「戦争映画だけあって火薬の量が多いな。耳がいてーぜ」
街の中心から離れた郊外での撮影だった。ハイウェイで帰路につく車でリックが愚痴る。爆発物を使っていても、スタントではなく役者本人が演じなければいけないシーンもあった。俺もリックもそんな中で撮影をしたせいで車内には火薬の臭いがしていた。
「イヤーマフを借りればいい」
「セットが崩れるからできないんだよ。」
「役者は大変だな」
「なんで他人事なんだよ。お前だってそうだろ?」
「そうだったか?」
「そうだよ。スタッフに言われたろ?なんだ、疲れてるのか?クリフ」
俺の返事にリックが訝しむ。疲れているとは感じない。体力的には何の問題もないスタントだった。
「そんな事はない」
「そうか?なら、いいけどよ……。」
しかし、ラジオの音も、エンジン音も、リックの声もどこか薄い膜の向こうから聞こえてくるようだった。代わりに聞こえるのは爆発音が連れてきた過去の音だ。銃声、爆発、悲鳴の三重奏が狭い頭蓋骨の中で反響していた。
良くない兆候だとわかっていた。
今日も火器を用いた撮影だ。戦場として作られた広めのセットの中で、リックは兵装に身を包んでいる。泥に汚れた迷彩服を纏い、顔まで血糊で飾られたボスの様相は痛々しい。撮影した映像を監督や共演者とともにチェックし、なにやら話し込んでいる。暫くすると真剣な空気が緩むのを感じた。一旦休憩を取るらしい。
少し離れた場所でリックの様子を眺めていると、こちらに気付いたリックが片手をあげた。俺も右手をひらひらとさせて返す。会話していた出演者に一言断ってリックがこちらに向かってくる。近づくにつれて頬が特殊メイクで抉れているのが分かった。
俺の前に立ち、軽い笑みを浮かべるリックが口を開く。
『どうして見捨てた?』
聞こえたのはリックの声ではなかった。
「……おい、クリフ?」
リックが俺の肩を叩いた。はっとして目の前のリックと目を合わせる。リックはきょとんとして、ぱちぱち瞬きを繰り返していた。
「……あ、何だって?」
「だ、だから、俺の演技見てたのか?って。どうだった?」
リックは少し照れ臭そうに言う。俺は少し長めの呼吸をして間を稼いだ。演技、演技の話だ。ボスは俺に演技の話を振ったらしい。
「残念だがまだ来たばっかでな、ついさっき着替え終わったんだ。これから見るところさ」
「あ、そうだったのか」
声色に落胆がありありと浮かんでいて思わず小さく笑う。
「えーと、向こうにさっき俺が休憩の時使ってたチェアがあるから、それ持ってきて見たらどうだ?もっと近くで、ここに立ってないで」
「いいね。特等席で名演を見るよ」
俺は口角を持ち上げた。たぶん、ぎこちなくはなってない。
「そうしろ!……ちゃんと見とけよ。じゃあ、ちょっと俺、戻るから」
「ああ」
そう言って遠ざかる背中を見送る。リックが離れても、俺は少しの間その場所に立ち尽くしていた。
頭の中ではまだ声がしている。
『どうして見捨てた?』
『お前が殺した』
『あんたはイカれてる』
リックの声ではない、無数の男の声が重なって繰り返し聞こえる。
息を吐いて、ズボンの中のレッドアップルを探る。ボス曰く不味くて甘ったるい煙を吸いたかった。
ふと探る手を止める。
衣装に着替えたのだから、入っているはずがない……。そもそも火器があるのにタバコだと?
自分にうんざりした気分になる。視線を上げると遠くに談笑しているリックが見えた。たまに視線が合う。「まだそこに居るのか?」と言いたげだ。俺は首を振って、リックに言われたチェアを探すことにした。
続いて撮影されたのはリックが死ぬシーンだ。また死に役だ、と文句を言い、でも俺の演技でこの作品の評価が変わるだろうな、と挑発的に笑ったリックを思い出す。
戦場で重症を負い動けなくなったリックは主人公の肩を借りて前線を離脱する。主人公にとって戦場で偶然出会っただけの、少し歳上の人物。だが2人の間には既に友情があった。
安全地帯に着いて塹壕に寄りかかる様に降ろされたリックの腹部は赤黒い。生気のない顔は死を予感させる。衛生兵は来ず、主人公はリックの名前を呼ぶ事しかできない。
リックの呼吸は浅い。怯え、絶望、必死さを感じさせる表情。主人公に手を伸ばし何かを伝えようとするが、途切れ途切れの声は意味を成さない。リックの震えた手を取り、主人公は友人に耳を寄せる。必死にリックの遺そうとした言葉を探る。かすかな呼吸音だけがした。
死体となったリックはもう何も喋らなかった。
俺は戦場にいた。銃声と爆発音、雄叫びと悲鳴。敵も味方も最早分からない。
俺は無心で目の前の敵に弾を撃ち込む。背後から羽交締めされて、持っていたアーミーナイフで兵士の喉を裂いた。力が緩んだ身体を蹴り飛ばす。再び発砲。今度は俺が敵の背後からその頭にナイフを突き刺す。殺しの繰り返し。俺にとっては作業に近い。
不意に肩に手が置かれた。
『どうして見捨てた?』
振り向きざまに発砲した。
崩れゆく姿を視界に捉え、俺は目を見開いた。
そこに居たのは兵士ではなくカウボーイだった。
