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    takamiya_saku

    @takamiya_saku

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    takamiya_saku

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    フォロワーさんから教わって知った某ピエロの某曲を聞いて滾った結果の二次創作。
    これでええんか?ええんや俺の脳内ではこうなったんだ(迫真)
    ところでぽいぴくの使い方もあれもこれもよく分からん。
    #ジョー設展

    さあさあ笑いなよ兄ちゃん、笑ってくれなきゃ、俺の存在意義ってものが否定されちまうだろう?

    そうニタリと笑ったピエロとの出会いはどんなものだっただろう。ひくつく頬を無理矢理引き上げながら、男は記憶の引き出しを漁る。冷たいコンクリートの床に直接落とされた尻が、鈍く痛む。突いた掌がひやりと冷える。

    始まりは簡単な話だった。
    何も考えず、酒に酔った頭を支えながら、ふらふらと道を歩いていただけ。ここは何処だろう、終電はとうに走り去った。さあ家までどうやって帰ろう。財布の中身はすっからかん。タクシーを止めようにも、金曜の終電後ともなれば、どのタクシーも行灯の灯りが消えていた。

    もうこうなったら歩いて帰ろう。明日は朝から家事を片付けなければならないのだ。午後には買い出しに行って、日曜という素晴らしき休日を優雅に過ごすための支度をしなければならない。
    やる事は沢山あるのだから、どうにかして帰らねば。酒に浸された頭では、ネカフェで仮眠を取るという簡単な判断すら出来ずにいた。

    「きもちわる…」

    完全に飲みすぎた。上司に誘われ、断れずにしこたま酒を飲んだ。普段大して呑みもしないくせに、呑め、これだから今時の男は!なんて時代錯誤な発言と共にがはがは笑いながら注がれる酒を飲み下し、美味しいですとへらへら笑うあの時間は何だったのだろう。

    田舎から上京し、頼れる家族も友人も居ないこの大都会で生き延びなければならない。憧れて入った筈の会社は、所詮憧れは憧れ、幻想を抱くだけ無駄であると現実を叩きつけてくれていた。

    ぐらりと視界が歪む。胃袋から競り上がってくる不快感に耐えるべく、男は口元を抑えて動きを止めた。真夜中になってもまだ道を行き交う人の多い事。公衆の面前で無理をして飲んだ酒を道端にぶちまけるなんて無様な醜態を晒したくはない。ネット社会である今、道端で酔っぱらって吐き散らかしていれば、動画を撮られて拡散される可能性は捨てきれない。

    「う…っ」

    浅い呼吸を繰り返し、胃から逆流してくる不快感に耐えていたのだが、体は限界だったようだ。喉元まで上がってきた液体をどうにかぶちまけないように掌で抑えながら、男は目の前にあった路地へと体を捻じ込ませる。

    街灯の灯りも届かぬ暗闇。ビルの室外機の低い音が響く狭い空間に膝を付くと、堪えきれずに胃の中身をぶちまけた。
    体調を崩して吐いた経験はある。固形物を吐き出すのは酷く苦しい経験だったが、酒というのは液体だ。液体はすんなり食道を逆流し、勢い良く吐き出される。勢いが良すぎて鼻からも出た。

    ああ、何て惨めなのだろう。
    必死こいて毎日慣れない仕事をこなし、やりたかった仕事はやらせてもらえず、手の届きそうな場所からじっと静かに眺めているだけ。苦手な上司にも笑顔で媚び諂う今の自分は、昔情けないと思っていた父と同じだった。

    「あーあ、こりゃまた派手にぶちまけたね」

    頭の上から降ってきた男の声。
    こんな路地裏に人がいるとは思わず、男は恐る恐る顔を上げた。
    吐瀉物に塗れた顔である事を忘れていたのだが、目の前でしゃがみ込み、「大丈夫?」なんて笑っている男の顔に、視線が縫い付けられたように動かせない。

