風見と伊織が入寮することになった独身寮は比較的規則が緩く、門限と共用部の掃除当番を守れば大丈夫だというところだった。指導を行う目付役の先輩曰く、かつてあまりにも厳しいルールに縛られ苦しい思いをしたから最低限を守ってくれれば良いという考えの持ち主だったからだ。それは裏を返せば、新たに入寮した風見と伊織に言外で警察官としての責任を与えるものであったことは、二人とも重々承知していた。この最低限を守れない者は警察官として、社会人として不適格。風見は特に、ルールが緩いからこそ気を引き締めなければと自らを奮い立たせた。
その日は、新人である風見と伊織を歓迎するためにと所轄の幹部が寮に訪れ懇親会が開催された。万が一の緊急出動に備えて酒は並ばない、まるで高校生の頃を思い出すような懇親会だった。
伊織はその端正な顔立ちと知的な物腰で、幹部達と上手く交流していた。さすがだ、と風見は寮の先輩達の冗談に愛想良く返事をしながらこっそり伊織を見ていた。
風見に対する先輩の興味は、恋愛遍歴や異性関係がほとんどだった。独身寮であり警察官としても守秘義務があるためなかなか異性との縁に恵まれないであろう彼らにとって、新入りの話は肴にちょうど良い。風見自身恋愛経験が多いわけではないため、咄嗟に高校時代付き合っていた女性の話を口にした。高校卒業を機に消滅してしまった関係だった。どこまでいったのかと調子よく問いただしてくる先輩に対し、風見は困ったように眉を下げて苦笑いを浮かべることしかできなかった。正直に言えば、手を繋いでキスをした程度だ。しかし彼らが求めている話の内容は、そんな青い春のワンシーンではないことは風見も理解していた。しかし、無いものは無い。
「彼は硬派な男ですので、勘弁してやってください」
言葉を濁す風見となんとか引き出そうと肩を組んでくる先輩達の間に、椅子を持って割って入ってきたのは伊織だった。先ほどまで幹部と話をしていたはずの伊織が何故と風見は困惑したが、烏龍茶が入ったグラスを手に風見の隣に座った伊織は、有無を言わさない笑顔で風見にしつこく女性遍歴を聞いてきた先輩を黙らせた。
そのうち、寮母が締めにとうどんを作って運んできた。ピザやオードブルを食べ膨れていた腹だったが、寮母の心遣いを無碍にするわけにはいかないと風見は嬉しそうにうどんを啜った。出汁がきいたスープに濃い油揚げの味がしみ、べたついていた口の中や喉が癒やされる感覚がした。
美味そうに食べるな、と茶化すような声が聞こえてきた。風見はうどんの汁をすすりながら楚の声の方に顔を向け「美味しいので」と愛想良く笑って答えた。
そうしている内に、幹部職員がお開きを促し腰を上げた。やっと終わる、と風見は内心ほっと胸を撫で下ろしながら、食べ終わった後の食器やゴミの片付けに参加した。三十分も経たないうちに食堂の片付けが終わり、先輩達が幹部職員も帰ったので酒を飲むかと椅子に座り直し誘ってきた。参加した方がいいだろうと思い、ぜひと風見が返事をしようとした時、再び伊織が間に入った。
「今日はお暇させていただきます、また機会がありましたら是非」
伊織の美しい笑顔に、先輩達がそうかそうかと引きつった笑みを浮かべて二人を食堂から追い出したのを、風見は内心首をかしげた。
「さすがに腹一杯だ、風呂にも入らないと」
風見が自らの腹を服の上から撫でながらため息交じりに言えば、横に並んで歩く伊織がちらりと風見を見やる。
「少しお前の部屋に行っても良いか?」
伊織が不意にそんなことを口にした。
先ほどまでの丁寧な物腰とは違う伊織の低い声とやや砕けた口調。酒でも飲むのか、と思った風見は、二つ返事で頷いた。