過日 追憶 宵花火「ねえ、坂ノ上さん。どうせ早く帰ってきたんなら、花火大会見に行きません?」
残業もなく定時帰宅した坂ノ上に、伴が徐ろに提案する。
「花火?」
「なんか、あっちの河川敷で今夜あるらしいんで」
「ほぉ。行くのは構わんが」
と、ネクタイを緩めながら坂ノ上は伴の指先をたどるようにしてリビングの大きな窓越しに外を見やる。
夏の宵の口特有の青さを残しながら濃藍色に沈みつつある空。立地の割に空が広く眺められるのは、ここが高層だからだ。人工的な天の川のような街灯りも、腰下に広がるばかりで視界を煩わせはしない。
「見るなら、ここからの方が見やすいんじゃないか?」
確か会場で良い位置から見ようと思えば事前チケットを購入する必要があったはずだ、と坂ノ上は曖昧な知識を探る。「もう少し早く言ってくれりゃ、VIP席でも取っておけたんだがなあ」と、責めるでもなくつい溢す。
せっかくの伴の誘いだ。できることなら最良の状態で望みを叶えてやりたいが、今日の今日ではさすがにカネやコネがあったところで難しいだろう。
ちょっと距離はあるが、ゆっくりソファにくつろぎながらパノラマで見渡せるこの場所の方が『花火を見たい』という伴の希望に適うのでは、という坂ノ上の提案は、しかし呆れたような伴の鼻息と共に却下された。
「はっ。つまんねえこと言いますねえあんた。そりゃ見るだけならそうかもしれませんけど」
「? 花火が見たいんじゃないのか?」
坂ノ上の素朴な聞き返しに、伴は数瞬言葉を探すようにしてからぽつりと答える。
「……見るっつうか、感じたいんで」
「……?」
いまいち要領を得ない坂ノ上だったが、まあ伴がそうしたいのなら、と一も二もなく応じて、急いでスーツからラフな私服に着替えた。
***
陽が落ちてもなお暑さが燻る道を、人波に早くも辟易しかけながら流されてゆくと、やがて左右に漁火のような灯りが連なる露店通りに出た。
打ち上げ会場まで今しばらくの距離を埋めるように立ち並ぶ賑やかな店構え。一定の方向性を持っていた人の流れもここからはてんでにほどけて、少し息がしやすくなった、と坂ノ上は軽く首を回す。
その気の緩みを突くように、どん、と背中に衝撃。
「うおっ⁉︎」
慌てて振り返ると、軽く握った拳を坂ノ上の背に当てた伴とバチッと目が合う。じっと見つめられ、思わず息を呑むと、間髪入れずに伴が口を開いた。
「腹、減りました」
伴に誘われるまま、道々の露店を渡り歩く。
万札を差し出して店のおっちゃんに渋い顔をされたりしつつも、坂ノ上は財布役としての存在意義を遺憾なく発揮してゆく。
油っぽい焼きそば、妙にオレンジがかった色合いのフランクフルト、カラフルすぎておもちゃと見紛うチョコがけのフルーツ、等々……。
無粋なことを言う気はないが、価格に見合わない食い物ばかりだな、と坂ノ上は内心で独りごちる。ねだられるのが嫌なわけでは決して無い。むしろ光栄だとさえ思っている。ただ、せっかくならもっと良いものを食わせて伴を満たしてやりたいなあ、とそう考えてしまうだけだ。
「坂ノ上さーん、頼んます」
ぼうっとしていると伴に名を呼ばれ、急いでそちらに歩み寄る。
釣り銭を納めてから伴の方へ振り向くと、「はい、あんたも」と鮮やかなカップが差し出された。
「え」
反射的に握らされたのは、青いシロップがかかったかき氷。
「汗、すごいっすよ」
すでに自分の分のイチゴ味の氷をしゃくしゃくしながら、伴が目を細める。
「ああ、そうか。ありがとう」
言われて、ハンカチで顔と首回りを軽く押さえた。ふだん空調の効いた部屋にいることが多いから、運動以外でこんな汗のかき方をするのは久しぶりだな、と坂ノ上は甘やかされた我が身を自覚する。
伴の方はといえば、浮かぶ汗を顔を傾けて Tシャツの肩口に吸わせながら、早くも溶けかけ始めた氷を迎え舌で口に運んでいる。
行儀が悪いとしか言えない様子だが、その姿になぜか一種の官能的な魅力を感じてしまい、無意識に見惚れたまま坂ノ上も惰性で氷を咀嚼し続けた。
やがて、最後に直接カップに口をつけて氷水を飲み干した伴が、ふいに坂ノ上の方へと振り向く。
“ジロジロ見んな”とどやされるかと思わず身構えた坂ノ上だったが、意に反して伴はニヤ、と口角を上げてみせた。
