あの香り夢見の悪い夜が続いていた。連日の茹だるような暑さと秋のシーズンに向けた学園全体に広がる水面下の緊張感に気疲れしているのか、正体不明の不快感で目が覚めてしまう。時計を見ると午前3時すぎを指していた。朝練のために早寝したとはいえ、さすがに早起きすぎる。
私のはじめての担当であるドリームジャーニーが旅の果てを求めて学園を出てからもうすぐ1年と半年くらい。ジュニア期でのG1制覇に加え春秋グランプリ制覇という新人には大きすぎるタイトル、もとい傷跡を残して行ったジャーニーはこのトレーナー室にいない。
彼女の旅路を応援する、トレーナーとして大人として当然だった。しかし、彼女が私に残して行ったものは輝かしい成績だけではなかった。初めての担当、トゥインクルシリーズを一緒に駆け抜けたトレーナーそんな特別な関係の内に秘められた自分の感情に気がついたのは2人で行った温泉旅行の時だ。
あの暗闇で繋がれた手をこのまま離したくないと、思ってしまった。
あの時は暗闇が私を隠してくれたからほんの少しだけ本音が溢れてしまったのだろうか。
「……はぁ」
自然と大きなため息がでる。自分の未練たらしさに嫌気がさしてしまう。
彼女の前では見かけだけでも大人でいたかった。誇り高い中央のトレーナーでいたかった。そもそも立場が許さなかった。結局私はジャーニーに想いを伝えずに彼女を送り出した。
まだまだ夏は終わっていないんだと言わんばかりにうっすらと空が色付き出す。
二度寝ができる時間でもなかったから冷凍庫のアイスを食べて朝ごはんとした。
「あ!トレーナーさんおはようございます」
早めにグラウンドで朝練の支度をしているとジャージ姿の現担当が手を振りながら近づいてきた。
「おはよう、体調は大丈夫?」
「はい!問題ないです!」
「そう、なら軽くアップしてきちゃおうか」
「わかりました!」
現担当はデビュー戦を勝ち抜いたもののそこからなかなか結果が出せない日々が続いていた。けれど最近は距離適性の見直しや基礎体力トレーニングを改めて行うことでオープン入りすることができた。
ジャーニーに未練があると言えばそれは嘘になる。しかし、現担当を疎かにしているという訳ではない。くたくたになったノートをパラパラ見返しながらここ数ヶ月の記録を見直す。
2人連続で素敵なウマ娘の担当ができて自分は幸せ者だと朝焼けのなか楽しそうに走る担当を見て自然と笑みがこぼれた。
「すごい、またタイム縮まってる!」
「……本当ですか!!」
肩で息をしながらぱあっと顔を輝かせる。
「うん!これなら秋のレースでもきっと戦える」
スポーツドリンクとタオルを手渡しながら力強く頷いた。
「トレーナーさん、ほんとにありがとうございます」
「いやいや、あなた自身がこの夏沢山頑張ったからだよ。本当によく頑張ったね!」
「えへへ……そうですかねぇ」
照れたように笑う彼女はすごく眩しくてすっかり上がりきった太陽に照らされて汗が宝石のように輝いていた。
今日は午後から友達と出かける用事があるらしいので今日のトレーニングはこれでおしまいだ。夏の昼間のトレーニングは暑すぎて熱中症の危険がある為そもそも最近は朝練と夜練しかしていない。
トレーニングが無くてもトレーナーの仕事がない訳では無い。溜まりに溜まった事務作業を今日中に終わらせてしまおう。
「ふあぁ」
担当が見えなくなって気が抜けたのか大きなあくびが出た。時間は午前10時。二度寝には気持ちいい時間だけど気持ちを入れ替えるために購買でカフェラテとエナジードリンクを買ってトレーナー室に戻る。
時折遠くから聞こえる生徒の声をBGM代わりにたんたんと事務作業を行っていく。
「……あ」
つけっぱなしにならないようにとタイマー設定にしていたエアコンがピーという音が鳴って止まった。ちょうどいいタイミングだとリモコンを取りに行くついでに立ち上がって伸びをする。更にそのついでだと3日前に買って2本だけ食べて放置していたスティックパンか目に 入りダメになる前に食べることにした。
勢いをつけて日当たりのいいお気に入りのソファにどすんと座る。
「うーん」
パンはやっぱり少し湿気っていてボソボソしていた。チョコチップが入っているおかげで辛うじて食べられたけど。
寝不足の頭を勢いだけで無理に動かしていたから1回の休憩でなんだかペースを乱されてしまう。どんどん頭の働きが遅くなって行く感覚がする。
そうなると大人だからと固くコーティングした心がポロポロと崩れていく。
さっきまでは微笑ましいと思っいた外でトレーニングをする声も、私だって可愛い担当とトレーニングしたいのになんで1人寂しく美味しくないパンを食べているんだ!という嫉妬心で塗り替えられてしまう。そしてそんな自分に嫌気がさして大きなため息が出た。
心の拠り所を探して簡易的なトレーナー室の中で少し浮いている年季の入った棚の方へ向かう。
この棚にはジャーニーや今の担当を中心に自分がトレーナーになってからの大切なものをしまっている。
初のG1勝利になった朝日杯。ジャーニーが全面に押し出された新聞の一面。そして優勝レイを持ったジャーニーとのツーショット写真。落ち着いているジャーニーとは裏腹に私は涙で顔がぐちゃぐちゃだ。付箋がぺたぺた貼り付けられて肌身離さず持ち歩いてことある事に記録をしたトレーニングノート。雨の日のトレーニングにも持ち出して居たから少しふやけている。そんなノートが何十冊と置いてある。
