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    みるて

    @miruteusagi

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    チリアオ

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    POIPOI 9

    みるて

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    一緒に暮らして数年、チリが記憶喪失になってしまう。

    こちらイベント終了後pixivにも載せます。

    #チリアオ
    calligrapher

    貴方と過ごす不思議な時間一日目。

    『チリが業務中に転倒しました。大きな怪我はありませんが緊急事態ですのでなるべく早くリーグに来てください』
    オモダカさんから連絡を受けて私はすぐジニア先生に説明して仕事を早退した。
    ミライドンに乗って急いでリーグに駆けつけた私を職員さんが案内してくれた。
    広いリーグには知らない部屋がたくさんある。
    チャンピオンになった後、仕事の関係でオモダカさんに会いに来る程度の私には知らない場所の方が多い。
    初めて訪れる部屋の扉を開けるとオモダカさんがソファに座って待ってくれていた。
    チリちゃんはいない。
    「ありがとうございました」
    「いえ、では失礼します」
    職員さんが退室して部屋に二人っきりになった。
    「あの……」
    「どうぞこちらへ」
    オモダカさんの向かいのソファに座る。
    「まずはリーグを運営する者として謝罪を。本当に申し訳ありません」
    連絡を受けてから心臓がうるさくて痛い。
    早く安心したいのにどうしてオモダカさんは謝るのだろう。
    「チリは仕事に必要な資料を集めていました。その時、手の届かない高所の本を取る為に使用した脚立が劣化していたようです。脚立が壊れ転落してしまいました。備品の点検が疎かであった為にこのような事になってしまい本当に申し訳ありません」
    「大きな怪我は無いのですよね?」
    「ええ、近くにいた職員が音に気づきすぐに医務室に運びました。気を失っていましたが声をかけるとすぐに目を覚まし診察を受けた結果、軽い打ち身以外に異常は無いと報告を受けています。無理をせずしばらく休んで欲しいのですが本人は仕事に支障は無いと言っています。私はチリに謝罪した後にこう言いました。『アオイさんに連絡します。迎えに来てもらって今日は帰った方が良いでしょう』と。家族とゆっくり休んで体を癒すべきと思ったからです」
    私は黙ってオモダカさんの話を聞く。
    家族として連絡をもらえるのはとても助かることなのに、それだけじゃない予感がする。
    オモダカさんは一度目を閉じてからゆっくりと開いた。
    悲しい、そんな感情が彼女の目から伝わってきた。
    「『なぜジムチャレンジ中のアオイの名前が出てくるのか?』とチリはそう言って首を傾げたのです」
    ジムチャレンジ。
    それはもう何年も前の話。
    今の私はアカデミーの職員で、チリちゃんの。
    小さく息を乱す私の目の前までオモダカさんはやってきて床に膝をついて肩を優しく撫でてくれた。
    「チリにいくつか質問をしました。アオイという人間に関してはジムチャレンジ中の貴方にポピーと一緒に出会ったのが最後の記憶だと言っていました。リーグ職員としての記憶は今と昔が混在しているようで今までの業務を覚えている発言もあれば、今関わっている人間に関する記憶が曖昧になっている部分もあります。心配して様子を見に来たポピーの姿に驚いていました。私たち大人より子供の数年の成長の方が大きいですから変化がわかりやすかったのでしょう。ポピーが成長している事に驚く一方でその姿を知っている気がする、とも言っていました。あまり混乱させるのも良くないと判断し今は医務室で休ませています」
    二度目の出会い、ポピーさんを紹介してくれたあの時。
    まだお互いの事をほとんど知らなかった。
    チリちゃんは周囲が期待している挑戦者として私の事を見ていた。
    私はこの挑戦の先に挑む四天王の一人だとチリちゃんを見ていた。
    今日までの記憶が消えてお互いの関係が何も始まっていない頃のチリちゃんになってしまった。
    「アオイ、ちゃんと息をするのです。心を落ち着かせる事が難しいのはわかります。チリも心配ですが、貴方が心が悲しみに折れてしまう事も辛い。さあ、ゆっくり息を吸って」
    そう言ってオモダカさんの手がゆっくりと背中を撫でてくれる。
    頑張って呼吸を整えようとしながら今のチリちゃんの気持ちを考える。
    私との関係を知ってどう思うだろう。
    落ち着いて休めるはずの家も今は落ち着けないかもしれない。
    だってあの頃のチリちゃんは一人暮らしで、今は私と一緒に暮らしている。
    その記憶が無いのに無理に一緒に生活をしたら苦しくなるかもしれない。
    「家……」
    呟いた私の顔を不思議そうにオモダカさんが覗き込んでくる。
    「家どうしましょう。チリちゃんの記憶が昔に戻っているならゆっくり休めるようにあの頃の家に帰してあげたい。でもそれはできなくて……私と一緒の家に帰るのはチリちゃんにとって辛いかもしれないです。私、一度実家に帰った方が」
    「アオイ」
    強い呼びかけに思わずオモダカさんの目を見てしまう。
    「辛いのは貴方も同じでしょう。それでも私は仲間として今のチリを一人にしたくありません。そして、チリの側にいるのは今までそれが当たり前であったように貴方でいて欲しい。失ったものを思い出そうと悩む姿を私は見ました。だからどうか彼女が日常を思い出せるようにいつもの貴方でいてもらえませんか?」
    チリちゃんの側にいたい。
    でも側にいる事で苦しめたくない。
    「辛い事をお願いしているのはわかっています。それでも私は貴方達が離れてしまうのが悲しいのです。どうか一緒に過ごせる道を見つけて欲しい」
    泣きたくなるほど優しい声でオモダカさんは言う。
    「知りませんでしたか?私はいつも二人並んで歩く貴方達を見ていたのですよ。貴方達の作り出す暖かな景色に多くの幸せを分けてもらっていたのです」
    だから諦めないで、そんな風にオモダカさんの言葉が聞こえてくる。
    「チリちゃ、チリさんが私に言えない事があったら聞いてあげてください。辛い事を抱え込んでしまわないようにオモダカさんも協力してくださいね」
    「ええ、もちろんです。彼女の中の私の印象はどうやら今も昔も大して変わりないようですから。あとは、そうですね。仕事とプライベートをしっかり分ける事は良い事ですが私の前でも『チリちゃん』と呼んでも構わないのですよ。そちらの方が可愛らしくて私は好きです」
    今は本人にそう呼びかける事はできない。
    あの頃のチリちゃんなら「チリさん」と呼ばなくては。
    でもオモダカさんのおかげでこれまでと変わらずにいられる場所があるのは嬉しい。
    誰も悪くないんだ。
    突然あったはずの大切な物が消えてしまったけれど、諦めるのではなく頑張ってみよう。
    『笑顔でおられへん時があっても二人で笑顔になれるように頑張ろ』
    記憶の中の声が私に少し勇気をくれた。





