[交換小説]藍曦臣と吸血衝動のある江澄のはなしまだ各世家の若君たちが起き出す前の、なんとも清澄な朝。
藍氏の他の者らよりも半刻ほども早く起き出せば、その静けさは例えようのない清々しさを齎してくれる。木々の間に流れる風も、薄明にまだ頭を出しきらぬ日差しも。藍曦臣の心をひときわ落ち着かせ、宥めてくれる。修練はしない。ただの朝起きは繰り返す日々の中で、小さな息抜きのようなものだった。
そのかすかな物音に気付いたのも、息抜きの折だった。
水音ばかりなら気にも留めないが、人の匂いと、おまけに僅かな血の香り。どうしても気になって建屋の間を抜けて出所を探す。
さすがに起き出しているものが居ると思わなかったのか、彼は身をかがめて井戸の傍で小さくなっていて。藍曦臣の姿を認めるなりひっと短く息を吸い、大きな切れ長の目をまん丸にして血だらけの口を急いで拭った。慌てて齧っていた自らの手首の覆いを戻そうとするのを止めくるりとその腕を裏返す。彼自身の手は彼本人に傷つけられて痛々しく血を纏っているが。手で拭って見ればもうその下には傷ひとつない。
「痛かっただろう」
真っ青になっているのはなにも罪を犯しているところを見つかったからというわけではない。
くう、と小さく腹が鳴く。目の前の少年、江晩吟は腹を抑え、まだ血の残る唇を噛み締めながら目に涙をいっぱい溜めている。辛かったね、と濡れた指を絡めて握る。
水と血と膚の匂いがした。昇りくる朝日の朱を映しながらぼたぼたと零れ落ちる涙を、藍曦臣はじっと眺めた。
◆◆◆
この世にはさまざまな特質を持った人間がいる。仙師の身の上ともなると、市井の人々なら単なる体質で収まるものが明らかに顕れてしまうものも多い。
たとえば魏無羨は夜に強い淫魔の特質を持っている。淫気を喰らうことを本人が面白おかしく喧伝するせいで不届き者が身の回りに絶えない。それらを殴り、蹴り、打ちのめして江澄が思うには、どうやらこの特質はどうにも無駄ではないか、ということだった。
江澄自身吸血、吸精、その気になればおそらく魂のつまみ食いぐらいはでき、代わりに身体能力を向上させる特質を持っているが、その代わりひどく腹が減る。普段ならば獣肉を多めに食べて、あるいは狩りでもして獲物を生で食して賄うけれど、この雲深不知処ではどうもそうはいかなかった。
姉が持たせてくれた食料もほとんど尽き、汁気のない干し肉をちみちみと齧って暫くしのいでいたが、限度というものがある。魏無羨が蓮花塢に帰されて以来無理矢理町へ連れ出されることも無くなり。腹が減ったように強烈に感じるだけで死にはしないのだからと痩せ我慢をしていたがもういい加減狂いだしそうだった。木の皮を剥いで齧ってもみたし、座学で教わったばかりの生薬も噛みしめてみたが全く意味がない。結局最後に思い付いたのは、水を飲むことだった。外から見てわかるほどに水を飲めば一応は眠れるが、今度は夜中に目を覚まして用を足しに立ち上がる羽目になる。
その日は父の夢を見て目を覚ました。
叱られる夢だ。蓮の精たる父や姉とは違い、小さな頃から獣肉に抵抗がなかった。そのころ飼っていた犬に骨をやる前に少し肉を歯でこそいでいるところを見つかってこっぴどく叱られた。卑しい真似をするなと言われたことの意味は今ではわかるが。そのころは、父は生肉を食う自分が嫌いなのだと思って泣いたものだった。
夢とは仕方ないもので、目を覚ましても泣いていて、どうしようもなく惨めな気持ちをこねくり回しながら井戸へ向かった。腹一杯水を飲んでも満たされなくて、喉は潤っているのにどんどん乾いて気持ち悪くなって、はじめて手首に牙を立てて。
