過ぎし日の 弟子でもあり、今や愛を向ける相手ともなったグレイが夜に苦しんでいるのを、ライは知っている。知りながら、自分からはどうすることもできないと静かに見守っていた。度々悪夢にうなされるグレイの頭を、寝台に腰かけゆっくりと撫でる。本人が話そうとしない以上、それよりほかに出来ることが無かった。
無かった、のだが。
「……ぅ、う……あ」
「……」
グレイがうなされ始めたのに気づき、ライが本から視線を上げた。
「……グレイ」
一度静かに声をかけるが、返ってきたのは苦し気なうめき声だけ。小さく息を吐き、グレイが寝ている横へなるべく振動が無いように腰かける。そのままいつも通り、優しく髪を撫でるように手を当てた。
「(あまり続くようなら……)」
悪夢を見たあとのグレイは、見ていられないほど憔悴している。今までなら心配しつつも見守るつもりでいたのだが、ライは自分が彼に向ける感情をきちんと自覚してから、それが段々と辛いものになってきていた。
グレイが悪夢のあとに熱を求めることも、自分がそういった意味で利用されるのは良い。愛している相手が、理由が何であれ求めてくれるのだから不満はない。ただ、グレイ自身がそれに対して罪悪感に苛まれているのはどうにかしたかった。
「(しかしなぁ……)」
嘆息する。
「俺には、話せねぇか……?」
何に苦しんでいるのか、何を望んでいるのか。それを口にさえしてくれれば、ライはどうにでも動くことが出来る。だが当の本人にそんな様子がない。年若い相手が苦しんでいるのを、ただ眺めることしかできないでいる自分は何なのだろう。相手が自分の愛する者なのだから、尚更の無力感。はぁとため息を吐き、ライはゆっくりとグレイの額に唇を落とした。
「グレイ、起きろ。お前を苦しめるものなんて、見なくていい」
「……う、…………ラ、イ……?」
「……大丈夫か」
目を開けたグレイの表情は、素直に答えるはずもない疑問さえ、ライが口にしてしまう程のものだった。
「……っ、俺、は……」
「……グレイ……」
泣き出す一歩手前のように瞳を揺らし、苦し気に唇を噛んだグレイの表情を隠してやるように、ライはその胸に抱き寄せた。抵抗なく、すんなりと抱きしめられるグレイに、ライは複雑な思いで眉を下げる。
――聞いてしまえ。否、今まで通り見守っていろ。
「……、……なぁ」
何度も葛藤し、結局堪えきれず声をかけると、腕の中の身体が小さく震えた。それに気付いていながらも、ライは言葉を続けた。
「……聞かせて、くれ」
「……」
それは、一種の賭けだった。
「もう、見ているだけは……出来そうにねぇよ」
「……、……っ」
何も聞かせてくれないのであれば、今後利用されるだけの存在でもいいとさえ思えるほどの、愛があった。
「……なぁ、グレイ」
「……俺、は……」
そうでなければ、変わらぬものを抱き続けられる幸福に浸れる。
――そう、これは賭けだ。
「……」
「っ、……ライ……!」
ライが抱きしめる力を緩めると、今度は縋る様にグレイの手がライに伸ばされた。引き止めるかのように握り締められたシャツが、胸元でシワを作る。それを見て、ライはす、と目を細めた。
「……悪かったよ。話したく、ねぇなら……」
「ち、がう……! 違う、すまない……違うんだ……話したく、ないわけじゃ、ない……」
「……ん」
ゆっくりでいいと、再び優しく抱き寄せて背を撫でる。小さく身体を震わせるグレイに、ライは随分と酷いことをしていると自嘲した。だが、賭けには勝ったようだと安堵に息を漏らす。それを呆れだと感じたグレイが、不安に瞳を揺らしライを見た。
「あぁ、違う。大丈夫だから、お前のペースで話してくれ。……待つよ、いつまででも」
「……」
こくりと頷いたグレイが、震える息を吐く。それは悪夢を見たせいでもあるが、ライが離れていくのではないかという不安も自覚はないが含まれていた。
「……」
何度も深呼吸を繰り返し、平常に話せるように努めるが、語りだしたグレイの声は苦しみに塗れていた。
「……どこから、話したらいいのか……俺は自分のことを、他人に話したことが、ないから……」
「解り難くてもいいさ。話せることだけで構わねぇよ」
「……あぁ」
そうして、ぽつりぽつりと語られたのは、グレイの過去についてだった――。
同じ日に生まれ、見た目もよく似通った二人の子どもがいた。黒い髪に、濃淡が少し違うだけの赤い瞳。鮮やかな赤を持って生まれた子はベル、深い赤を持って生まれた子はステッラと名付けられた。穏やかな気性のベルと、少しやんちゃなステッラ。二人は双子のように常に傍にあり、健やかに育っていった。
成長が進み、性別が確定する年頃になると、ステッラは毎日そわそわと過ごすようになった。
「もうすぐだね」
「……?」
「あ、その顔! 忘れたの? もうすぐボクたち性別がわかるんだよ!」