    あの後オモダカさんと一緒に医務室のチリちゃんを迎えに行った。
    改めてチリちゃんの記憶が数年前に戻ってしまっている事、今は大人になった私とお付き合いをして一緒に暮らしている事を伝えた。
    「あー……て事は今から帰るんはアオイと同棲している家って事になるんか」
    「そうなんです。あの、大丈夫ですか?無理はしなくて良いですよ。でも、前の部屋より広いしチリさんが一人でゆっくりできるようになっています。生活自体は不便しないかと思います」
    「自分はええの?」
    無表情にこちらを見つめてくる赤い瞳に私は左手首を握る。
    ブレスレットの感触にいつかのチリちゃんの声が聞こえる。
    『ここにおるんやで』
    うん、大丈夫。
    「私はチリさんと一緒に生活したいです」
    「チリ、無理に思い出せともアオイさんを好きになれとも言いません。しばらく普通に生活してみましょう。私もいつも通り貴方に仕事をお任せします。何が変わる、変わらないは今は置いておきましょう。打ち身もあるのですから今夜は暖かな家でゆっくり休んで欲しい、それが私の願いですよ」
    視線をあちこちに移して考えているようなチリちゃんの前に私は立って言う。
    「お家に帰りましょう」
    少し黙った後、チリちゃんは私の頭にポンと手を置いて言った。
    「無理したらあかんで」
    荷物用意するから入り口で待っとって、と言って部屋を出て行った。
    「オモダカさん」
    「はい」
    「チリちゃんはチリちゃんですね」
    「ポピーの為にも頑張れ」と言われた時に優しい人なんだなと思った。
    そして今の私にも優しくしてくれた。
    「ええ、その通りです。なので私は貴方達の生活に正直不安はそこまで感じていないのです。チリはチリですから大丈夫ですよ」





    今住んでいる場所をチリちゃんが覚えていないので私が案内するような形で帰宅した。
    私が鍵を使って扉を開ける。
    「どうぞ」
    じぃと見つめられてなんだろうと思う。
    「そのドオーのキーホルダーついてるんが家の鍵なんやな」
    「そうですよ」
    チリちゃんはポケットから同じキーホルダーを取り出した。
    「何の鍵やと思てたらこれ家の鍵か」
    「ですです。大事な物のなので無くさないでくださいね」
    ぶらぶらと鍵を揺らすチリちゃんが何を考えているのかよくわからないけれどとりあえず家に入って暖まって欲しい。
    「えっと、とりあえずおかえりなさい……です」
    「…………ただいま」
    手を洗ったり上着を脱いだりしながら部屋の説明を軽くする。
    チリちゃんの家だから自由に過ごしてもらえたら良いのだけれど。
    私はエプロンの紐を結びながら声をかける。
    「とりあえず今日はご飯を食べて休みましょう。今日もお互いお仕事頑張りましたしお疲れ様でした。ご飯作ってる間にお風呂お先にどうぞです」
    ぐるりと部屋を眺めていたチリちゃんがこちらを向く。
    「いつもそうしとん?」
    その質問にどこまで答えたものか少し考えてしまった。
    「いつもはですね、ご飯はその時のタイミングで作れる方が担当してますよ」
    「風呂は?」
    その質問に嘘もつけないけれど正直にも言えない私は下手な笑顔を作ってしまう。
    チリちゃんの背中を押してキッチンから出て行ってもらう。
    チリちゃんの体に触れる事ができて喜ぶ自分に今はそんな場合じゃないと叱る。
    今朝は当たり前に触れ合っていたのに。
    湧き出る感情を振り払うように声を出す。
    「早く入ってきてください。色々あって疲れているはずですよ。ちゃんとあったまってきてくださいね」
    服やタオルは部屋を教えたから自由に使えるはず。
    お風呂の操作は、流石に大丈夫だろう。
    ゆっくり浸かってきて欲しい。
    急に友達でもないただの顔見知りが恋人です、なんて言われたら私だってびっくりしてしまう。
    更に恋人らしい触れ合いもしていましたと言われても困惑する。
    だからチリちゃんにもこれ以上は話せない。
    気合いを入れる為に頬を軽く叩いて私は夕食の準備を始める。
    もしこのまま思い出す事がなかったらという不安を野菜と一緒に切り刻む。
    「せめて……友達になれたら良いな」
    弱気だな、と思う。


    その日、会話もほとんどなく夕食を食べた私達は明日も仕事なので休む事にした。
    先にチリちゃんに休むように言ってから私は動き出した。
    長めにお風呂に浸かって、本を読んだり、普段はしない夜更かしをしてチリちゃんが寝ているのを確認してから私はベッドにそっと潜り込んだ。
    なるべく体が触れないように気をつけながら眠った。





