憧れと欲張り 続 部屋のドアが閉まる音がやけに大きく響いた気がしたのは、私の心臓が鳴っているせいだと思う。歩くたびに床板がほんの少し軋む音が、私たちの沈黙を埋めるように続いている。彼に促されるまま腰掛けたベッドは、当たり前だけれど自分が使っているものとは全然違う感触がして、なんだか落ち着かなかった。
「部屋、散らかってて悪い。誰かを呼ぶ予定なかったからさ」
「ううん、大丈夫。私の方こそごめんなさい、こんな急にお家まで来ちゃって……」
「君が謝ることじゃない。連れてきたのは俺だろ」
「……う、ん」
そんな他愛のない話をしている間も、ついさっき聞いた彼の言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
やっぱり、おかしくないのかな。
だって、私達恋人でもないのに。
それとも、こういうことに慣れてる人にとっては普通のことなの……?
自分から言い出したことなのに、いざその瞬間が近付くとやっぱり心の奥底で躊躇が生まれてしまって、答えの見つからない疑問が頭の中を駆け巡る。そもそも、私は「キスってどんな感じなのかな」って聞いただけで、「バッキーとキスしてみたい」とは一言も言ってない。でも、そう受け取られてもおかしくなかったのかな。
「やっぱりやめておくか?」
ベッドの軋む音が鳴る。バッキーは私の隣に腰掛けると、私にそう問いかけた。何を言っても否定せず受け止めてくれそうな、その低く優しい声が、余計に私の迷いを浮き彫りにする。少しの沈黙の後、私はうまく言葉にできないまま、ほんの少しだけ首を横に振った。けれど、それがやめたくないという気持ちの表れだったのか、確信することはできない。
私の仕草を受け取った彼はどこか安心したような息を吐いて、ほんの少しだけ体を前に傾けた。ベッドの軋む音がもう一度鳴って、それから、ふいに彼の指先が私の頬に触れる。けれど、そこから動くことはなくて、まるで触れていいかどうか迷っているようだった。いつもならごく自然に手を繋いでくるような彼がそんな風に私に触れるのは初めてのことのような気がして、それがなんだかむず痒くて思わず目を伏せたその瞬間、髪が少しだけ顔にかかるのを感じた。そのささやかな違和感に指を添えようとしたよりも早く、バッキーの手がそっと私の髪に触れて、静かに払う。そんななんでもない一挙手一投足が、特別な儀式のように思えてしまう。触れられたところから、熱がじんわりと広がっていくのを感じながら、私は胸の奥を落ち着けようと、深く息を吸った。
彼はゆっくりと手を引き、私と同じ目線の高さに座り直す。私たちの間にある距離は、ほんの十数センチ。だけどその十数センチを、どうやって縮めていいのか私には分からなかった。バッキーは何も言わず、ただゆっくりと顔を近づけてくる。こうするんだと、教えてくれるように。鼓動がうるさく響く中、彼の吐息がかかる。その瞬間、お互いの唇がそっと触れた。
その感触は、思っていたよりもずっと柔らかくて、ずっとあたたかかった。唇の上にじんわりと残るその感覚に、心がふわふわと浮かび上がるような不思議な気持ちに包まれる。あんなにうるさかった心臓の音も、今は随分遠くに感じた。聞こえるのは、二人の呼吸と、唇同士が触れ合う微かな音、それだけ。
やがて、どちらともなく唇が離れると、本当に彼とキスしたんだという実感だとか、本当によかったのかな、なんて今更の迷いが一斉に襲ってくる。さっきまで遠くに聞こえていた心臓の音は、きちんと私の身体の中まで戻ってきていて、それはもう、息をするのさえ難しいほど。赤くなったひどい顔を隠したかったのに、バッキーは私の頬から手を離さないで、ただじっと私を見つめていた。
よくよく見てみれば、彼の耳は誤魔化しのきかないくらいにまで真っ赤に染まっていて。私の手を繋いでいた時も、私と出かけることを冗談まじりにデートなんて言っていた時も、照れることなんてないみたいに、どんな時も余裕を崩さないでいたような彼が。その様を見ていると、彼の羞恥が伝わってくるような気がして思わず目を逸らせば、バッキーは私の反応を伺うように、おずおずと口を開いた。
「もう一回していい?」
「……へっ、……ぇ、」
まさかのアンコール。思わず漏れた情けない声が恥ずかしかったけれど、そんなことを気にしている余裕もなかった。私が戸惑っている間にも、バッキーは優しい手つきで私の頬を撫でていて、そのまま私の顔を自分の方へと引き寄せようとしている。もう一度、二人の顔が近付く。唇が触れるまで、あと数センチ。
「ぁ……だっ、だめ」
ぎりぎりのところで声を絞り出す。私とバッキーの唇の間には、私がとっさに突き出した手のひら一枚分の距離。これ以上近付いてくることを拒むように彼の唇に添えられたそれを見て、バッキーは驚いたような表情を浮かべた。でもそれはほんの一瞬で、すぐに困ったように笑いながら、私の手のひらから顔を離した。
「ごめん、調子乗りすぎたか」
「ち、違うの、バッキーとするのが嫌なんじゃなくて……ごめんなさい、私が言い出したことなのに」
ここで力尽きました。続きは皆様のイマジネーションで補完してください。申し訳ない。