七夕に願いを「これに好きな願い事を書くといい。ああ、主の場合は君の神に対して願い事を書くのだったね」
短冊を何枚か手渡した歌仙兼定は、彼の主――内村光一を見て柔らかい笑みを浮かべた。
今日の光一の服装は、いつもの洋装ではなく浴衣だった。落ち着いた紺地の浴衣に、同じく落ち着いた色の男帯。いつも手首につけてるロザリオブレスレットが袖の隙間から覗いていたが、今日はそれが少しだけ浮いて見えた。
「急いで誂えたけど、ちゃんと似合っているようでよかった。動きづらくはないかい?」
「少し……。あの、本当に似合ってる?」
「似合っているとも。僕の見立てに間違いはなかったと感心していたところさ」
「よかった……」
そう言うと、光一は受け取った短冊を胸に当てて、恥ずかしそうに、けれどどこか嬉しそうに笑った。おそらく彼の頭に浮かんでいるのは、たった一人の顔だろう。へし切長谷部、彼の忠実な部下であり、大切な恋人。浴衣を着せてほしいと頼んできたのも、たぶん「長谷部に見せたいから」といったあたりだろう。
「きっと彼も喜んでくれるよ」
歌仙が笑顔と共に言い添えると、光一の顔が一瞬で朱に染まる。
「は、長谷部は関係ないよ……!」
声が少しだけ上擦っている。笑ってしまった。歌仙は「彼」としか言っていないのに、彼は今はっきりと「長谷部」と言った。やはり彼の頭の中は長谷部のことでいっぱいなのだろう――微笑ましい。
歌仙は彼の肩を軽く何度か叩くと、「分かってるよ」と笑いを堪えながら言い添える。
「短冊に願い事を書き終えたら、広間に笹が飾ってあるからそこにかけたまえ。どんな願い事を書くのか楽しみにしているよ」
そして光一を残して、部屋を出ていく。
光一はその後ろ姿を見送って、足音が遠のいたのを確認してから、ほう…と小さく息を漏らした。
「喜んでくれるかな」
さらさらとした手触りの浴衣に触れると、口元に笑みが浮かんだ。胸が小さく弾んでいる。
光一が浴衣を着るということを、長谷部にはまだ教えていない。目にした時、彼はどんな顔をしてくれるだろうか。
想像して、光一は思わずその場にしゃがみ込んだ。浮かんだ長谷部の顔は、普段の何倍もかっこよくて、頭の中のものなのに直視することさえできなかった。
(主よ……どうか僕をお諌め下さい。彼の前にいると、自分が自分でいられなくなってしまうのです……)
まだ脳裏にちらついている長谷部に、みるみるうちに自分の顔が熱くなっていく。慣れなければと思うものの、意識すればするほど顔が火照っていく。
(……まともに顔、見れるかな)
長谷部と約束をした時間までは、あと1時間ほどある。それまでに願い事を書いて、広間にある笹の前に集合。二人で短冊をかけようという約束だった。
(そうだ。願い事書かなきゃ)
慌てて机に向かうが、頭の中はまだ長谷部のことでいっぱいだ。
彼のことだからいつものように褒めてくれるに違いない。歯の浮いた言葉をたくさん並べて、光一に喜びと気恥ずかしさを与えてくれるだろう。
でも大事なのは言葉じゃない。長谷部の発する声や眼差しだ。全身を柔らかく包み込むような優しい声、愛しさを隠しもしない眼差し。想像すると、また体が熱くなる。
「どうしよう……願い事が浮かばない」
頭の中は長谷部一色。その中で頭に浮かんだ願いは単純だ。「長谷部とずっと一緒にいられますように」それだけだ。
だが、一緒に短冊をかけようと約束したということは、この短冊に書かれたことを長谷部も見るということだ。一緒にいたいだなんて、長谷部に見られたら恥ずかしくて死んでしまいそうだ。
(主よ、主よ、どうか僕に良い願い事を教えて下さい。あぁ……いえ、教えてくれなくてもいいです。せめてお導き下さい!)