    二日目。

    どうなるかと思った仕事は普通にこなせた。
    たまに話しかけてくる職員に違和感を感じるのを隠せば上手い事やっていけそうや。
    数年分の変化を知らんはずやのに何故か受け入れられる気持ちもある。
    こんなペン使っとったか?と疑問に思うのに使ってみれば不思議と馴染む。
    だから、まあ本当に変わってもたんは自分なんやなと理解できる。
    ついこの間、ジムチャレンジ頑張りやと応援したアオイが恋人で現在同棲中。
    そこだけは全然わからん。
    ペンをくるくる回しながらなんでこれみたいにちょっとは馴染まへんのやろと眺める。
    お互い謝ると止まらんし、謝られたところでって話で微妙な空気。
    コンコンとノック音が聞こえたので「はーい」と返事をすると扉からよく知っているはずなのに知らない姿に成長したちっこい子が顔を覗かせる。
    「チリちゃん今大丈夫ですの?」
    「急ぎの仕事もないし、なんや気使われて暇してるくらいやからええで」
    てってっと小走りにやってきたポピーは心配そうな顔でこちらを見てくる。
    「お体の調子は大丈夫ですの?」
    「ちょい背中痛いけど気にする程でもないわ。心配してくれてありがとな」
    頭を撫でようとして自分の記憶の高さではない事に違和感。
    「トップから聞いたん?」
    「今のチリちゃんはお姉ちゃんを初めて紹介してくれた時のチリちゃんですよ、って教えてもらいましたわ。四天王の皆だけの内緒話なのです」
    「せやねん。ちょっとチリちゃん若返ってもたけど許してな。ポピーちゃん別嬪さんになったなあ」
    「あらあら」
    頬に手を当てて体を揺らす姿は変わりなくて少し安心する。
    照れた顔をしていたポピーは何か思い出したかのように真剣な表情になる。
    「チリちゃんがお姉ちゃんの事を忘れてしまったと聞いてポピー心配でここに来ちゃいました」
    大人達があえて触れんようにしてる事を聞いてきた子供にどう返したものかと考える。
    正直急な出来事に弱っている所もあったのでつい目の前の少女に甘えて疑問を口にしてしまう。
    「チリちゃんなんでアオイと一緒に住むくらい好きになったんやろな」
    昨日の夜過ごした部屋は恋人同士が気軽に同棲始めたような部屋ではなかった。
    この先ずっと住めるようにしっかり考えたんやろな、という部分がちらちらと見えた。
    自分の趣味と、多分アオイの趣味やろか。
    一人で暮らしていた部屋には無かった暖かな空気は多分二人で作り出したのだろう。
    これが自分の部屋じゃなきゃ幸せそうな部屋でええこっちゃと素直に思えた。
    全然知らないのに今の自分が暮らす部屋らしい。
    「チリちゃんはお姉ちゃんが特別だから一緒に暮らす事を決めたって言ってましたわ」
    「特別?」
    「特別ですの。ポピーにもいつか毎日おはようって言いたくなる人ができ、できるんにゃで?って言っていたのを覚えてますの」
    方言を真似しようとして噛んだの可愛くてつい笑ってしまう。
    「ようわからんけどなんやごっつい特別な事があったんやろな」
    「特別ですが、特別ではないですよ」
    「うわっ!」
    いつの間にか扉を開けてその場に立っていたアオキの声に驚いて椅子から落ちそうになる。
    「あら、おじちゃんお疲れ様ですの」
    「お疲れ様です」
    丁寧に頭を下げる二人を見ながらアオキさんはあんま変わってへんのよな、と思う。
    「何の用です?」
    「トップから時々様子を見るように言われましたので。ハッサクさんもそのうち来ると思いますよ。今は少し……」
    大将からしたら教え子のアオイの事も心配やろし、自分の事も心配してくれてその結果大泣きしている姿が予想できる。
    「心配かけてすいません」
    「いえ……」
    先程の言葉が気になりアオキに尋ねる。
    「特別やないってどういう事です?」
    「自分が見た事、かつての貴方から聞いた事で話しますので判断は貴方自身に任せますが、普通なんですよ。貴方達は少しの興味から互いを知り自然と居心地の良い距離に近づいていったように見えました。その結果、今の貴方達は特別な関係になったのですよ。ですから」
    淡々と告げられる言葉は記憶のない自分にもわかりやすく頭に入る。
    「日々を普通に過ごしていれば良い方向に自然と向かって行くんじゃないですかね」
    「普通、ですか」
    「今の貴方は記憶が過去に戻りアオイさんに期待している状態でしょう。ジムチャレンジを終えてリーグに挑みに来る事を待っている。全く知らない人間じゃない。普通に一緒に過ごすには十分な情報だと思いますよ。今はそれで良いと思いますよ」
    無理をするなと解釈して良いのだろうか。
    そういえばトップも同じような事を言っていた気がする。
    ポピーが記憶よりも少し大人びた笑顔で言う。
    「みんなチリちゃんの事が大好きなのです!大丈夫です!」
    笑顔。
    笑顔は好きやな。
    特別一番好きな笑顔があったような。





    早めに帰ってきたつもりだったがアオイの方が早かった。
    昨日に引き続き夕食を用意してくれた。
    「ご飯、作ってくれてありがとな」
    ちゃんと伝えてなかったと気づき言葉にする。
    アオイはきょとんとした顔でこちらを見てぎこちなく笑う。
    「どういたしまして」
    好きとか嫌いとか以前に友達でもなきゃ恋愛感情も全然生まれてこないのにアオイの笑顔に心の中がもやもやとする。
    「無理せんとな。チリちゃんかて作れるし」
    「ありがとうございます。でも家でやる仕事が増えちゃったので大丈夫ですよ。お料理も気分転換です」
    「外でポケモンの調査しとるんちゃうん?」
    「調査した事をまとめるのもお仕事なので。そちらの仕事をちょっと溜め込んでしまったので今夜も頑張ります。あ、昨日は眠れましたか?」
    「広くてええベッドやったし寝れたで」
    「良かった」
    枕が変わると眠れないと言う程に繊細なつもりはないが普段使っているシングルベッドと全く別物で寝つけるかわからんかった、が正直な気持ち。
    でも不思議と体はベッドに馴染んで気づいたら眠っていた。
    広くてなんか足りん気がしたけれどなんやろ。
    「私お仕事してからお風呂入るので今日もお先にどうぞ」
    「いつもそうなん?」
    「いつも、というかお互い仕事がある時はこんな感じですよ」
    じゃあお互い仕事もなく余裕のある時は?と尋ねたいが困らせてしまうだろう。
    これ以上アオイの困った顔を見たくない気持ちになった。
    一度自覚すると本当に見たくないと強く思う。
    「そうか」
    そう返事をして食事を進める。
    アオイもそれ以上は何も言わず二人の食事は静かに終わった。
    風呂に入ってぼけっとテレビを見てええ時間になったので寝室に向かう。
    仕事してきますね、と言って部屋に籠ったアオイは出てこない。
    お先に寝かせてもらおか、と寝転がると違和感を感じる。
    普段使っているベッドより広いからや。
    こんなに広いんはおかしい。

    『このベッドがこんなに広いのはおかしい。』

    自分の心の声のはずなのに何か違うものが混ざったような気がした。
    どれだけ考えてもそれ以上はわからないままで、慣れないのに妙に馴染む布団と枕からの良い香りに負けて眠ってしまった。