そうして、出会ってしまった。
◆◆◆
直接というのはね、と藍曦臣は言った。
たっぷりした白い衣をさばいて床に座しながら江澄を見る。つくづく綺麗な顔をした男だった。姑蘇藍氏の特質が何なのかはあまり明らかになってはいないし、そもそも魏無羨のような恥知らずでもなければ特質を言って回ることはないのだけれど。もし彼が美貌を盾に吸魂でも持ち掛ければ、男女関わらずかなりの人間が首を縦に振るだろうと思えた。
「江公子、さすがにきみは気になるかと思ってね……」
「は」
聞いていなかった、ともいえないまま、わかったふりでいくつか頷く。最初は意識が朦朧としていたまま訪れ、帰されたものの、この寒室を訪うのも二回目ともなればいろいろなものが見えてきた。部屋の片隅に、最初には気づかなかった香炉がゆったりと煙を上げている。部屋いっぱいに香が立ち込めていて、鼻がするどい江澄としては少しきつく、やや目眩がした。派手好きでもあるまいし、普段の澤蕪君からする香りとも異なる気がするのに、なんともおかしなことだった。
「ああ。最初は仕方なかったし、わたしもきみの牙の痕ぐらいは消してしまえるけれど。膚に唇を触れさせて、啜るとなったらきみは気になるかと思ってね」
「う、……は、はい…その」
「うん」
「……本当に、申し訳ありません。自分を律することもできずご迷惑をおかけして」
「気にすることはない。若いうちは特質に体が引っ張られるものだ。心とも君の価値とも関係がない」
まあ価値というのは、それもそれ、おこがましい尺度だけれど。
そう口にしながら藍曦臣はふと袖に手を入れ、一本の瓶子を取り出した。青磁の美しい瓶だった。受け取る前から鼻先に伝わる香りに首のあたりがそわそわする。
「……あ」
「江公子」
瓶をそっと手渡しつつ、渡し終えた藍曦臣の手がさらに伸びてくる。迫ってくる袖を避けられもしないまま、口の端に触れられて江澄はかっと頬が赤らむのを感じた。滴っていたらしい唾液が白衣の袖を濡らしたことを認めて、鼻の奥はきな臭く目頭まで熱くなってくる。
「お腹が減っているのだから仕方がないよ。姑蘇藍氏の食事は君には向かない。きみたちの世話をするわたしにとっても恥ずかしい、至らないことだから、どうか内緒にしてほしい……ほら、……他の人の目に触れてはことだ。ここで飲んでいきなさい」
「しかし」
「君がうんと言わないなら意地悪を言おうか」
例えばこれは渡さないだとか。
その声がやけに耳の傍で聞こえたように感じて、江澄は背筋を震わせながら、それでも慌てて瓶を強く掴み直した。それだけは厭だった。だってもう手にしているし。腹はすっかり痛むほどに空いているのだから。
「……ごめんね、お腹を空かせた子を相手に」
藍曦臣はゆったりと指先を伸ばし、そっと栓を抜いた。きつく嵌まってもいなかったそれは容易く抜けて、馥郁たる香りが一気に鼻をつく。溢れる唾液にも構わず、江澄は瓶を傾けてその狭い口へ舌をさし伸ばした。
「瓶に入れたらきみはごくごくのむかと思ったんだが、やはり舐めて少しずつのむのが作法なのかな」
うるさい、俺は珍しい動物じゃない。口が塞がっていてよかったな。と心の中で毒づきながら、けれどその毒がみるみるうちに融けてしまうのがわかる。その味は彼そのもののように清冽で。いつまでものんでいたくなるけれど、のみくちとは裏腹に酒のような重さがある。
「のんだらすこし休んでいくといい。口がさっぱりするように、お茶も淹れておこうか」
ありがとうございます、と言えたかは定かではない。ただ瓶を少しずつ傾けてその液体が無くなることに絶望しながら、江澄はできるだけ舌を伸ばして、その瓶の口をひたすらに舐めしゃぶった。
