破竹 竹林に囲まれた一つの山が葛葉の世界すべてだった。
この世界の理不尽の中に、葛葉は一人で生きていた。
父も母も、国の荒廃のせいで、命を落とし、姉や幼馴染とは離れ離れになった。
ひとりぼっちになってしまった葛葉ができることは、ただひっそりと山奥で暮らすことだけだった。
竹を取って、それらを焼き、炭にして売る。あるいは竹を加工して、食器や籠やら生活必需品に作り変える。それを街に売りに行っては、細々とした金銭を得た。
それが葛葉に残された生きる術だった。
だが、それだけの日々も常に危険と隣合わせだった。なぜなら荒廃した国には、【妖魔】と呼ばれる化物が出るからだ。
南の国には久しく王がいない。
国に王がいなければ、その国土が荒れ、人や家畜を襲う妖魔が出る。
妖魔が出るのは、人里よりも、野山が多く、特に首都から遠く離れた町のほうが、より頻度が上がるのだ。
「はぁ……」
ただ、王がいない。
それがほんの十数年続いただけで、豊かな国土を持っていたはずのこの南の国は圧倒いう間に荒廃してしまった。農作物は年々収穫量を減らし、毎年のように妖魔が人を襲い、誰かが出稼ぎで村をでていく。そして、残った人は妖魔に妖魔に怯え、ひっそりと生きるしか無くなるのだ。
「早く誰かが王様になればいいのに」
竹を切りながら、葛葉は誰が聞くわけでもない独り言をこぼす。
誰かが王になれば、この生活は変わるのだろうか。いや、どうせ変わらないだろう。
そんな諦観が常に葛葉の頭の中にあった。
国が豊かだったらもっとまともな仕事に就けただろうか。もしくは武官でも目指していただろうか。
腰に佩いた、剣のとしての様相をなした古びれた剣。護身用になるかならないか、ぼろ同然の剣だった。
まだ両親が健在だった頃、王様に仕える立派な武官になるのだと、そんな夢物語のような話をしたこともあった。
たが、そんな夢物語は叶うこともない。
例えば、王がいれば、父も母もいなくならず、姉らが金銭の代わりに売られることもなく、一人ただ山奥で危険と隣合わせに暮らすこともなかったのだろうか。
「はぁ……」
後ろ向きなことを考えてても、現状は全く変わらないということを葛葉は知っている。
嘆いても王はいない。国は荒れる。そして、死んだ人間は戻ってこないのだ。
竹を切る手に少しだけ力が籠った。それから、葛葉はただ黙々と、日が一番高いところに上るまで竹を取り続けた。
そうすることが、葛葉にとっての全てだったから。
日が傾き始めたところで、山奥の自宅から、焼いた炭を、背中の籠いっぱいに抱えて里まで売りに行く。
葛葉の白い髪と、赤い目はよく目立つので通りを歩くだけで人目を引く。肌に突き刺さる物珍しそうな視線から逃げるように、葛葉は足早に商家の裏口へと入り込んだ。
「おつかれーす」
「あぁ、葛葉かい」
商家といっても大層な家ではない。この山里にある万屋のような店で、おもに生活必需品を取り揃えている店だった。
葛葉の両親の知り合いの老夫婦が経営しており、一人になった葛葉からもこまごまと買付してくれるのだ。
それでなんとか最低限の現金を得て、残りは山里からの自給自足だった。
「ばぁちゃん、炭はこんなもんで足りる?」
「そうさねぇ、もうすぐ冬だからまた納品あったって売れると思うよ」
山に籠って炭を作るなんて仕事はあまり普通の人はしたがらない。焼けるまで根気強く火の番をしなければならないし、そこまで寒くならないこの国では必須なのは冬くらいだ。
「あんたは、まだあそこに住むのかい。……もうすぐ寒くなるよ」
「この国の冬なんて寒くたって、死にゃしねぇよ。それに、冬は稼ぎ時なんだからせっせと焼かないと」
「そんなこと言って、また妖魔も増えたっていうのに……」
心配する老婆をよそに、葛葉は金を受け取ると満足そうに笑ってそそくさと商家を出ようとした。
「いいんだって、里に住んだって仕方ないしな」
死んだ両親の縁だけで、ずっと世話を焼いてくれる老夫婦に迷惑はかけたくなった。
死ぬのなら一人で死んだほうがいい。実際、そのほうがいっそ楽なのかもしれない。
葛葉一人いなくなったところでこの山里も何も変わらないだろう。
商家を飛び出すと、軽くなった籠を背に、葛葉は走れるだけ走った。
人の親切を素直に受けることなど、もうすっかりとできなくなっていた。
日が傾いてきたのに、家に帰る気が起きずに竹林へ戻ってきたのは、葛葉にとってこの場所が一番落ち着ける場所だったからだ。人に会うことなく、ただ竹を刈る。
そのひとときが、葛葉にとっては逃避であり、安らぎだった。
