赤い満月の夜(クロパパ)「い、たたたッ!……なんじゃ……ッ?!」
その日、目を覚ましたクロックマスターが最初に感じたものは、自分の頬に当たる冷たく固い感触と、身体の節々の痛みだった。
昨晩もバーで飲み耽っていたクロックマスターは、どうやら床の上で寝ていたようだ。
いつも薄暗いバーだが、今日はいつもに増して暗い気がした。
「……?」
同時に感じた違和感に、クロックマスターは思案する。
昨晩はいつもと同じくミイラ父ちゃんと酒を飲んでいたハズだ。
彼は帰る時いつも夢うつつなクロックマスターに声を掛け、部屋に帰る事を促してくれる。
そのお陰で、最近は息子が迎えに来ることも滅多に無かった。(ありがたいことに)
今、自分が床で寝ていた事を考えると、昨日は声を掛けずに帰っていったらしい。
……何か、気に触ることでも言っただろうか?
クロックマスターは昨晩の事を思い出そうとするが、何時もの如く飲み始めの記憶しかないので、早々に諦めた。
少し風に当たってから帰るか……。
消化不良を起こした気持ちを宥めるため、クロックマスターはホテル二階の渡り廊下で風に当たることにした。
何度歩いても不気味なホテルだが、今日は一層の静けさがあった。
ちょっとした緊張感を覚えながら、二階渡り廊下への扉を開ける。
廊下へ出るとスッとした風が……とはいかないのがこのホテルだ。どんよりと重く湿った生ぬるい風が、クロックマスターの頬を撫でた。
慣れると、案外こんな風が心地良く感じるようになるものだから、慣れとは恐ろしい。
古びた木製の手すりに両腕を乗せ、一階の中庭を眺める。空には大きな満月があり、中庭の花壇に咲く真っ赤な薔薇を照らしていた。
一息つこうと、月を見ながらクロックマスターが息を吸った時、それは中庭に鳴り響いた。
乱暴に扉を開けるバンッという音。それから何かを話す声と、キンッ、カキンッと鋭く激しい金属音が立て続けに三回程。
リラックスしようとしていたクロックマスターの身体が、再び緊張に包まれる。
慌てて下を覗き込めば、見覚えのある人物が二人、向かい合っていた。
クロックマスターは目を見開く。あれはシェフと、昨晩ともに飲んでいたミイラ父ちゃんだ。言い争っている。
二人の手にはそれぞれ刃物が握られていた。シェフはその身長ほどある巨大な包丁を、ミイラ父ちゃんはいつも自身の頭に刺さっている青龍刀を持っていた。
あれ、抜いて良かったんじゃな……。
そんな、お気楽な感想が浮かんで消える。
あの貧血でしょっちゅうぶっ倒れているミイラ父ちゃんが、シェフと対等に渡り合っている事実が、クロックマスターにはどうも現実味が無かった。
夢を見ている可能性を考慮し頬をつねって、少なくともこの世界の現実だと思い知る。
ぬるい風に紛れて、ハッハッハと笑う声が聞こえる。今のお前嫌い~!と言うシェフの言葉と同時に大きく振るった包丁が、ミイラ父ちゃんの青龍刀を鈍い金属音を鳴らして弾き飛ばした。
弾き飛ばされた青龍刀がクルクルと綺麗な弧を描きながら、クロックマスターが身体を預けていた手すりのすぐ隣にズドンッと刺さったことで、クロックマスターは数秒呼吸の仕方を忘れてしまった。
一瞬の出来事に、額や背からドッと冷や汗が噴き出す。
呼吸を整えたクロックマスターが階下に目を向ければ、ズンッと包丁を地面に突き刺したシェフが、ミイラ父ちゃんを押し倒していた。観念しろ……と言われているミイラ父ちゃんは、とても肩口に包丁を当てられているとは思えない、天を仰いでどこ吹く風といった表情だった。その瞳はどこを見ているのか。クロックマスターは眺めているといつも不安になる。
「おやぁマスターさん!今日は月が綺麗ですな~~!」
静かに見ていたつもりだったのに。急に声を掛けられ、クロックマスターはギョっとする。
巻き込むな……!!と言うのが、正直な気持ちだ。
「お前、何やったんじゃ……!!」
シェフを怒らせるなんてらしくないじゃないかと、出来るだけ気さくに振る舞う。
シェフに当事者判定をされたら、堪ったものではない。こっちはアイツみたいに頭に矢が刺さっても平気、と言うわけでは無いのだ。
「それがですね~シェフさんに止められるんですよ!」
お前が暴れるからだ……!と、シェフが地獄から響くような低い声で言う。
何を止められるんだ?とクロックマスターが問う前に、ミイラ父ちゃんは口を開く。
「マスターさんは、息子を見ていませんか~?」
こちらに聞こえるよう声を張っているが、相変わらず呑気そうな声で言う。
「どこにも居ないんですよ~」
そんなハズはない。このホテルは広いが……日頃地下まで遊びに行っている坊やが迷子になるとは、クロックマスターは考えられなかった。
元気な坊やの事だ、そのうち帰ってくるじゃろー!とクロックマスターが言えば、ダメなんですよ~と言い返される。
「今日行かないといけなくて~お母ちゃんだけ先に、行かせたままでは──」
「……おい?」
急に言葉が消えて、クロックマスターは思わず手すりから身を乗り出し下を見た。
シェフに担がれ運ばれていく所を見るに、どうやら気絶したのか寝たかのようで、クロックマスターはホッと息を吐く。
「彼はどこに行こうと言うのでしょう?」
「うぉ!?」
手すりから身を乗り出していた所に急に声を掛けられ、バランスを崩しそうになり、クロックマスターは声を上げた。
その様子を見てこのホテルの管理人、グレゴリーはヒッヒッヒッと楽しげに笑う。
「……な、何の用じゃ?」
「いえいえ、私は掃除の為に来たのでございますよ?」
老鼠はそう言って、箒をサッサと振るう。
「……幻想を追い求めて彼が行きたいのは地獄なのでしょうか、それとも天国なのでしょうか?」
まぁ、誰かにとっての地獄が自分にとっての天国、と言う場合もございますので……。
一概には言えませんが。
老鼠はクックッと肩を震わせて笑う。
「……」
ミイラ父ちゃんが『どこ』へ向かおうとしていたか──。
クロックマスターには知る由もない話だ。たとえ知れたとして……特段、食指が動く話題でも無い。
「興味が無いのは、時にジェラシーと紙一重の時もございますよ……ヒヒッ……」
「……はぁ?」
とにかく、赤い満月の夜はあまり出歩かない方が宜しいかと……。
ニマニマと笑いながら、グレゴリーはその場を去って行った。
急にポツンと一人取り残され、クロックマスターはガクッと肩の力が抜けた。
息抜きに来たはずが、酷く疲れてしまった。
「いったい何だと言うんじゃ……」
恐らく元凶であろう月を睨みつけ、クロックマスターは自室へと踵を返した。
終わり。