てのうち 天気は雨。興味はないけど朝の占いは最悪だし、今朝はジャムの瓶が自分じゃ開けられなかった。でも、今日は最高にいい日でもある。店を五軒回っても手に入らなかった天使のリップを、放課後、我らが化粧番長たる男が有償で譲ってくれると言うのだ。割引で!足だってそれなりに弾む。
窓から見えるさらさらの髪のきれいな先輩も、転んでいる事務員さんも、今は全部全部関係ない。だけれど、化粧番長は学校に化粧を持ち込むくせに、廊下を走らないとかそういうルールには律儀だから、急がず焦らず、お淑やかに会いに行く。そんな遠くもないけれど。
同じ2年B組。私と真逆の窓側の前から二番目の席。それが化粧番長、鉢屋三郎の座る場所。
「テストで付けたときは口は付けてない、けどほんとうに良いのか?」
机の上に天使のリップ、いわゆるお宝、それも三色も並べて、化粧番長は胡乱げにこちらを見る。あちらが企んでいるわけでもこちらが企んでいるわけでもなくて、番長はいつでも胡乱げで、後ろで一つにまとめたくせの入った黒髪を揺らしている。
「もちろん良い!ねえどの色もいいの?」
外パッケージから出されたリップたちが、羽のふりをしたでこぼこを空とかLEDとかの光できらきらと見せつけてくる。かわいすぎる。ありがとう、情報をくれた可愛いトモミちゃん。ありがとう、メロカリに売る前に留まってくれた番長(中古の化粧品って、本当に売れるの?)
番長が良いけど金あるのか?なんて言ってくる。それは割引次第かもしれない。素直に言えば、それは君の態度しだいかもしれない。と番長は笑った。
「似合わんものを付けられても心苦しい。ブラシを用意したからこれで試そう。個数あるから二度付けはナシで」
「わしゃカツかい。ありがとう」
二本の指に挟んだブラシを、番長がゆらゆらと揺らす。受け取るために手を伸ばすと、ブラシを渡してくるかと思った細長い手に、自然な動作で鏡を持たされた。唇の下の方に意外と温かい指がやってきて、さすがに体が硬くなる。「今の化粧具合なら、これが一番合うと思うが」そっと唇の上を動く感触に、鏡の冷たさが恋しくなるくらいにあつくなった。胡乱げな表情が何処かにいった、お面みたいな真剣な顔。成る程揚げられそう。いやそれは絶対嫌。
……絶対嫌!
だって!このおしゃれ番長、学祭の出し物でみんなのメイクを担当した男でもある。男も女も竹谷の兎も、みんな同じように番長に監修された仲間たち。アイラインを描かれるのも、リップを塗られるのも、ヘアアイロンをかけてもらうのも、クラスの女子も男子も皆やられている。まったく特別でない。こちらに何ら感情がない。水槽の金魚に餌をやるくらい均一。それがわかっている。なのにここで揺らぐのは嫌すぎた。
そしてなによりの問題がある。「あれ?ここで紅を広げてるなんてめずらしいね」突然現れた、この不破というクラスメイトに番長はぞっこんなのだ。番長と同じと言っていい顔と髪。並んだ肩の高さも一緒。そんな相手に、番長はもうメロメロにメロついている。声色だって少し上がるし、声に含まれる空気が倍。振動に振動を重ねたウィスパーボイス。鉢屋は不破が大好き。それがクラスどころか学園中の常識だった。
「やあ雷蔵。委員会はもういいのかい?」うわ甘っ。
やってきた不破くんは、歩きながらこんにちは、と笑いかけてくる。それから番長の方を見て、邪魔しちゃったかい?と空気に溶かすみたいな声でささやいた。思わず番長の顔をうかがってしまう。
国語の朗読でハッとするくらい、不破くんはとってもいい声で、穏やかで明るい感じで声を出す。いまのはそれとは全然違った。眠るときみたいな、しっとりした声だった。ドキッとしたし、なんだか場違い感を感じて足がムズムズする。