日々気にするステッラとは違い、のんびりとその時を待つベル。二人は性別が違えども、これまでと同じく共に在ることを願った。
「約束だからね!」
「うん。約束だよ、ステッラ」
そう密やかに笑い合って、願っていた。
「じゃあ、行ってくるよ」
「うん。行ってらっしゃい。帰ってくるの、待ってるからね」
「あぁ! 待ってて、ベル」
男性であったステッラと、女性であったベル。二人は当たり前のようにお互いを愛し、そして約束通りに、叶う限り共に在った。ほとんどを里の外で過ごす男ではあるが、ステッラは可能な限り里へ足を向けた。年上の男衆には呆れられることもあるほどに、ステッラはベルを深く愛していたのだ。
「んで、まだ抱いてないわけ」
「んぐっ、はっ、な、何!?」
「いや、あんなに好き好きってオーラをお互いに出しておいて、年頃になってもそういうことがないってのも、すげぇなって」
「……う、うるさい」
里を護る上で師と仰いでる男に突然話題を振られ、ステッラは大いに動揺した。確かに、子孫を残すという大事な使命もある。ヴィエラの男は数が少ないため、無駄にするなという師の意見は真っ当であった。
「わかってますよ……た、ただ……ベルを前にすると、その、どうしたら、いいのか……」
「おいおい、そんなんで大丈夫か? 俺がそこまで手解きしてやんなきゃいけない感じなのか?」
「……い、いや、そこまで世話にはなりません! 俺がちゃんと、ベルに話して……ちゃ、ちゃんと……」
「……本当に大丈夫か?」
顔を赤く染める初心なステッラに、師の男はため息を吐いたが、若いねぇと微笑ましく見守ることにした。
そうして、次に里へ帰った時にはと決心したステッラに――
「ベ、ル……?」
――絶望が訪れる。
真っ赤に染まった手――ついさっきまで、嬉しそうに振られていた。
真っ赤に染まったよく知る顔――ついさっきまで、柔らかな笑顔だった。
危険を知らせる師の声と、弓を引く音が耳に入った時には、彼女の身体は木々の隙間から突如現れた魔物に、切り裂かれていた。
「……ぁ、なん、で……」
意味の無い疑問だけが口から零れ、崩れ落ちる彼女の身体を抱きしめるためにステッラはフラフラと赤く染まる地へ向かった。
「……ベル」
返事は無い。
「……っ、ベ、ル……!」
返事は無い。
「……ル、ベル、ベル!!」
返事は無い。
悲痛な叫びが響く。周囲の騒めきなど、ステッラの耳には入っていなかった。耳鳴りが酷い。ベルの声が聞こえない。何も聞こえない。ベルの瞳が見えない。自分よりも鮮やかな、綺麗な赤……赤、あか、アカが――
「おい、ステッラ!!」
「……どうして、どう、して……ベル、ベル……」
師である男に強く肩を揺さぶられても、ステッラはベルから離れることは無かった。
「しっかりしろ、おい!」
「どうして、どうしてベルが……ベルが、こんな場所に」
あまり狩りが得意ではないベルは、どちらかといえば里の中で皆を支える側であった、はずなのに。
「なんで……」
里の人間は、何をしていた? どうしてベルがこんな場所にいる? どうして俺は彼女を護ってやれなかった? どうして、どうして、どうして……!!
嘆き、慟哭している間にもベルの埋葬は進み、気付いたときにはステッラは自らの全てと言ってもいい存在を、失っていた。
「……それから……俺は里を出て、ただ……何をするでもなく……」
「……そうか」
泣きそうに瞳を揺らしながらも、グレイの目に涙は浮かんでいなかった。
「もう、あんな思いは、したくない……」
「あぁ……」
「……だから、愛なんて、最初から持たなければ、いいと……そう、思って」
「……うん」
「だから……っ……だから! お前を愛したくなんて、……なかった!! ……なかった、のに……」
「あぁ……ごめんな。……ありがとう」
「……っ、……っ……なんで」
どうして、と夢の中と同じように嘆いて、嘆いて、そうして肌から伝わる鼓動に、グレイは心底安心した。
「……っ、く……」
苦しみと、安堵と、罪悪感と、幸福感と。たくさんの物が綯い交ぜになり、グレイは涙を流した。正しく別れを嘆き、出会いを受け入れるための涙を。
「愛したくなんて、なかったんだ」
「あぁ」
「おれが、愛しているのは、ベルだけだって……彼女がいた、証として……ずっと、約束を忘れずに生きて、いくんだって」
「……ん」
「なのに、お前はっ! ずかずかと人の心に、入ってきて」
「はは、まぁ、そうだな」
「っ、ふ、ぅ……っ」
「……」
「…………て、る……っ! あ、いしてる……っ」
「……っ」
「あいして、るんだ……っ」
ぼたぼたと流れる涙も気にせず、懺悔のように吐き出された愛の言葉に、ライは堪えきれずグレイの震える体を強く抱き締めた。
「か、わりに、なんて、したくない」
