新任教師明智先生と前歴持ちの雨宮君の話⑧────『獅童正義』
その名前と姿を初めて見たのは、中学生の時だった。
社会科見学として国会議事堂に行った時に、あろうことか案内役の大人が当時はまだ知る人ぞ知る程度の認知度だったその男を連れて来たのだ。教育側の人間からしたら実際に現場で働いてる人間に説明させる方が子供の学習になるはずだ、という方針だったのだろうし、担任だった女も満足気にその話を聞いていた。周りのクラスメイト達も『へー』だの『すげー』だのと中身のない返事をしながら聞いていた。
……僕だけが、その男の顔を焼き付けるように見ていた。話は自分の心臓の音で何も聞こえなかった。
母は生前に『まさよしさん』と知らない男の名前を呟きながら泣いていることがあった。それが父の名前であるのはなんとなく察していて、母の死後は何処にいるかも分からない『まさよし』をいつか見つけたいと思っていた。見つけて、どうして母を捨てたのか聞きたくて、ずっと迎えに来てくれなかったことを謝ってほしくて。ずっと。ずっと、いつか会いたいと。
「(しどう……『まさよし』……)」
目の前の『まさよし』を見ながら、この男が愛人という関係で母を抱き、僕を身篭らせて、見捨てるように母の前から去って行った父親であると確信した。確証なんてない。思い違いである可能性も充分ある。でも、感情面では滅多に反応しない自分の心臓がこんなにも早鐘を鳴らしている。握り潰されているように苦しくて、全身の血液が沸騰しているかのように熱い。うるさい鼓動が収まらない。
……それだけで充分だと思った。
最後に質疑応答の時間が設けられ、担任からの『何か聞きたいことがある人は手を挙げて』という言葉に僕は真っ先に手を上げた。元々優等生として気に入られていたから担任は『さすが明智くんね』と嬉しそうに指名してくれた。
「国会議員ともなるとお金は沢山貰ってるんですよね。ご家族は何人いらっしゃるんですか?」
中学生の子供相手ならばよくされるだろう質問だと思う。だから不自然さは無い。
「私を含めれば三人だ。妻と娘が居る。丁度君達と同い歳くらいのな」
「…………へえ。そうなんだ」
──同い年の、『娘』。
中学生の子供からされる質問などに期待などしていなかったらしい獅童は笑顔も怒りもない、興味もないようにさらりとそう言った。本当は『愛人と息子も居ますよね』なんて言ったところで、信じる者は本人含めて誰も居ないだろう。別にこんな奴に浮気された本妻の女と選ばれた顔も知らない腹違いの妹なんだか姉なんだか知らないヤツに対する怒りはない。
ただただ、この男がほぼ同じタイミングで二人の女を抱いていたのかという怒りが腹の底からじんわりと湧き出るだけだった。
それからは獅童正義の動向をネットやテレビで追うばかりの生活だった。引き取られた親戚の家での行動は限られる。母が残した僅かな資産とバレない程度に歳を誤魔化して始めたアルバイトで稼いだ金でマンガ喫茶などに入り浸り、情報を探り続けた。そして探れば探るほど、あらゆる黒い噂が検索結果にヒットする。裏で揉み消しているのかあまり表沙汰には出ていないものばかりだが、それこそが噂が真実である何よりの証拠。こういう時に直ぐに正体を特定したがる民度の低いSNSに群がる大衆は便利だと思う。
獅童の裏の顔が表沙汰になっていないならば簡単だ。
──僕の手で全ての真実を白日の元に晒し、一生表舞台に立てないように『殺して』やる。
それが僕の。息子として、母の無念を晴らすための復讐だ。
そこまで決まれば行き場のなかった道筋が見えてくる。アイツが己の手を汚しながら生きているのならば、こちらは汚さない正義のやり方でアイツに引導を渡す。
もちろんこんな子供の内からそれが叶うとは思ってない。高校を出て、大学に入り、成人を迎えてからが勝負の始まり。中学生である今はあくまで下積みの段階だ。
ならば僕は将来どこに向かうのが一番効果的だろう。聞こえが良い職種に就かなければならない。警察は自分自身がしっくり来ない。探偵は、少し弱い気がする。もっと強そうな、何か別の肩書き。
「……あ」
見ていたサイトの広告で、それがふと目に付いた。とある法律事務所のリンクに繋がるバナー。リンク先には綺麗な女性が