◆◆◆
「私の感じる血の味と、きみの感じる血の味は違うのかな?」
見られている。この時間に意味はあるのだろうか。彼は忙しいひとであるだろうに、江澄のために四半刻ほどを割いている気がする。
「別に……ふつうの血の味だと思います」
ひとによって味覚なんて異なるものだから、分からないけれど。彼の血は少なくとも江澄にとっては至極の美酒であった。
そう、このひとの血は美味しかった。恐らく江澄が今までのんだ血の中でも一番に。初めて飲むひとの血、だからだろうか。そうだとしたら本当に獣じみていて気持ちの悪い性質だ。けれどそれに抗うことはできず、江澄はせっせと彼のところに通っていた。
「ふふ、ゆっくりのむといい。おかわりが欲しければあげよう」
「だ、いじょうぶです」
もしいくらでもあるのならば、樽一杯にのみたい。けれどこれはどうしたって有限で、江澄が欲張れば藍曦臣はすっかりひからびてしまうかもしれない。実際彼がそこまで江澄の好きにさせてくれるわけもないが、とにかく自制は必要だ。
小瓶一杯。一度にはそれだけだと決めていた。すると結局早くに腹が空いて、週に数度と求めてしまうことになるのだけれど。
血を分けてもらうようになってから、自然と藍曦臣のことを目で追う機会が増えた。そうして気がついたのは、彼はいつもひとに囲まれているということだった。姑蘇藍氏の門弟から、座学の留学生まで、みんな彼を慕っている。
「ああ、江公子」
その彼が、自分を見た途端、するりとその輪から抜けてこちらに寄ってくるのだ。
「今日の夕方は空いているから。そろそろだろう?」
その時の居た堪れなさといったら。江澄は魏無羨ほど面の皮が厚くはなれないのだと思い知った。あれもある種の才能なのかもしれない。
「その、ああいう場で話しかけるのはやめていただきたいのですが」
「ああいう場……とは」
夕方、言われるがままに彼の部屋を訪れた。ちび、と小瓶を舐めて、江澄はやっと言った。こてりと首を傾げる麗人は、どうやら自分がしていることの自覚がおありでないようだ。
「あれではあなたが俺を贔屓していると誤解されかねません」
それではあなたも困るでしょう、と続ける。彼はそうだねえ、と間延びした声で言った。
「確かに、きみを贔屓している、と言われても仕方がないね」
「ですから、それを人前でするというのは」
「じゃあ今度から、こっそり声をかけることにしようか」
こうやって、と彼が内緒話でもするかのように顔を近寄せてくる。近くで見てもまったく粗のない美貌に、失礼だとは思いながらも顔を背けてしまった。
「あの、近いのでは……」
「そうかもしれない」
彼はにこにことしながら引いた。それにほっとしつつ、うるさい心臓をどうどうと宥めてやる。可哀そうに、美の暴力にあてられてはこうなるのも無理はない。
もっと隙のないひとかと思っていたのに、こうやって対面していると、彼は思ったより不用心だ。距離感を掴みかねてしまう。それに混乱しつつも流されてしまうのは、きっと彼の血が美味しいからだ。これをほんの少し舌先に乗せるだけで頭がぽうっとしてしまうのだからいけない。
彼のところにいる時間は、せいぜいが四半刻。小瓶の中身をすっかり舐め尽くしてしまって、口直しの茶をもらって。彼はいつも江澄を、入り口のところまで見送る。
「また、おなかが空いたらおいで」
そう言って微笑むひとはまるでこの不知処のように清白なのに、どこか底が知れず恐ろしかった。
◆◆◆
江澄は、実に十何回目かに血を舐めた後ふと思った。
自分は最近彼に頼りすぎなのではないか?