思わず指を組んで、祈りを捧げる。こんなことを神に祈る自分が情けなくもあったが、神に縋ってでも別の願い事を編み出さなければ、未来の自分がどうなってしまうか。想像さえしたくなかった。
せめて長谷部が見て問題がない願いで、尚且つ彼の尊敬を得られるものを探さないと。
焦る彼の脳裏を、良心の声が稲妻のように割け入ってくる。
神の前に正直であるのが正しい信仰の形だろう。この短冊は神に乞い願うものだ。ならば素直に思いを書いた短冊を、堂々と彼に見せることを神も望まれるはず。嘘はいけない。
正論を突きつけてくる良心の声に、思わず頭を抱える。
待て。冷静に考えろ。長谷部が、見るんだぞ?神は素直に打ち明けられない自分を憐れみ、お赦しになる。弱い自分を受け入れて下さる。傷付いた葦を折らず、暗くなる灯火を消すこともない。別に嘘をつくわけじゃない。ただ、別の願いを書くだけだ。
「……そうだ。本丸のことを書けばいい」
ふと浮かんだ考えに光一は思わず手を打った。すぐに十字を切り、「主よ、感謝いたします」と再び指を組んで祈りを捧げる。
本丸のことを書けば、長谷部が見ても問題ないし、何より本丸の安寧は毎日祈りを捧げている。こうして改めて願うのも悪くないだろう。
方針が決まれば早かった。さらさらと短冊に筆を滑らせ、願い事を綴っていく。
「いつまでもこの本丸に笑顔が宿りますように、と。……完璧だ」
末尾に小さく十字架を書き添え、さらに自らも短冊の前で小さく十字を切って祈る。
これならば長谷部が見ても変に思わないだろう。みんなのことも祈れるし、神も喜んで下さる。
書き終えて目を上げると、余っている短冊が視界に飛び込んできた。そういえば歌仙からは短冊を複数枚渡されていた。
胸の奥が疼いた。今書いた願い事に全く嘘はない。だが、やはりさっきの願い事を胸の中に置いたままにしておくのも躊躇われる。
光一は迷いながら短冊を引き寄せる。ペンを持つ手が羞恥に震えている。
数回深く呼吸を繰り返す。
これは神に祈るため。笹にはかけない。
何度も自分に言い聞かせて──素早く「長谷部とずっと一緒にいられますように」と短冊に書きつける。
文末に小さく十字架を書くと、ようやく緊張感から解放された気がした。
(書いて、しまった……)
殴り書きの文字が短冊に書かれていた。ひどい字だ。縦に書いた文字が、片側に寄ってしまっている。
(これはとりあえず持っておこう。帰りに礼拝室で祈りを捧げればいい)
そそくさと2枚の短冊を袂に差し込んで、立ち上がる。
時計を見ると、待ち合わせの15分前を指していた。待ち合わせは本丸の広間だからすぐに着いてしまう距離なのだが、もう居ても立っても居られなかった。
「短冊持った。髪、おかしくない。浴衣、着崩れてない。帯も平気。――よし」
鏡の前で一通り姿を確認し、最後に指を組む。
「主よ、これから行って参ります。どうか僕が変なことをしないようお見守り下さい」
アーメン。小さく呟いて十字を切る。
障子を開けると、熱い空気が肌を撫でた。続いて涼しげな風がやってくる。
(今度風鈴でもかけよう)
後ろ手に障子を閉めて、光一は空を見上げる。
暗くなり始めた空の端に、遠く月が昇り始めていた。静かな光が夜空を柔らかく照らしている。その柔らかな光は聖母の臨在を思わせ、自然と光一は胸に手を当てた。
「マリア様、どうかお見守り下さい。今日は僕にとって特別な日です。どうかあなたの慈しみを」
目を閉じ、静かに、けれど確かに祈りを捧げる。聖母の慈しみにこの心が包まれるように。そして二人の時間が尊いものになるように願って。
祈り終えると、月に向かって深く頭を下げる。
不思議と気分が落ち着いている気がして、光一は口元に笑みを浮かべる。広間へと向かう足がいつもより速くなっていることには、全く気が付いていなかった。
待ち合わせの10分前に着いたのに、長谷部はすでに待っていた。色とりどりの飾りをつけた笹が、彼の姿を遮るように頭を重く下げている。
彼は笹から少し離れた所で腕を組み、笹に短冊をかける仲間の様子をぼんやりと目で追っている。
長谷部の姿を見つけるなり、光一の胸は高鳴った。顔に輝きが増す。いつものように駆け寄ろうとして、二三歩足を進めたところで彼の足が止まる。
笹の横、長谷部の全身が光一の目に映る。
(……う、そだ)
長谷部の視界から逃れるようにして、咄嗟にそばにあった柱の陰に隠れた。確かめるようにもう一度柱の陰から様子を伺うと、すぐに頭を引っ込める。
長谷部は普段と違い、和装だった。藤色の羽織の下に、菫色の着物がすらりと覗いている。普段司祭服に似た服を着ているせいか、和装の彼はまるで別人のようだった。彼自身の見立てだろうか。持っている小物も洒落ていて、何もかもがぴったりと彼に似合っていた。
(かっこよすぎるよ!)