    「まーあ見事なマーライオン。鼻からもいった?閉店間際のキャバ嬢じゃないんだから」

    へらへらと笑うその男の口元は、大きくリップラインを外れた真っ青なリップ。頬に描かれた雫型のペイント。暗くてよく見えないが、髪色も派手である事は何となく分かった。

    ピエロだ。

    ぽかんとした表情のまま動けずにいる男の頭に浮かんだのはそんな言葉。
    映画で見るようなピエロがそのまま現実世界に出て来たような、そんな男がへらへらと笑いながら背中を摩ってくれた。いや、笑っているように見えるのは、にんまりと弧を描くように引かれたリップのせいなのだろうか。

    「水くらいなら出してあげるよ。顔も洗って。ひっどい顔だから」

    そんでもってすんげーゲロ臭いよ。
    ケタケタ笑われ、男は恥ずかしさから小さく「すみません」と声を漏らす。

    腕を捕まれ、男はピエロに引っ張られるがまま立ち上がり、のろのろと歩き出す。吐いた事で少しはマシになったが、まだ酒は残っているようで、視界がぐにゃぐにゃと気持ちが悪い。気を抜いたらすぐにでもまた吐いてしまいそうで、男は必死で息をする事に集中しながら足を動かした。

    「俺の店の前で吐くなんてなあ。たまにいるんだよね、飲みすぎて吐きそうだけど、人様の前で吐くのは嫌だからって駆け込んでぶちまけるヤツ」

    自分もそのうちの一人だ。人様の前で吐きたくないから駆け込んだ筈なのに、人様の店の前で吐いてしまった事がとても申し訳が無い。しかし、こんなに暗い路地に店など構えて客など来るのだろうか。そもそもこんな場所に構える店とは一体どんな店なのだろうか。

    気になる事はそれなりにあるが、その疑問を口に出来る程、男に余裕はない。

    「はい入ってー。お手洗いはそこね、中に洗面台もあるから好きに使って。あーあー服までゲロまみれだ」

    ピエロの言う通り、ぶちまけてしまったのは本当に店の前だったらしい。体感的には随分長い距離を歩いたように思っていたのだが、実際に歩いたのはたったの六歩程度。振り返れば先程まで歩いていた大通りが見えるくらいだ。

    「あの…すみません、お借りします」
    「シャツも洗っときな。着替え貸してやるから」

    さあ早く行け。背中を押しながらピエロは笑う。店内の灯りは薄暗いが、それでも外よりはまだ明るい。薄明りの中に存在するピエロの恐ろしさを初めて知ったが、今はこのピエロがとても親切で優しい人に思えた。

    トイレに入り扉を閉めると、そこは小さいながらも綺麗に整えられた個室になっていた。ペーパーは三角に折られているし、便器も綺麗に磨き上げられ、蓋が閉まった状態で鎮座している。手洗い場も水滴一つ無く拭き上げられ、曇り一つ無い鏡に映る吐瀉物塗れの自分が、一層惨めで汚らしく思えた。

    こんなに綺麗にしてあるのに汚してしまうのが申し訳ないが、外を歩く事すら出来ない程汚れてしまっている。手早く洗って、手拭き用にセットされているペーパータオルで拭いておけば「ちゃんと綺麗に使おうと努力はしました」といったポーズくらいにはなるだろうか。

    手と顔を洗い、汚してしまったシャツを脱ぎながら、男はどうでも良い事を考える。それにしても、あのピエロは何者なのだろう。ハロウィンの次期ならコスプレなのだと思えるが、今はそんな時期ではない。ざぶざぶとシャツを洗いつつ、扉の向こうで待ち受けているであろうピエロの正体を考えた。

    前に上司が言っていたコンカフェというやつだろうか。何かしらのコンセプトに従って作られた世界だと楽しそうに話していたが、男は興味がそそられなかった。連れて行ってやると言われても、それとなく断り、居酒屋に連れて行かれる程度に済ませたのだ。

    若い女性に浮かれている上司なんて見たくもない。普段から嫌いなのに更に嫌いになりそうだからだ。今日だってそうだ。もう勘弁してくれと散々言っているにも関わらず、飲めと無理矢理グラスをなみなみ満たしてくれた。パワハラとして告発されたら困るのは上司の方だが、あの上司は仕事は出来る。