「ばか、代わりにする必要ねぇよ。俺だって、その人の代わりには、なれっこない」
「でも、おれは」
「忘れろだなんて言えないし、忘れる必要も無い。でも、その人との思い出を……全部悪夢にするのは、もう止めておけ」
「……ぜん、ぶ」
「そうだろ。ずっと最後の瞬間に囚われて、笑いあった日まで悪夢にしてしまうのは……その人の望むところか?」
そうライに言われ、呆然と力を失ったグレイが、くしゃりと顔を歪めた。
「ベルは、そんな、こと……望むやつじゃ、ない」
「あぁ、そうだろうな」
「な、んで、おれは」
「……辛い別れは、無自覚に自分を蝕んでいく。上手な別れ方なんて、覚えさせたくはねぇけど……長く生きる以上、避けられないもんだ」
どこか達観したようなライの表情に、初めて見るそれに、グレイは涙を流したまま小さく、おまえも……と呟いた。しっかりそれを聞き取ったライが苦く笑って、グレイの頭を撫でる。
「そうだな……これでも結構長生きしてんだぜ。そりゃあ、あるさ……忘れられない出会いも、別れも」
「どう、やって」
「はは、まずはとにかく泣くんだよ。みっともなくても、情けなくても……泣いて泣いて、泣き続けて……涙が止まったら、今度は思い切り笑うんだ。俺と出会ってくれて、ありがとうってな」
「……っ、……う、く、うぅ」
「今はまだ、たくさん泣け。ずっと我慢してきたんだろ。その分、時間がかかってもいい。……見られたくないなら、その間隠してやるよ。俺が――ずっと」
誓いを立てるかのようなその言葉に、グレイは子どもみたいに声を上げて泣き、縋るように抱きついてきたその身体を、ライは言葉通り隠すように強く抱きしめ返した。
「……ん……」
「……」
グレイのあどけない寝顔と寝息に、ひとまず少しは安心できるかとライはゆるりと目を細めた。
「(ごめんな)」
ライが行ったのは、荒療治だ。深く傷を暴いて、無理やり吐き出させて、前を向けるように少しだけ誘導する。何一つ嘘は吐いていないが、グレイが自分の思うとおりに反応を示したことに、ライは新たな不安の種を見出していた。
「(人と関わりを絶った弊害だな)」
あまりにも、素直すぎる。いや、普段であればここまでは無いはずだが、こうして精神的に追い詰められた時のグレイの無防備さに、ライは眉を寄せた。
「(それとも、信頼してくれてんのかねぇ)」
まぁ、それは三割ってとこか、とライは判断を下す。
「(傍にいて、導いてやらねぇとな)」
なにせ、自分はこいつの師匠なのだから。
だが、今後は――
「……愛してる、グレイ」
ようやく恋人と呼べるようにもなるかと、ライはゆっくり瞼を下ろした。
これは、夢だ。
「ステッラ」
微笑むベルを前にし、グレイは何も言えず佇んでいた。悲しみに涙が滲む。それを見て、ベルは困ったように笑った。
「もう、大人になっても泣き虫なところは変わらないのね」
「……っ、そ、んなに……泣いていた覚えは無い」
思わず反論すると、今度は可笑しそうににころころと笑った。
「ふふ、そんなことないよ。小さな頃は、何かあったらすぐに泣いて私の隣で蹲ってた」
「……」
ぐす、と黙ったまま鼻を鳴らすグレイ。ぽろぽろと落ちる涙が、ベルの柔らかな白い手で拭われる。
「ありがとう、ステッラ。私を愛してくれて」
「……ベル?」
「ありがとう……私の死を、悼んでくれて」
「…….っ! ベル!」
グレイが手を伸ばすが、それは虚空を切った。
「いつかまた、会えたら……あなたの素敵な人のお話、たくさん聞かせてね。……行ってらっしゃい! ステッラ」
抗えず離れていくベルとの距離に、グレイは叫んだ。
「ベルっ! あり、がとう……!」
一言に込めた、多くの想いを渡し、
「……っ、……いって、くる……!」
グレイは悪夢から覚めることを決めた。
「……!」
最後に見えた、嬉しそうに振られる手と柔らかな笑顔が、グレイの瞼に焼き付いた。
「……、」
グレイが目を開けると、すぐ傍にはライの姿があった。その空のような瞳は閉じられ、静かな寝息だけが聞こえてくる。
「……」
ぼんやりと、珍しい寝顔を眺めていると、じわじわとそれが涙で歪んでいくのがわかった。グレイは何度か瞬きをして流し切ろうとしたが、次から次へと溢れてそれも叶わない。
「……」
珍しいものが見れないのはもったいないな、とあまり働かない頭で考えると、グレイは顔を洗うかと寝台から身体を起こそうとした。
――が。
「……泣くんなら、ここで泣け」
寝ていたと思っていた男の腕で、それが止められる。驚きそのまま抱きしめられたグレイは泣くためではなかったんだがと思いつつも、約束通り隠してくれようとしているらしいライに絆され、体型はそう変わらないはずなのに自分よりも幾分か逞しい背に、ゆっくりと腕を回す。
こうしている間くらいは、弱い自分でいても構わないのだろうと――好意に甘えて涙を流した。