さやけき歌が響く夜 どさり、と重い音がした。丁寧におろそうとしたのに、手元が狂ってしまった。長谷部は手足を投げ出したまま、畳の上に転がっている。
「ごめん!痛くなかった!?」
審神者──内村光一は、慌てて長谷部のそばに跪き、そっとその頭に触れる。痛くなかっただろうか。長谷部の顔を覗き込んで、不安げな表情を浮かべた。
長谷部は朦朧とした眼差しを向ける。
「……大丈夫、です」
はあ、と長谷部の口から熱のこもった吐息が漏れる。重たげに腕を動かすと、自分の額の上に置いた。
話は2時間くらい前に遡る。
その日、本丸ではささやかな宴席が設けられていた。
この本丸の主である光一は敬虔なカトリック信徒だ。日頃から静かな暮らしと慎ましい食卓を好み、「清貧」という言葉を体現するかのような青年だった。
ただ、この日は特別だった。本丸創設半年という節目の夜だった。
「あの、僕、あるじさまとお祝いが、したい、です……」
などという声が、随分前から何人もの刀剣男士の口から上がっていた。光一も彼らの熱心な要望を無碍にすることはなかった。
「今夜は特別メニューだよ」
光一の言葉と共に並べられた料理はかつてないほど豪華で、宴席に集まった刀剣男士達は一斉に声を上げた。
まず目を引いたのはメイン料理だ。大皿にチキンの香草焼きと白身魚のパン粉焼きが盛られている。チキンの香草焼きからは清涼なハーブの香りが、白身魚のパン粉焼きからは香ばしいパンの香りが立ちのぼり、二つの香りが混じり合った室内は、そこにいるだけでお腹が鳴りそうだった。
メイン料理の周りには色とりどりのサラダと副菜だ。テーブルの隅々を所狭しと並べられ、華やかなテーブルに彩りを添えている。
それだけではない。各人の席の前にはバゲッドの入った籠とパスタ、パエリアがあり、部屋の片隅には小さなケーキが数種類、出番を今か今かと待ち構えている。
「光忠さん、今日もありがとう」
「どういたしまして。主も頑張ったね。お疲れさま」
にこやかに光忠と言葉を交わして、光一は席につく。いつもより丁寧に食前の祈りを捧げ、続いて乾杯。慎ましくグラスを掲げて口をつけると、ワインのなめらかな余韻が喉を伝っていった。
口の中に残る僅かな酸味を舌に感じながら、光一は目を閉じる。
いい夜だ。自然と彼の口元に笑みが浮かんだ。
彼は酒に酔うことがない。これまで何度かアルコールを口にしてきたが、酩酊感を感じたことは一度もなかった。ただ、胸の奥にじんわりと、灯るような温もりを感じるだけ。もし、これを酔いだというのなら、なんて心地の良いものだろうと、その程度に感じていた。
もう一口、光一がグラスを傾ける。舌先をささやかな温もりが転がっていく。隣で誰かが座る気配がした。
「主、ご苦労であったな」
穏やかな声音に光一が目を向ける。気がつくと、隣に三日月がいた。相変わらず美しい容貌だ。近くで見ると、目が眩みそうになる。
三日月は薄く微笑むと、手に持っていたお猪口二つと徳利を掲げてみせた。
「良かったら俺の盃を貰ってくれ。祝いだ」
三日月はそう言うと、持っていたお猪口をテーブルの上に置いて、優雅に酒を注いでいく。
背後の障子が開け放たれ、濃紺の帳をまとった夜の景色がのぞいている。その淡い月明かりに照らされた三日月の姿は、昔見た日本画のようだ。澄み切って、穢れがない。三日月の前では、どんな言葉も霞んでしまいそうだった。
光一はそっと唇の端を上げる。
「では、いただきます」
飲んでいたワイングラスを置くと、お猪口を一つ取り、小さく掲げる。
「乾杯」
三日月と目を見交わす。お互いに一息に飲み干すと、二人の間にあたたかな笑みが溢れた。
「三日月さんは――」
言葉を続けようと口を開いた瞬間、ふと、光一の視界の隅で人影がよぎった。
目を向けると、次郎太刀の盃を長谷部が受け取るところだった。
「……ああ、捕まったようだな」