    ジニア先生に無理を言って任せてもらった書類仕事を黙々と進める。
    アカデミーの先生達に事情を話した結果、フィールドワークが許可制になった。
    毎朝ミモザ先生と話をして心身ともに健康と判断してもらわないといけなくなり、今日は許可が降りなかった。
    『全然だめ!仕事に集中できる状態じゃない!こんな状態で外に出たら崖から落ちて死ぬわよ!』
    流石に大袈裟だと思うけれど、いつもより不調なのはその通りだ。
    『今は無理をせずできる事を頑張ってください。大丈夫ですよ。私達はアオイさんがまた元気に外で仕事ができる日を待っています』
    チリちゃんの事を報告しに行った時にクラベル先生がそう言った。
    私はその言葉に甘えた。
    気持ちの整理ができるまで少し待ってもらおう。
    その代わりにジニア先生だけじゃなく他の先生のお手伝いも頑張ろう。
    書類仕事に集中すると少し寂しさを忘れられるような気がする。
    タイピングをする自分の左手首を見下ろす。
    ブレスレットの事を覚えているのは今は私一人だけど。
    一人なの?
    「……違うよね。一緒にいるって言ってくれたもんね」
    弱気と一緒にパソコンもシャットダウンする。
    私はやっぱりチリちゃんが好きだから、欲張りだから。
    いつも通りに過ごしているうちに思い出して欲しい。
    もしも思い出してもらえないならまた好きになってもらえるように頑張ろう。
    消えたパソコンの画面に映る自分の顔は少しマシになった気がする。
    まだまだ情けないけれどこれからだ。
    仕事部屋に逃げるのも良くない。
    ちゃんとお話しして距離をまた縮めていけたら良いな。
    お風呂に入った後、私はドオーのぬいぐるみを抱いてチリちゃんの隣に寝転んだ。
    うっかりチリちゃんを抱きしめてしまわないように。





    三日目

    「あ、うまい」
    卵とレタスのシンプルなサンド。
    ホットサンドメーカーでしっかり挟まれたそれはたっぷりの卵が詰まっていた。
    食パンがサクサクしてるサンドもええな。
    ほんのりあったかいレタスもこれはこれでありや。
    何より朝からゆで卵作って潰してサラダにしてって結構な手間やと思うけれど二人分作ってくれたのが嬉しい。
    朝はとりあえずなんか食べれたらええと思とったんやけどな。
    ホットサンドメーカーなんかどこにあったんやろ。
    一緒に暮らし始めて買ったんやろか。
    少なくとも自分の記憶にある一人暮らしの部屋にはなかった。
    そんな事を考えながら食べていると向かいから視線を感じた。
    アオイが戸惑ったような表情でこちらを見ている。
    「あの、美味しいですか?」
    素直に自分の気持ちを言葉にする。
    「めちゃうまいで」
    ふにゃあ、そんな言葉が似合う緩んだ笑顔になるアオイ。
    あ、その笑顔好き。
    医務室に迎えにきてもらってから今日までやっとアオイの笑顔を見た気がする。
    「良かった」
    そう言ってお茶を飲むアオイの目の前にロトロトとスマホが飛んでくる。
    「あ、職場から電話です。チリさんは先に食べててくださいね」
    アオイはスマホを掴んで仕事部屋に移動する。
    自分もたまに使う事あるらしいが、ほとんどアオイが仕事で使う部屋らしい。
    中には本棚とパソコンが見えた。
    扉が完全に閉まる直前「どぉもどぉも」と男の声がスマホから聞こえた。
    なぜかプチトマトに思い切りフォークを突き刺してしまった。
    そのままトマトを口に放り込んで少し考える。
    自分の記憶にあるのはリュックを背負った制服姿のアオイ。
    今一緒にいるアオイは髪は長く伸びて、背はそんなに変わらん気がするけど大人の体に成長している。
    綺麗に成長して良かったな、と素直に思う。
    アオイはチャンピオンになった。
    という事は、面接をクリアして自分、どころか四天王全員とトップにも勝ったっちゅう事でそれを思い出せないのが悔しい。
    リーグに挑戦しに来るのを楽しみにしていたけれど、簡単に負けるつもりもなかった。
    どんな勝負になったんやろ。
    めっちゃ知りたい。
    録画してないんかな、してへんよな。
    最初に出会った時はちびっこやと思とったけどやり遂げたんやな。
    頑張り屋さんな所は人として好感が持てる。
    ただ、そこからどうやって恋だの愛だのに変わっていったのか。
    『普通なんですよ』
    アオキの言葉を思い出す。
    お互いを知って距離が近くなって今ここで二人で暮らしている。
    もう一つのトマトをつつきながらさっきのアオイの笑顔を思い出す。
    可愛かったな。
    「電話終わりました」
    戻ってきたアオイはいつも通りの表情になっている。
    トマトにフォークをプスリと刺す。
    「ん」
    アオイに差し出す。
    「え、え?」
    「んー」
    困ったような表情のままアオイはトマトを食べた。
    飲み込むまでを眺めてから尋ねる。
    「うまい?」
    「……はい。ありがとうございます」
    ぎぎっと音がしそうな程ぎこちなく表情を動かして笑う。
    ちゃうねん。
    それはちゃう。
    なぜか自分にイライラする。
    上手に笑わせたられへんのか。
    残りの朝食を食べ終えてアオイの淹れてくれたお茶を飲む。
    「いつもはどないしとん?ご飯食べてその後は?」
    「普通ですよ?」
    少し考えてからアオイは今までの二人の休日の過ごし方を話す。
    「テレビを見たり、それぞれ好きな事をしたり、買い物に行ったり、そんな感じで普通です」
    「買い物はチリちゃんも一緒に?」
    「一緒だった……り」
    アオイの瞳が揺れた気がする。
    その今まで当たり前だった普通が無いままアオイは今日を過ごしている。
    今の自分じゃ同じものを与えることができない。
    この先与えられないままかもしれない。
    眉間に皺が寄るのがわかる。
    怖がらせたくなくて顔を見せないように視線を逸らす。
    記憶無くしてからほんまイライラするしモヤモヤする事ばっかりや。
    思わず深いため息を吐いてしまう。
    「チリさん大丈夫ですか?」
    今の自分が感じているのは歯痒さ?
    やりたい事が何一つできていない。
    やりたい事がわからない。
    くい、と服の裾を引っ張られる。
    「あの、朝食用のパン切れちゃったんで良かったら買い物行きませんか?ほら、天気も良いですし」
    「……チリちゃんと一緒でええん?」
    記憶のない自分と一緒にいても楽しい時間にならないかもしれない。
    「チリさんと一緒に買い物に行きたいです」