美味しいからついつい彼の差し出す血を飲んでしまうけれど、これはゆゆしき事態だ。血を飲んで一度冴えた頭はよく回る。
他の仙門、あまつさえ世家公子番付一位の男の血だ。そこらの酒よりも下手をすれば価値のある代物。それを何の代価もなく与えられている状況はよくない。なんとかしなければ。
今までよりもずっと恵まれているのだから耐えられるはず。
江澄は血を貰うのを控えることにした。向こうも「不知処の料理がよくないから、その代わりに」と言ってくれているし、自分も多分貰わなければおかしくなってしまうから、完全にやめることはしないが。週に一度だけに限定することにした。
けれど、読みは外れていた。ずっと飢えた状態を堪えていて、そこに与えられた食べ物をまた減らすだなんて、拷問でしかなかった。前よりも飢えは増し、江澄は彼の元に行った二日後の夜からは、ひとりで歯を食いしばることになった。
藍曦臣の部屋に行っても、もっと飲みたいと言ってしまいそうになるのを堪えるために、ずっと押し黙るようになった。彼が自分に何か言いたげなのは分かっていたが、無理に追及してくる様子もなかったので江澄も何も言わなかった。
その日江澄は、腹が減りすぎて、もう眠ってしまうに限るとばかりに布団を丸めて腹に押しつけ、床で眠りこけていた。
不意に、夢見心地にひどく美味しそうな匂いがしたのだ。
口元が濡れ、ついで甘い味が口の中に広がる。朦朧とした意識の中、江澄はそれに夢中になった。氷を固めて蜜をかけた菓子を口に銜えているような感覚に、ちゅう、と何度もそれを吸ったり、舐めたりした。それは不思議なことにいくら吸ってもなくならなくて、とてもいい夢だと思う。
「ん」
それが夢などではなく現実だったと気がついたのは、それからもう一度深く眠り、目を覚ましてからだった。江澄の手はぎゅう、と何か布を掴んでいて、しかもどうやら布団ではない。口には噛み応えのありそうな弾力のあるものを銜えている。おまけに冷たい床で寝ていたはずの江澄の頭は、固いけれど温かいものに乗せられていた。何度か目を瞬かせて、すぐ近くに端正な顔があるのを認めて。
「ら、」
「うん。おはよう。江公子」
自分が寝ていたのが藍曦臣の膝だと分かった瞬間跳ね起きた江澄は、驚きを通り越して呆然とした。体を起こした拍子に自分の口から離れたのは、切り傷のある彼の指先だ。
では、さきほどまで江澄が舐めしゃぶっていたものは、と考え一気に顔を青くする。
「す、すみません。俺」
「君がおなかがすいているんじゃないかと思って訪ねたら、倒れているものだから驚いて。私が無理にのませたんだから気にしなくていい」
藍曦臣はゆったりとそう言った。
江澄は倒れていたわけではなく眠っていただけだ。いや、空腹で意識が危うかったのは間違いないが。彼がつい、と首を傾げて江澄を見る。匂いたつような美しさに加え、かぐわしい香りがして江澄の頭の芯が崩れていく。
「最近は来る回数が少なかったから、心配していたんだよ。ほら、もう少しいるかい? 生憎手持ちにいい瓶がなくてね。持ってくることもできるけれど」
いらない、大丈夫、というべきだと分かっていた。彼の傷は、江澄が舌で抉ったのか噛んだのか、まだ出血している。それを早く布ででも何ででも拭って、手当てをするべきだと分かっているのに。
そんなことをするだなんて勿体なくて、耐えられなかった。
薄暗い部屋。からだを中途半端に起こしていた江澄は、床に両手をついたまま、彼の指先に吸い寄せられるように顔を近づけた。ほんの少しだけ舌を出して、今にも床にしたたり落ちそうな赤い露を舐めとる。我慢ができなくなって思い切り吸った。
「いい子だね。さあ好きなだけあげるから」
彼の血のように甘美な囁き。
自由な方の手が頭を撫でてきた。飢えが満たされ、すべてを肯定されるように可愛がられて。彼の言葉にこっくりと頷いてもっと求める以外の選択肢が江澄にはなかった。