『嗚呼オーシャンビュー!』朝の柔らかな日差しが、慈悲尾探の運転する車の窓に差し込んでいた。高速道路を滑るように走る車内には、探のほか、助手席に座りスマートフォンで夏らしい曲を流す来雲泥眼と、後部座席で膝に手を揃えつつも外の景色を眺める火威八千華がいた。三人は今日、海へ行く約束をしていた。だが、探の表情にはどこか落ち着かない影がちらついている。ハンドルを握る手が、いつもより少し固い。
「探くん、今日の海どんな感じかな? 波、荒れてたりする?」 泥眼が、少年のような軽快な口調で尋ねた。窓の外をチラチラと眺める彼の目は、子供の頃に味わえなかった家族とのお出かけを思い、どこか期待に輝いている。だが、探は一瞬、言葉に詰まった。
「え、えっと……その、どうでしょうね……えへ、へへ」 探の声は、いつもの敬語口調ながら、どこかためらいが混じっていた。
海へのドライブを計画していたが、実は探は沖に流される恐怖が頭をよぎり、目的地を海の見える温泉とプール複合施設であるスパに変更していたのだ。
車をスパの駐車場に停め、施設の入口に立ったところで、探は申し訳なさそうに二人に打ち明けた。
「その…すみませんでした……実は僕…その、海で泳ぐのがちょっと怖くて…海の代わりにこのスパなら安全に楽しめるかなと………思ったんです……」
車内の空気が一瞬、静まり返った。泥眼は、施設の看板を見上げながら、口を開いた。
「眼前のオーシャンお預け? 母なる海より人工のママなの、探くん?」
その声に、探は苦笑いを浮かべた。だが、八千華が穏やかで丁寧な口調でフォローした。
「ま、まあ海は見えるし、スパなら温泉もマッサージもありますし…………あっここ館内着の浴衣可愛いよ!」八千華の優しい笑顔に、探はほっと胸を撫で下ろした。
スパのロビーに足を踏み入れると、潮風と花の香りがほのかに混ざった空気が三人を迎えた。ガラス張りの窓からは、水平線まで続く青い海が広がり、施設のプールエリアと溶け合うように設計されていた。八千華はさっそく色とりどりの浴衣が並ぶコーナーへ向かい、朱色や萌葱色の生地を手に取っては目を輝かせていた。「探さん泥眼くんこっちとこっちどっちがいいかな?」と呟きながら、彼女の笑顔には、落語の世界での重圧を忘れたような軽やかさがあった。
プールエリアに移動すると、広々とした空間に複数のプールが広がっていた。中央には、波が穏やかに揺れるウェーブプールがあり、子供たちの笑い声と水しぶきが響き合っていた。脇には、熱帯のジャングルを模したエリアがあり、人工の滝が流れ落ち、色とりどりの浮き輪が水面を漂っていた。泥眼は目を丸くしてウォータースライダーを見つめ、「高ーい!それに長い!えっこれ何回滑れるかな!?子供に混じって成人男性遊んでもいいかな!?」と子供のようにはしゃいだ。
さっそく水着に着替え、螺旋状のスライダーを勢いよく滑り降りると、着水の瞬間に大きな水しぶきを上げ、笑い声を響かせた。両親との思い出が少ない彼にとって、こんな無邪気な遊びは新鮮で、まるで少年時代を取り戻すかのように何度もスライダーを往復した。
探は、プールサイドのデッキチェアに腰掛け、二人の様子を微笑ましく見守った。自分も水着に着替えてはみたものの、泳ぐのはやはり少し気後れし、足を水につけて涼む程度で満足していた。それでも、泥眼が「探くんもおいでよ!」と手を振るのに釣られ、浅いプールで軽く泳いでみることにした。水は温かく、塩素の匂いがほのかに漂う中、探は久しぶりに身体が軽くなるのを感じた。八千華もプールに浸かりながら、「プールなんて学校の授業以来かも」と笑った。
八千華はマッサージコーナーへ行ってくると言うので、先に温泉エリアに移ると、露天風呂から見える海が一層美しかった。湯気越しに夕暮れの光が海面に反射し、茜色と青が混ざり合う幻想的な景色が広がっていた。泥眼は隣の少しぬるめの湯船で、体を浮かべ、「海もいいけどこっちは温泉もあってお得だね」と満足げに呟いた。探はそんな泥眼を見ながら、温泉の温もりと友の笑顔に心が解けるのを感じた。