    隣にアオイがいる。
    それが不思議と落ち着く。
    テーブルシティで買い物をして、出店のアイスを一緒に食べた。
    美味しい、とこちらを向いて笑ってくれた。
    好きだと思った笑顔をまた見せてくれた。
    並んで歩く二人の間の距離はこれでええんか?
    違和感はあるけれど今の自分が何かするのも違う気がする。
    家に帰るとアオイの方から話しかけてきた。
    「私ポケモンが大好きなんです。それと同じくらいポケモンの事が好きで一緒に仲良く過ごしてる人達も大好きなんですよ」
    「……好きなもの多すぎへん?」
    「はい、大好きいっぱいです」
    そのたくさんの大好きの中の特別が今の自分ではないチリなのか。
    「なあ、ずっと疑問やったんやけど普段もチリさんって呼んどるん?」
    アオイは少し黙ってから首を振った。
    「あんな、チリちゃんがいきなり記憶失くしてアオイも思う事色々あるかもしれんけどな。今のチリちゃんとも仲良くしてくれる?明日にでも思い出すかも知れんし、いつまでかわからんへんけど」
    どうなんやこれ。
    アオイは恋人のチリちゃんがおらんくて寂しいやろし、早よ思い出したらな可哀想やのに今の自分とも仲良くして欲しいって。
    恋人じゃなくて友達ぐらいでええからもう少しこっち向いて笑って欲しいという自分のわがまま。
    あかんやろか、と不安な気持ちと一緒にアオイを見つめていた目線も下がっていく。
    「チリちゃん」
    呼ばれて顔を上げる。
    へへっとアオイは照れたように笑っている。
    「久しぶりに声に出して呼んだ気がする。私はね、記憶があってもなくても一緒にいたいなって思ってるんだよ。だからね、こちらこそよろしくお願いします」
    未来の自分が好きになったアオイがそこにいた。





    四日目

    休日二日目。
    アオイより先に目が覚めた。
    昨夜は「仕事はいっぱい頑張ったからもう大丈夫だよ」と言って初めてアオイが一緒に布団に入ってくれた。
    自分と寝る事で緊張するのではないかと心配だったが少しお喋りをしたらすぐに眠ってしまった。
    もしかしたら早く寝るタイプなのに記憶のないこちらに今まで気を使ってくれていたのかもしれない。
    でも正直アオイが隣にいる方が良く眠れた。
    おかげで目覚めも良い。
    広いベッドに二人並んでいる姿に違和感なくこれが正しいと感じた。
    当たり前や。
    このベッドは二人のベッドなんやから。
    ちくり、と小さな針が刺さったように胸が痛んだ。
    その二人はアオイと自分じゃないチリ。
    寝る前に教えてくれた。
    『好きになったのは気がついたらって感じだけど、自覚してからは頑張ったよ。私は子どもだから大人になったらちゃんと告白するって決めてね。それからは、うん、チャンピオンを目指したのと同じ。強さだけじゃなくて大人と認めてもらえるようにバッジ集め?みたいな事……がんばって……本気で見てほしい……だって……いちばん…すきだから」
    アオイはそう話しながら寝てしまった。
    すぅすぅと眠るアオイの寝顔を見ながら遠いなと思う。
    こんなに近くにいるのに遠い。
    恋人でなくてもこれくらいは許して欲しいと髪に触れる。
    さらさらとした髪を指で絡めては落としてまた絡める。
    アオイがチャンピオンになった後に自分が何を見てどう思ったかなんて全然わからんけど。
    「好きになったんやな……」
    んで、一緒におれるように多分自分も頑張ったんやと思う。
    記憶の無い自分はまだ何も頑張っていなくて、アオイが自分へ向けてくれる好意もきっと特別ではない。
    『チリ』が好きだから記憶のない自分も好きでいてくれる。
    アオイの事は好きやと思う。
    それが恋かと言われると断言できない。
    恋に足りないものがあって、それは失った記憶の中にあるのだと思う。
    もしも自分の記憶が戻ったら今ここにいる自分は消えてしまう。
    アオイの記憶からも消えてしまう?
    帰ってきた恋人と幸せに生きていくのだろう。
    ずるい。
    悔しい。
    今の自分にアオイとずっと一緒に生きていく資格は無いのか?
    生まれて初めてバッジを八個集めなくても実力があれば挑んでも良いんじゃないかと思ってしまった。
    「んぅ……」
    目を覚ましたアオイがぱちぱちと瞬きをしてから体を起こす。
    まだ眠そうな目がこちらを見ていたかと思うと柔らかく笑った。
    出会った頃はこんな風に笑うなんて知らなかった。
    なんかめっちゃ好かれてるん伝わってきてええな、その笑顔。
    「おはよう、チリちゃん」
    小さな手が頭を撫でてくる。
    そしてそのままアオイの顔が近づいてきて、頬のすぐ近くまできたと思ったらパッと離れてしまった。
    「あ、えっとごめんね。寝ぼけて……そのっ、顔洗ってくるね」
    パタパタと部屋を出て行く背中を眺めてから呟いた。
    「別にええのに」
    唇ではなく頬に口付けようとしているのがわかったから拒まなかった。
    ごろりと寝返りをうってアオイの置いていったドオーのぬいぐるみを抱きしめる。
    頬にキスくらい仲良かったらええんちゃう。
    ああ、でも自分が許さんな。
    数年分の記憶抱えてどっかに行ってもた『アオイに惚れたチリ』に今の自分も『チリ』だと主張してもアオイと触れ合うのを嫌がるのがわかる。
    自分の独占欲の強さは自分が一番よく知っている。
    一緒に暮らすくらい好きならもうそれは本気の本気で手放す気が無いんやろ。
    「むかつく……」
    今まで生きてきて恋人がいた時は何度かあったけれどそこまでの情熱は無かった。
    ずっと一緒に生きていく為にこんな居場所を作れる程の情熱を知っている自分に対して羨ましくて腹が立つ。
    ざらざらとした気分のまま体を起こして着替える。
    アオイが朝食の準備をしている音が聞こえてくるのにいつまでも寝転がっているわけにはいかなかった。





