新任教師明智先生と前歴持ちの雨宮くんの話⑩傷害事件の容疑者として下された有罪判決は撤回された。三島と佐藤さん、そして、明智のおかげで。
冴さんと三島と別れた裁判所の帰り、明智は俺を乗せた車を自宅ではなく俺の家に向かって走らせた。間もなく到着した数か月ぶりに帰った自宅には、母さんと父さんが二人揃って俺達の帰りを待っていた。
明智は俺達家族を集めて、裁判で俺の有罪判決が撤回されたこと、そもそもその暴行事件自体が冤罪だったことの説明をした。彼らの息子は誰かを殴ったのではなく、誰かを助けようとしたのだと。あの日の真実全てを包み隠さず両親に話したのだ。その話を聞きながら母さんは泣いた。父さんも深く頭を下げた。明智に対しても、そして、俺に対しても。
「ごめん…ごめんね蓮…守ってあげれなくて…」
「…本当にすまなかった」
何度も何度も謝ってくる両親の姿は、酷く小さく見える。
別にあの頃から今も、怒ってるわけじゃない。獅童を相手にして強く出れなかった気持ちも痛いほど分かる。それでも、相手が誰であろうと『信じる』と言って欲しかっただけ。両親は獅童から俺を守ってはくれなかったけど、他の事ではしっかり俺を守ってくれた。校長に頭を下げてくれた。頭では理解していても、一度根を張ったものはなかなか取り除けなかった。
「……許して欲しいとは言わない。それでも、お前が良ければまた戻って来てほしい。俺達に償うチャンスをくれないか、蓮」
父さんが俺を真っ直ぐ見つめながら問いかけてくる。明智の家から自宅に帰って来いと言われている。前歴はなくなり、両親との蟠りもこれで解消された。心の距離はまだ戻らなくても、今までのような険悪な空気にはもうならない。だから明智の家に居る理由はなくなる。いつまでも明智の家に居るわけにはいかないから、こういう話の流れになるのは当然の事だ。
帰りなよ、蓮
……明智
君の本当の居場所は僕の家じゃない。君を待ってくれる存在が居るなら、君はそこに帰るべきだ。それがご両親であるなら、尚更ね
返事を渋っていると、明智が静かに諭してくる。
明智は俺達家族の姿を見て『羨ましい』と零していた。母子家庭で、その母親も早くに亡くして、それ以降は家族の温かさに触れる機会がないまま、一人で大人になってしまった明智。明智が俺の無実を証明するために頑張ってくれたのは、俺と、俺の家族を守るためだった。家族が居ない苦しみと寂しさを知っている明智だからこそ、自分と同じ思いはさせまいと明智は俺に手を差し伸べてくれたのだ。そんな明智が俺に、家族の元に帰れと言ってくれる。最後の最後まで、背中を押してくれる。
(……そんなの、断れるわけないじゃないか)
こくりと頷いて、『帰るよ』と伝える。両親は安心したように晴れた顔で嬉しそうに笑ってくれた。
そしてそんなやり取りを隣で見守っていた明智も穏やかな顔で、満足気に微笑んでいた。
……少しだけ寂しそうに、眩しいものを見るように。目を細めながら。
〇 〇
事務所がある最寄りである四軒茶屋の駅を降り立ち、徒歩五分。
道のハズレに、ルブランという名前の喫茶店がある。コーヒーとカレーがとても美味しい、行きつけの場所。
こんにちは
ドアベルを鳴らしながらガラスが埋め込まれた木の扉を開ければ、見慣れた古き良き喫茶店の内装が視界に広がる。そのカウンター席の内側にいるマスターと、縦に並んだボックス席に座る女性は僕の顔を見るなり笑顔で迎えてくれた。
よお、いらっしゃい
遅かったね明智クン~!待ってたよ~!!こっちおいでおいで~!
上機嫌に手を振る女性に引き寄せられるように、彼女が座るボックス席の向かいに座った。裁判が終わってから一週間が経ち、判決証明書などの手続きも終わった。蓮の暴行事件は蓮の無実として完全なる収束を迎えている。
おう、坊主。コーヒーはいつものでいいのか?
