その時が来るのを待っている 真っ赤な夕焼けが青空を侵略して支配していく。風が出てきたのでそろそろバルコニーからは退散するべきかと思ったが、隣にいる夕焼けをものともしない青空よりも深い青い髪の青年がぼんやりと景色を眺めているのを見て、「戻ろう」と言う声は喉の奥に消えた。
「私は」
切られた言葉に、隣の青年が少しだけこちらに視線をくれる。
「運が、良かった」
それは彼が、この国を解放したあの瞬間からずっと思い続けていた事だ。そしてそれに続く言葉は、誰もが音にすることを躊躇ったであろう言葉であった。
晴れやかな青空が半分程赤く染められていく、雲ひとつない快晴の空が様変わりしていく時間帯に、王都グランコリヌの王城前にギルベルトは立っていた。
正式ではない私的な訪問は随分と久しぶりの事だった。持て余した時間の中、そっと周りを見やる。あの解放戦争で荒れ果ててしまった城下町ももうすっかりと活気を取り戻したものだ、ここまでの速さで復興が進められているのもアレインの王としての手腕の一つなのだろう。
「ギルベルト陛下、お待たせいたしました」
城内からやや小走りできたのはクロエだ。アレインが王となってからは彼の身の回りの世話はクロエが一手に担っているらしい。友国とはいえ他国の王族を招く役割だ、本来ならば宰相や外交を任せる官吏が出てきてもおかしくはない筈のそれを、ただの侍女であるクロエが担っている事には少々の違和感を覚える。しかし事前に何の便りも遣さずに訪問してしまった事を思えば、ギルベルトには何も言える事がなかった。
「突然すまなかったな、久しいなクロエ」
「はい、陛下もお元気そうで何よりです」
にこりと微笑むクロエの仕草は、共に戦っていた時よりも洗練されたものになっていた。あの頃はまだまだ未熟な部分の多そうな子供というイメージだったが、今のクロエは王の侍女として相応しい淑女然としていた。
そうしてクロエに誘導され、通された部屋にいたアレインは、あの頃よりもずっと大人びた表情をしていた。
「ギルベルト」
朗らかに笑み、名を呼ぶ声は本心から嬉しいのだと弾んだそれに、ギルベルトも知らず溢れた笑みで返す。
「アレイン、久しぶりだ」
「あぁ、会えて嬉しいよ、ギルベルト」
対外的な挨拶ではあったが、しかと抱き合うとその生きている体温に安心する。
「それで、どうしたんだ?突然コルニアに来るだなんて」
「アルビオンの方面に外交で向かっていたのだが、帰路で何だか急にお前と話がしたくなったんだ、それで無理を言って行程から抜けてきた、ヴァージニアも一緒に来たいと嘆いていたが、流石にな」
「あぁ、二子目を妊娠したのだったな、おめでとう」
「ありがとう、次は王女を授かれば良いなと二人で願っているところだ」
「君とヴァージニアの子なら、美しい、快活な王女になりそうだな」
「あの行動力だけは母に似るのは、勘弁して欲しいな」
二人同時に、ふっと笑い合う。ヴァージニアに似れば美しい娘になるだろう、だがあの無鉄砲とも言える行動力を受け継いでしまうのは困る。今現在赤子である第一子にも、既に少なからず活発な側面が見え隠れし出してヒヤヒヤしている事はアレインには黙っておく事にする。
「王女が生まれたら、コルニアに嫁いでもらおうか」
「娘はやらんぞ」
即答で返すギルベルトに、アレインは「まだ生まれてもいないのに」と言いながら声に出して笑った。そんなアレインの姿に、よく考えれば悪い話どころか最上級の縁談であることに気付き「まぁ、姫が生まれ、成長したら追々考えるとしよう」と言葉を濁しておく事にした。
「しかし二子目とは、時が経つのは早いものだな…」
ふ、と遠い目をしたアレインは、静かに立ち上がると開け放てれていたバルコニーへ続く扉をくぐり、外へ出ていってしまった。ギルベルトもそれを追うように外に出る。
室内よりも肌に抜ける空気が冷たい、空は先ほどよりも夕焼けがその支配域を伸ばしていた。もうすぐ夜になるな、とギルベルトは思った。
アレインの左手薬指には一角獣の指輪が静かにはめられている。それと対になる乙女の指輪を持つものは、本来ならギルベルトにとってのヴァージニアと同じ、王妃となるべく人間の指に嵌められるべきものだ。
だが、彼が選んだのは。
そうして発されたその言葉に彼は静かに微笑んだ。
「私は運がいい、心を預けたいと思えた相手が、私にとって申し分ない最上の身分だったからだ」
続く言葉を察したのだろう、アレインは少しだけ、困ったような表情をする。
「君は…君は大丈夫なのか?君が選んだのは彼だけだ、君がただ一人の男であったなら、一つの愛を貫くというそれは美談にもなるのかもしれない、だが君はこの国の王だ」
