クロウとシオンが移動遊園地に行くだけ 昼下がり、だったように思う。レオさん達が連れ立って昼食を食べに出かけたタイミングだったからそう思っただけで、時計も窓も見ていない私にはそれ以外の判断材料がない。
昼時なのだろうが、食欲が仕事中の高揚感に勝った試しがない。頭を回すためのラムネと空腹を訴える胃酸を抑えるための胃薬を同時に噛み砕いて、書類の文字を目で追った。
期日までには余裕があるが、早く仕事を終わらせて仕事がしたかった。仕事が終われば仕事ができる。くらりとして、また食欲が遠のいた。
どんな環境下でも仕事の能率が変わらない自信はあるが、それは能動的に仕事を中断されなければ、という意味だ。だからわざとらしい物音を立てて動いた隣の椅子には何の意味もないはずだった。その椅子を動かした男が、蝶の羽音のような声を出さなかったのなら。
「クロウ。近くに移動遊園地が来たらしいよ」
「そうですか」
男──紅月夜シオンは椅子に腰掛ける。思い切り椅子を近づけてくるものだから、硬質な靴がこちらの椅子の足に当たってコツン、と鳴った。
「食事は?」
「シオンさんこそ。レオさんたちから昼食に誘われなかったんですか?」
私は誘われましたけど。そう付け足せば、シオンさんは独り言のように「薄情な男だ」と笑う。
「移動遊園地。行ったことはあるかい?」
シオンさんの中で昼食の話題は終わったものなのだろう。どうやら先ほどから心を寄せているらしい移動遊園地の話を持ち出してきた。
「ないですね。見たこともありません」
「あれは面白いよ。昔に少し関わったことがあるんだけどね」
ライオンがいるよ、と。それが誰しもにとって魅力的だと言うようにシオンさんは微笑んだ。別にライオンは動物園にだっていると思うが、私はそんなことを言うほど野暮じゃない。……野暮ではないというか、会話を広げたくなかっただけだ。しかしシオンさんが何かを期待するようにこちらを見てくるから、バレない程度に溜息を吐いて会話を続けた。
「……ライオンがいるのはサーカスなのでは?」
「そうだっけ? まぁ、大差はないよ。どちらも存在自体があやふやな、ゆめまぼろしのようなものだから」
シオンさんの言葉に、何も残らない、空っぽの景色を思い浮かべてみる。その空間は意識の中でぼんやりと夜になり、出所のわからない橙の灯りがキラキラと揺れていた。
「そんな素敵な場所に、40分程度で行けるんだ。素敵だと思わないかい?」
シオンさんはそう言って私のパソコンを覗き込んだ。咄嗟に全ての画面を最小化した私を気にすることもなく、彼は路線図を開けと指示をしてくる。お望み通り開いた路線図を指し示すものだから、モニターにぺたりと指紋がついた。
「ここの駅だよ。ふーん……鈍行じゃないと止まらないのか」
細く白い指先が触れたのは、そこそこ遠くの駅だった。降りたことはないが、通ったことくらいはある。車窓から見ても印象に残らない、パッとしない街だ。
「……あそこにそんなスペースがありましたか?」
取り立てて話題になる街ではないが、一応は都心からアクセスできる位置だ。バスに乗って駅前から離れれば広い場所に出るのだろうか。口には出さないがそんなことを考えていたら、シオンさんはまるで私の思考を読んだかのように口を開く。
「知らないのかい?」
シオンさんはモニターを遮るようにして私の顔を覗き込んできた。私はきっと赤いであろうその目を見ずに、銀の髪を透かしてモニターを見ていた。
「降りたことのない駅……車窓から見える景色っていうのは、一枚の絵なんだ。その後ろにはからっぽが広がっていて……誰かが降りると決めた時に、ようやく形が生まれるのさ」
「……なんですか、それ」
「信じていないね。……まぁいいかな。ねぇ、一緒に行かないかい?」
正気か、だとか、どこに、だとか。言いたいことはあったけれど、これらは言わなくてもいいことだ。ただ、関わらなければいい。
「他の人と行ってください」
「他の人なんていないよ。レオ達は昼食にも誘ってくれない」
「スマホを開いて、登録されている連絡先に上から順に声をかけてください」
