【尾月】金婚式の誓い デリバリーの業者が扉を締めると、俺は隣に立っている眼鏡をかけたチビのジジイをギロリと睨んだ。
「オイ、チビジジイ」
「なんだジジイ」
残したって渡す者を持たない俺たちが選んだのは、住宅型の有料老人ホームを終の住処にすることだった。こじんまりした、幸せな住処の二人がけの小さなテーブルに、乗り切らないほどの寿司、ピザ、そして大きなケーキ。
「なんだよこれ、こんなに食うのか」
「食うぞ。たまには良いだろ、ピザ」
「じゃなくて量!」
古希をとっくに過ぎたジジイ二人が食べれる量じゃない。
「おい、ケーキ持ってくれ」
「何なんだよホントに」
歳の割に背筋の伸びた基は、五人前の寿司ケースを三つ重ねて、その上にピザを二箱乗せて玄関に向かう。
「おいジジイ、早く開けてくれ」
「うっせぇジジイ、どこ行くんだよ」
律儀にケーキの箱を抱えて後を追い、玄関の扉を開ける。
「良いから黙ってついて来い」
こう言うときだけ無駄にかっこよさを見せるのは、若い頃から変わらなかった。
この有料老人ホームは、基本的に自立している人向けだった。特に痴呆もなく健康状態もいい二人は、たまたま空きがあって入居できた。住民は十五組程度。一人暮らしも、夫婦で入居している人もいる。要介護になれば退去が必要だが、何かあった場合、すぐに然るべき対応をしてくれるスタッフが常駐している。
基に着いて行き、一階にあるレクレーションスペースに辿り着くと、コピー紙をつなげた横断幕に達筆な字で「金婚式」と書かれた文字を見て、思わず立ち止まった。
「アンタこれ…」
基は持っていた寿司とピザをテーブルに並べる。他の入居者達と常駐のスタッフが既に集まっていた。
「ほら、ケーキ」
言われて、持っていたケーキを手渡す。大きなケーキを取り出すと、チョコレートのプレートには「百之助♡基 金婚式」の文字。
「おいジジイ、忘れてたのか?」
ニヤリと笑って手を掴まれる。その悪巧みの顔。
「だって…ア、ンタ…」
入居したのは十年ぐらい前。どうせその頃にはどっちか死んでるだろって、結婚記念日祝ったりするのやめよう、思い出して悲しくなるからって。
「“これ”をやりたくてな」
なるほど、十年越しの壮大なサプライズって訳か。
「馬鹿じゃねぇのジジイ…」
目の奥が熱くなる。
「ほら、月島さん尾形さん、こっち」
世話焼きのご近所さん達に促されて、輪に入る。
「金婚式おめでとう!」
クラッカーが次々に鳴る。祝福の言葉と拍手の中、基が照れくさそうに笑っている。半世紀前に小さな結婚式を挙げた時と同じ顔をしている。
「百之助」
こちらに向き直って名前を呼ばれる。両手を握って、そっと左の薬指の指輪を撫でられる。
「こんな俺を、ずっと愛してくれてありがとう」
基の手にはめられている、同じ様にくすんだ指輪を見つめて、言葉に耳を傾けた。
「まだしばらく、よろしくな」
目尻にシワを寄せ、うっすらと涙を浮かべて優しく笑う基。堪え切れずに涙が頬を伝う。
「…基…俺も、…ずっと愛してくれてありがとう…まだくたばるなよ、基」
堪らず引き寄せて抱きしめた。鍛えているとはいえ、細くなった体に、目元のシワ、その年月を表す全てが愛おしく思う。悩む日々もあったし、ぶつかり合う事もあった。色々な事があったけど、あなたと共に人生を歩めて本当に良かった。
体を離して、今度は俺が基の両手を握り、見つめ合う。
「生まれ変わっても、また一緒にいてくれますか?」
そう訊ねると、耳まで赤くさせ、目を細めて笑った。
「当たり前だろ…絶対見つけるからな」
その言葉に胸がいっぱいになる。頬に手を添え、額をくっつけた。理解ある人達だったが、流石にジジイの同性カップルのキスなんて見せても仕方ないだろと堪えたが、周りの野次に煽られて、更に迎え口をしている基に当てられて、触れるだけの軽いキスをした。わあと周りが盛り上がり、顔が熱くなった俺と、真っ赤な顔の基は離れ、顔を見合わせて照れ笑いした。