はい。お願いします
はいよ
笑みを浮かべながらマスターがカウンターの向こうでカチャカチャと音を立てる。この店は事務所から徒歩圏内にあることから冴さんも昔から行きつけだったらしく、中学生の頃から一緒にランチを食べに連れて来てもらっていて、今もこうしてお世話になっている。昔ながらの常連に当たるわけなので、マスターは僕に対して気さくに話しかけてくるし、僕が好きなコーヒーの味もしっかり理解してくれている。ここ以外の場所で飲むコーヒーが美味しく感じないと思ってしまうほどには、ルブランのコーヒーは特別の味がする。そういうところが、昔から今も、心地が良くて好きだった。
『獅童議員!ネットに書かれていたことは全て本当なんですか!』
『収賄に加え、偽証の罪で高校生を訴えたとのことですか!』
『その高校生に対して何か言うことはないんですか!?』
『お答え下さい!!』
店内に設置されたテレビは獅童が映ったニュース番組を流していた。その内容は今までのように次期総理大臣候補として期待される特集ではなく、突如投稿されたネット記事から浮上した政治資金規正法違反、収賄、公選法違反及び、偽証罪の疑惑についての話が毎日特集されている。
ニュースが流している映像の中で、獅童は報道陣達に沢山のマイクを向けられながら囲まれている。そして険しい顔付きのまま無言を貫き、近くに停めていた車に乗り込んだ。言われている疑惑は全て事実だから否定はできないし、認めれば全てが終わることを理解しているから肯定もできないのだ。
いや~天下のシドー議員もここまで騒がれちゃお終いだね~。…ま、全部あたしが流したんだけどさ
同じくテレビを見上げながら、女性が言う。
彼女の名前は大宅一子さん。随分前から僕の記事を書きたいと定期的に会いに来るため付き合いだけはやたらと長い、僕の復讐の協力者。連日騒がれている記事をネットに載せた張本人───今回の功労者の一人である。
実はねー今度の記者会見。あたし、ちゃんと席取れたんだ~。偉いでしょ?
へえ、倍率凄かったんじゃないですか?
あったり前でしょ~!でもこれでやっと明智クンの記事を書けると思ったらお姉さん張り切っちゃった!イケメン先生に褒めてもらえたらもっと頑張れるかもよー?
……大宅さん、もしかしてまたお酒飲んでます?
飲んでない飲んでない!だってここコーヒーしか出してくれないもん!
ここは喫茶店だ。酒なんか出すわけねえだろ
ほら~!ここのマスター、ララちゃんより冷たいんだよな~!!
あはは…
相変わらずシラフでも酔ってても賑やかな人である。
たまにそのテンションに付いて行けない時もあるが、酒に酔って無関係の子供を存在しない罪で訴えるよりは数億倍マシだろう。
……ンでだ。あたしは記者会見の前にコイツをそのまま記事にする。前みたいに、ね。
そうして差し出されたのは記事の原本だ。
獅童正義に捨てられた愛人と、その息子の半生───という内容のもの。大宅さんに包み隠さず話した今までの僕自身の生い立ちが匿名として簡潔な文章で綴られている。
蓮の裁判で明かされた獅童の不祥事の事実はあくまで非公開だ。山崎裁判長は信頼できる方だから聞いてしまったからには放っておくことはないだろうから、佐藤さんがあの場で真実を暴露した時点で獅童はほぼ詰んでいる。その上で僕が集めた証拠の資料を大宅さんに全て渡し、記事にしてもらってSNSの拡散力に身を任せながら大衆の目に触れさせる。選挙を控えたこの時期に流出した次期総理大臣候補の不祥事疑惑に世間の話題は持ちきり。この流れで母との関係のことまで流してしまえば、クリーンなイメージで活動していたアイツの長年の信頼は、次期総理大臣候補から過去に愛人関係を持っていた犯罪者として切り捨てられることだろう。例え二十七年前の話であろうと、ここまで炎上していれば真偽問わずどんな情報でも大きな火種になり得る。
つまりこの原本は、政治家としての獅童正義の息の根を完全に止める最後の武器。
ええ、大丈夫です。最後の仕上げ、よろしくお願いします
そんな獅童は来週の頭に連日騒がれている不祥事疑惑について釈明会見を開く。しかし釈明と言っても獅童にはもう逃げ道はない。事実として全てを認めるしかアイツには選択肢はないのだ。恐らく警察は既に逮捕に向けて動いている。恐らく会見後に獅童が帰る先は、議員会館ではなく警察署になるだろう。
あたしも獅童は怪しいとずっと踏んでたとはいえ、その上を行くエグいのが居たとは思わなかったわ。しかもそれが実の息子と来た。……ま、おかげでめちゃくちゃ楽しく記事書けたけどね。編集長はちょーっと引いてたけど!あはは!
大宅さんが楽しかったようで何よりです
………それで?パパの悪事を全て晒したかった息子クンとしては、これで満足したの?