「なら、クロウ以外の連絡先を消したら一緒に行ってくれるのかな?」
「行きませんよ。ご友人は大切になさってください」
「なら、これも仕事だって言ったらどうかな」
「行きます」
「なんてつまらない男だ! ふふ、クロウはそうでないとね」
心底楽しそうにシオンさんは笑う。普段は優雅に弧を描くだけの口元から、白く尖った歯が見えた。
「……ただし」
最後の抵抗に口を開いた。なんとなく、全てがこの男の思い通りなのは癪だ。
「仕事があるので。……五日後、まだ移動遊園地があったのなら、ご一緒しますよ」
「うん。期待してるよ」
私に期待したって意味がないだろう。思ったけれど、言わなかった。
気分転換にコーヒーでも淹れようか。台所から「シオンさんも飲みますか?」と声をかけたけれど、気がついたらシオンさんはいなくなっていた。
***
約束をしてから五日後の朝、勝手に部屋に入ってきたシオンさんが「移動遊園地は元気に営業を続けている」と満面の笑みで告げてきた。カバンの中から粉々になったクッキーが見つかった時のように、どうにもならない残念さがあったが仕方がない。約束は約束だから仕方がない。言い聞かせるように呟いた。仕方がない。
財布とスマホと、あとは何がいるのだろう。シオンさんはハムスターを二匹も入れたらいっぱいになりそうな、小さいカバンを持っていた。銀色で華奢なそれはシオンさんに似合っていて、容れ物というよりはアクセサリのようだった。
「クロウはいつも同じ服を着ているね」
「服を選ぶのは手間でしょう?」
いつもの服に、財布を入れただけのカバンを持って家を出る。シオンさんは長い髪を軽く結えて、普段より少しだけカジュアルな服に身を包んでいた。黙っていれば、余計なことをしなければ、変な思いつきをしなければ美しい男なのに、とぼんやり思う。乗り込んだ鈍行列車はなんだか活気がなくて、それはシオンさんの纏う雰囲気──色香のようなものによく似合っていた。
「クロウは電車が似合うね」
「シオンさんは電車が似合わないですね」
「ふふ、どっちが褒め言葉なんだろう」
電車はゆっくりと私たちを目的地に運んでいく。少しずつ人を飲み込んで、急行が止まる駅に着いたら溜め込んだ人間を一気に吐き出す。私たちはそれを見ていた。途中まで急行に乗ればよかったのに、そうはしなかった。
「鈍行でしか止まらない駅って、名前を覚えないよねぇ」
電車はいちいち止まる。どの駅の名前も、ピンとこない。
「……この駅も、あの駅も、」
人が、数人降りていった。
「シオンさんが言うには、全部絵なんですよね」
「そうだよ」
「なら、降りて行った人たちはどこに?」
人が、数人乗り込んできた。
「それぞれさ。家だったり、仕事場だったり。……裏側にあるからっぽは、形を変えるから」
「なら遊園地ではなく、仕事のできる場所に変わってくれるといいのですが」
「無理だよ」
私は景色を見ている。一枚の絵を見る心地で、表面だけを視線でなぞる。
「私が、強く望んでいるからね」
横で道連れだと笑う声がした。彼の表情に興味はなかったから、ただ降りることのない駅の、その風景を見ていた。
*
電車を降りて、たったの5分は歩いただろうか。低いビルを二つ通り過ぎたら、そこに移動遊園地はあった。
「うわ……本当にあった」
「往生際が悪いなぁ」
シオンさんは楽しそうに、当たり前のように遊園地に入っていく。いつもの不法侵入も外でやったら洒落にならない。「チケットを、」と捕まえた腕を握り返して、シオンさんは目を細めた。
「入園料はないよ。チケットを買って、それと引き換えにサービスを受ける」
「ああ……そうなんですか」
「本当に仕事以外のことを知らない……いや、私が詳しいのかな」
シオンさんは私の数歩前を歩く。このままこっそりと立ち止まって、引き返して、たった一人にしたらどうなるんだろう。駅に帰って、電車に乗る。この景色がただの絵になって、空っぽの裏側にシオンさんは取り残される。
それでも、なんとなく、大丈夫な気がする。そんなことを考えていたら、シオンさんを見失ってしまった。
