また明日「こういう時は最後に海に行くものだって相場が決まってるんだ」
場違いに屈託なく笑って君はそう言った。
ひらひら、ひらひら、踊るように花びらが舞い、青年の歩いた足跡に白い花が咲く。
軽快な足取りで前を歩く明るい髪色のその人は、鼻歌を歌いながら荒廃しかけた街中を進んでいく。その歌は前に口ずさんでいるのを聞いた事があるが、たしか生を喜ぶ歌詞だった筈だ。現状にはなんと不釣り合いな歌か。
ユウマは自嘲し短く息を吐いた、それに気付いた前を行く青年が振り返る。赤いフレームの眼鏡の奥に置かれた瞳は、以前の新緑を思わせるそれとは違い夕闇のように赤黒く染まっていた。
「何、なんか面白いもんでもあった?」
「いいえ、何も」
たった数ヶ月人間の手を離れただけで文明というものはこうも簡単に滅びに向かうものなのかと、興味深くは思うがそこに面白みを感じるような享楽をユウマは持ち合わせてはいない。
「そ、んじゃ行くか」
そうしてまた、鼻歌を口ずさみ歩を進める。聴くものがユウマ以外に存在しないその歌は、何処までも晴れやかなテンポだ。
ここに来るまでの間に生き残った人間を何人も殺めて来たというに、鼻歌を歌っていられるなど存外図太い精神をしているのだろうか。前を行く青年の事は今日まで共に旅路を歩いて来たというに、分からない事だらけだった。
数ヶ月前、この世界の全ての生命は第二真竜の企てにより絶滅の危機に晒された。
ユウマはその最中、力を求め竜へと堕ち、前を歩くこの青年によって命を奪われた。そうしてその後、最後の第七真竜へと至った青年の願いと祈りによって世界は再編された、筈だった。
今も何処かで、再編された世界は存在しているらしい。詳しくは教えてもらえなかったがその世界は確かに存在しており、そこにはかつて共に在った、ここで命を落とした人々が全てを忘れて平和に暮らしているとか。
何故死んだ筈のユウマとその世界再編の張本人である青年がこの滅んだ世界で呑気に探索しているのかは、今となってもよく分からない。
これは夢のようなものなのだろうかとも思ったが、人の消えたこの白い花が咲き乱れる世界で目が覚めた時に青年はこれといった感情のない声で「おはよう」と一言いったのでどうやら目は覚めているらしい。
体がところところどころ人間の容姿からはなれた姿のユウマを長く見てはいたくなかったのだろうか、伏せられた視線はユウマと交わることなくうろうろと彷徨っている。
「俺、はどうなって、いるんですか」
「悪いけど俺にもよくわかんねぇ…でももしかしたら、これはお前と一緒に居たかったっていう俺の望みなのかな」
何を聞かれても、答えるつもりはないのだろうと何とは無しに察した。そうしてろくな説明も理解もないまま、この滅んだ世界でやり残しをしているという青年に付いて各地を巡った。
青年のやり残し、は生き延びた人の命を奪い新たな世界へ送る事だった。
どういう理屈かは青年自体にもよく分からないらしいが、向こうの世界とこちらの世界で同じ命が同時に存在することは出来ないらしい、その為の処置との事だ。
ユウマが付いて行ってから一番最初に「送った」命は親の遺骸にしがみついて泣く小さな女の子だった。感情のない目で、手にした刀の一太刀で絶命させた姿を見た時は、青年もまた竜に精神を飲み込まれてしまったのではないかと思ったりもしたが「これでもう悲しくないからな」と小さく呟くのを見て、何も思わない訳ではないらしいと悟った。
それからも数名生き残った人全員を一瞬で命を奪って送り届けてきた。ここ数週間はもう生き物の姿を見ていない。流石にもうこの桃色の花が咲き乱れ荒廃した環境で生きのびた者はいないのだろうか。