    会社に訴えたところで、仕事の出来る中堅と、入社してまだ一年ちょっとの平ならば、切り捨てられるのは後者の方だろう。ちょっといい待遇で退職出来れば御の字だが、恐らく普通に追い出されるだけだ。

    「おーい兄ちゃん、中で潰れてないよな?」

    コンコンと扉をノックしながら掛けられた言葉に、男は大嫌いな上司の顔を思い浮かべる事をやめた。
    大丈夫ですと返事をするより先に開かれてしまった扉の隙間から、まるで昔の映画の有名なワンシーンのように顔だけを覗かせたピエロに微笑まれる。

    「お、偉い偉い、ちゃんと洗ってるじゃん」
    「はあ…すみません、ご迷惑をおかけして」
    「良いよ、慣れてるから」

    出ておいでよと手招きしながら、ピエロは扉を大きく開く。濡れたシャツを簡単に絞り、さあこれをどうしようと一瞬動きを止めると、ピエロは手早く濡れたシャツを手に取った。

    「水置いてあるから飲みな。シャツは適当にビニールに入れてやるよ」

    何て手際が良くて親切なピエロなのだろう。酒に溺れ荒んでいた心が浄化されるのではなかろうかと思ってしまう程、早く行きなさいと背中をぽんと押すピエロは、奇抜すぎるメイクからは想像出来ない程優しさに溢れているように見えた。

    若干涙目になりながら、男はミネラルウォーターのペットボトルが置かれているカウンターへと歩み寄る。ご丁寧に置かれたカウンターチェア。座りやすいように配慮してくれていたのか、くるりとこちらに回された状態で男を待っている。

    背は高いが座面の小さな椅子。この手の椅子は正直苦手だ。どう座ったら良いのか分からないというか、椅子の上でどういう体勢でいれば楽なのかが分からない。分からないのは今日も同じだが、まだ酒の残っている重たい体で立ったままいるのも怠く、恐る恐る座面に尻を乗せた。

    良く冷えたペットボトル。新品のそれを冷やしていたであろう小さな冷蔵庫が、カウンターの向こう側に見えた。

    ここはどういう店なのだろう。客人は自分の他には誰も居ない。金曜の終電後、それなりに賑わっているエリアにある店の筈なのだが、いくら路地に入らなければいけない店とはいえ静かすぎやしないだろうか。

    「はいこれね、鞄の上に乗せておくから忘れるんじゃないよ。それから着替えはこれ着て。俺の寝間着だからサイズは…合わなそうだ」

    けらけらと笑うピエロは背が高い。恐らく百八十はあるであろうその長身が着ている服となれば、きっと自分が着たら所謂「彼シャツ」状態になってしまう。誰得だよと自分で自分に突っ込みを入れながら、いそいそと手渡されたシャツを着た。寝間着というには、少々派手な柄のシャツを。

    「あーらら、ダボダボだわ」

    フスッと鼻から漏れる笑い声。涙目になるくらいならば、いっそのこと腹を抱えて笑って欲しい。
    面白くない気分で、男はピエロに向かって小さく頭を下げた。

    「すみません、ご迷惑をおかけした上、ご親切にしていただいて…」
    「どういたしまして。ほらほら、酒を飲んだら同じ量の水を飲むのは、社会人のジョーシキだよ」

    カウンターの向こうへ入りながら、ピエロは穏やかな声色で水を飲めと促す。
    言われた通りボトルを手に取り、パキリと小さな音を立てて蓋を開いた。

    口に含むと、ひやりと冷たい感覚が酒で火照った頭をやんわりと冷やしてくれるような気がする。こくりと喉を鳴らして一口飲み込めば、止まる事なくボトルの半分の水を飲み干していた。