光一は思わず心の中で叫んだ。
(長谷部も和服なんて聞いてない!どうすればいいの。僕、あんな長谷部とまともに話せる自信ない!)
縋るように手首のロザリオブレスレットを握りこんで、そのまま柱の陰にうずくまった。
待ち合わせの時間は間も無くだ。けれど立ち上がって、顔を合わせる勇気が全く出ない。刻一刻と過ぎる時間に焦りだけが募っていく。遅れるわけにはいかない。なのに体は全く動かない。
(主よ!どうか今すぐお導きを!)
ぎゅっと目を閉じる。
「あ?主、そんなところでなにやってんだ?」
光一の祈りに呼応するように、人影が光一の頭上を覆った。
恐る恐る顔を上げる。
そこには同田貫正国が、怪訝そうな顔で彼を見下ろしていた。
「へしならさっきからあそこに立ってんぞ。どうせ約束してんだろ?早く行ってやれよ」
ひょいと顎でしゃくって、長谷部の方を指し示す。
それができたら苦労しない。
正国の顔を見つめたまま一向に動かない光一に、彼はますます顔を顰めた。
「なんだよ。待ち合わせじゃねぇのか?それとも、恥ずかしくて彼氏の顔が見れないとかかぁ?」
にやりと正国が笑う。図星である。光一は何も言えず押し黙る。
「なんだよ、図星かよ」
正国はさして面白くもなさそうに呟いた。
「だったら俺が呼んでやるよ。おーい!へしー!お前の可愛い主が待ってんぞ!とっとと迎えに来い!」
正国の手が光一の手首を乱暴に引き上げる。強い力に引き上げられてよろめくように立ち上がると、こちらを見た長谷部と目が合った。瞬間、彼の眉間に皺が寄る。
「同田貫正国!」
長谷部は目を吊り上げると、足早にやってきて、すぐに正国と光一の間に割って入った。
「大丈夫でしたか?」
肩越しに長谷部が問うてくる。光一が躊躇いがちに頷くと、長谷部はすぐに正国を睨みつけ、声を荒げた。
「主に対してなんて態度だ!貴様には礼儀というものがないのか!」
「主がそこで丸まってたからお前を呼んでやっただけだろ」
「だったら俺を呼ぶだけにしろ!主を乱暴に扱うな!」
光一を後ろに庇い、長谷部が吠え立てる。だが、正国は大して気にしていない。また始まったかとばかりに軽く肩を竦めると、
「はいはい。仲の良いことで」
手を頭の後ろで組んで、のんびりとその場から離れていった。
「あっ、同田貫さん!主の祝福を!」
光一はすかさず声を掛ける。彼は助けてくれた。その気持ちを蔑ろにできない。
正国は目だけを彼に向けると、軽く笑って、指先をひらりと動かしてみせた。どうやら本当に気にしていないようだ。光一がほっと胸を撫で下ろすと、長谷部が小さく吐息を漏らした。
「全くあいつは……」
長谷部が正国の後ろ姿を目で追いながら呟く。ちら…と光一の方に目を遣ると、彼の顔がさっきとは打って変わって柔らかいものに変化した。
「申し訳ありません。驚かせてしまいましたね。手、痛くなかったですか?」
「大丈夫。あの、同田貫さんは、乱暴にしたかったわけじゃなくて、……たぶん、僕を、勇気づけようとして……」
語尾がどんどん掠れていく。声を出したくても、緊張に負けてしまって言葉が出ない。
きゅっと唇を噛み締める。長谷部の前だといつもこうだ。慣れなければいけないのに、どうしても体が硬くなってしまう。
「分かってますよ」
長谷部の声が慰めるように光一を優しく包みこむ。
「あいつなりに考えがあってのことでしょう。もう少しいいやり方をしろとは思いますが、別にあいつを嫌っているわけではありません。――それより」