………………………
この通り、獅童正義の悪事は全て白日の元に晒された。
父への復讐を決意した十四年前の僕が目標としていた光景が今、夢見た通りの姿として実現されている。
……そう。明智吾郎の復讐は、成功という形で完遂したのだ。
満足なんかしてないですよ。本当は会見でじゃなくて直接対面して僕や母に対して謝らせたかった。その上で跪かせてあのハゲた頭を泥塗れの足で踏んずけたり、地面に頭がめり込むほど土下座でもさせてやりたかった
うわエグ。でもそこまで考えといて何もしないの?物足りなくない?せっかく頑張って弁護士になったんでしょ?それだけで充分だろうに、更に教師まで続けながらさ
ええ。冴さんにも言いましたけど、死に物狂いで勉強して弁護士になった所で結局僕にできることってたかが知れてます。だから、とにかくあの男に再起不能になるほどに致命的な傷を負わせることが出来ればそれで良かったんです
今まで獅童にゴマをすり続けて権力にあやかっていたカス共も、何も知らずに表面だけを見て能天気に支持していたバカ共も、『選ばれた』家族達も、もうアイツの味方はしない。例えブタ箱から出てきたところで、アイツにはもう居場所は残ってない。そういう、都合が良かった数多の人間達を利用しながら上り詰めた高い高い場所から一気に突き落とすことこそ、今の僕ができる最大の復讐。
向かうところ敵無しだった獅童正義が、たった一人の───パッと出の若造にその全てを奪われた。アイツにとってこれ以上の屈辱はないだろう。例えその若造の正体が実の息子であったことを本人が知っていようと知らなくても、今となってはもうどうでもいい。
獅童に復讐しようと決意した十四歳の僕が今を見たら、きっと『こんなんじゃ足りない』って言うと思います。でもきっと、これが最善なんですよ。例え裁判にかけられて判決が下ったところで、アイツが自分がやって来た事を悔いる日は無い。あの男は、きっとそういう奴です。……まあ、特別な力を使って心を無理やりねじ曲げて『改心』でもさせれば、話は別かもしれませんけどね
それを分かった上で、二十七歳の明智吾郎はこれでいいって思うんだ
ええ。どこに行っても一人きりで寂しい心を恨みに置き換えることしか出来なかったあの頃と違って、今の僕は少なくとも一人ではないですから。この『今』を、今は大切にしようと思って
……ふぅん。ま、一番の被害者であるキミがそう言うならそれでいいんじゃない?他人がとやかく言うのは野暮ってもんよね
そういう事です
ニコリと笑ってみせると、肩をすくめるように大宅さんも苦笑した。
きっと僕の過去を知っている彼女なりの気遣いだったのだろう。そういう『明智吾郎』を見てくれる人達が今の僕には沢山居るから。きっと、これで良かったのだ。
それにしても、弁護士と教師しながらよくもまああんなに機密な情報まで集められたよねーキミ。ただネットを彷徨うだけじゃ到底見つからなかったでしょ。一体どういう調べ方したわけ?
ああ、それは───
へい!コーヒー一丁、お待ち!
その先の言葉を遮るようなタイミングで、目の前の机に湯気が立ったコーヒーが置かれる。ソーサーを掴んだ白くて細い腕を視線で追えば、一人の少女がこちらを見下ろしながらニンマリと微笑んでいた。
ありがとう双葉。今日もバイト頑張ってるね
そうじろうはわたしにゲロ甘だからな。バイト代が弾むんだ!
掛け声直す気ねえなら減給するけどな
なにー!?そんなの聞いてない!ずるいぞ、そうじろう!!
ずるくねえ!ずっと言ってただろうが!!
マスターとバイトの少女の漫才のような喧嘩は、もはや日常茶飯事すぎて一周まわってルブランの名物と化している。
そういう喧騒を聴きながら飲むマスターのコーヒーは相変わらず美味しかった。
おい、そこで呑気にコーヒー飲んでる明智!お前からの『バイト代』は、今度出るフェザーマンの限定フィギュアを全員分だぞ。忘れんなよ!
やだな、心配しなくても忘れてないよ
ん、なら良し!
大宅さんの言う通り獅童についての資料は僕一人の力では集めれるものではなかった。しかしそれはパソコン知識に強い存在がいれば状況は大きく変わる。かつてネットの海の中で天才ハッカーとして名を馳せていたもう一人の功労者は、ニシシ!と歯を剥き出しにして子供っぽく笑った。