「ああ……それは、そうですね」
シオンさんが一人になるということは、私だって一人になるということだ。そこで、ふと気がつく。この遊園地には人の気配がない。
平日の昼間だからだろうか。従業員の姿は見えるのに、客らしき人影がひとつもない。ただ楽しげな音楽がなっていて、どこもかしこもキラキラとしていて、クレープの甘い香りが漂ってくる。人がいない以外は、完璧な空間だった。
「はい、チケット」
聞き慣れた声に振り向いたらシオンさんがいた。綴られたチケットを私に差し出して、「あげる」と甘やかすような声を出してくる。
「ん? ……どうかしたのかい?」
言いたいことはあったけれど、そのどれもが楽しげな音楽にはそぐわない。
私は誤魔化すように口にする。
「……いえ。これでクレープは食べられるんですか?」
「食べられるよ。クレープも食べられるし、ジェットコースターにも乗れる。射的もできるしお化け屋敷にも入れる……」
そう言ってシオンさんはくるりと遊園地を見渡した。思ったよりも広いけれど、視界の先には明確な終わりが見える。
「クレープでも食べようか」
「ああ……でも、手が塞がったら乗り物に乗れないのでは?」
「大丈夫だよ」
瞬間、銀の髪に太陽が反射して光が灯るのが見えた。
「まだ、時間はたっぷりあるから」
太陽はまだ高い位置にあった。目の前の男には、ひどく似合わなかった。
*
クレープを食べ終わってもまだ日は高かった。シオンさんはハムスターの代わりに品のいいハンカチを取り出して口元を拭う。私はもらった紙ナプキンをどこに捨てればいいのか困っていた。
ゴミ箱はメリーゴーランドのそばにあった。メリーゴーランドは楽しげな音を奏でながらクルクルと回っている。乗客は一人もいなかった。
「せっかくだし、乗ろうか」
「……成人男性二人でですか?」
「仕事で来てるんだから、なんでもやらないと。何がネタになるかわからないだろう?」
メリーゴーランドに並んでいる人は一人もいなかった。それなのに、乗客のいないメリーゴーランドはクルクルと回っている。入り口に近寄ると、髪を高い位置でお団子にした従業員が現れた。
ようこそ! だとか。そういうことを言っているようなのだが、うまく言葉として捉えられない。音楽でうまく聞こえないのだろうか。そんなことを思っていたら、突然後ろから突き飛ばされた。
「なっ、」
「楽しんでおいで」
後ろを見ると、シオンさんが入口から離れていくのが見えた。「ちょっと、」と声をあげたのも束の間、従業員が私の手を掴む。
楽しんでいってください!
そう言われた気がするのだが、これもイマイチ確証が持てない。従業員は私を引っ張って、外周を回る大きな白馬に私を乗せた。
「あの……馬車とかで充分なのですが」
せっかくですから、ね! 言葉は相変わらず聞き取れないのだが、従業員は満面の笑顔を見せて小さな部屋に戻って行った。
控えめな音量でブザーが鳴って、メリーゴーランドが回り出す。
なんというか、つまらなかった。クルクルと同じ景色が繰り返されるだけで、なんの高揚感もない。しかし恥ずかしさなども特にないので、ぼんやり、ただ遊園地を眺めることにする。ふと気がつくとシオンさんが見えた。シオンさんはこちらを見て、楽しそうに手を振っている。
何周したのかわからないけれど、それと同じくらいシオンさんを見た。二回くらいは手を振り返したけれど、途中で辞めた。シオンさんはメリーゴーランドが止まるまで、ずっと手を振っていた。
*
「ああ、楽しかったね」
「シオンさんはメリーゴーランドに乗っていないでしょう」
「クロウが流れてくるのが面白かったんだよ。回転寿司みたいで」
シオンさんは私をまじまじと見て「芽ねぎ」と呟いた。だったらこの人は真鯛とかそのあたりだろうか。ケイルさんは怒ると思うが、次の企画はロシアン寿司なんかはどうだろう。意識が逸れた私の肩を軽く小突いて、シオンさんが前方を指差した。
「ピエロがいる」
「本当だ。ピエロがいますね」
