神様の爪弾き猫を拾った。酷く傷ついた猫で、世話をしている内に情が移ったので手元で育てる事とした。痛々しくも長い尾の裂けた傷痕はそのまま残り、他にもあまり猫らしくない様子が見えるのでもしかしたら今後何か後遺症が見つかって行くのかもしれない、と獣医に言われている。曖昧な言い方をするのには訳があり、そもそも獣医は何度もこう口にしている。
――本当に猫ですか?
と、言われる度に、どこからどう見ても猫だろう、とインドラは返して来た。返して来たが、もしかしたらどこからどう見ても猫だけれどもしかしたらちょっと猫では無かったのかもしれない。
「父様?」
「あ……明日の朝でも良いか、ようやく寝れるんだが……」
「成程、ではまた明朝に。おやすみなさい」
ベッドに倒れ込んでいたインドラを両腕できちんと寝かせて布団をかけ、尾を揺らす猫はにこりと微笑んだ。
「また明日」
「……お、……み……?」
最後に見たものの形が八割程人間のように思えたが活動限界だったらしい。執筆明けのインドラが翌日――朝ではなく昼過ぎ――に起きると添い寝の温かさがあった。幼子に見える。耳と尾がついている。見慣れたあの傷だらけの尾では無いのに、感覚で飼い猫だとわかってしまった。
「ん……ふわ、あ……ぁ。おはようございます、とぉさま」
「アルジュナ」
「はい、アルジュナです、父様。ようやくご挨拶出来ました」
愛らしい笑みだ。それを愛らしいと思うのは、単に容姿の問題では無い。アルジュナの顔をしているから、インドラは愛しく思うのだ。――飼い猫に息子の名前を着けたオレが悪い。果たして拾った猫が人間になると誰が予測できるだろうかという話にもなるのだろうが、とにかくインドラは頭を抱えた。そこでようやく気付いたのだが服を着ていない。何故。
「ああすみません、昨夜ちょっと検分していまして」
「何をだ」
「貴方につけられた唾、のようなものを」
「何をだ?」
思わず己の体を見下ろしてしまう。いつも通りの自分の体だ、この国に来てからやたらと傷痕が増えたが、尾だの耳(角?)だのが生えている訳では無いごく一般的な人体である。一際長身だとかやや性別に困惑する事にはなるがそれも人類史においては何も異常な事では無いのだ。その辺りの問題は故郷の仲間や妻と子等のおかげで乗り越えているのだ、が、唾とは如何に。
「他は良いとして、これですよね」
「は?あ、いッ」
目の下の辺り、顔に走る傷痕にアルジュナの幼い指が触れた。すると強い静電気でも走ったように一瞬の痛みが走り、かと思うと齧られた。大きく広げられた口がそれこそ一瞬見えて、それは永遠に相当するもので、歯磨きに力を入れていたからなのかとてもきれいな歯が並んでいるとかとても鋭利に尖った歯があるなとかアルジュナも子供の頃はこんな風に何かを頬張ったりしたのだろうかとか、様々考えている内にインドラは顔に怪我を負っていた。
「これは私には消せないのです。私は爪弾き者ですし、これは貴方を最初に見初めた者の証ですから。けれどこれ以上に貴方を見られる訳にもいきません、目を着けられているだけでも負荷でしょうし、掠め取られるかもしれない可能性は潰したいので」
痛みや恐怖は横に捨てる事にした。こういう時は何も考えない方が良いのである、それこそ目の前のアルジュナくらいの歳の頃に誘拐されてなんやかんやとあった時もインドラは思考回路を放棄した結果間抜けな誘拐犯達の雑談から情報を拾って自力で脱出出来たのだ。それよりも脱出した後そのまま家出をして三週間程過ごした方が余程問題になった。
(つまり現実逃避すんなって教訓になってんのかアレは……)
まろやかと表現したくなるような、幼子の指がインドラの血をすくい舐め取っている。早くも教訓は捨てたいが、勇気を出してインドラは尋ねた。
「何が目的だ?」
「貴方の全て。心も、体も、魂も。私の全てを、貴方は留めてくれました」
感謝を、と言いながら、体格に見合わない力で肩を押される。起こしていた上半身はあまりに容易くマットレスに戻されて、いっそインドラは感動していた。この人生であらゆる危機に陥って来たものだが、そういえば捧げものだの供物だの生贄だのばかりで押し倒される系統の危機は初めてだった。ただし認めたくは無いがアルジュナが捧げて貰う側だったとするといつも通りの流れではある。変態少年に入り込まれているのであれば何かしら阻止して諭すのも大人の役目であろう、そうあって欲しい。結論として、インドラは人間の少年相手に襲われているのだという事実を選ぶ事とした。
「冗談は止せ。話を、」
「――貴方と私で世界になりたい」
正しく奪うために重なった唇は、止めないで父様、とごく近くで囁いた。相手が固まっている内にアルジュナはインドラが腹に残していた傷痕を舐めて、消した。体じゅうそんな風に進んで行くのでインドラは諦めて何も考えない事にしたし、全身舐められてどうしようもないインドラと前身舐めて滾っていたアルジュナとはお互いに求め合う形になって盛り上がってしまい、ようやく翌朝に起きる事が叶ったインドラは頭を抱えて満腹で青年の姿で寝こけている息子そっくりの何者かをどう扱うのか悩む事になったのだった。