    その存在に気づいていたけれど見ないようにしていたのはどこか他人事だったからだ。
    棚の上に飾られたジムチャレンジに成功した証のバッジと二人仲良く映った写真。
    それらを眺めるアオイの横顔が寂しそうで胸の奥が痛い。
    ここにいないチリを想っているのがわかる。
    身支度をしてきた自分の存在に気づかないままアオイは写真立てをそっと撫でる。
    「そんなに好きなん」
    自分の声にハッとこちらを見るアオイ。
    「あ、えっと…………うん」
    少し迷ってから正直にアオイは言った。
    「どこが?」
    アオイの隣に立って写真を眺める。
    世界で一番幸せですって顔をしている自分に苛つく。
    「どこって言われると……そうだね。きっかけは面接かな。チリちゃんにとっては仕事だっただろうけど私は嬉しかったんだ。私のジムチャレンジの道のり、挑む理由、最後の質問。たくさん聞いてくれた人は初めてだった。もっとお話ししたいなって思った。勝負に勝ってチリちゃんのポケモンが大好きな気持ちが伝わってきて、これっきりは嫌だな、まだ全然知らないのにって思っていたらね「またな」って言ってくれたの。また会う機会がきっとあるんだって私すごく嬉しかったんだ。チャンピオンに連絡する事もあるからってスマホの連絡先交換してからちょこちょこお話ししたり、おはようって送ったら返ってくるのも嬉しかったな。それだけじゃなくてね、時々アカデミーの大会を見に来てくれて勝ったら褒めてくれたんだよ。そうやって何度も会ううちにチリちゃんの隣はね、私にとって陽当たりが良くてずっとそこでお昼寝したくなるくらいのお気に入りの場所になっていったの。どこがって聞かれると難しいんだけど答えになってるかな?」
    少し興奮気味に語るアオイの目はキラキラしている。
    多分それはチリも同じ。
    暖かくて穏やかに過ごせる場所がアオイの隣だったのだと思う。
    なんとなくわかる。
    チリとの思い出を語るアオイの柔らかな笑みが可愛くて愛しくてそれが自分に向けられたのならとても嬉しくて、側にいたくなる。
    そういう事やんな、と自分の数年先にいるもう一人の自分に問いかける。
    理解したんやから許してや、と勝手に許可をとった事にして隣のアオイをそっと抱きしめる。
    「チリちゃん?」
    拒まれていない事にホッとする。
    「ジムチャレンジ途中のアオイしか知らんけどな、今のアオイはチャンピオンやん?記憶が無いのめちゃ腹立つけど言いたいねん」
    腕の中のアオイの頭を撫でる。
    「おめでとさん。よお頑張ったな。先払いやけど許してな。どっか飛んでった記憶が悪いねん」
    言い訳しているとアオイの腕が背中に回ってシャツをきゅっと掴んできた。
    「がんばりました」
    「ん」
    「自分で言うのもなんだけどチャンピオンのテストだけじゃなくて色んな事、たくさんたくさん頑張りました」
    「えらい、えらい」
    「これからも頑張るから…………離れていかないでね」
    弱々しい声に頭を撫でていた手が止まる。
    「アオイが好きになったチリちゃんちゃうで」
    「チリちゃんはチリちゃんだから一緒にいてください」
    飾られた二人の思い出を見ながら尋ねる。
    「記憶戻らんでもええの」
    「正直思い出して欲しい。でも、思い出せないからって離れていったら嫌だよっ」
    そう言ってこちらを見上げるアオイの目には涙が溜まっていた。
    「一緒に……いるって約束、したも……」
    涙が零れ落ちるのを見て心が悲鳴を上げる。
    アオイが泣いたらあかん。
    自分にとっては初めて抱きしめる体で、アオイにとっては久しぶりに触れた恋人の体。
    欠けた記憶のピースのお陰で二人の間に埋まらない距離があるのが悔しい。
    でも、それでも。
    「チリちゃんアオイとおるん嫌やないよ。この数日嫌や思た事一度もない。自分がな、アオイの一番好きなチリちゃんちゃうんが腹立つ時もあるけどな、離れたりせえへんから」
    あかん、あかんよ。
    チリちゃんと一緒におる時は絶対に幸せでいて欲しい。
    「泣かんといて」
    こちらが泣きたくなる。
    明日どうなるかもわからないあやふやな存在で、それでもアオイが望んでくれた。
    アオイの額にこつんと自分の額を合わせる。
    「もし、な?記憶が戻ったらここにおる記憶のないチリちゃんの事忘れんとって。たった数日でアオイともっと一緒におりたいなって思たチリちゃんの事覚えとってな」
    「……忘れたのはチリちゃんの方だよ」
    「ほんまやな」
    「忘れないよ。離れないって言ってくれたチリちゃんの事を忘れたりしない」
    「約束やで」
    前髪越しの額に口付ける。
    「チリちゃんの事好きですか?」
    どちらの、と言えない臆病な自分にアオイは柔らかな表情で言う。
    「大好きです。今ここにいる優しいチリちゃんも大好きです」
    「合格や」
    一番じゃないのは仕方ない。
    同じくらい長い年月かける事が可能なら頑張って一番になったるけど、きっともうすぐこの場所に帰ってくる気がする。
    そんな予感がする。
    ずっと一緒におりたいし、もっと知りたいんやけどな。


    『まだ早いわ。もうちょい我慢せえ』





    五日目

    恋人ではないけれど少し仲良くなれたチリちゃんと休日を過ごした翌朝。
    私たちはいつも通りに朝食を食べていた。
    起きた時に「おはよう」と挨拶するとよほど眠いのか枕に顔を埋めたチリちゃんから「んあよ」と返事が返ってきて笑ってしまった。
    朝食が出来上がるまで寝室から出てこなかったけれどそんなに眠いのかな。
    昨日は夜更かしもせず仕事に備えてちゃんと休んだはずなのに。
    先に食べ終わったチリちゃんがコーヒーを一口飲んで言う。
    「今日アオイは仕事休みな」
    「え、ええ!なんで?」
    「さっきジニア先生に連絡しといたから大丈夫やで」
    なんで、いやそれよりもどうしてジニア先生の連絡先を、私の上司だって話してない。
    「トップには直接顔見せに来い言われたから、とっとと報告してその後ゆっくりしよな」
    「チリちゃん……?」
    言いたい事を言ってのんびりコーヒーを飲むチリちゃんのすぐ隣まで私は立ち上がって移動する。
    座ったままだからいつもと目線の高さが違うけれど私は両手で彼女の肩を掴んでこちらに向かせる。
    「どないしたん?」
    ゆるりと微笑む赤い瞳。
    「おかえりなさい……なの?」
    「ただいま」





