山羊のうた「パパだよー……?」
「……?」
ほら見ろ駄目だったあ!何やら騒いでいるが、それはインドラの警戒を解くものでは無い。
気付いたら妙な場所にいた。人間が多くいて、人間でない者も多くあり、そして地上よりも天に近い。目覚めて、どうすれば良いかわからずにいて、その内に何か恐ろしいようなモノが、インドラの血を流す者と共に現れた。インドラは子を作った事が無いので、であればそれはインドラの父母に連なる者なのだろう。父の気配に動揺した所を人間の形を持つ何かと相対し、気付けば気を失っていたらしい。清潔な白い寝台の上でまた目覚めた。それからは医師の指示に従っている。
パパを自称する男が何者かはわからないけれど、自分の父は――。
「……?」
父はどんな方だったか、母は?知らない、という事しかわからない。
「それに話しかける時には命令形で話す事だな。雑談は出来ない。意見を求めても回答する事すら出来ない。人工知能共の方が余程会話能力がある」
「人格形成以前の問題があったと思われます。全てにおいて選択が極めて困難なようで、例えば起きているのに起きなさいとこちらから指示を出さない限り目を開く事もしない、というような……」
「ええとなのでこんな風に話しかけてあげてください。――インドラ君、君にこの人を紹介します。ゴルドルフ新所長です。君はこれからこの人の言葉に最優先で従ってください」
インドラはそれでようやくパパを自称するゴルドルフという男と視線を合わせた。怒った様子の無い表情をしてはいるが、果たしてどうしたらいいものか。視線が落ちると、ゴルドルフは落胆し、医師達は意外そうな顔をした。
「どうかしたかな。困っている事は口にして」
「……ち、父上、の、御指示に……従わないと」
「そうしなければならない理由があるのかな。教えてくれるね」
その医師の口調は柔らかいが、目はどこか刃に似た冷ややかなものがあった。感情が読みにくい。ここの者は皆そうだ。インドラにはわからないような、新しい感情を持っている。
「世界が、そのように、出来ている……から」
インドラは答えたけれど、こんなに勝手に喋っていてはまた父に失望されるかもしれないと後悔した。せめて静かな夜を過ごしたくてこの寝台から逃げる事はしなかったけれど、見つかったらどうなるだろうと――どうなるのか。
父、は、どのような。恐ろしいのか。それは畏まるものなのか。親は知らない。父母はどんな方々で、どのように接して、どのように生まれてどのように育って。憶えていない――何故?全て靄がかかったように、幕を落して隠されたように、何かがあったように思うのにその姿かたちがわからない。
そもそも、自分に、親なんてものは在ったのか?
「インドラ!このゴルドルフ・ムジークが今より君の父だ。最初にこれだけは命じておこう。これはとても重要で、かつ私の権威にも関わる問題である。先の言葉は忘れて、私の事は父上と呼びなさい。わかったね?父上の指示だ、従いなさい」
はっとして、視線では無く頭を垂れる。返事をしなければと思うのに、何故その必要が、と、混乱が頭に満ちている。体は頷いたけれど、何もわからないのが正直な所だった。
「もう一つ命令だ。顔を上げなさい」
言われるままに顔を上げる。すぐそこにゴルドルフの顔があって息が空回る音がした。父上が膝をついて、自分と視線を合わせようとしている。自分よりも、下から。
「ちっ、……!?」
「全くもうこういうのは先に言ってくれないと困るんだけどね!?絶対にもっと威厳のある入り方した方が良かったでしょもう!」
「そのまま持って行ってくれ、定期健診をお忘れなく」
「お大事に」
「はは、またね」
これは、どう、すれ、ば?
目が回る。頭の中がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられて何もかもが変わっていく。不安定さを感じて咄嗟に近くにあった物に腕を回したら、それは人の――父の頭だった。
――父上が私を抱っこして走ってる!?