弁護士として所長を務めている様子がサイトに載っている。新島冴という名前の弁護士は少しだけ聞いたことがある。元々は検事をしていたが、弁護士に転職した女の人だ。
「(弁護士……)」
良いかもしれない、と思った。
難しい国家試験を乗り越えて始めてその職に就くことを許される弁護士は、肩書きとしては充分だと。幸い勉強することは嫌いじゃない。努力次第でなれるというのならば、いくらでもやってやる。今の自分ができる目標が明確に決まった瞬間だった。
「あら、随分と可愛らしいお客様が来たわね」
雑居ビルの三階。新島法律事務所と書かれた扉の奥には、ネットで見た通りの女性が出迎えた。写真で見たより背が高くて、細くて、無駄のない空気を纏っていた。
整頓された室内には豪華そうなソファーと机が揃っている。あそこでいつも、彼女は客人と依頼についてのことを話すのだろう。
「何か用かしら、坊や。ご両親はどうしたの?」
「そんなのは居ません。一人で来ました」
「それは君が私に用がある、ということかしら」
「僕、明智吾郎って言います。将来弁護士になりたいんです。新島さんの元で勉強させてほしくて来ました」
無駄なやり取りは必要ない。直球に目的を話したら目の前の大人は目を丸くしたが、すぐにフフっと笑った。
「君、まだ中学生でしょう?随分と明確な将来の夢があるのね。私の妹だってそこまでハッキリした夢なんて持ってないわよ」
「……………………」
ああ。この女、目の前に居るのが大人の依頼人ではなくただの子供だからって真剣に聞いてないな。親戚の家に預けられている間、あらゆる人間達の機嫌を伺う生活ばかりだったから態度ですぐに分かる。舐めやがって。
「……夢なんてぬるいものじゃない、そう決めたんだ。子供だからって馬鹿にしないでください」
「あら、ごめんなさい。馬鹿にしてるわけじゃないのよ。志が高いのは良いことだもの、君のその目標を否定してるわけじゃない。その年で弁護士を目指そうと思ってくれた貴方の気持ちを私は歓迎するわ」
「だったら僕のお願い、聞いてくれますか」
「……でもね、少し落ち着いたらどうかしら。弁護士になりたい気持ちは分かるけど、そんなに生き急ぎながらなれるものじゃないわよ」
「でも僕にはそれしかもう道がないんだ」
「どうしてそこまでして弁護士になりたいの?随分と強い目的があるようだけど」
そこでようやく彼女は、僕のただならぬ空気を察知したのだろう。
ヘラヘラした顔を引き締めて、見定めるような眼差しで見下ろして来た。だから僕も、その目を睨みつけるように見上げた。
「父親を、命を取らないやり方で殺したいんです。欲しいのは弁護士という肩書きだけ」
「…父親を?それはどういう感情から来るもの?」
「復讐です。僕も、母も、アイツに捨てられた。アイツには報いが必要だと思って」
「………………。ふぅん、随分と高尚な夢ね。ちなみにそれ、私が断ったらどうするつもり?数ある弁護士の中で私を選んでくれたんでしょう?」
「その時は自力でなるだけです」
「簡単に諦める気はない、というわけね」
こくりと頷く。
新島冴は元々は検事だったところを弁護士に転職したと経歴に書いてあった。彼女の中でどういう心変わりがあったのかは知らないし興味もない。ただ、弁護士だからと言って全ての人間が正しい道を生きているわけではないだろう。選ぶ人間を間違えれば、僕もアイツと同じ穴の狢になる。
それを考慮した上でも、検事と弁護士のどちらの内情を知る頭は唯一無二だと思う。だからこそ、こうして彼女の元に赴いた。
「……分かった。ひとまず、貴方を助手候補として受け入れてあげる。ただ中学生に働かせるわけにはいかないから、高校生になるまではあくまでお手伝いの範囲内でここに通うことを許すわ」
「……いいんですか?」
「何を驚いた顔してるの。その気で来たんでしょう?」
「それは、そうですけど」
「ハッキリ言っておいてあげるけど、貴方このまま放っておいたら危ない目をしてる。その歳の男の子がしていい顔をしてないわ。手遅れになる前に手網を握っておくだけよ。私の許可無く勝手な行動をしないこと、それが条件よ。分かった?小さな復讐者さん」
