雨の降る街――雨が降っていた。
人々の声は烈しく恐ろしかった。耳を壊す程に大きな音も多くあった。外に投げ出された体には容赦なく雨が叩きつけられて寒かった。雨粒に穿たれるその痛みだけが身体にあった。その痛みだけしか、無かった。
曇天の暗がり。サイレンの赤。自分のために手は伸ばされて、既にあちらは見捨てられている。怪我一つ無い体はすぐさまに救急車に乗せられて病院に運ばれた。雨から離れた事が寂しかった。自分を罰するものは無い。家族が駆け寄って、抱きしめられて、家に帰れば溢れんばかりの愛情で抱き寄せられて。
気付けば雨は止んでいた。
***
都内から電車と新幹線とバスを乗り継ぎ、そこからひたすら徒歩でようやく辿り着くような田舎町がある。山々に囲まれ美しい川が流れており、酪農や畑を営んで暮らしているらしい。アルジュナが自宅から遠く離れたその町にやって来たのは、そこに父が滞在しているからだった。
アルジュナには父親が二人いる。一人は共に暮らしていた、育ててくれた戸籍での繋がりを持つ父だ。既に鬼籍の人ではあるが、今もアルジュナはこの父を尊敬し慕っている。もう一人は遺伝子の繋がりを持つ父で、アルジュナという生命を一組の夫婦が手に入れるために助力したのがこの父だった。最近までアルジュナも知らなかった事で、この父の事をアルジュナは家を――つまりは両親の商売を――支援してくれている一人だと思っていた。名をインドラと言い、ある企業のCEOとして手腕を発揮しているらしい。
そのインドラが何故こんな田舎に滞在しているかと言うと、母曰く「静養中」なのだそうだ。
――インドラ様にはご両親があって、あまり関係は良くなかったそうなのだけれど、先日事故でお亡くなりになってしまわれたの。確執があったからこそなのか少し不調に陥ってしまったそうで、静養に向かわれたの。けれど誰も供を着けず、たった一人で過ごしていると聞くわ。アルジュナ、今の貴方には良い話だと思うの。インドラ様のお側に侍って、そして貴方自身も癒しを得て来るのですよ……。
「癒し、とは……」
溜息の一つも吐きたくなる。街には雨が降っていて、アルジュナは片手には傘、肩には荷物、そして片腕には杖を持っていた。
先日、アルジュナはある事故に巻き込まれて足を負傷した。もう殆ど治ってはいるのだが、癖がついたのか歩き難くて仕方がない。高校が夏休みに入ったので、今年は夏期講習もやめにして家でゆっくりと完治させていくつもりだったのだ。それがどうしてこんな事に。ろくに話した事も無い二人目の父親と、どうゆっくり過ごせと言うのか。母上はたまに無理難題を仰る。ずるずるとぬかるんだ土の上をどうにか進んでいると、ふと遠く道の先に不自然な柱を見かけた。
――柱?
目を凝らす。こんな所に何の柱があると言うのか。果たしてそれは柱では無く、巨大な人影だと判明した。人影の方もアルジュナを視認したのか近付いて来て、近付いて来る度にアルジュナは首の角度を変える事となり、最終的にはほぼ真上を見上げる程となった。巨大と言う他に無いその長身の男は、何も持たずにアルジュナの前に立った。
「……アルジュナだな」
「え?は、はい。もしやインドラ様でしょうか」
「様は不要だ。それよりその傘はどうした」
「自宅から持って来た物ですが、何かおかしな点がありますか?」
「……雨傘に見えるが」
「雨傘です。雨が降っているので」
そうか、とインドラは頷いて、アルジュナから傘と荷物を奪ってしまった。アルジュナに傘を傾けながら、よく来た、と歩き始める。どう考えてもコンパスが違う上足を負傷したアルジュナを相手に歩調を合わせて来るインドラをちらりと見上げても、何処に傷をつけたのだろうかと、不思議に思う程にはインドラは平然としていた。自分に傘を傾けるせいであの肩が濡れやしないかと、そればかりを気にしてアルジュナも精一杯の速度で歩いたのだった。