同じように目を向けた三日月が、楽しげに目を細めている。
「あれは潰されるぞ。主、気にしておけ」
三日月の言葉には揶揄うような色が滲んでいる。
光一は心配そうにしばらく長谷部を見つめ──意を決して立ち上がりかけたところで、背後から鶴丸に声をかけられた。
「おっ?今夜は主も飲むのか?だったら俺も混ぜてくれよ」
三日月と反対隣に腰掛け、早速空になった光一のお猪口に酒を注ぐ。
光一は一瞬躊躇ったが、腹をくくると一息に飲み干して、すぐに立ち上がろうとした。
この程度では酔わない。それより早く長谷部を助けに行かないと。焦りが彼を思い切った行動に駆り立てた。
だが、今度はそのお猪口に、別の酒を注がれる。
「待って」
光一の声は宴席の喧騒に飲まれ、誰の耳にも届かない。
光一は席を立つ機会を失ったまま、次郎太刀の盃に沈んでいく長谷部の姿を、ただ見つめることしかできなかった。
そして、今に至る。
「長谷部、これ飲んで?」
光一は水の入ったコップを持ってきて、長谷部のそばに腰を下ろした。長谷部の上体を支えて少し起こすと、飲みやすいようにそのまま手を添える。長谷部の熱がシャツ越しにじんわりと伝わってきた。
二人がいるのは光一の部屋だ。長谷部の部屋に連れて行っても良かったが、酔った長谷部を一人部屋に残す気にはなれなかったし、自分が彼の部屋に居座るのも気が引けた。結果、自分の部屋に連れてきてしまった。
長谷部の顔色は悪い。額に汗を浮かべて、浅い呼吸を繰り返している。
よほど苦しいのだろう。水を飲み干すと、彼は少し身を捩った。
「気持ち悪い?」
光一が心配そうに背中をさする。長谷部は何も言わず、ただ軽く手を振って答えた。
「……今日はよく飲んでたね。長谷部があんなに飲んでるとこ、初めて見た」
光一は申し訳無さそうに目を伏せる。
あのままでは長谷部が酔いつぶれると分かっていた。なのに周りの雰囲気に流されてしまった。長谷部に申し訳ないことをしたと思う。
光一は細く息を吐くと、目を閉じる。
(主よ、僕はまだ未熟です。あの時、彼を守りきれませんでした。でも、今は傍にいます。どうか、この手をお導きください)
心の中で小さく祈り、ほんの少しだけ頭を下げる。
長谷部に触れていた手が、ゆっくりと離れた。
「酒、強いん、ですね」
光一を祈りの中から引き戻すように、長谷部が呂律の回らない舌で声をかけてきた。
光一は軽く笑って、長谷部の額に自分の額を押し当てる。
「僕は強いよ。実は酒で酔ったことは、一度もない」
長谷部の頬を両手で包みこんで、光一は切なげに漏らす。
「……本当に、心配したんだからな」
案じる気持ちと、何も出来なかったやるせなさ。その全てを伝えるように、光一は静かに長谷部の額に自分を押し付ける。
長谷部が小さく息を飲んだのが分かった。その息に呼応するように、彼の手が光一の左手首を包み込む。キスの合図だ。手首にあるロザリオの感触が、肌に伝わってくる。僅かに離れていた唇が、吐息が混ざり合うほど近くなっていく。
(相当酔ってるな)
少し笑ってしまったが、酔っていてもこんな風に求めてくる。その気持ちが嬉しかった。
心の奥でささやかに灯る喜びを、光一はそっと唇で受け取る。長谷部の熱が心地よかった。
光一が静かに体を引くと、長谷部の名残惜しそうな眼差しにぶつかった。長谷部の顔色は相変わらず悪い。気遣うように光一は長谷部の顔を指で撫でると、
「まだ顔色悪いね。今夜は遠慮なくここで休んでいって。僕でもいた方がいいでしょ」
と、ゆるやかに笑ってみせた。
長谷部はとろりと眦を下げる。光一の手を頬に当てると、「助かります」と苦しげに息を吐きながらも、ほっとしたように呟き――動かなくなった。
「……長谷部?」
頬に手を当てたまま微動だにしない長谷部に、光一が顔を覗き込む。どうやら光一の手に触れていたら、安心して眠くなってしまったらしい。長谷部の瞼が徐々に降りていくのが見えた。
