熱の記憶と宝物キッチンの戸棚を片手で静かに閉めながら、左手ではスマホを操作する。新名が開いているのは恩田とのトーク画面だった。そこに今日の買い出しで必要なものをメモしていく。洗面所や風呂周りはすでに確認したから、これでもう出掛けられる。キッチンをぐるりと見回し、メモを頭から読み返して送信ボタンを押すと、リビングで小さな通知音が鳴った。
買い物カゴを持ってリビングに顔を出す。互いに休みだからと恩田も同行してくれることになっていた。しかし、ソファで新名を待っていたはずの彼は、腕を組みながら目を閉じている。近づいて耳を澄ませると、微かな寝息が聞こえてくる。待たせすぎたからか、ここ数日任務が続いていたからか。新名はカゴを床に置き、肩が触れ合う位置に腰を下ろした。
恩田の寝息は深く一定だ。ベランダから見える青い空を一瞥し、新名はスマホを取り出した。もう一度、恩田とのトーク画面を開く。買い物メモを読み直したが、追記したいことは思いつかない。漫然と、画面を上へスクロールしていく。
同居していれば当たり前のように交わされるだろう会話を遡る途中、ふと手が止まった。それは先週、恩田から映画鑑賞に誘われたときのメッセージだ。綾戸から借りたというヒューマンドラマ。ヒロインとの恋愛を軸に主人公が自分自身と向き合う、よくある王道な構成だった。ストーリーラインはありきたりだったが、とあるワンシーンだけは記憶に残っている。
(確か、主人公の男が――)
記憶を手繰りよせていると、恩田が身じろいだ。そのまま彼の身体が傾いだから、新名はそっと手を伸ばした。彼の頭を支えながら自身の肩に乗せると、しばらくしないうちに体重が預けられる。その重みを受け止めながら、寝顔を盗み見た。長い前髪が重力に従ってさやめくように流れ、睫毛が呼吸に合わせてゆったりと揺れている。薄く開いた花唇が目に入り、離せなくなる。
きっと先週観た映画のことを思い出していたからだ。
(——主人公の男が、寝ているヒロインにキスをする場面だった……)
ありきたりなストーリーの中でやけに印象づいているのは、感情を理解できなかった主人公の行動だった。先に眠ったヒロインにそっと口づけをしたあと、愛おしそうに見つめていた主人公の表情。そうして彼女が寝たふりをしていたと分かったときの赤面。
映画の記憶を思い出しながら、恩田の前髪をそっと梳かした。映画の中のヒロインとは違い、恩田は起きる様子がない。新名は左手を差し出して、甲を恩田の唇にそっと当てた。柔い感触と、ほのかな吐息の熱を覚えながら、手を引いた。唇を盗んだ場所を、自分の唇にも押し当てる。
それから新名はもう一度、恩田の頭に手を伸ばした。絹糸のような髪を静かに撫でる。目を細め、口角を緩めながら。
* * *
「あ」
スーパーの店内を歩いていると、恩田が小さく声を上げて日用品のコーナーで足を止めた。新名も立ち止まり、振り返る。
「何か買うか」
「いや、大したことじゃないんだが」
そう呟いた恩田の視線の先には、リップクリームが並んでいる。手に取るわけでもなく眺めながら、恩田がはにかむ。
「昼間見た夢を思い出したんだ。リップクリームを塗ってもらう夢だった」
「リップクリーム?」
「ああ、あまり使わないものだから、記憶に残っていたのかもしれないな」
そう呟きながら、恩田は自分の薄い唇を指先で撫でた。その仕草に昼間の行為がありありと思い起こされて、その唇の柔らかさと吐息の熱が甦る。
「そう、か」
そう絞り出すだけで精いっぱいだった。「どうかしたか?」と覗き込まれ、たまらず視線を逸らした。顔が火照り、耳のすぐ奥から鼓動が聞こえてくる。
(あの男も、こんな気持ちだったんだろうか)
まだ不思議そうに首をかしげている恩田に「なんでもない」とだけ返し、赤くなった顔が見つからないよう、歩き出した。
終わり