    生き返る、とはきっとこういう事を言うのだろう。スッと冷えてくれた頭でもう一度ピエロを見ると、矢張り現実離れした不思議な空間に身を置いている事を再認識した。

    「バーか何かですか?」
    「まあそんなとこ。たまーにフラッとお客さんが来て、酒とか楽しみながら愚痴を吐き出して、満足したら帰って行く。そういうとこだよ」

    バーならバーだと何故そう言い切らないのだろう。僅かな疑問を抱いたが、親切にしてくれた相手にあまりずけずけとあれこれ聞くのは憚られる。

    そうなんですかと返すと、それ以上男は言葉を続ける事が出来なかった。冷静になると何だか居心地が悪いのだ。慣れない雰囲気の場所で、見慣れぬピエロが目の前でニコニコと微笑んでいるのだから。

    「なーんで吐くまで飲んだりしたんだい?何か辛い事でもあったんかい?」

    スッと目を細め、更に声のトーンを穏やかに落としたピエロに、男の喉がひくりと鳴った。辛い事があったわけではない。ただ上司に勧められるがまま、断れずに無理をして飲んだというだけ。

    「俺で良ければ話してくんない?人の話を聞くのが趣味みたいなもんだからさ」

    初めて会ったピエロに何を話せと言うのだろう。話してどうしろと言うのだろう。
    冷静になった頭ではそう考えているのに、心の何処かでは、話したい聞いてほしい辛いんだと喚く自分がいる。

    「今日は…上司に無理矢理飲まされてて…それで、吐いて」
    「うんうん、上司からの酒って断り難いよな」

    頑張ったんだなあと間延びした声で褒められた途端、男の鼻の奥がツンと痛んだ。
    田舎から出てきてからというもの、誰かに褒めてもらった事があっただろうか。怒られる事はあっても、褒めてもらえた事など無い。やれて当たり前、やって当然。それが男の日常になっていた。

    「仕事…ちょっと、しんどくて…上司もあんまり好きじゃなくて」

    ぽつぽつと零す言葉。絞り出す声は、泣くまいと必死で堪えているせいか無様に震えていた。それでも、男の口が閉ざされる事は無い。誰かに聞いてほしい。自分がどれだけ頑張って来たのかを。例えそれが、得体の知れないピエロであっても。

    「憧れて入った世界だったんです。でも理想と現実が離れすぎてて、やりたい仕事なんか出来なくて…俺、何してるんだろって」

    夢と憧れを抱いて生まれ育った田舎を出た。絶対夢を叶えると大口を叩いて飛び出してきた。だが、都会というのは田舎者に厳しかった。
    やれ田舎くさいだの、言葉の訛りがみっともないから直せだの、言葉遣いに気を付けろ、身だしなみ、仕事の順序…細かい事は何でも言われた。

    勿論、言われた事の殆どは自分が未熟であるが故の指摘である事は理解していた。大人なのだから、身だしなみには気を遣うべきだし、言葉遣いもきちんとしなければならない時だってある。仕事の順序もきちんと頭の中で組み立て、順序良く、効率良くこなせた方が良いに決まっている。

    だが、仕事の順序を自分なりに組み立てたところで、あの憎き上司は今やらなくても良いであろう仕事を投げては「早くしろ」と急かすのだ。まだまだ新人だというのに、臨機応変に動けなんて言われても無理がある。あれもこれもと抱え込み、キャパオーバーをしてどうにもならなくなったところで漸く手助けをしてくれる。
    「どうしようもねぇなあ」と、余計な一言を必ず浴びせながら。

    これは先に、あれは後に。少し考えれば分かるだろう?と偉そうに言われたって、やれと言われた事を真っ先にやるよう言ったのはその上司だ。どうしろと言うのだ。そんな不満をぐっと飲み込み、男は「すみません、いつもありがとうございます」と申し訳なさそうな顔を作って頭を下げていた。

    「何だそれ、パワハラじゃん」
    「ですよね?!そりゃ、俺は要領良いわけじゃないし、仕事が出来るわけでもないですけど…いちいちそういう余計な一言付けなくても良いと思うんですよ」
    「うんうん、やる気失くすよなあ」

    カウンターの向こうに置かれた小さな椅子に腰かけ、カウンターに肘を突きながら小さく頷くピエロは、よくやってると思うよと労ってくれる。

    初対面の、しかも自分の店の前に吐瀉物をぶちまけた男相手に、何故そんなに優しい言葉をかけてくれるのだろう。もしやこの後水代とでも言って法外な値段の会計を吹っかけられるのでは無いだろうか。