光一は苦笑し、長谷部の額に軽く口付けた。そっと手を引き抜いたあと、音を立てないよう慎重に布団を敷く。
「長谷部」
光一が声をかけると、長谷部の瞼が重苦しく開く。布団を指し示せば、長谷部はゆっくりと布団の上に移動した。
「すみません」
長谷部は仰向けになるなり、苦しげに息を吐き出した。汗ばんだ額に前髪が張り付いて、気持ち悪そうに見えた。
(つらそうだな)
光一はその髪の一つ一つを丁寧に避けながら、自分の中に湧き上がる静かな愛情を感じていた。
安らいで欲しい。想いは、ただこれ一つだ。呼吸は深く。苦しげな表情は穏やかに。浮かんだ汗は消え、静かな眠りに身を委ねてもらいたい。
せめて、もっと深く眠ってもらえればいいのに。
(主よ)
光一は頭上を見上げる。
(どうか長谷部に安らぎをお与え下さい)
長谷部の頬に指先で触れ、光一は小さく息を吸い込む。
(今苦しんでいる彼に安らぎを。どうか、彼の苦しみを取り去ってください――)
祈りの言葉は胸の奥から溢れ出す。やがて旋律となって、自然と彼の口から漏れた。
「……Pie Jesu, Domine」
ゆっくりと言葉を紡いでいく。まるで子守唄のように。一音一音に気持ちを込めながら。静かに、けれど確かに、言葉を旋律にして編んでいく。
長谷部が何事かと口を開きかける。光一はその唇にそっと人差し指を押し当てて、静かに首を横に振った。
言葉はいらない。今はただ祈りに身を委ねて。光一の目が静かに語りかけてくる。
「dona eis requiem……」
旋律は静かに、空間のすみずみへと染み込んでいく。低く、厳かに、けれど優しい。天上から舞い降りた調べが、柔らかく二人を包みこんでいく。身を委ねれば、体が天高く舞い上がりそうな心地がした。
長谷部が目を閉じると、光一は彼の額に手を乗せた。
「Dona eis requiem sempiternam……」
どうか、彼に、末永い安らぎを。
切なる願いを歌に乗せて、光一はゆっくりと歌い上げる。祈りの言葉が天へと届くように。願いが神の耳にも響くように。穏やかに、ゆるやかに、旋律は静かな夜へと溶けていく。
「――アーメン」
歌い終えると、柔らかな沈黙が二人の間に落ちた。光一は身を屈めて、長谷部の額に唇を落とす。衣擦れの音が、静かな室内にやけにはっきりと聞こえた。
長谷部はゆっくりと目を開ける。
まだ焦点の定まらない目を光一に向けると、
「……今のは?」
かすれた声で漏らした。
光一は小さく微笑んで「聖歌」とだけ呟いた。そっと彼の前髪に指を潜り込ませる。髪の柔らかい感触が指先に心地よかった。
「キリスト教ではね、歌もお祈りの一つなんだよ。しかも、歌う者は二度祈るって言われてるんだ。だから今夜はちょっと欲張って祈ってみた」
ふふっと笑って、もう一度、唇を長谷部の額に落とす。早く良くなって欲しい。祈りを祭壇に置くように。静かに、捧げるように。
静かな時間が二人の間を流れる。その中で、光一が身を起こそうとした瞬間、長谷部は離れかけた彼を抱き寄せた。
長谷部の唇が光一の名を呼ぶ。優しい声音で、とても大事なものを慈しむように。
光一は頬を赤らめ、咄嗟に目を逸らした。「だめだよ」と小さく囁いたのは彼なりの自制心だ。左手のロザリオが彼の視界で小さく揺れている。
長谷部はくつくつと笑って、「分かってますよ」と応じる。
「ただ、今夜はこうしていてもいいですか?」
光一の背に腕を回して、耳元で甘えるように囁く。
光一は長谷部の胸に身を預ける。
「……うん」
小さく頷いて、長谷部の胸に頭を寄せると、彼の手がまた光一の左手首を包んだ。光一の呼吸が変わる。それが示す意味は、もう知っている。
光一はほんの少し伸びをするようにして顔を上げる。
唇が、触れる。
苦しげだった長谷部の呼吸は、いつの間にか穏やかなものに変わっていた。