ふいに長谷部の視線が下に落ちた。光一の首から下、つま先までを隈なく眺めて、また光一の顔へと戻る。一瞬、小さな間が空く。思い出したように、長谷部の顔に深い笑みが宿った。
「今日は、お召し物がいつもと違うのですね。よく、お似合いです」
ふ…と目元に柔らかさが浮かぶ。
瞬間、光一の胸が高鳴る。
光一は思わず目を逸らした。
「きっ、君の方が素敵だよ!」
咄嗟に言い放ってから、自分の発言の重さに気がついた。頭が真っ白になる。
(しゅ……主よ!今すぐ僕を助けて下さい!僕はもう駄目です!あなたの支えなしで今この瞬間を乗り越えられません!)
浴衣の裾をぎゅっと摘んで、深く俯く。
きっと顔が赤い。恥ずかしい。かっこよく見せたいのに、さっきからうろたえてばかりで長谷部にいいところなど一度も見せていない。
せめて恋人として、主として、「しっかり者の内村光一」を見せたいのに──。
「……せん」
変な声が聞こえた。今にも消え入りそうで、光一もよく聞き取れない。
不思議に思って光一が顔を上げる。
長谷部が視線を下に下に下げていた。髪から垣間見える顔が、朱に染まっている。
「大変、申し訳、ありま、せん……。まさか、そんなことを、言われる、なんて……」
するりと手で口を覆う。視線があちらこちらと行って定まらない。
伺うように光一が顔を覗き見ると、長谷部が顔を逸らした。もう一度顔を覗き込むと、また逸らす。
(……同じ、なんだ)
急に、自分の中の気恥ずかしさがどこかへと吹き飛んでいった。代わりに、心の奥底からふつふつと喜びが湧いてくる。
「た、短冊を掛けに行きましょう。すぐそこですけど」
長谷部がそそくさと背を向けた。耳どころか首まで赤くなっている。
光一は薄く、けれど心から嬉しそうな笑みを浮かべる。
「うん」
長谷部の隣に並んだら、自然と口角が上がってしまった。なんだか元気になってしまう。
ふいに長谷部の瞳がこちらを向く。しばらくじっと見つめていたかと思うと、彼の表情がほころぶように柔らかいものへと変わった。
「貴方の方がもっと素敵ですよ」
彼の口が素早く動いた。二人しか聞こえない声だったが、はっきりと光一の耳にまで届いた。
一瞬だけ、時が止まる。言葉が、出ない。
(主よ、彼はどうして、こんなにも……)
顔が熱い。恥ずかしい。少しでも冷ましたくて、頬に手を当てる。
それでも、彼の隣りにいたくなる気持ちは消えない。幸せは彼のそばにある。心のどこかでそう確信している。
(主よ、これがきっと、愛というものなのですね)
頬に手を当てながら、光一は俯く。
こんなにも心がかき乱されるのに、それでも、そばにいたいと願ってしまう。恋とは、つくづく不思議なものだ──そう思って、光一は唇に小さな笑みを浮かべた。
「短冊、持ってきましたか?」
長谷部に促されて、光一は一瞬迷った後、袂から一枚の短冊を取り出した。
そこに書かれているのは「いつまでもこの本丸に笑顔が宿りますように」。丁寧に書かれた文字は品が良く、いかにもこの本丸の審神者らしい光一の理知的な一面が見て取れた。
長谷部は光一の手にある短冊を覗き見て、笑みを深める。
「さすがは主」
心の底から感心したように、感嘆の声を上げた。
「七夕という場においても、俺達のことを願って下さる。感服致しました。貴方の優しさに改めて感謝を」
「そう、かな」
光一は手の中の短冊に目を落として、躊躇いがちに相槌を打った。
この願いに嘘はないけれど、もっと大事な願いはまだ袂の中にある。
長谷部はそんなことなど知らずに、「ええ」と力強く頷く。
「ご立派です。貴方が俺達の主であることを、心から誇りに思います」