「坂ノ上さん、舌出してください、舌。ベロ」
「む……ん? なんでまた」
「いーから」
言われるまま、べ、と舌を突き出す。
大の大人が往来でするには情けない仕草だが、伴の望みとあっては断れないのが坂ノ上だった。
次の瞬間、伴が思いっきり吹き出す。
「んはっ、青ッ!」
シロップに染まった坂ノ上の舌を指差しながら「気持ちわりぃ」とケラケラ笑っている。
かく言う伴の舌もいつもより赤く色づいていることが突き出されなくとも分かるほどの、大口を開けた屈託ない笑顔。
露店の灯りを映して瞬く瞳、その目元は気のせいかいつになく柔らかく見える。
この祭りの雰囲気が、買い食いした陳腐な食べ物が、伴をこんな表情にさせているのだとしたら。
坂ノ上はもう一度思う。“到底、価格に見合わない”と。
***
打ち上げ開始時刻が近づいて、再び人々が漠然とした流れを持って動き始める。
その流れについて行こうとした坂ノ上を、伴は引き留めた。
そうして、ほぼ真逆の方面へと歩き出す。
「伴?」
意図を図りかねて呼びかけると、伴は足を止めないまま首だけを振り向けて答えた。
「あっちのが穴場だと思うんで」
スタスタと進み続ける伴に、数歩小走りで追いついてから、坂ノ上は重ねて問う。
「下見にでも来ていたのか?」
「いや、そんな事しちゃいねえですけど。さっき打ち上げ場所は確認したから」
あの橋から対岸に渡って、あの辺の土手からだと全部じゃねえけど大体は見れるんじゃないすかね、本会場の方だと人多すぎて頭が邪魔でしょ、とすらすら述べる伴の様子に、坂ノ上は遠い遠い記憶を思い起こす。
今生より前、まだこの国が戦争一色に染まっていた頃のことを。
──そういや、階級の割に見事な戦績をあげていたものな。
地形を頼りには出来ない海上飛行で、友軍はすべて帰還できなかった時でも計器を読み位置関係を計算して一人帰営した実力は現在にも引き継がれているのだろう。
平和な現代の日々の中で、久しく思い出すこともなかった記憶。
伴はどれほど覚えているのだろうか、とふと疑問が湧いたが、この楽しい夜に水をさすような気もして、坂ノ上はそれを口にするのは止めた。
目当ての土手には思いのほか人が集まっていた。つまりは、伴の見立ては的を射ていたということだろう。
それでも、河川敷に敷かれたコンクリートブロックの上に座って鑑賞できるくらいの余裕はあり、「こりゃあ良いな」と坂ノ上は伴の慧眼を褒めた。
途中のコンビニで調達した飲み物を手に、適当な場所に陣取る。本会場の方でおそらくは開始前の注意事項などを知らせるアナウンスが流れているようだが、川面を渡る夜風に流されて、その声は途切れ途切れではっきりとは聞こえない。
いよいよ深まる宵の気配が、わずかに和らいだ暑気を更に拭うように肌を撫でて流れてゆく。
エアコンの風とは違う心地良さに目を細めていると、雑踏の騒めきと夜空の静寂を一度に吹き飛ばさんばかりの鮮やかな大輪が頭上に煌々と華開いた。
皆が一斉に同じ方向を見上げ、息を呑む。
一秒にも満たない遅れの後、どぉ……ん、という振動が全身にかすかに響く。そうか音とは振動波だったな、とどこか場違いな実感を覚えた坂ノ上の脳裏に、夕刻の伴の言葉が蘇る。
── ああ成程、“感じたい”ってのはこういう事か。
人々の小さな感嘆のどよめきが、さざなみとなって川面の風と混じる。
次いで二発目が、余韻の残るうちに三発目が、と、徐々に打ち上げる間隔を狭めながら、刹那の彩りが空を埋め尽くしてゆく。
いつしか、細めた坂ノ上の眼は、夜空に映える眩い花弁の向こうにここには無いものを映しはじめる。
鼓膜ばかりではなく身の内も揺らすような振動に、深い記憶が揺すられる。
艦爆の着弾を思い起こさせる、打ち上げ直後の重い響き。
火薬の煌めきが残すパラパラ……という高めの音に、機関銃の幻影をみる。
空に名残る煙が、ゆっくりと霧散しても、そこには機影のあるはずもなく──
ふと、坂ノ上の手に伴の指先が触れた。
繋ぐというより、そこにあることを確かめるような触れ方だった。
誰もが空に見とれていて気づかないだろうとはいえ、珍しいことだと内心驚きつつ、坂ノ上は試しにその指先をそっと握り込んでみる。
振り払う素振りを見せないことに気を良くして、思わず口端を綻ばせながら伴の顔を覗き込もうとした、その瞬間。