    「急にいなくなるから心配しましたよ」
    「十年くらい寝た気がしますわ」
    オモダカさんの向かいのソファで私の隣に座っているチリちゃんは「なはは」と笑って答えた。
    「この数日の事は覚えていないのですね」
    「今朝目が覚めて最初に思ったんは久しぶりの家やなって。脚立壊れて落ちたって瞬間から帰ってきてなかった事はなんとなくわかるんですけどそれくらいですわ。とりあえずリーグの脚立全部点検してもらえます?二度とごめんなんで」
    「すでに全て新品に入れ替えました。脚立に限らず全て備品を見直しましたからね。こちらこそ二度とあって欲しくありませんよ」
    「おぉ、流石トップ」
    「チリちゃん!」
    「アオイくん!」
    扉が勢いよく開かれそこには心配そうな顔の二人がいた。
    ポピーさんはチリちゃんに、ハッサク先生は私の方に一直線に向かって来た。
    「アオイくん!とても心配していたのですよ!!繊細な問題故に今は見守るべきとトップが判断した事とはいえ愛する人に忘れられたあなたの心の痛みを思うと小生はっ、小生はあああ!」
    先生に肩を掴まれてがくがくと体を揺らされてしまう。
    「ハ、ハッサク先生、大丈夫ですよ。記憶が無い時もチリさんはいつものチリさんで優しい人でしたから」
    「チリちゃんチリちゃん!ポピーの事わかりますか?」
    「わかるわかる。別嬪さんのいつものポピーちゃんや」
    一気に賑やかになった部屋の中でオモダカさんはパソコンから目を離さずに言う。
    「アオキからメールですよ。『記憶の回復おめでとうございます。お元気になられたようで安心しております。通常業務に戻られる事嬉しく思います。こちらで預かった未処理の仕事はチリさん個人宛のメールでお返ししておりますのでよろしくお願いします』と。全くこれだけですか……」
    「でもアオキのおじちゃんお仕事頑張ってましたの。チリちゃんの分も視察に行ったり毎日忙しそうでしたわ」
    「あーちゃんとお礼せなな。今度皆でご飯食べよか。チリちゃんの奢りで」
    そんなやり取りを見ながら私は目の前で泣いているハッサク先生に声をかける。
    「ハッサク先生、私は普段のチリさんがいない寂しさはありましたけれど、この数日は大切な事に気づけましたよ。私はきっと何度出会ってもチリさんを好きになれるんです。それはすごく素敵な事だから泣かないでください」
    「あなだのその、うぐ、前向ぎな姿勢が…本当に良くぞ…諦めずにゔぉおおおおおおい」
    「おじちゃん泣かないで!」
    私の言葉のどこが響いたのか更においおいと大泣きするハッサク先生をポピーさんと二人かがりで宥めるのをオモダカさんとチリちゃんがのんびりと眺めていた。




    「で、記憶のないチリちゃんも好きになったと」
    「うん」
    帰宅してソファに二人並んで座っていると自然とお互いもたれかかるようにひっついてしまっていた。
    「浮気や」
    「浮気かな?でも、長く一緒にいたらきっとね、もっともっと好きになっていたと思う」
    「チリちゃんのこと忘れて?」
    「忘れたのはチリちゃんの方です」
    んあーと謎の声を上げたチリちゃんが倒れ込んできて私を押し潰すように抱き締めてきた。
    「アオイの事忘れてるアホよりこっちのチリちゃんの方が百倍アオイを幸せにできるんやで」
    「あほって……」
    少し体を起こしたチリちゃんが真剣な表情で問いかけてきた。
    「なぁ、アホのチリちゃんに結婚してる事は伝えたん?」
    「あほあほ言わないの。……それはね、伝えられなかった。付き合ってる事実だけでも驚いていたんだよ。それ以上は混乱させちゃうから『恋人』って事にしたよ」
    私がリーグに駆けつけた時にはまだ全ての情報はチリちゃんに伝わっていなかった。
    だからオモダカさんにお願いして同棲中の恋人という事にしてもらった。
    お互い仕事中は指輪をつけないのでなんとか誤魔化せたと思う。
    本当にそうかな?
    もしかしたら気づいていたかな、記憶の無いチリちゃん。
    そんな事を考えながら見つめていたチリちゃんの口元がにぃと緩む。
    「つーまーり」
    「つまり?」
    「アオイが好きになって、結婚したチリちゃんはここにおるただ一人っちゅう事や」
    「そうだよ。でもね、また一から出会う事になったとしても私は何度でもチリちゃんを好きになるんだよ」
    「記憶無しもアオイの事好きになってたんやろ」
    「恋なのかわからないけれど、一緒にいてくれるってくらいには好意持ってもらえたよ」
    過去のチリちゃんとの不思議な出会いを私は忘れない。
    「そこまできたらもう落ちとるわ」
    軽くちゅっと口付けてから満足そうな顔でチリちゃんは言う。
    「浮気は一応許したろか」
    「相手はチリちゃんなのに」
    「たった数日アオイと過ごしたチリちゃんに負けてたまるかい」
    私を見下ろすチリちゃんの頬にそっと触れる。
    「今回の事は仕方ないけれど、仕事中色々と気をつけてね?忘れられちゃうのも怪我しちゃうのも嫌だよ。私も気をつけているんだからチリちゃんもね」
    「ん」
    手首のブレスレットを見せながら言うと柔らかい頬がすり、と手のひらに擦り付けられるので撫でる。
    「なんかな。変な感じやねん。忘れてたっていうよりチリちゃんはどっかに閉じ込められて昔の自分に体乗っ取られてたみたいな感じ。せやから思い出したっていうより帰ってこれたって感じやねん」
    「なんでそうなっちゃったんだろね」
    「なんか意味あると思うで」
    「意味?」
    「ちょっとした出会いも馬鹿にできんって事。アオイがチャンピオンじゃなくても、チリちゃんの四天王の姿を知らんでも仲良くなれるってわかったのは……なんか嬉しいやん?」
    出会いさえすれば私達はお互いに興味を持って仲良くなれる、って事かな。
    うん、それは。
    「すごく嬉しいね」
    微笑み合って良い雰囲気になっていたのにチリちゃんが「あ!」と大きな声を上げたので私はびっくりしてしまった。
    「風呂!」
    「お風呂がどうしたの?入りたいの?」
    「ちゃうちゃう。記憶無しと一緒に風呂入ったんか?」
    「入ってないよ」
    いくら普段一緒に入っているからって記憶の無い人を誘うなんてとてもできない。
    今のチリちゃんに悪い気もしたし。
    あのまま記憶無いチリちゃんと何年も過ごせばそんな未来もあったのかな。
    「やんなー?チリちゃんだけやもんな?」
    今日のチリちゃんはなんだかとてもご機嫌になりやすい。
    にこにこしているから私もつられて笑ってしまう。
    「そうだよ。チリちゃんだけが特別」
    だからいなくなったらやだよ。
    チリちゃんの首に手を回して抱き寄せながら耳元で小さく願いを口にした。
    「約束守ってくれてありがとな」
    吐息が首に当たってくすぐったい。
    「アオイの事なんて別に好きちゃうわ、ってチリちゃんやったのにそれでもずっと一緒におってくれてほんまにありがと。朝目覚ましてアオイが隣におるのに心の底からホッとしたんやで、ほんまのほんまに」
    「約束だから、だけじゃないよ。私が離れたくなかったんだよ」
    二人で笑顔になれるように頑張る約束、一緒にいようって約束、いろんな約束をしたけれどそれはそれ。
    私はチリちゃんの隣が一番良い。
    いつもとは違う不思議な数日間、正直なその気持ちで過ごしただけなんだよ。