彼が胸元に手を当てて恭しく頭を下げると、光一の胸は小さく傷んだ。
(やっぱり、長谷部はこっちの方が好きなんだ)
左の袂を撫でながら、光一はぎこちなく笑う。
袂の中には短冊がもう一枚残っていた。そこに書かれている願い事は「長谷部とずっと一緒にいられますように」。シンプルだけど、嘘偽りのない彼のもう一つの願いだった。
確かにこの願いは笹には掛けないと決めていた。けど、ここまで長谷部に喜ばれると気持ちは複雑だった。どちらも同じ願い事なのに、なんだか光一を「立派な人間だ」「こんな時でも私情を表に出すことはない」と決めつけられている気がして落ち着かなかった。
「そう、だね。君がそう言ってくれるなら嬉しいな。……本当に」
口に出してみたものの、心にはどこか寂しさが残る。嘘はついていないはずなのに、「自分はそんな人間じゃない」と言ってしまいたくなる。
嫌な気分だ。
変な感情を打ち払うように光一は小さく十字を切る。持っていた短冊を手近なところに掛けると、
「主よ、これが僕の願いです。どうか受け取って下さい」
自分に言い訳をするように祈りを捧げた。
(忘れよう。これも僕の願いだ)
指を組んで、複雑な気持ちもそのまま神に捧げる。少しだけ気分が落ち着いた気がした。
「長谷部は?どんな願い事を書いたの?」
「これです」
「見てもいい?」
「どうぞ」
長谷部が短冊を手渡す。光一は手の中の短冊に目を落とした。
そこにはびっしりと文字が並んでいた。こんなにあるなら分ければいいのに、一つにまとめているのが彼らしい。笑みを浮かべて、ゆっくりと文字を辿る。
しばらくもしないうちに、光一は小さく息を飲んだ。
「主が健やかでありますように。主が笑顔でいられますように。主に一切の災いが降りかかりませんように。主の願うことが全て叶いますように」
途中まで読み上げて、思わず長谷部の顔を振り仰ぐ。長谷部は得意げな笑みを浮かべていた。
「長谷部、自分の願い事はなかったの?」
「これが、俺の願い事です」
「でも、七夕なんだし、僕のことばかりじゃなくて、君のお願いも書かないと」
「貴方が幸せであればいいんです」
「でも」
さらに言い募ろうとした光一を、長谷部が首を横に振って遮る。浮かべた微笑みはとても優しい。けれど、これ以上何を言っても受け付けない頑なさも感じた。
仕方なく光一は再び短冊に目を落とす。
やはり願いは光一に関することばかりだ。祈りが恙無く続けられるように。衣食住に困らないように。仕事のことで苦しむことがないように。日々幸せを感じられるように。限られたスペースでよくこれだけ書き綴ったものだ。光一の顔にも苦笑いが浮かんでくる。
(僕は本当に慕われてるんだな。主よ、どうか彼に祝福を。ここに書かれたものと同じくらいの恵みを、彼に)
そっと短冊に手を当てて、祈りを捧げる。少しして祈り終えると、小さく息を吐いた。
「……長谷部は、本当に仕方がないね」
「これが俺ですから」
「分かってる。いつもありがとう」
そう言って、短冊を返そうとした時、ふと短冊の端に書かれている文字が目に入った。
なんとなく文字を目で追う。光一の目が丸くなった。
「これ……!」
長谷部の手に渡りかけた短冊を引き寄せて、光一は食い入るように文字を読む。
「主のおそばに、ずっといられますように」
声に出すと、途端に長谷部が気まずそうにはにかんだ。
「見られてしまいましたか。上手くはぐらかせたと思っていたのですが」
照れ笑いを浮かべる長谷部に、光一の胸が高鳴る。
「長谷部、これ、君の願い事だよね……?」
