとも分かる。王九は箱を右側で抱え込み、帰路を急いだ。たかが三十秒、されど三十秒。予定が狂えばそれは立派なタイムロスである。
もうすぐそこに、蛙仔のアパートが見えた。築三十年になる古い建物の外階段を勢いよく駆け上がる。錆びた鉄がキシキシと歪な音を立てた。二階の突き当たりまで足を進め、胸ポケットに入れていた合鍵を指先で探り当てる。それを取り出して、鍵穴に差し込み、ぐるりと回した。錠が外れる軽快な音が響く。王九は、蛙仔がすでに帰っているつもりで扉を開けたが、部屋の中が真っ暗だったことに驚いて、半開きで動きを止めた。時刻は六時半過ぎ。建設現場で働く蛙仔の帰宅時間はまちまちだったが、今日は夕方に終わると言っていたので、もう家にいても良い頃合だ。しかし室内は真っ暗闇で、キッチン、ベッド、テーブルと椅子が詰め込まれたワンルームの中に蛙仔の姿は――いた。予想外の状態にギョッとする。壁とベッドの隙間に大きな体を無理くり押しこんで、静かに座っていた。
王九は手探りで明かりをつけ、頭に疑問符を浮かべながら蛙仔を見下ろした。シンプルなTシャツとズボンは、今朝、仕事に行ったときの格好だ。帰ってきてすぐ隙間に埋まったのだろうか。
「……なにやってんだ、お前」
蛙仔は王九を見上げて、グッと下唇を噛んだ。なにか言いたげな表情だ。日に焼けた顔はぐっしょりと湿っている。雨でも降ったのか? いや、今日は一日、呆れるくらいの晴天だった。それでは、なぜ。眉をひそめる王九に、蛙仔がポツリと答えを告げた。
「九兄貴が女と一緒に歩いてたので」
筋肉質な巨体を縮こまらせて、めそめそと泣き言をこぼす。あの時。あの狭間の世界で言葉を交わし、この世で再会してから、この男は感情というものをより素直に吐露するようになった。言いたいことはハッキリ言うし、嫌なことは嫌だと言うし、好きなことは好きだと言う。しかし、どうしたことか。王九に対する根っこの感情だけはいつもぼやかされ、言葉は遠回りした挙句、綺麗に濾過され、形を失った状態で辿り着く。
「もう……そんな歳なのかと思ったら、おれ、」
何が言いたいのか分からず、王九は苛立ちを蛙仔にぶつけた。反射的に飛び出た足が、たくましい肩を蹴る。
「ジジくせぇな。お前まだ三十二だろ」
強すぎる体幹のせいでビクともしない。
「……なんで俺の年齢知ってるんですか?」
蛙仔が目を丸くした。目の縁が赤い。何故だかそれにムカついて、かたい頬をぐいと抓る。「いでで」という声も無視して、ぐいぐい捻る。
「免許みた」
「いつの間に……」
少しばかり金を借りようと思ったことは言わなかった。どっちみち誕生日に気を取られて金を拝借しなかったので、特に問題は起きていない。ノーカンだ。知らぬが仏、言わぬが花。王九は口をもにょもにょさせる蛙仔の顔面に、抱えていた箱を押し付けた。
「ケーキ買いに行ったんだよ。ほら、やる」
「……ケーキ。え、あの女は」
大きな手が持つことによって、相対的に箱が小さく見える。王九は自分の手と蛙仔の手を見比べた。現場で働く男の手に比べると、ペン胼胝(だこ)があるだけで、そこまでのゴツさはない。
「店、教えてもらった」
「ああ〜……なるほど。じゃあ俺の勘違い……」
「何を勘違いすんだよ」
「気にせんで下さい……情けない気持ちになるんで……」
蛙仔が手に持った箱を上から下からぐるぐると眺めた。その歪さに気づいたのか、不思議そうな顔のまま不器用にシールを剥がし、蓋を開ける。
「ぐっ………ちゃぐちゃなんすけど、これ」
「……まあ、そういうこともあるわな」
「ええ……?」
王九は、蛙仔の前にしゃがんで中を覗き込んだ。予想した通り、しっちゃかめっちゃかだ。唯一無事に見えるのはフルーツタルトだが、ショートケーキの生クリームがべっとりと付着しているので、無傷とは言い難い。あとはもう、分離したり合体したりと、原型を留めているものは無かった。どう足掻いても円形に並べるのは無理である。ここまで酷ければ諦めもつく。
箱を回収しようと、手を伸ばす。蛙仔は、そんな王九の手をかい潜り、のそりと立ち上がった。
「……? どこ行くんだ」
「台所っす。大丈夫、まだ取り返しがつくんで」
狭苦しい台所を前にした蛙仔は、棚の中から大きなタッパーと、冷蔵庫から牛乳を取り出した。
「ガキの頃、癇癪起こした母親が弟の誕生日ケーキぐしゃぐしゃにした事があって」
「弟いんのか」
「九兄貴も知ってるやつですよ。……誰だと思います?」
「は?」
「俺の弟」
誰だって良かったが、不思議と、答えが知りたくなった。前にも似たようなことがあったな、と思う。自分には理解し得ない感情を知りたいと思ったことが、確かにあった。狭間の世界の話だ。あの時は、それだけじゃどうにもならなかったけれど。今は違う。左胸に手をあてた。心臓は今も淡々と鼓動している。蛙仔のことを考えると、ほんの少し、強めに脈を打つ。