この後どうすればいいのかも、指示が欲しい。そう思った。
***
何はともあれ。ゴルドルフとしては躾――即ち食事である。抱えたインドラを一先ず管制室に連れ戻り、椅子に下す。完全に固まっていた体が僅かに緊張を解いて、それでもまだ凍ってるようだと思わせる硬直具合だった。お湯でもかけたら戻るかな、やや傷つきながらゴルドルフはそこで待っていなさい、と伝えておやつを取りに行った。
振舞うつもりで用意していたドーナッツと、甘いミルクティーを持ってテーブルに戻る。程々の距離を保ちながら、各々の作業をしながら、インドラには多くの視線が向いていた。それを気にする様子は無いのに、身動ぎ一つせずゴルドルフの言いつけを守っている。汗をかいて、青い顔をして、目の焦点も合っていなくて、見れば手を握り締め過ぎて震えさせている。私だってカウンセラーとかじゃないんだけどなあ。思いつつ、思いつつもで、ゴルドルフはテーブルにトレイを置いた。
「食べなさい」
「はい……」
頷いたのにインドラが中々手を伸ばさずにいるので、ドーナッツ見た事無いのかな、とゴルドルフは一つ自分で掴んでみせた。インドラの口には少し大きく作り過ぎたかもしれないと、割って、口に含む。今日も至高の出来栄えだ。チョコレートをコーティングしたイーストドーナッツは、さらにココナッツを纏わせて香りも食感も楽しめるようにしている。他にもトッピングの違うドーナッツを色々用意しているので、インドラの好みも把握出来て一石二鳥という計画だ。
おそるおそるインドラが手を伸ばしたのは、ゴルドルフと同じココナッツのドーナッツだった。真似るようにして二つに割って、困惑の表情のまま口に含む。それで勝敗は決まった。舌に乗せさせてしまえば此方の物だ。笑んだゴルドルフはゆっくりと自分の持ったドーナッツを完食し、それからもう二つ目に手を伸ばしているだろうインドラに視線を向けてどうかね、と尋ねた。
「えっ」
インドラは一口目以降を食べ進めてはいなかった。固まって、どうしたらいいのかわからない、そんな顔をしている。一度ドーナッツを置かせて、話をしようと思ったら、かたくなに拒まれた。
――雑談は出来ない。意見を求めても回答する事すら出来ない。人工知能共の方が余程会話能力がある。
そんな少年が、果たしてこんな動きをするのだろうか。
「インドラ。何故食べないのかね」
「……わか、ら、なく、て」
たどたどしいのは言葉だけでは無く、息をひゅうひゅう鳴らしながら、苦しそうに背を丸めている。どれだけの思いで今言葉を発しているのか、それを考えると流石に胸が詰まった。背を撫でてやりたい気持ちもあるが、きっとまだ触れてはいけないのだ。先程と同じように、目の前に膝を着いて下からインドラと目を合わせる。すると、インドラの方から何故、と尋ねられた。
「何故貴方は、オレを上に置くのですか。食べ物を、与えて。共に食して。オレが、オレが疎ましくは、ないのですか。憎いとは、お、思わないの、ですか。あ、あなたは。だれなのですか……」
インドラに降った霊基異常は、恐らくは副産物なのだ、というのが此方の見解だ。インドラに何かがあって、その結果この姿になった。記憶も体も退行して、どうやら成長する事で解消される霊基異常。不安を吐露するインドラを見ていると、ゴルドルフの中にはこう仮説が立った。
成長では無い。健やかに育てられるべきなのだ、と。
「そりゃあね。私は君のお父さんだからね。優しくしてやりたいものでしょうが」
「おとうさ、ん?」
「ところで私の特製ドーナッツと温かいミルクティーが冷めるから早く食べなさい。そしてどのドーナッツが一番美味しかったか教える所までがおやつの時間という物なのだよ」
今はまだわからなくてもいいけどねと置いて、ゴルドルフはインドラにドーナッツとミルクティーを勧めた。インドラは子供の口でドーナッツを食べ進めて、ミルクティーを飲んで、ゴルドルフにそれが甘いという味だと教わって、そうしている内に背筋も伸びて震える事も無くなり、汗も引いて、目は甘味をじっと見つめていた。
「で、どれが一番好みだったかね?」
「ココナッツ?の、ついた、その……父上、が、食べ方を教えてくださったものが、一番」
後になってココナッツよりもストロベリーチョコレートのドーナッツのような果実の甘酸っぱさが好きだとわかっても、ゴルドルフは驚きはしなかった。あの時のインドラはドーナッツでは無く自分との思い出の話をしているとわかっていたし、それこそが狙っていた筈の第一歩で、そしてインドラが歩み直すために持ち上げた足での一歩でもあったのだ。