    そんな想像をしたが、男は優しく話を聞いてくれるピエロに涙声で愚痴を吐き出す事をやめられない。

    「田舎から出てきて、俺こっちで一人で…同期はどんどん辞めていったし、友達もいないしで」
    「あらあ…仕事で疲れて癒されたくても一人じゃなあ…俺で良けりゃいつでも聞くから、店においで」

    心にも無い言葉だったとしても、営業トークだったとしても、男にとってピエロの言葉は魅力的だった。
    目の前のピエロが、まるで慈愛の天使のように思えてしまうのだから、相当疲れ切っていたのだろう。

    「どっちみち服返してもらわないとだから、もう一回来てもらうんだけどね!」
    「そう、ですね…クリーニングしてお返しします」
    「良いってそこまでしなくて…あ、でも洗濯はして」

    あっはと声を上げたピエロは、両手を大きく広げて顔の両脇に持って行く。その仕草はピエロメイクによく合っていた。

    「にしても…その様子じゃ大分ストレス溜めてそうだな」
    「ええまあ…多少は」
    「んじゃ良い物あげよかね」

    ぬるりと立ち上がったピエロを目で追ってしまう。立ち上がるその動きが、滑らかすぎてぬるりとした動きに見えてしまったのが何だか可笑しかった。ピエロメイクをしているのだから、パントマイムも出来たりするのだろうか。

    ぼんやりとそんな事を考えている男に、ピエロは壁に設置された大きな棚から小さな包みを取り出すと、ポンとカウンターに置いた。

    小さな茶色の紙袋。掌に収まりそうなサイズのそれが何なのか分からず、男は困惑した顔でピエロを見た。

    「嫌な事忘れて楽しい気分になれるんだ。本当は商品なんだけど、兄ちゃん気に入ったからお試しね」
    「…合法?」
    「合法よ合法!家で寝る前に使ってみな。翌朝には気分爽快すっきりポンってやつさ」

    にまあ。

    大きく口角を上げたピエロから視線が動かない。リップラインを外れて描かれた唇がそう見せているのかもしれないが、確かにピエロは「笑っていた」

    「気に入らなきゃ服を返してサヨウナラ。気に入ったら今後ともゴヒイキニ。使うも使わないも兄ちゃんの自由だよ」

    ニタニタと笑い続けるピエロを前に、男はごくりと生唾を飲んだ。
    絶対にこれに手を出してはいけない。本能がそう警告しているのに、しんどい、助けてほしい、楽になりたいと喚く自分は今すぐこの包みに手を伸ばしたいと思っている。

    駄目だ、これは駄目だ。
    欲しい、これが欲しい。
    危険だ、この場から逃げなくては。
    心地いい、優しくされたい。

    交互に押し寄せる感情に、男の思考が鈍くなる。きっとこれはまだ酒が残っていて、冷静な判断が出来なくなっているのだ。仕方ない、あれだけ浴びる程の酒を飲まされたのだから。最後の一押しとばかりにほんの少し押し出された包みに手を伸ばしてしまったのは、何もかも、無理に飲まされた酒のせいだ。

    ◆◆◆

    コツコツと忙しない足音。
    もう真夜中、終電まであと少し。終電を逃せばかなりの距離を歩かなければならない。明日は休みだが、疲れ切った体を休めるには自宅が一番だ。

    そう理解しているのに、男は目的地を目指して足を動かし続ける。会社を出てから殆ど走っているような速度で歩き続けているせいか、男の呼吸は荒い。

    胸が苦しい。それでも、男は「早く」としか考えられなかった。

    「オーナー!」

    ばたんと大きな音を立て、目的の場所に辿り着いた事に安堵する。
    オーナーと叫んだ男の目の前には、すっかり見慣れてしまったピエロが出迎えるバーのような何かが広がっていた。

