穿つ人冬が終わったばかりの早朝のマンションの屋上は薄ら寒い風がそよいでいる。
怖い物は無いし靴でも脱ごうか。
はだしで一歩一歩冷たい屋上を歩く。
あの線の先を飛び越えたら苦しさから逃げ出せる。
跳ねるような震えるような足取りは今際の際にお似合いかもしれない。
「ねぇ、」
いきなり居るはずの無い声がした。
驚いて振り返ると薄汚れたコートを着た見知らぬ男が立っている。
「いまから死んじゃうの?」
「え」
その体躯ではあまりに拙い子どものような言葉遣いに思わず素っ頓狂な声が漏れた。
…ああ、分かった。これは走馬灯のようなものが見えているんだ。
幕引きくらいは綺麗に進んでほしかったが。
無視して再び歩き出すといつの間にか音も無く背後に気配を感じ、あっという間に屋上の真ん中の方へ身体を持っていかれた。
見ず知らずの男に全体重を預け呆然と紫がかった雲を目で追っていた。
失敗した。天気も湿度も空の色も最高のこの日に決めたのに。
命の恩人を目の前にして腹の底から喉を這い後暗い感情が湧き出てくる。
「お前みたいな偽善者が一番嫌いなんだよ俺は。」
「うん」
「終わらせるつもりだったんだよ。ここで。無理矢理に俺の人生引き伸ばしたお前は責任取れんのかよ。」
「ごめんね。よくわかんないな。ことばがむずかしくて。」
男は思い出すように拙い言葉を紡ぐ
ああ、俺はなんて浅ましい人間だ。
もうこれ以上、自分のこんな姿など知りたくなくて終わりを企てたのに。
生き延びてしまった絶望感の中で男の姿への違和感が過去の記憶に結びつく。
確証は無い。こんな変な話を見ず知らずのこの男にするなんて。
「なぁ、お前もしかして、」
口を開いた途端、屋上を一直線に目掛けて数多の烏が飛んでくる。
そのあまりの数に視線を奪われる。
視線を真正面に戻せば、あの男はいつの間にか際の方に立っている。
「待て!落ちるぞ!」
「だいじょうぶ。きみはやさしい人だよ。」
そう言って男は屋上から落ちた。
彼は無事だろうか。無事だろうな。
そろりと覗いた線の先は嫌に無機質な街並みだけがあった。