ピエロは恰幅がよく、ケイルさんくらいの上背があった。シオンさんの方が長身だが、ピエロの横幅はシオンさんの倍はある。なんというか、絵本で見るピエロそのものといった風体だ。
彼だか彼女だか──ピエロは風船を配っていた。いや、園内には誰もいないから配っているところを見たわけではないが、片手に風船をひとつだけ持ってウロウロとしている。シオンさんの瞳と同じ色をした風船が、ゆらゆらと揺れていた。
「可哀想に。もらってあげよう」
シオンさんがピエロに近づいていく。少し迷ったが、私はここで待つことに決めた。ピエロとの距離は十歩もない。シオンさんが私を呼べば声は届く。
シオンさんとピエロの会話は聞こえない。シオンさんは時折口元に手をやって、静かに肩を揺らしている。対照的にピエロは大袈裟に体を動かし、腹を抱えるようにして体を捻じ曲げていた。
計ったわけではないが、5分もしないうちにシオンさんが風船を手に戻ってきた。一度だけ風船に目をやった隙にピエロはいなくなっていて、私たちはまた二人きりになってしまう。
「見てごらん。風船だよ」
「風船ですね」
「あげるよ」
シオンさんは木漏れ日のような優しい笑みでそっと風船を差し出してきた。正直、ゾッとするほど似合わなかった。この人は夜の生き物で、月明かりと人工的な灯りでしか照らせないというイメージがあることに気がつく。その笑みの、作り物めいた美しさが怖かった。
「……別に、」
「いいから。せっかくの遊園地なんだから」
差し伸べられた糸の先で、目の前の男の瞳の色をした風船がゆらゆらと揺れている。ぐら、とめまいがした。この人の差し出すものが手を伸ばせば手に入るという事実は甘い毒だ。わかっているのに、その微笑みから逃れられない。
「……なら……」
そっと、薄氷をなぞるように手を伸ばす。その糸を掴もうとした瞬間に、シオンさんは風船から手を離した。
「え?」
「あーあ、」
風船は真っ逆さまに空へ向かって落ちていく。気がつけば傾いてきた太陽に寄り添うように、真っ赤な風船はどんどん小さくなっていく。
「飛んでいっちゃったね」
風船から視線を戻せば、シオンさんは風船ではなく私の目を真っ直ぐに見ていた。私の目の、その心の奥底を覗き込むように目を細めて、愉しそうに顔を歪めている。
逃げたいと、そう思った。
「どうしよう。また貰いにいこうか?」
「いえ……別に、そこまで欲しかったわけではないので」
私が息を吸い込む間に、シオンさんはいつも通りの胡散臭くて捉え所のない男に戻っていた。いや、この人は最初から何一つ変わっていないのかもしれない。ただ、ふと見慣れない一面を見ただけで。
「でも受け取ろうとしただろう?」
「シオンさんが『受け取れ』って圧を出してたからです」
この話はこれで終わりだと態度で示すために、私は率先して歩き出す。目当てなんてひとつもなかったが、歩き出した先にはキッチンカーがあった。くっついている看板には『ターキーレッグ』と書かれていて、いくつかのテーブルと椅子がある。
「……塩辛いものでも食べましょうか」
まるで、初めからターキーレッグが食べたかったかのように振る舞った。シオンさんは私の横で「ビールでも飲もうか」と笑っている。
私は風船が欲しかったのだろうか。わからない。
でも、貰えるはずだったものが貰えないのはなんだか釈然としない。別にそんなに欲しくもないものなのに、人間の心理は厄介だ。
風船が欲しかったのだろうか。それとも、この人からもらえればなんでもよかったのか。
ターキーレッグと、ビールと、ピザを買った。シオンさんはフランクフルトとトルネードポテトが気に入ったようで嬉しそうにしている。味ではなく串に刺さっているという事実が好きなこの男は相変わらず変な男で、いつもとなんら変わらなかった。
*
酒が入ったからか、単純な慣れからか、もう園内に私たち以外の客がいないのにも慣れた。慣れてしまえば何をするにも待つことがなく、快適なことこの上ない。
遅い昼食がてらしっかり食べてビールまで飲んだので、ジェットコースターの類には乗りたくないということで私たちの意見は合致した。