王九は、思い当たる名前を呟いた。蛙仔は「当たりです。なんで分かったんですか?」と言って、ぱちぱちと目を瞬いた。
「続き」
「え?」
「続き話せ」
「つまんねぇ話っすよ」
「つまんなくてもいい。知りたいだけだ」
蛙仔は、むず痒そうな表情で手を動かした。形の崩れたケーキの残骸から銀紙や透明フィルムを取り除き、そのすべてをタッパーに開ける。スポンジ、クリーム、果物、などなどをフォークで潰しながら均等にならすと、そこに牛乳を注ぎ始めた。
「……まあ、それで、弟がわんわん泣くもんで、冷蔵庫にあるもの使ってなんとか固めようと思ったんですよね。当時の俺は冷凍庫に入れりゃあ固まるだろって、牛乳を繋ぎにして。……甘いほうが良いっすか?」
首を縦に振る。蛙仔が「じゃあ、そこの砂糖を全体にふりかけて下さい」というので、王九はそれに従った。ひたひたに注がれた牛乳の上からグラニュー糖……なんて高尚なものは無いので、余り物のコーヒーシュガーをかける。
「ガキの頭で試行錯誤して、なんとか出来上がったのがアイスケーキってわけです」
蓋をして、冷凍庫に入れて、だいたい三時間くらいで固まるらしい。時計をみると、すでに七時を回っていた。腕時計を確認する王九に、蛙仔が心配そうな声色で問いかける。
「飯、どうします? アイスは……明日以降でも食えるし……。そういえば、これって何のケーキだったんですか?」
察しの悪さに唖然とする。年齢の話をして、ケーキとくれば、誕生日だとピンとこないのだろうか。そこまで考えて、しかし、と思い直した。王九自身、誕生日というものに特別な思い入れがあるわけでもない。馬拉糕を貰ったり、両親から「おめでとう」というメッセージが届くから思い出すだけで、誰からも指摘されなければ、そのまま素通りする日常のはずだ。だからといって、他人の誕生日をわざわざ指摘するのも性に合わない。プレゼントのひとつでも用意しておけば、なにか変わっただろうか。言葉にせずとも、伝わったのだろうか。でも、この男の欲しいもの、好きなものなんて。王九は、はたと気がついた。
――知らない、ままじゃなくても、いい。
「お前は、何が好きだ」
「なに……えー……っと、ガッツリしたものであれば何でも……」
曖昧すぎる質問だったし、タイミングも悪かった。蛙仔は食事の話だと思ったのか、顎に手を添えながら「うーん」と斜め上に視線を向ける。
「最近はハンバーガーとか、結構食いますね」
「……ハンバーガー」
「食ったことあります?」
「あるが、別に好きじゃない。胃がもたれる」
「そっちのほうがジジくさ……」
言い終わる前に脇腹をどつく。なんだか面白くなって、王九はゲラゲラと笑った。喉から絞り出される乾いた声ではなく、「あはは!」という大きな笑い声だった。
「あー、やべえ。久々に笑った」
揺らしたことで活性化した胃が、ぐるると音を立てる。
「朝の残りあるんで、食いましょうか」
蛙仔は冷蔵庫を開けて、キクラゲと蒸しエビのあえもの、鶏肉の醤油煮、大根漬け入りの卵焼きを取り出し、テーブルに並べた。朝と同じメニューだったが、嫌じゃなかった。王九は案外、この卵焼きを気に入っている。
二人で向かい合わせに座り食事を済ませた。空腹だったこともあって、あっという間に皿が空になる。食器を片付けた蛙仔がベッドに腰を下ろしたので、王九は何となく隣に座った。ギシリとベッドが軋む。窓の外に視線を流すと、外は雨が降っているようだった。ザーザーの本降りは、今朝の天気とは大違いだ。雨粒は激しく窓ガラスを叩き、強風はガタガタと玄関扉を揺さぶる。雨というよりも、嵐に近い。
「雨が上がるまで此処にいる」
「……は、え!?」
蛙仔が飛び上がったせいで、王九の体がポンと跳ねた。戸惑うのも無理はない。早朝に押しかけたり、夕食を共にすることはあったが、必ず二十一時前には部屋を出ていたから、共に夜を越したことなどなかった。蛙仔が、ドギマギとぎこちない動作でシーツを握り締めた。ギュッと寄ったシワのせいで王九の手が引きずられ、体が傾く。二人の肩がトンと触れた。蛙仔の毛先が王九のうなじをくすぐる。カチコチと、時計の針だけが駆け足に進んでいく。深呼吸。震える吐息。衣擦れの音。体温が溶け合う。溶けた体が一つになる。
「……だきしめてもいいですか」
「そういうのは、やる前に言え」
汗と、整髪料と、煙草の匂い。その中に、スッと鼻から抜けるような冷たい空気に似た香りが、ほのかに混ざる。それは薄暗い水辺から伸びる蓮の葉を連想させた。
嫌いじゃない。王九は、汗ばんだ首筋に頬を擦り付けた。
「……兄貴は、」
蛙仔の吐息が耳たぶをくすぐる。
「蓮の花みたいな匂いがする」
それを聞いて「ちょうどいいな」と答えた。蓮の葉と、花。二人合わせて、一つの生き物だ。王九は、ひひっと笑って、剥き出しの首筋に噛み付いた。
風がとまり、雨はしとしと降っている。
きっと、朝までやむことはないだろう。
【天国までのまがり道】