ひときわ大きな、視界いっぱい広がるような一発が打ち上がる。
ぴくん、と掌の中で一瞬強張った伴の手に気づき、坂ノ上のニヤけ顔は一転、怪訝そうな色を浮かべる。
“どうした?”と訊くより先に、伴の方からも力を増して握り返してきた。
思わずまじまじと伴の横顔を見つめるが、伴の目は坂ノ上の方を向いてはいない。
ただじっと、夜空を見つめている。
瞳に映り込む鮮やかないくつもの散華。
なぜだか声をかけるのを躊躇うような雰囲気に気圧されて、開きかけた坂ノ上の唇は中途半端な形のまま固まっている。
と、ふいに伴が坂ノ上の方に顔を向けた。
「帰りましょ」
「は?」
いつのまにか手の内からすり抜けて、返事も待たずにさっさと立ち上がった伴に面食らいつつ、坂ノ上も慌てて後を追う。
周囲の人々は、変なタイミングで離席してゆく二人へ一瞬視線を向けたが、すぐに次の花火に意識を奪われ、気に留める者はいなかった。
***
先に土手に上がった伴は、意外にも坂ノ上が追いついてくるのを待っていた。
人気のない川沿いの道の上、半身を捻って佇んでいた影は、坂ノ上が横に並ぶ一瞬前に、同じ方向へ向き直って歩みを再開する。
「……」
半歩分の隙間を埋めるように、今度は坂ノ上の方から手を握ってみた。
振り払われもせず、強く握り返されもせず、ただしっとりとそこにある手のひら。
「楽しかったか?」
「ええ、まあ」
「なら、どうして途中で」
「……気が済んだんで」
言葉少なに、それでもちゃんと答えては来る伴の横顔を見ながら、坂ノ上はぽつりと呟く。
「……思い出しちまったな。“あの頃”のことを」
ばっと、それまで進行方向ばかりを見ていた伴が横を振り仰いだ。
その先に、慈しむように柔らかく、どこか哀切も湛えた坂ノ上の眼差しを捉えて、ゆっくりと視線を伏せる。
少し遅くなった歩調に倣うスピードで、伴の口が動いた。
「……そっすね」
気遣うような坂ノ上の声音が、川風に乗って伴の耳に流れ込む。
「辛いか?」
ツンと尖った形のいい唇が、小さく息を吐く。
「いえ……つうか、そのために来たんで」
「……?」
どこか、遠くを見つめるような伴の眼。
夜道の先には、まだ少し遠い何の変哲もない街灯りが、煌々と広がっている。
「……確かめたかったんですよ」
「何を?」
「俺たちが、もう生きてるってことを」
***
それまでに比べたら冗談みたいに静かで穏やかな海底を離れて、ウマレカワリをした。
いや、静かは嘘かもしれねえな。宣言通り、坂ノ上さん(今となっちゃ、少佐でも大佐でもない)がずっと隣にいたから。
何がきっかけだったか、どうしてそんな気になったのか、正直もう覚えちゃいない。
さみしいのが紛れたせいで魔が差したのかもしれないし、なんか売り言葉に買い言葉でそういう事になったんだったかもしれないし、肉体がないと出来ない何かを求めたんだったかもしれない。
その辺はもう思い出せないけど、その前のこと、今じゃない時代を生きてた頃のことは相変わらず覚えてる。全部じゃねえけど、いろいろと。大概ロクな記憶じゃないから、それこそさっさと忘れてくれて良さそうなもんなのに。最後の方の記憶だけ残してくれりゃ、後はどうでもいい。
そう思ってみても、儘ならねえとは知っちゃいるけども。
何にせよ、わかるのは、今またこうして坂ノ上さんと同じ時を過ごしていること。
何気ない日常を、時折のほんのちょっとした非日常を、楽しめる身だってこと。
あの頃のように死と隣り合わせの日々じゃないこと。
それでも、いつかはまた、どちらも死ぬのだ、ということ。
次は、一緒にとは限らないということ。
──生きてるってのは、そういうことだ。
「終わりが見えねえってのは……案外、しんどいっすね」
ぽつりと、溢れる本音。
今が幸福だと思えるからこそ、あの頃の、先が無えけど先が見えてる世界の方が気楽だった部分はある。
もともと何にも持ってなければ、少なくとも失うことはないから──
***
「……今度は、俺たち、どっちが先にくたばりますかね」
へ、と口の端を上げて殊更冗談めかしてそんなことを言う伴を、坂ノ上は黙って見つめる。
生意気な口ぶりとは裏腹に、さみしげな微苦笑が、とおく淡い夜明かりに縁取られて薄く浮かんでいた。