「ほ、ほら、食うぞ、ピザ!祝い事は寿司ピザケーキだろ?」
「…ピザ食いたかっただけかよジジイめ」
「当たり前だろっ」
涙を拭って笑う基。つられてこちらも笑った。
斯(か)くして、入居者やスタッフをも巻き込んだ、小さいながらも盛り上がったサプライズ金婚式が行われたのは四年前。
小さな仏前のろうそくを灯し、新しい水の入った湯呑と線香を供えると、尾形は手を合わせ、写真立ての人に向かって小さくおはようとつぶやいた。この一連の事が毎朝の日課になって、一年が経とうとしていた。
最期は呆気ないが穏やかなものだった。夜、共に寝たら、翌朝、基は起きなかった。幸せそうな寝顔のままだった。不思議な事に、別れの挨拶をされた様な気がしてて、あまり寂しさを感じなかった。ただそれは終活と言うものを本格的にしていたおかげでもあるんだろう。存外、慌てずに送り出せた。金婚式で撮ってもらった写真の一部は、棺に入れて一緒に送ってもらった。骨太の遺骨達を必死に収めようとしてくれる職員の様子を思い出して、つい思い出し笑いをする。
「チビだったくせに…」
オールバックの髪の毛をさっと撫で付ける。事前に決めていた段取り通りに事を片付けた。遺品はほとんど残ってない。残しても仕方ないから、と生前に本人が処分した。もちろん自分もだ。自分の死後は、腹違いの弟の息子、つまり甥っ子を保証人に立てて託している。基の残り香も消えたこの部屋で、静かに時を待っていた。
ある日の夜。
いつものように就寝したはずが、意識がやたらとはっきりしている。起きてないことは間違いないらしい。だがここはどこだろうか。ただ真っ暗な空間かと思ったら、実は真っ白だった。足を動かそうと思ったら、どうやら動くようだ。とりあえず足を動かしてみる。
やがて何か建物の様なものが見える。どこだろう。建物の全容が見え、まばたきをすると、建物の内側らしい場所に立っている。音は何も聞こえない。ぼんやりとした人々が廊下に立っている自分を通り過ぎ、すり抜けていく。ここに居るのはほとんど女性の様だった。
ふぎゃ…ふぎゃぁ…
何も聞こえなかった世界に突如現れた“音声”。その声にハッと振り返ると、自分は病室に居た。
くせ毛の髪から汗が伝って落ちる、満身創痍な、でもこの上なく幸せそうな女性が、生まれたばかりの真っ赤な赤子を抱きかかえて泣いている。ここは産院だったのか。
《…やっと会えたね、はじめちゃん》
驚いて目を見開く。
女性に近寄って、腕の中でまだ泣いてる赤子を覗き込む。恐る恐る指を伸ばして、額に触れようとするも、できないらしい。
しかし赤子が泣くのをピタリとやめて、薄っすらと瞼を開けた。
あっ
声を上げた瞬間、また真っ白な世界に戻った。
一瞬見えた瞳の奥の深緑。
この色は半世紀以上ずっと隣で見ていた色、その物だった。
気がつくと、小舟に乗っている。
なるほど、これがお迎えか。
トプンと船ごと沈んで意識が途絶えた。
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大学の講義室の後ろの座席は、尾形お決まりの席だった。ワイヤレスのヘッドフォンを付けていれば、誰からも話しかけられることはなかった。今生も良い顔に生まれてきてしまったが為に、やたらめったら女性に声をかけられまくって面倒だった。俺は、どこに居るともわからない“あの人”にしか興味ないのに。
講義が始まる直前に、隣にドカッと誰かが座った。
こんなに空席がいっぱいあるのに何で隣に座るんだよと、横も確認せず少し離れると、ヘッドフォンを乱雑に取られた。
何しやがる!と言葉を用意し横を振り向くと、ひゅっと息が詰まった。
「“久しぶり”だな尾形」
瞳の奥に光る深緑の色を細めて笑う人。
「つッ…!!」
何も言葉を出せずに、ただその人を力いっぱい抱きしめた。