深く深く、光も届かないほど深い海の底へ向かってカルエゴは潜ってゆく。人魚の中にも好んでここまで深く潜る者は少ない、深海は別の生き物の領域だ、波のざわめきもイルカ達の笑い声ももう遠い。
ついさきほどまで珍しく海面に出ていたカルエゴは、まぶしい太陽の光と肌を焼く熱がまだ記憶に残っているせいか潜るにつれて水の冷たさがいつもより体に染みて、それを振り切るように尾を強く動かした。髪に残っていた気泡がキラキラと僅かな光を反射して上へと帰っていく。それとは反対に下へ、底につくほどに深く潜ると光の射さぬ深海の岩場にぼんやりと浮かぶ光源が見えてくる。そこにはカルエゴの古い友人が住んでいる。
「シチロウ、いるか?」
頼りない光を放つ特殊なサンゴに囲まれた岩場の穴の中に声をかけると間もなくズルリとまず八本の太い脚が這い出してくる、その後で逞しい上半身と揺蕩う長い銀の髪、鉄のマスクに覆われた顔が現れる。
「やぁ、カルエゴくん。あの子はどうなったかな?その報告だよね?」
「…あぁ、問題なく人間になった。」
「そう、よかった。」
目を細めて嬉しそうにするシチロウにカルエゴは不機嫌を隠さず詰め寄る。
「おい、それよりお前、まだあんな嘘をついて薬を渡しているのか。」
問い詰めるとシチロウはさして気にする風でもなくあっさりと肯定した。
「うん、そうだよ。人間になりたいのならこの薬を飲めばいい、そうすれば尾が裂けて人の脚になる。ただし、愛する人と結ばれなければ海の泡になって消えてしまうよ、それでもいいの?ってね。」
まるでお伽噺の悪い魔女みたいでしょ、と笑う声はやけに楽しそうだ。
「ばかばかしい。」
「そうかな。海を捨ててまで愛する人の元へ行くのでしょう?命くらい捨てる覚悟でないと渡せないなぁ。」
海の底で魔法と薬の研究をしているバラム・シチロウはどんな願いも聞いてくれる、しかしとんでもない代償を要求する大蛸の悪魔だと噂されている。そしてカルエゴはその噂が心の底から大嫌いだった。
「で、実際には?」
「別に諦めたら普通に人魚に戻るよ?」
陸に上がってすぐに声が出ないのは肺と声帯が大気に適応してないからだし、最初足が痛いのは変化したてでまだ弱いからだ、それをまるで悪魔の呪いの様に言われているのが本人の自業自得であってもカルエゴには腹立たしい。だがシチロウが薬を渡した相手が海に戻ってきたことは無いので訂正する者がいないまま噂だけが独り歩きしている。
「あながち嘘でもないしね、昔は本当に泡になって消えてたんだよ。でもそんなのあんまりでしょう?だから少し作り変えたの。それに良いんじゃないかな、本当にここに来るほど真剣な子たちはそんな噂は信じないよ。ほら、丁度。」
不意にシチロウが身を乗り出して海面の方角に向かって手を伸ばす。そして上からゆっくり沈んできた物体を両手で大事そうに受け止めた。おそらく海の上から降りてきたそれは掌に乗るくらいの小さな小瓶だった。
「わぁ、綺麗。これは…鳥の羽根だね。」
しっかりと封をされたそれの中には重し代わりの石と空を飛ぶ生き物の一部が入れられていた。わずかな光の中でも蒼く艶やかにきらめくそれは確かに美しい。シチロウはそれにキープの魔法をかけると似たような入れ物の並んだ棚に丁寧に並べた。
「人になった子はこうして僕にお礼をしてくれるんだよ。僕がそうしてって言ったわけじゃないんだけど、大抵なにか陸のものをここに向かって沈めてくれるんだ。みんな優しいいい子たちだよね。だから僕は彼らの幸せのお手伝いができたことが嬉しいんだ。ふふ、また宝物が増えちゃった。」