    END


    以下、おまけ二本あります。


    『不思議と会いたい気持ちが強くなる』

    「チリちゃん、チリちゃん」
    肩を揺すられて目を覚ます。
    「んあ、ポピーちゃん今何時」
    「きゅうけいじかんおしまいですの」
    「マジでか」
    デスクにうつ伏せで寝ていたせいで腕が痺れている。
    思いっきり伸びをする。
    「十年くらい寝た気がするわ」
    時計を見ると寝ていた時間はほんの十分程度。
    なのになぜかとても長い夢を見ていたような、でも何も思い出せない。
    「チリちゃん!お姉ちゃんはまだ来ないのです?」
    「お姉ちゃん?」
    「アオイお姉ちゃん!」
    ジムチャレンジを諦める者が多い中、リーグ目前まで来ている少女。
    少し前に職員から「残るバッジはあと一つですよ」と聞いた。
    挑戦者が少ないからリーグ全体が期待しているのだ。
    「多分もうすぐ来るで」
    「ポピーのおともだちをおひろめできるのたのしみなのです!」
    「せや……なー?いやいやそれチリちゃん負けとるやん。勝つで?悪いけど」
    「まあー」
    頬に手を当てて驚いた顔をするポピーを眺めた後、自分の頬を叩いて気合を入れる。
    チャンピオンになれると周りが期待しているあの少女と勝負するのにこんな寝ぼけた状態では負けてしまう。
    「ポピーちゃん一緒に勝負しよか」
    「チリちゃんと?」
    「特訓や。強いのが挑戦しに来るんや。四天王めっちゃ強いでって見せつけたろ、な?」
    ここはポピーの言う通り「さいこーほーの場所」や。
    辿り着いた者には本気で相手してやる。
    普段からのんびり待っとるわけやないし、今の強さに満足なんてしていない。
    自分より若いのがどれだけ強くなろうと追いつけないくらいもっと、もっと強くなってやる。
    「チリちゃんにはわるいですけどポピーのカッチカチのおともだちがかってしまうのです」
    「言うたな?負けても泣いたらあかんで」
    二人でバトルコートに向かいながら「アオイに早く会いたい」と強く思った。

    ほんまに、早く会いたい。





    『久しぶりの』


    頬に温かい柔らかな感触。
    それがすぐに離れてしまう事に違和感。
    「アオイー?」
    「え、何かな?」
    なんとなく良い雰囲気でこちらから仕掛けようとすればアオイが動いた。
    期待して待てばこの結果。
    「チリちゃんキスしたいんやけど」
    眉を下げて困った顔のままアオイが近づいてくる。
    唇に軽い口付けをして離れてしまう。
    「……」
    「……」
    二人の間に流れる微妙な空気を誤魔化すようにへらっと笑うアオイにこちらも普段面接で鍛えた完璧な笑顔を返してやる。
    「アオイ?」
    少し低い声で名前を呼ぶとアオイは白状した。
    「だってなんだか恥ずかしいんだもん」
    「なんでや」
    「少し前まで記憶の無いチリちゃんと一緒にいたからね。もしかしたら一からやり直す可能性もあるんだよねって考えていたから……。なんだか、こうスキンシップの感覚がね?恋人になる前くらいに巻き戻ったような感じ?」
    つまり記憶無しの自分と過ごした数日の間に手は出されへんかったと。
    偉いな自分。
    いやちょっと怪しいけどな。
    なんか理由つけて触ってそうな気がする。
    自分の事は自分が一番知っている。
    それはともかく今更初々しいアオイに戻られてもな。
    それがかわええなって思えるんは最初だけでいつものアオイが欲しくなる。
    「恋人になる前キスしたいと思わへんかったん?」
    あーだのうーだの言いながらきょろきょろした後に恥ずかしそうにアオイは言う。
    「したかったよ……」
    「チリちゃんもや」
    今ええ笑顔しとんやろなあ自分、と思いながらアオイの頬を両手で包んで捕まえる。
    恥ずかしいと頬を染めているのが可愛い。
    そっと唇を触れ合わせると小さく震えている。
    いつもは積極的なくらいやのに。
    唇を舐めても中々答えない。
    諦めずに柔らかな感触を舌で味わっているとそっと唇が開かれた。
    喜んで舌に吸い付くといつも以上にアオイの体がビクッと揺れた。
    こうして可愛がるのもとても久しぶりのような気がする。
    数日寝てたようなもんやしな。
    角度を変えながら舌を絡ませてじっくりと味わう。
    そう、これができるのは自分だけ。
    頑張った自分だけの特別。
    呼吸の為に少し離れるとアオイの舌が追ってくる。
    チリちゃんがアオイの事忘れている間寂しかった?
    恥ずかしさの所為かいつもと違うぎこちない動きが新鮮でちょっと興奮する。
    久しぶりに色々したくなる。
    絶対離さへんよ、という思いを込めて小さな舌を少しだけ強く吸うと甘い声が耳に届いた。


    その後数日は一緒に風呂に入るのも恥ずかしがるし、今まで当たり前だった手を繋ぐという行為一つにやたら嬉しそうに反応するのがなんだかんだ面白楽しくてしばらく初々しい恋人気分を楽しんだ。

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