あの戦いの最中アレインが心を通わせ、指輪の契約に、生涯の伴侶にと望んだのはよりにもよって同性だった。それを聞いた時、自分本位な感情だとは理解してはいたが、ギルベルトは少しだけ落胆してしまった。自分と同じこの先王となるべき事を定められた少年に、勝手に抱いた親近感を打ち砕かれたような気がしてしまったからだ。王であるのならば、婚姻を交わす相手すらも全て、国の為にあるべきではないのかと。
しかして、自身はこうして愛した女性を娶れてしまうという幸運を得てしまった。それ故か、アレインに対する後ろめたさのようなのが募ってしまっていた。ギルベルトの中では、誰にも言わなかった勝手な失望と、それに相反する罪悪感がぐるぐると巡っていた。
「あぁ」
短く発されたその声に迷いはなかった。朗らかな笑みを浮かべるアレインに対し、ギルベルトの眉根には深く皺が刻まれていく。
「君は優しいな、ギルベルト」
今まさに、アレインを傷つけるであろう言葉を吐いているギルベルトのどこが優しいと言うのか。
「私は今、君を不快にさせている張本人だぞ」
「皆が遠慮して俺に言えないけれども、でも必要な言葉を、わざわざ憎まれ役を買い言ってくれているんだ、とても優しいよ」
そう言うとすっと目を細めたアレインは、真っ直ぐにギルベルトを見つめる。その赤い瞳は、夕焼けよりもずっと深い色だ。
「某系から養子を迎える手筈は整えているんだ」
「厳しい言い方になるが、民は君の血を引く子に次代の王になってほしいと願うのではないか」
「分かっているよ」
分かっている、分かっていても、アレインは彼以外を選ぶ事を良しとしないのだろう。そこまでの愛情を、国にでも、民にでもなくただ一人の男に授けるというのは、どれだけの自責を持ってすれば成せる事なのだろうか。
「血を、繋ぐつもりはないんだ」
滔々と、語り出すアレインの口調は、いつも通り穏やかで静かだ。
「俺はあの戦いで多くの人を殺めてきた」
「それは、私も、そして皆同じだ」
ギルベルトの言葉に、ふるふると首を振ったアレインは「違うんだ」と発するとこちらを見ていた視線を外し、俯いた。
「違うんだよギルベルト、俺はどうにもならない私怨の感情で多くの敵将を処刑してここにいるんだ、今だってゼノイラに与した者を執政から離している、俺は」
いつも通りの穏やかな声なのに、悲痛な、叫びのような言葉が、アレインから溢れ出していく。
「俺は、憎しみでガレリウスを殺し王になった、しかしそれは母上を殺し王になったガレリウスと、一体何が違うのだろう」
「違う、君は奪われたものを、民の安寧を取り戻しただけだ、侵略者と同じだなど…」
夕焼けが支配した空を、今度は夜が侵略し始める。アレインの言葉は、まるでこの空のようだ。誰かがどこかで、何かを支配し、別の誰かがその何かをまた支配していく。
確かにそれは、その通りなのかもしれない、でもそんな事を言ってしまえば王は、国は。
「同じだ、俺が殺し、処刑してきたものの家族や大事な人からしたら侵略者は俺の方だよ、だから」
聞いた事があった、ギルベルトと出会う前の彼の蛮行とも取れるそれを。家の存続の為に戦いを挑まざるを得なかった剣士を、遺跡の発掘をしていただけの魔術師を、城壁の修繕をしていた人望溢るる石工を、友の為に盗賊に落ちた男を、そこに連なる全ての命を、ただゼノイラに与したというだけで奪いながら来た事を。
「君は、侵略者である自分の血を繋ぐつもりはないと、そういう事なのか」
「彼とも、そう話している、二人で納得して出した答えだ、もう決めたんだ」
彼を愛しているから、だから側妃を娶ることを良しとしないのだと思っていた。そんな勝手をまかり通しているアレインに、少しだけ苛立ちを覚えたこともあった。だがアレインは、多分ずっと自分がしてきた事を見つめ続けてきたのだ、そうして押しつぶされてしまいそうなそれを、ずっと一人で抱えてきたのだとしたら。
「王は、真にこの国のことを想う人間ならば誰でも良いのだと、だからこれからは血族に頼らぬ国になればいいと、そう考えている」
そうして初めから終わりまで、嘆く事も泣く事もせずに穏やかに言葉を紡いだ王様の頭上で、青空はすっかりと夕闇と入れ替わり、その端から夜が支配域を広げていった。
「ギルベルト、俺はもしかしたら、この先誰かが俺と同じように、国の為にと俺を殺しに来るんじゃないかと思っているんだ」
「一角獣の覇王と呼ばれている、君をか?」
夕闇を夜が支配していく、主を変えていく空の元でそれを受け入れ晴れやかに笑うアレインが、とても悲しかった。
「あぁ、多分俺はきっと」