風が竹林に吹き付ける。ざわざわと鳴る音が、不協和音のように耳を刺激する。
うぉーーん
低い声だった。人のような、唸り声。
竹を上を何かが飛ぶ羽ばたきが耳をかすめる。
吹き荒ぶ風に、葛葉は思わず顔を庇う。
うぉーっん。
一度地鳴りのような咆哮が響く。
葛葉の目の間に、黒い塊が舞い降りた。
妖魔だった。
とっさに、逃げようとした。だが、猛禽のような妖魔の目に射抜かれて身体はさっぱり動かない。
あっけない人生の幕引きの気配に、やはり葛葉の脳裏に浮かんだのは諦めだった。
ただの人間が、妖魔に敵うわけもなく、戦える術もたかが知れている。
心の底で、ずっと望んでいたのかもしれない。死んでしまえたら楽なのにと。
でも、自ら死ぬ勇気すら葛葉にはなかった。
だが、そんな自分の目の前に、人の身では叶わないはずの化け物が現れた。ようやく死ねるのだ、と生すら簡単に、葛葉は諦めた。
だが、天意はそれを是とはしなかった。
「剣を抜いて!」
誰かが叫んだ声に、葛葉の身体は勝手に反応した。
腰にはいた、なけなしの護身用の剣を抜く。ほぼそれと同時に、妖魔に黒い影が襲い掛かった。
「は?」
葛葉の困惑をよそに、黒い影は妖魔に鋭い牙と爪を立て、襲い掛かっていた。
黒い影もまた、妖魔だった。少なくとも葛葉にはそう見えた。
大きな鳥類の姿をした妖魔に、熊のような虎のような姿をした妖魔が襲い掛かり大きな咆哮を上げる。
猛禽の姿をした妖魔は、はおびえた様子を見せてあっさりと逃げ去るように、飛んで消えた。
竹林に、一瞬の静寂が訪れる。
大きな獣の姿をした妖魔に、葛葉は震える手で剣を構えたが、その妖魔は葛葉を一瞥もせず、ただ後ろに下がった。
そして、いつの間にか竹林に立っている人影に、甘えるようにじゃれついた。
「ありがとう、いい子だね」
男がその獣をヒト撫ですると、獣の姿は夜の闇に溶けるように消えた。
竹林にただひっそりと立つ男の顔は、葛葉からは見えない。
食い入るように、葛葉はその男の顔を見つめた。
少なくとも知っている人間ではない。いや人間だろうか。明らかな妖魔を従えるのは、仙人か、それとも妖魔よりも上の存在がいるのだろうか。
やがて、一筋の月影が男の顔を照らす。
「いっ……」
構えたままだった剣が、葛葉の手から滑り落ちた。
その男がただものではないことは葛葉にも一目でわかった。
金色。男の髪は金色だった。
金色の髪はこの世界でたった四人しか存在しない。
王を選ぶために生まれる、この世界のもっとも尊い神獣、麒麟の証である。
いまだに王を選んでいない麒麟は一人。この南の国の麒麟だけだった。
東は大国、西は王を得たばかり、北は麒麟すらも失い国土は混乱を極めているのだという。
王を選ぶために、聖地に坐する麒麟はただ一人。
本来なら、民は王になるために聖地へ旅し、そこで麒麟に選ばれれば王となる。
だが、時折一向に来ない王のもとへ麒麟自らが訪れることもあるのだという。麒麟なくして、王は生まれず、王なくして国土の安定は訪れない。それが、この世界の摂理である。
「あぁ……そう」
頭を垂れることはない。ただ葛葉は目の前の金色を持った男の存在に妙な納得を覚えた。
「……なるほど、他力本願ってのは許されないってわけね」
誰かがやればいい。それなら、それが自分である可能性もあるわけである。
月夜に照らされた男は、柔和な笑みを浮かべると、一歩葛葉のほうへと近づいた。
「ようやく、見つけた」
男の嬉しそうな微笑みに、つられたように笑う葛葉だったが、自分の顔が引きつっているような気がしてすぐにその笑みを消してしまう。
もう一歩、近づいた男は、ゆっくりと、葛葉の予想通りの行動を取った。
大柄な金髪の男は葛葉の前に跪いて、頭を垂れた。
膝をつき、身体を伏してする礼は、もっとも重い跪拝。
「天命を持って主上をお迎え申し上げる」
額を地に触れるほど近づけ、はっきりと透き通るような声で男は告げる。
竹林に朗々とした声が反響した。
風が騒めき、葉が揺れる。それでも目の前の男から目を逸らすことはできなかった。
「御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと制約申し上げる」
麒麟は王を選び、その王の治世に一生を捧げる生き物。
故に、王にのみ頭を下げる。
麒麟が選んだ瞬間から、只人は王になる。
「……許す」
天帝が、己にやれというのなら、やるしかない。
ひとりぼっちの人生を諦めた青年が国を背負う覚悟を決めた瞬間だった。
もうすぐ冬が訪れる月の綺麗な夜。南の国は、十数年ぶりに王を得た。