    「何だい兄ちゃん、また来たんか」

    にぃ、と微笑むピエロは、いつも通りカウンターの中で男を出迎える。
    バーっぽいだろう?なんて悪戯に微笑みながら、グラスを磨くその姿は、相変わらずピエロメイクに派手な服の奇妙な姿。その姿に安心するようになるなんて、一体誰が予想していたのだろう。

    「先週来たばっかじゃなかったか?すっかり常連さんだ」
    「あの、まだあれありますか」
    「あらあせっかちさんだこと。待てない男はモテないぜ」

    一先ず座んなさいといつものカウンターチェアを差され、男は大人しく定位置に着いた。毎回出されるお通しのナッツ。酒に弱い事を知っているピエロは、冷えたレモンスカッシュをグラスに注いで出してくれた。いつものセット。この場所に来てすぐの安心する儀式のようになったこのセットが、男の最近のお気に入りの組み合わせとなっていた。

    ぽりぽりと口の中で小さな音を立てるナッツが、興奮した頭を冷静にさせる。落ち着けと宥められているような気がして、男は冷えたレモンスカッシュをぐびりと飲み下す。

    だが、冷静にと窘められたとしても、男は冷静さを取り戻す事など出来そうにない。視線の先にある棚の中。あの中にあるのは男が求める救い。ギラギラと血走った目で棚を見る男に、ピエロは困り顔を作って溜息を吐いた。

    「あーあ、ジャンキーみてぇなの」
    「合法、でしょ?」
    「まあね。しっかし半年経たずにこんなにどっぷりとはなあ…」

    何か飲んで良い?と男に許可を取りながら、ピエロは瓶入りの炭酸水を冷蔵庫から取り出した。良いと答えるよりも先にグラスに注ぎ始めるのは、ピエロのいつもの行動だった。

    最初こそピエロが飲んだ物を何故自分が支払わねばならないのだと不満に思いもしたが、そういう物だと学習してからは炭酸水だけで済むのなら安いものだと好きに飲ませる事にしている。

    「今繁忙期ってやつで…あのパワハラ野郎毎日怒鳴ってきて!」
    「えー?パワハラ悪化してんじゃん最悪ぅ」

    間延びした声で同意しながら、ピエロは乾杯を求めてカウンターに置かれた男のグラスに自分のグラスをカチリと当てる。
    もう嫌だ!とうだうだ言い始めた男に、ピエロはまあ飲みなさいよとカウンターを指先でトントンと叩いた。

    「ほんで?先週買った分はもう使ったんかい」
    「あと一個だけ…」

    ピエロの問いに答えたところで、男ははたと冷静になる。給料日前、財布の中は少々寂しい。それなりに貯めていた筈の口座も既に底を突いている。
    目の前で棚を漁っているピエロの背中を見つめながら、男はどうしようとぐるぐると頭を悩ませる。

    ピエロの出してくれる物が欲しい。
    欲しい物を手に入れるには金を差し出さねばならない。だが今は差し出せるだけの金が無い。

    「はいいつもの。一袋三万円でぇす。買ってく?」

    へらりとした表情で、ピエロは男に問う。
    その問いに、男はひくりと頬を引き攣らせた。何度頭の中で残りの金を数えてみても、三万円などという大金を差し出す事など出来やしない。

    食費を切り詰め、大嫌いな上司に媚を売って食事を奢ってもらう事さえあった。そうして浮いた金を、このピエロに差し出しているのだ。

    「どうした兄ちゃん、買ってかない?」

    カラカラと喉が渇く。出された飲み物とナッツの料金を払うくらいの金は財布に入っているが、ピエロの与える救いは高価だ。
    手を伸ばせば届く距離に置かれた包みから視線を離す事が出来ないまま、男はうっすらと口を開いた。