「雷蔵が邪魔な時なんて無いよ。そうだ。君も一緒に選ぶかい」そう番長が笑う。話せて嬉しいと顔が言っている。
「おまえ、ぼくがそういうの苦手なの知っているだろう?」そう不破くんが苦笑する。悩みグセがあるのは、クラスみんなの知るところだ。
「時間がかかるだけで、きみの判断はいつも良いだろう?」なぜか自信げに番長が胸を張った。
ううん、と不破くんが言って、番長を見て、私を見て、それから天使たちを見る。大きなくろい目。お面みたいな静かな顔。番長の左手ににあったままのリップを取ったと思うと「これではないかな」と机に置いた。他のふたつを手にとって。比べるように色を見る。私、この後、特に予定ないから良いけれど。いやでも、そんなに遅くに帰るのは嫌だけれど。そう私も悩みはじめる。
「こっち」意外にも不破くんはすぐに色を選んだ。おお、と番長も感嘆する。付属のチップ部分を出して色をもう一度見た不破くんは、そのまま番長の顎を弱く掴んだ。すぐに番長の体が硬くなる。空とかLEDを反射させながら、番長の唇に色が乗せられていく。少し薄めのきれいなさくらんぼ色。番長には少し薄く感じるくらいの、可愛らしい色。
「きれいだね」
丸い目を細めて、不破くんが番長に囁いた。私の足は逃げ出したいのか踊り出したいのか分からないまま張り付いて、心臓だって驚きやら興奮やらでバクバクと音が聞こえそうなくらいで、ただ目の前の出来事をみることしかできない。対して番長はもう、かたまって、触れると熱そうなくらい、ジュウジュウと音が聞こえそうなくらい、揚げに揚げられていた。
染め上がった番長の頬を指で撫でて「おまえが照れてるときのこと考えてなかったな」と不破くんが呟く。頬の内側まで撫でるみたいにゆっくりと指を動かして「でも普段ならこれくらいでいいよね」と、ハチミツでも溶かしたみたいな瞳で言った。
唐突な少女漫画、かかったけど止まったてんとう虫が踊る歌、舞台を見る最前列。拍手したくなるような間の後で、不破くんがはっとしたように目を開いて「ああぼく……」とこぼす。それからきゅっと目を閉じて、「……じゃあ、」と声をだした。ちょっと裏返っている。番長のが移ったみたいに、気づけば頬も染まっている。
「三郎、正門のところで待ってる」
「……あ、はい……」
「大丈夫?……じゃあ、またあとで」
不破くんはやっとこちらにも向く。ちょっと気まずそうに、へへ、と笑った。
「ごめんね」
「あっ、いえ、全然、ほんと全然」
「また明日」
振られる手に合わせて腕を振る。気づいたら足も動くようになっていた。番長もようやく動き出して、塗られたリップに触らないように、でも唇を触りたいみたいに、周りをなぞっている。持たされてた鏡を渡すと、熱に浮かされたみたいにふらふらと顔の前に持っていっては、角度を変えて何度も唇を確かめていた。一番合ってるとは言えないはずの色が、やけにきらきらと輝く。天使が多分、微笑んでいる。
「なんか…色の問題じゃないかも」
「なに…何の話だ」
「でもご利益ありそうかも。残りふたつ、頂いていいでしょうか」
「十割引で手を打とう」
付き合わせてすまなかった、とまで番長は言う。未だに顔は真っ赤だけれど、落ち着いてきたみたいだった。スマホを取り出して、自撮りだってしている。ケースについた、不破くんとなぜか竹谷くんともお揃いの、なんだかよく分からない丸い球体のストラップも小気味よく揺れている。
「番長、インカメと外カメじゃ、画質が違うよ」
借りたスマホで番長を撮る。画面の中の番長、鉢屋三郎が、胡乱げじゃなくて自慢げに笑う。
不破くんも鉢屋が大好き。学園中が知ってるかは分からないけど、それが今日からの私の常識だった。