1冊適当に取り出して見るとあの時の記憶が蘇ってくる。馬場や天気の他にも食事の内容や今日のジャーニーとの会話なども細かく書かれていた。
そして1番大切にしているもの。それはクリスマスの時にジャーニーがくれた彼女の香水だ。わざわざ使わずともあの私の頭を支配する香水の香りは思い出せる。懐かしむように香水の瓶を優しく撫でた。
懐かしさに涙が滲んでくる。私の最初の担当がジャーニーでよかった。
当時のことを思い出すと寂しさは私の心をどんどん暗く支配していく。休憩のはずが逆に気疲れしそうだったので考えがひねくれないうちにまた仕事に戻ることにした。
ひとつひとつメールチェックをしていく。設備の使用許可やレースの出走登録。取材の許可など全て『〇〇さんのトレーナーさん』という私に宛られてくる。そりゃそうだ。今の担当の子の話をしているんだから。でも何年か前は私は『ドリームジャーニーさんのトレーナーさん』だった。
そうか私とジャーニーを縛る鉄の契約はもうないんだ。私たちを縛るものは何も無いんだ。ジャーニーのトレーナーだった私はこのまま風化していってしまうのだろうか
今日はダメな日なのかも。弱りきった心で仕事をしても身が入るわけもないので少し仮眠をとることにした。
数ヶ月ぶりにあの香水を使った。
☆
1年以上ぶりにドリームジャーニーは母校を訪れていた。
誰にも帰国のことは伝えていない。あの最愛の妹にすら。
手続きを済ませ懐かしさを噛み締めるようにゆっくりと廊下を進んでいく。夏休みで座学の授業は無いはずだが学内には生徒の楽しそうな声があちこちから聞こえてくる。好きではなかったはずのジメジメしていて虫の鳴き声の煩い日本の夏でさえ懐かしさというフィルターにかければ雰囲気が出る。
そして彼女が足を止めたのは3年間の思い出の詰まったトレーナー室だった。
入口には自分とは違うウマ娘の名前が書いてあり、やはり当時とは変わっていた。しかし、横に書いてあるトレーナーの名前は変わっていなかった。
少し安堵しながら小さく息を吐いてドアをノックする。
「……失礼します。」
返事はなかった。しかし彼女が今日学園にいるのは受付で確認済だったので焦ることは無い。それに彼女自身、トレーナーが夏のこの時期日中はトレーナー室で書類仕事をしている所を沢山見てきていた。
「失礼します、入りますよ」
勝手知った帰る場所であるトレーナー室。ドアノブを捻ると鍵はかかっていなかった。
ああ、この場所は変わらないんだな。
ジャーニーは心の中でほくそ笑む。
飲みかけのエナジードリンクが置いてあるデスクにトレーニングに使えると思った本や資料が無秩序に重ねてある本棚。小腹がすいた時ようにお菓子や軽食を入れておくカゴ。あの頃と変わっていなかった。
そしてほんのり自分の香りがする。あの頃のように一歩一歩中へ進んで行きトレーナーが仮眠に使っていたソファを覗き込む。
薄手のブランケットを肩までかけたトレーナーがそこにいた。
「トレーナーさん」
優しく声をかけるも返事はなく彼女の規則正しい寝息が聞こえて来るだけった。
お疲れなんですね。呟きながら頬を優しく撫でる。彼女が使っているブランケットからはあの香水の香りがしていた。少し当たりを見回すと寝る前に使ったのであろう香水を見つけた。嬉しい気持ちと同時に中身があまり減っていないことに少しムッとする。
おもむろに香水を手にすると自らの手首にワンプッシュする。そして穏やかな寝息を立てている彼女の項にトントンと当てる。より一層自分の香りが強くなったことに満足したのか眠っている彼女の寝顔をしばらく眺めていた。
☆
いつから眠っていただろう。昼寝特有の瞼の重さで目をこすってしまう。と、馥郁とした香りが部屋に漂っていることにドキリとする。ああそうか寝る前にあの香水を使ったんだった。と安堵したその時
「トレーナーさん、おはようございます」
あの香りの持ち主が目の前にいた。
途端に頭が真っ白になり周りの音が遠くに聞こえる。
「じゃ、ジャーニー……」
絞り出した自分の声のあまりのか弱さについ口元を手で覆ってしまう。
「おやおや驚かせてしまって申し訳ありません。」目の前のジャーニーは私の反応を楽しむように小さく微笑んでから
「ただいま帰りました。」
小さく頭を下げた。
その昔と変わらない丁寧な仕草にまた目の前がじんわりと滲む。そんな私を見てジャーニーは困ったように首を傾げながらも表情は柔らかかった。
「おかえりなさい」
次に絞り出した自分の声は涙ぐんで震えていた。
そしてどちらからかも分からず静かに抱きしめ合っていた。
人間より少し高い体温、自分より細い体躯、なのに私より力が強いから加減してくれている腕。そしてあの香り。何もかもが懐かしくてポロポロ涙がこぼれている。ジャーニーは何も言わずに優しく背中をさすってくれていた。
あのころは頼れる大人として強くあろう、弱い所を見せないようにしようと必死だったけれど何にも縛られていない今の私はこの涙を止めることができなかった。
存在を確かめるようにまた強く力を込める。
自分の心臓の音がうるさい。ドキドキして変な気持ちになってしまう。またあの夜みたいな変な気を起こす前に離れようとしてもジャーニーは離してくれなかった。
私を強く抱きしめている彼女の鼓動もまた早くなっているのに気がつくのにはまだもう少しかかりそうだ。