腹ごなしに歩いてもよかったが、そうまでしてここにいる理由もない。
特に目当てがないのならば帰りましょう。
そう伝えれば、シオンさんは少し考え込むような仕草を見せて、決定事項をまるでねだるように口にした。
「観覧車に乗りたいな」
観覧車と言われてピンとこない私に教えるように、シオンさんが私から視線を外す。その視線の先に、こじんまりとした観覧車はあった。
「観覧車、あったんですね」
「遊園地だからね。大抵の遊園地には観覧車がある」
「小さくて気が付かなかったです」
観覧車まで歩く途中、従業員が地面に水で絵を描いていた。シオンさんはそれを「カラスだ」と言い、私は「鳩では?」と言った。そんなもの『鳥』でいいのにお互いに譲らず、気がついたら観覧車の乗車口まで辿り着いていた。
「近寄っても小さいですね」
観覧車はそのすべてがすっぽりと視界に収まってしまう大きさしかなかった。案の定ではあるが、巡ってくる小さな箱から乗客が出てくることもない。
「こんなに小さいのなら、10分くらいで終わってしまいそうですね」
「残念かい?」
「特には」
私たちを案内したのは眼帯をした背の低い男だった。何も言わず、ただ笑って私たちを誘導する男の歯はいくつもが欠けていた。
観覧車はゆっくりと動く。こんな小さな観覧車だから、きっとこれくらい遅くないと一瞬で終わってしまうのだろう。
「楽しかったね」
シオンさんは満足そうに呟いた。私はそこまで楽しくはなかったのだけれど、水を差すことはしない。ただ、嘘を吐く気もない。
「ターキーレッグ、美味しかったですね」
「うん」
「ビールも生ビールでしたし」
「うんうん」
「クレープも美味しかった」
「ふふ」
シオンさんは私が食べ物の話ばかりしても何も言わなかった。代わりに、数回「楽しかった」と噛み締めるように口にした。何が楽しかったのか、ひとつも教えてはくれなかった。
4割くらい上っただろうか。シオンさんはずっと景色を見ている。私もそれに倣えば、ジオラマのような遊園地が見えた。
「……夜ならライトアップされてもっと綺麗でしょうね」
「夜までいる?」
「帰りますよ。……仕事がある」
何時までいるかなんて決めてこなかったが、もう充分だろう。この来園自体が仕事だとはいえ、そんなに遅くまで付き合う義理はない。
「そろそろ頂上だ」
一番高いところにきても見える景色はパッとしなかった。ただ、メリーゴーランドの綺麗な円だけがやたらと目について、思い出すようにシオンさんを見る。シオンさんはずっと外を見ている。なんだか、同じ空間にいるのに違うものを見ているみたいだ。
太陽で暖められた室内はポカポカしていて、なんだか気が抜ける。乗ってきた、足元だけがやたらと暖かい電車を思い出す。聞こえるはずのない音と、あるはずのない振動が指先にまとわりついてくる。ごとごと、ごとごとと揺れるような──。
「っ!?」
ガタ、と観覧車が揺れた。立ち上がりこそしなかったが、私が大きく動いたからだ。
「えっ、私いま寝てました、よね?」
「うん。ぐっすりと寝ていたよ」
やってしまった。と思って外を見るが景色に変化がない。強いて言えば、視界が低くなったくらいか。
「……これ、何周目ですか?」
「いや、一周目だよ」
「そんなわけ……」
そんなわけがない。本当に、本当に深く眠ってしまった感覚がある。真夜中になっていたっておかしくないと、体内時計が告げている。
「外を見てみなよ。まだ日は高いし……信用できないなら、下にいる従業員に聞けばいい」
「そう……ですか……」
「逆じゃなくてよかったじゃないか。寝た気がしないのに時間だけが経っているのはいただけない」
「……それもそうですね」
奇妙な体験だがあり得ないことではない。思えば今日の出来事はそんなことばかりだ。あったっておかしくないんだ。奇妙な従業員も、誰もいない園内も、風船をわざと手放すシオンさんも。
「帰りましょう」
「うん。そうだね」
この小さなゆりかごが降りれば奇妙な一日は終わりだ。名残惜しいと思うにはなんだか現実感の足りない、ゆめまぼろしのような時間だった。