母を亡くしてから色んな大人を見てきた。その殆どが自分のことしか考えないろくでもない奴らばかりだったけど、目の前に居る大人はそうではない。今出会ったばかりの赤の他人の子供である僕を心配して、親身になってくれた。この人には大人と言われれば想像するような、絵に書いたような『正しさ』がある気がした。
「そういえば、明智くん」
「はい?」
「弁護士になるなら大学は法学部にするんでしょう?どこの大学に行く気?」
高校三年生の春を迎えて少しした頃。 いつものように助手のアルバイトとしてやって来た冴さんの事務所で資料の片付けをしていると、横からそう尋ねられた。
「ああ。それなんですけど、実は教育学部に行こうかと思ってて」
「は……?ちょっと待って。あなた、弁護士になる目標は諦めたの?」
「諦めてないですよ。だからこうして学校帰りに冴さんに顎で使われに来てるんじゃないですか」
「……話が読めないわ。何を考えてるの?司法試験を受けるには法学部を出ないといけないのよ」
呆れより怒りに近い突き刺さるようなジト目に笑顔で返してやれば、冴さんの眉間の皺は増えていくばかりだ。
高校では今までずっと首席の座を誰にも譲らなかったし、今年も譲る気は無い。そんな優等生をやっていれば自然と担任からも推薦入学の話が舞い込んでくる。とりあえず教員免許が取れる学部がある所なら何処だっていいので、ピリつき始めてきた同級生達と違って大学進学への懸念は今のところ何もない。
「法学部の大学に通わないで済むシンプルなルートで試験を受けることができるやり方、あるじゃないですか。司法試験はそれで受けようと思ってて」
「まさかそれ『予備試験』のことを言ってる?バカ言わないで。貴方の復讐とやらに教員免許は必要ないでしょう?弁護士になりたいならわざわざそんな難しい道を選ぶ必要ないわ」
「まあ、確かに相当難しいらしいですね。合格率って五パーセント以下なんでしたっけ?」
「そこまで分かってるなら大人しく法学部に行きなさいよ。お金の心配があるなら最悪私が出してあげるから」
冴さんは、僕が高校生に上がった辺りから本格的に助手として動かしてくれたようになり、流石に裁判のお供まではできなかったけれど離婚協議の立ち会いなどの簡単な案件などには同行させてくれるようになった。その他にも弁護士として大切なこと、自分が試験を受けた時にどういう問題があったなど、色んなことを教えてくれた。
今のように進路のことを気にかけてくれたりと、初めてこの事務所の扉を開けたあの日から今日まで、冴さんはずっと何かと僕の面倒を見てくれる。中学生の頃から子供の戯言だと切り捨てないでずっと寄り添ってくれた。彼女と出会ってから、久しく忘れていた『人の温かさ』というものに触れる機会が増えていき、父への復讐心は忘れていないものの、それでも彼女と会うまで腹の中でずっと渦巻いていた憎悪の心はかなり薄れている。師匠であり、もう一人の母親のようで、恩人。それが、今の僕の視点から見る新島冴という女性だ。
そんな彼女にまさかここまで反対されるとは思わなかったが、これもまた冴さんなりに僕が確実に弁護士になれるように色々考えてくれている証拠。それを足蹴にするのは少しだけ申し訳ないし、苦難の道を自分から選ぼうとしていることも分かっている。
それでも、
「要は五パーセント以下の確率の中に入れば良いんでしょ?高校に上がる時に冴さんが見つけてくれた物件、静かで安心して勉強に集中できるんです。環境は整ってるわけだし、あとは僕が頑張るだけ。大丈夫、期待以上を約束しますよ。やってやります」
「…………はあ、私が何言ったってどうせ聞く気はないのよね、貴方は。昔から自分で決めたことには本当に頑固な子よね」
「やだなぁ、そこは『決意が固い』って言ってくださいよ」
「ちなみに聞くけど、なんで教師になろうだなんて思ったわけ?」
「ん~、そうだなあ」
勉強することは嫌いではないが、誰かに教えることが好きと言うわけではない。
なんならそもそも人と話すことすら煩わしいと思う日さえある。教師になればまともな教養もないようなクソガキを相手にすることもあるかもしれない。特に深い意味も目的もない。
じゃあなぜかと言われると。強いて言うなら、
「ただ弁護士って名乗るより弁護士兼教師って名乗った方が『正しい道を行く凄い奴』って感じ、するじゃないですか」