おそらくあの小瓶の数が人間になった人魚の数なのだろう。そしてその中にはカルエゴがよく知る者もいたはずだ。
「最近続いたね、君の生徒だった子。にぎやかだったからちょっと寂しいね。」
カルエゴは人魚の学校で教師として勤めている。今日はその学校の卒業生の一人が人間になった、そしてそれをカルエゴは遠くから見届けるために海の上へと行ってきたのだ。
「自分で決めたことを貫いたのだ、どうこう言う資格があるものか。」
真っ直ぐにカルエゴの目がシチロウを捉える。カルエゴは生徒たちに海で生きる術と自分の生き方を自分で選べるための強さを教えてきた。そのうえで選んだのがそれなら何も言うことは無い。決して非難もしないし人間になるのを止めろと言ったこともない。
「そっか、それならいいのだけど。海の上どうだった?僕はそんな上の方には行けないからさ。ねぇカルエゴくん、上での事を少しだけ話して聞かせてよ。」
甘えるように強請られて仕方ないな、と言うとカルエゴはシチロウの脚の一つに腰を掛ける、すると慣れたものでもう一本脚が背中に回り込んで背もたれの様に支えるとカルエゴはゆったりとそれに身を任せる。そしてこの数日海の上で見たものの話を始めた、地上に上がった人魚の事、相手の人間の事、太陽と月と星、変化する空の色、木や花、風の音、そしてあの子供が人間になった瞬間の事。
「良かったねぇ、幸せになってくれるといいな。」
「どうなったところで自分自身だ。長い人魚の生を捨ててまでなぜ上を選ぶのか、俺にはわからないがな。」
人間の寿命は人魚のそれに比べると短く、陸に上がった彼らはまたたく間にいなくなってしまう。目を伏せるカルエゴにシチロウは手を伸ばし髪を撫でる。
「上を、というよりはただ一人を。それにきっとそれ以上のものを。」
そうでなければ戻ってきてしまうはずだ。そういう風に作った。
「…ならばそのうちに俺もあの薬を一つもらっておうか。」
「え…?君人間になりたいの?」
それを聞いた途端、シチロウの胸がひどくざわめいた。カルエゴが海からいなくなったら、どうするのだろう?今までの子たちみたいに笑って送り出せるだろうか。またたく間に年老いて死んでしまうカルエゴを見ることができるだろうか。それはこの深海でこの先一片の光も見出せずに朽ちていくことと変わりないのではないか。
「必要ならば、な。」
「……やだな。」
シチロウの脚がするり、するり、とカルエゴに絡みつく。腕に、腰に、尾の先まで。座っていたはずの腰が浮き上がる。耐えられない、失えない、カルエゴだけは渡せない。離したくない。シチロウの胸に迫るこの思いはずっと秘めていた恋心だ。
「おい、シチロウ。」
失うくらいなら閉じ込めてしまったほうがいい。ギチギチときつく脚がカルエゴを締め上げる。
「シチロウ、痛い。」
「…君には恋が実ったら泡になる薬をあげるよ。」
それで泡になった君を瓶に詰めてそこの棚に飾ってあげる、そうして毎日僕が綺麗に磨いてあげる。
巻き付いた脚をカルエゴがどうにか手でペチペチと叩く。
「馬鹿者。そうではない。勝手に早とちりをするな。」
そう言うと僅かに緩まった拘束からするりと抜け出したカルエゴは締めあげられたのに腹が立ったのかベチン、と尾でシチロウの脚の一本を叩いた。
「いたい。」
「知らん、何を勘違いしている。俺は!そのうちにお前が好奇心に駆られて陸へあがってしまいそうだからもらっておこうと言ったのだ。本当に行きたいと思ったらお前は躊躇しないだろう。そうしたらその薬を飲んでお前の所へ行けばいい。」