「そうですよ。全て、俺の心からの願いです」
「本当に……?」
「ええ」
光一はもう一度短冊に目を落とした。
短冊にはびっしりと願い事が書かれている。ほぼ全て光一の幸せを願うものだ。その中でたった一つだけ、長谷部自身の願い事が潜んでいた。しかもそれが、他でもない「光一と一緒にいたい」。嬉しくて、胸の内側が震えた。
この気持ちを伝えたい。けれど、すぐに言葉が出てこない。
緊張で口の中が渇く。鼓動が早鐘を打っている。でもこの想いに応えたい。勇気が、欲しい。
ふと自分の袂を思い出した。そこにはもう一枚、光一の気持ちが隠されている。
光一は慌てて自分の袂をまさぐると、残された短冊を取り出す。
「長谷部、これ」
震える手で短冊を長谷部に渡す。恥ずかしい。でも伝えなければ。
受け取った長谷部が短冊の文字を追う。すぐに目が見開かれた。
「長谷部と、ずっと一緒にいられますように……?」
彼の声を聞いて、光一の顔に自然と笑みが浮かんだ。
「同じこと、お願いしてたね」
恥ずかしくて、顔が、熱い。でも、それ以上に気持ちが伝えられたことが嬉しい。手が長谷部の腕に伸びる。そっと袖に触れると、指先に熱が灯った。
「実は君に見られるのが恥ずかしくて、主としての願いをさっき君に見せたんだ。でも、これも僕の願いだから……一緒に笹にかけよう?」
つい、と長谷部の袖を引く。そばには笹がある。既に沢山の願い事がかけられた笹。その笹を見上げて、光一は嬉しそうに笑う。
長谷部の顔が一段と柔らかくなった。
「ええ。かけましょう。せっかくだからなるべく高い所にかけましょう。少しでもあなたの神に、届くように」
長谷部の言葉に、光一も目一杯笑って頷いた。
「うん。ちょっとでも高い所にかけよう」
つま先立ちして、伸ばせるだけ腕を伸ばして、笹の葉の、できる限り高いところに短冊を引っ掛ける。笹の葉が頬に当たる。くすぐったい。笑い合うと、不思議な一体感が二人の間に生まれた。
「ほとんどてっぺんですね」
長谷部が笹を見上げて言う。視線の先には、ほとんど笹の先端と言っていい位置にぶら下がる二色の短冊がかかっていた。ゆらりゆらりと揺れているが、決して文字までは読めない。どんなに背の高い刀剣男士でも見えない場所に、二人の秘密が揺れていた。
「本当だね。ベツレヘムの星みたい」
「べつれむ?」
聞き慣れない言葉に長谷部が首を傾げる。
「ベツレヘムの星。僕達を導いてくれる星って意味だよ」
手首を飾る十字架を指さして、光一が微笑む。
「この星が僕達を希望へと導いてくれる。間違いなく、ね」
「俺達を希望に導く星」
二枚の短冊を見上げ、長谷部が呟く。彼の両手が静かに合わさる。少しだけ頭を垂れ、祈りを捧げる。
光一も十字を切って、指を組む。
(主よ、どうか僕達に祝福を。どの願いにもあなたの恵みが注がれますように)
意識を神へと向ける。祈りが喧騒の中に溶けていく。
きっとこの祈りも神は聞き入れて下さる。この本丸のみんなに、間違いなく笑顔は宿る。
「……行こうか」
十字を切って微笑んだ光一に、長谷部が「ええ」とにこやかに応じる。
「折角なので空を見に行きましょう。今夜は天の川が見事ですよ」
「本当に?それは楽しみだな」
笑いながら二人は広間を後にする。
背後では笹が吹き込んできた風に揺られて、サラサラと静かな音を立てていた。
光一はその音に誘われるように笹を振り返る。しばらく立ち止まって見ていたかと思うと、胸に手を当てて一礼する。
(主よ、あなたのおっしゃる通り、嘘をついてはいけませんね)
すぐに駆け戻って、長谷部の隣に並んでいった。