    「きょ、うは…やめときます」
    「そ?金尽きちゃったかあ」

    ぐいと近付けられた顔。いつも通りの笑顔を描いた顔。無理矢理視線を合わせるように俯く男の顔を覗き込むピエロは、追い詰めるように「うん?」と声を漏らした。

    「給料日に、買いに来ます」
    「そう?俺は金さえ出してくれんならいつもで良いんだけどね」

    ただの会社員である、それもまだ若い男にどれだけ稼げるだろう。生活するには困っていないが、贅沢すぎる買い物を繰り返す程の稼ぎは無い。

    欲しい、欲しくて堪らないのに、手を伸ばす事は許されない。

    「なあ兄ちゃん、コレ、欲しい?」

    ピエロの問いに、男は勢い良く顔を上げる。鼻と鼻がくっ付いてしまいそうな距離に驚きはしたが、くれるのかと期待する目を向ける事はやめられなかった。

    「ただの若い会社員が普通に働いて稼げる額なんてたかが知れてるよな。そんで、俺が提供してる品はまーあ高級品なわけだ」

    男の頬を両手で包み込みながら、ピエロは穏やかな声色で語る。
    望む物があるのなら対価を差し出せ。
    ピエロの商品の対価になりうるのは金ただ一つ。提示された金額を耳を揃えてきっちり払え。

    「そんな顔するなよ兄ちゃん。笑ってくれなきゃ、ピエロの存在意義ってもんが無くなっちまうだろう?」

    怯えた表情の男に、ピエロは優しく微笑む。ほら笑えと言われても、ぎこちなく頬を引き攣らせる事しか出来なかった。

    「そうさなあ…俺、兄ちゃんの事気に入ってんだ。だから特別な」

    そう言うと、ピエロは男から離れていつもの棚の前に立つ。一本の酒瓶を掴み、手前に倒すと、ガタンと鈍く大きな音がした。

    「入っといで」

    そう手招きをするピエロに、男はのろのろと立ち上がる。カウンターの中に入るのは初めてだが、よく整理された綺麗なカウンター下。ドリンクの予備やら、摘みのストックなどが丁寧に並べられている。

    「金が無いならどうすべき?はい兄ちゃん」

    ピッと人差し指を男に向け、ピエロは一人楽しそうに笑う。まるでクイズ番組の司会をしている気分なのだろう。

    「えっと…働く?」
    「はい正解!汗水垂らして馬車馬みてーに働いて、ちんまい稼ぎを抱えて大喜び!」

    ヤッタネ!

    両手を胸の前でぐっと握り、ガッツポーズをしてみせるピエロにどう反応すれば良いのだろう。楽しそうだなぁといった反応が正解なのだろうか。それとも、ふざけているのかと怒るべきなのだろうか。

    「まあでも、そのちんまい稼ぎじゃ兄ちゃんは満足出来ないわけだ」

    明るく跳ねた声で話していたピエロが、一気に声のトーンを下げる。低く這う声など初めて聞いた。思わずびくりと肩が跳ねてしまうのは、目の前のピエロが異常な人物である事を思い出させたからだろうか。

    「兄ちゃんにぴったりの、いーい仕事があるぜ」

    そう言うと、ピエロは棚板を掴んで横に薙いだ。ガラガラと音を立てて動いた棚。可動式である事を初めて知ったが、それよりも棚の奥に隠されていた鉄扉が異様な雰囲気を醸し出していた。

    迷いなく扉を押したピエロは、来い来いと手招きをする。恐る恐る近寄ると、扉の向こうは真っ暗で、何があるのかさえ分からない。ホラー映画なら間違いなくこの奥は惨劇が広がっているだろう。

    「こっちに付いてきな。金が欲しいんだろう?」

    にんまりと笑うピエロ、差し出された大きな手。行ってはいけないと分かっている筈なのに、金が手に入れば欲しい物が手に入る。救いに手を伸ばしたくなってしまうのは、人間として当然の事である筈だ。

    「良い子だ」

    差し出された手を取ると、ピエロはしっかりとその手を握った。もう逃がさないと言わんばかりに、にんまりと口角を引き上げる。

    捕まえた。
    もう逃がさない。
    ようこそ、新しき商材よ。

    半年かけて漸く落ちて来た獲物に歓喜し、歪んだ笑みを隠す事も出来ないまま、ピエロはそっと男の手を引いた。

    この先で何が行われるかも知らず、ただ救いを求めて藻掻く男は、ピエロの歪んだ笑みに気が付く事は無かった。
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