カルエゴが手を伸ばしシチロウの顔を隠しているマスクの留め金を外した。
「か、カルエゴくん?」
「そうしたら、お前が俺を人間にしてくれるか?」
「いや、あの、それって…。」
カルエゴはシチロウの顔のぎりぎりのところまで顔を寄せた、あとほんの少し乗り出したら唇が触れあってしまうくらい。今度はシチロウのほうが囚われる、カルエゴの手がシチロウの蛸と人の身体の境目を撫で、脚に尾を巻き付け挑発的に見上げる。
「わかるだろう?」
「う、あ、いいの?僕、こんな深海で、くらい所で、悪魔とか言われて、蛸だし…。」
「関係ない。おいおい、さっきまでの威勢はどうした?シチロウ、俺に渡す薬は本当に恋に破れたら泡になるものでいい。お前が俺をどうするか決めていい、なぁ、シチうわっ!」
シチロウの脚がまたカルエゴに滅茶苦茶に巻き付いた。それに加えて二本の人の腕までカルエゴをぎゅうぎゅうと抱きしめて離さない。
「ちょっと待って!!情報量が多すぎる!!!」
「おい!苦しい!!!!」
そう叫んでも手も脚も今度は全く緩まる気配がない。焦ったように待って待ってと言いながら八本の脚がより複雑に絡みついていく。
「僕、君の事大好きだよ。」
「離せ!」
「君もってこと?」
「潰れる!!!」
「ねぇ、カルエゴくん。」
両方の腕だけを離して今度はさわさわとカルエゴの頭と頬を撫でまわす。それだけで少しばかり楽になったのかカルエゴもそれ以上文句は言わなかった。
「もし僕が陸に上がるなら絶対に君を一緒に連れていく、でもまだ海の中にも見たことがないことがたくさんあるから、当分はいかないよ。海は深くて広くてまだ全然見きれていないんだ。それに僕は君の尾鰭がすごく好き。強くて、しなやかで、光に当たると濃い紫色をしているのがまるで海をぎゅっと固めたみたいで僕が知っている何よりも美しい。君のそれを失うのは惜しいよ、とても。ああ、でもどうかな、人間の君もきっと美しいんだろうな。それも見たいかもしれない。」
シチロウの両手がカルエゴの両頬を優しく包んだ。
「好きなんだ。」
「知ってる。」
「ねぇ、キスしていいかな。」
「聞くな、そんなこと。」
シチロウの唇がカルエゴのそこに一瞬触れる。
「好き。」
「泡にして瓶に詰めるんじゃなかったのか?」
「やだよ。触れないじゃない。」
ほんのりと顔を赤くしてシチロウは今度は額に唇を落とし、シチロウはもう一度カルエゴを確かめるように抱きしめた。胸に愛しさが溢れて温かい、彼らもこんな気持ちをもって陸に上がるなら本望だろう。
「カルエゴくん、好きだよ。」
「ああ。」
「君もちゃんと言ってよ。」
逃げられない距離で見つめられカルエゴは照れ臭いのか視線をそらして小さく呟いた。
「え?なんて???」
「…好きだ。」
「嬉しい!」
喜んでいるシチロウにカルエゴは自然と口元が緩む。
どうしてこの愛しい生き物を置いて海を出るなど考えようか。自分が望むのは太陽と二本の脚ではなく深海の闇とその中にあるこの銀の光。カルエゴは揺蕩うシチロウの髪を一房すくい上げでそっと口付けを落とした。
「だがシチロウ、いい加減脚を解いてくれないか。」
「カルエゴくん、怒らないでほしいんだけど…。」
ポリポリと困ったように頬を搔きながらシチロウはカルエゴの尾鰭が見えないほどに巻き付いた自分の脚を指さした。
「夢中で巻き付いたせいで絡まっちゃったみたい。解くの手伝ってくれる?」
カルエゴの手がまたベチンとシチロウの脚を叩いた。
海底の蛸の悪魔と泡にならない人魚のお話