温泉から出ると八千華を待つ間暇だからと売店でたくさんのフレーバーのジェラートを選んでガラス張りの窓から外を眺め談笑していた。ふと会話が途切れ探が泥眼を見ると、泥眼がジェラートを頬張り、ぽつりと呟いた。
「綺麗だね、海」
探はそっと微笑んだ。そこでようやく、海が見える場所を選んだ甲斐があったと胸を撫で下ろした。
夕食は、施設内のレストランでいただくことにした。海の見えるテラス席に案内され、夕暮れの空がオレンジから深い紫へと移り変わる様子が、ガラス越しに美しく映った。ビュッフェスタイルらしく各々が好きな料理をプレートに盛りテーブルへ戻ってくる。さすが海の町とでも言うように地元の海鮮を使った料理が多く並んでおり、新鮮な刺身の盛り合わせや自分で作る海鮮丼、焼き魚や煮付け、カルパッチョにクリーム煮、天ぷらなど様々な海鮮がプレートを彩っていた。八千華はサーモンとホタテのカルパッチョをフォークで食べながら「美味しいですね」と口元を抑え育ちの良さが滲みつつも、どこか無邪気な喜びが感じられた。泥眼は、海老の天ぷらを頬張りながら、「うま、天ぷらってあんまり自分で作らないから揚げたて食べれるの新鮮だな」と目を輝かせた。彼の少年のような口調に、探はくすりと笑い、「八千華さんも泥眼くんも喜んでもらえてよかった」と返した。
食事が進むにつれ、三人はそれぞれの近況を語り合った。八千華は、落語の稽古での苦労を控えめに話したが、「丁半師匠の噺を聞くたび、もっと上手くなりたいと思うんだよね」と目を輝かせた。泥眼は、バーの常連客の奇妙なエピソードを披露し、「この前来た客、探くんと同じ酒を頼むんだよ、怖いよね、ストーカーとかされてない?」と話した。探は、絵本の新作の構想をぼんやりと語りながら、二人の話に耳を傾けた。レストランの喧騒と海風の音が混ざり合う中、三人の笑い声が温かい空気を作り上げていた。デザートのフルーツシャーベットを食べ終わる頃、泥眼が「いや、今日本当に楽しかった」と呟き、八千華も「三人でお出かけした中で初めての体験だったしね」と微笑んだ。探は、二人の満足そうな顔を見て、胸の奥がじんわりと温かくなった。
夕食後、三人は名残惜しそうに車に乗り込んだ。夜の海沿いの道は静かで、遠くの波の音が微かに聞こえた。探が運転する車の後部座席では、泥眼と八千華が並んで座っていた。泥眼は窓に額を寄せ、夜の海をぼんやり眺めながら、「あのスライダーまた滑りたいな、また来ようよ」と呟き、くすくす笑った。八千華は、着物の袖を整えながら、「今度来たら違う浴衣試そうかな」と穏やかに言った。探はルームミラー越しに二人を見やり、彼らの疲れたが穏やかな表情に安堵した。車内は泥眼のスマートフォンからは、静かなジャズが流れ、夜のドライブに寄り添うようだった。
しばらく走ると、泥眼の声が少し眠そうに途切れ、八千華の姿勢もゆったりと崩れ始めた。探がふと思いついたように提案した。
「今日はもう遅いですから、僕の家に泊まっていきませんか?」
泥眼は目をこすりながら眠そうな笑顔で「うん、そうしたいな」と答えた。八千華も、穏やかに頷き、「もしものために着替え持ってきてよかった」と返した。だが、その声はすでに眠気に霞んでいた。車が街の明かりに近づく頃、ルームミラーに映る二人の姿は、静かに揺れる寝顔に変わっていた。泥眼の髪が少し乱れ、八千華の着物の襟がわずかにずれたまま、二人とも穏やかな寝息を立てていた。
探のマンションに着いたとき、泥眼と八千華は後部座席でぐっすりと眠っていた。疲れ果てた子供のような寝顔に、探は優しく微笑んだ。そっと車を停め、静かにドアを開けて二人の頭を撫でながら、囁くように言った。
「今日は楽しかったですね」