竜になった青年が咲かす白いフロワロの花が、青年の足跡に沿って桃色の花を塗り替えるように咲いて行く。人体に何の影響も与えない、ただただ美しいだけの優しい花弁を踏み抜きながら言葉もなく後ろを歩く。
そうして前を行く青年が放った言葉は「海に行こう」というものだった。
海に着いた頃にはあいにくの天気になっていた。
分厚い雲に覆われて押し寄せる波も高く強い、季節も今は冬に近いのだろうか、足元に跳ねる水飛沫は冷え切っているようだ。
「さっむいな、あー何か世界の終わりって感じする」
それは冗談のつもりなのか、それとも真実を口に出しているのか、ユウマには判別がつかなかった。
竜の因子を持った者同士、空腹や寒さ等が非常にぼんやりとしたものになっている筈なので、青年もユウマも極寒の環境下でも何も問題はないのだが、人らしさを感じるその言葉に少しだけ呆れた。そして濡れる事を厭わず水の中に入っていく青年に「風邪を引きますよ」と言いかけ、存外自分も人としての習慣が抜けていない事に気付き苦笑する。
「世界の終わりに海に行くって、小説とか映画みたいだよな」
楽しそうに笑うその姿を見て、青年との道行はこれで終わりなのだと理解した。
「これで終わりということは、俺たちもこれからその世界へ行くんですか?」
「そうだな、ちなみに刺されるならどこが良い?なるべくご期待に添える位置にしてやるよ」
その声はずっと、楽しそうで、嬉しそうで。
「この世界で死んだものしか、新しい世界に行けないなら、俺を殺した後君はどうするんですか」
ずっと聞けなかった、先延ばしにしてきた言葉を吐き出したユウマに、青年は笑顔のまま首を傾げた。
「どうもしない、死んだ者しかそちらには行けない、それで俺は竜だから」
もう「死なない」んだ、と何でもないようにそう言った青年はいつの間にか鞘から抜いていた刀を、さして力のこもっていないようなそぶりで、しかし確かな強さを持ってユウマの腹を貫いた。
「ここまで一緒に来てくれてありがとな、短い間だったけどお前と一緒にいられて良かったよ」
刺された腹部が焼かれたように痛む。一度はその刃の前に絶命したことがあるとは言え、慣れるものではない。
「それじゃあユウマ、また明日な」
「君は一緒に行かないのに、またなんて、ないじゃないですか」
苦しい息の下そう言うと青年は困ったように目を伏せ、そしてわらう。あまりにも下手くそなその笑顔に、自然目頭が熱くなった。
「それでも、また明日って、俺はお前に言いたかったんだよ、多分ずっと、それだけを」
あぁ、あぁ、多分それは、青年が自分を殺してしまったあの瞬間もずっと、思い続けくれた言葉だったのだろう。明日の来なかったユウマを憐れんでいたのだろうか、悼んでくれたのだろうか、それとも後悔だったのだろうか。今となってはもう聞く事が出来なくなってしまった。
ここまで共に歩んできたのに、思えばろくに話もしなかった。もっと沢山話をすればよかった。青年の事を知る事ができた最後の機会だったというのに。
痛みのせいか、涙のせいか、分からないままぼやけていく視界に青年の作り出す白い花がひらひらと揺れる。
「これからは明日がちゃんと来るんだ、お前はもう、目覚める時だよ」
その優しい音の言葉を最後に、ユウマの意識はぷつりと途切れた。
いつだって海を思い出す。
雨が降りそうな不機嫌な灰色の雲が空を覆い、白黒映画のような色をした冷たい波が寄せては引いていく。決して綺麗とは言えなかったその光景を、白い花を咲かす化け物になってしまった君の不器用な笑顔を、ただ忘れまいと目に焼き付けたあの日を。
また明日、そんな優しい願いだけを抱いて一人で勝手に居なくなった君を、覚えていられるのが例え世界で自分一人だったとしても。
そうしてこの、痛いくらいに平和な世界を明日も生きていくのだ。