倒れ込んだ男のこめかみに穴が空いている。地面がぐらつく。俺はふらふらと近寄って力なく横たわる身体に覆いかぶさった。俺の作った影の中で、青い瞳は虚空を見つめていた。
「……リック」
掠れた声は戦場の音に飲み込まれた。
リックの家に到着し、停車したキャデラックの車内は妙に重い沈黙があった。主に、俺のせいだ。
この映画の撮影が始まってから良く眠れていない。浅い眠りの中で見る夢は悪夢と呼べる内容だ。自分の神経は太い方だと思っていたが、夢とはいえ何度もリックの死体に対面してしまっては眠りは浅くなる一方だった。
今日も不眠に夢見が悪いことも相まって、スタッフへの愛想が皆無なのは勿論、帰り際にリックが楽しげに話すのにすら「うん」とか「ああ」とか適当な相槌をするだけになっている。リックは俺の異変に気付いているのかいないのか、暫くすると話すのをやめ、ラジオの音量を少しだけ上げた。
だから、エンジンを切った今の車内の居心地の悪さは俺のせいだ。俺が一人でそう感じているのかも知れないが。リックを殺す夢を見るなんて、本人に言えるはずもない。
運転席から降りようとすると、リックが言った。
「きょ、共演者から酒貰ったんだ。この後俺の出演作観ながら、の、のまないか?」
チューニングに失敗したラジオみたいな声だった。リックは「きょ」の部分が裏返ったことを誤魔化すように咳払いして、「お、お前がよければ」と続けた。実際にされた事はないのに、服の後ろをつまんで引き止められてる感覚になる。
「ああ…もちろん」
いつまでもこんな調子ではスタントにも影響しかねない。さっさと帰って少しでも睡眠を取るべきだと分かっていた。だが、この辿々しい誘いをどうして断れる?
「おお!見てろ!俺の活躍シーンだ!」
「さすが、キマってるな」
そう言ってはしゃぐリックはあっという間に出来上がっていた。
今夜のリックはいつにも増してペースが早く、そして俺にももっと飲めと勧めてきた。顔を赤くしながらお前のグラス空いてるぞ!と勝手に酒を注ぎ入れるリックはまさしく酔っぱらいだ。
「なんだ、これもう無くなっちまった。もう一本取ってくる!いや2本?お前もいるよな?」
「そんなに焦らなくても酒は逃げないぜ」
「べっべつに焦ってるわけじゃ……やっぱり3本にしよう!」
シャワー後の素足で酒をバタバタ取りに行くリック。妙に落ち着きが無い様に見えた。俳優でもない俺にはただテンションが高いのか、それとも俺に気を遣ってるのかの見分けはつかない。酒を手にしたリックが戻り、まだ前の分を飲んでる最中の俺の手に缶を押しつけていった。両手に缶を持ち続けてるわけにもいかないから、俺も酒を煽った。
そんな調子でしばらく過ごすと、リックに勧められるまま飲んだ俺も酒が回って、リックが騒ぐ横でぼうっと画面を眺めていた。
不意に、ぼすっ、と隣に誰か座り込む気配がした。テレビと逆方向に首を回すと、そこには一本の酒缶を両手に包んだリックが座っている。室内には2人しか居ないからソファにリックが居るのはいいが、どうして俺の隣に来たんだろう?
そう思ってリックを見つめていると、だんだんとリックの眉間に皺が寄っていった。俺がぼーっとしてるから、テレビへの反応が薄いって文句を言いに来たんだろうか。
「おま、お前、クリフぅ」
「ああ、うん、ちゃんと観てるよ」
「今日は、よく眠れそうか?」
……うん?テレビの話じゃない?
「なんの話だ?」
「だから、お前、良く眠れそうか?」
「……俺が?」
「そうだ。クマがな……ある」
リックが自分の下瞼を指先で擦りながら言う。
「最近ずっとそんなだ」
思わず自分の下瞼を触った。自分で鏡を見た時の顔はいつも通りに見えたが、リックの目にはそうは映ってなかったらしい。
リックの不満そうな顔は、俺を心配してる表情なのかもしれない。
「なんか、悩みあるみたいだけど、言ってくれねえし……」
「……」
リックの言葉に片眉が上がる。やっぱり、普段通りじゃないっていうのはバレていたのか。
「でも、お前が、言いたく無いんならいいんだ』
「……そうなのか?」
「うん……」
リックは頷いてから、少し拗ねた顔になる。
「いや……言って欲しいけど……ほんとは……」
手に持ったビールを見つめながら喋る言葉は舌足らずで、口調が幼くなっている。大分酔ってるようだ。
「とりあえず、お前を……眠くさせようと…思って」
目をしぱしぱさせるリック。ビール缶からこちらに流された視線は少し赤く、潤んでいた。
「たくさん酒飲んだら、ねむくはなるだろ……?」
「……ああ、そうだな」
「だろ?……へへ……だからたくさん飲ませたんだ」
そう笑うリックの瞼はだんだん落ちてきて、ソファにもたれた身体はズルズル傾いていく。リックの方こそ今にも夢の世界に旅立ちそうだった。
「……今日……は………いっぱい……ねろ……」
寝息混じりの声は小さい。やがて、リックの口からは深い呼吸音だけが聞こえるようになった。
「…………」
……完全に寝落ちしてる。
俺は少しの間あっけにとられ、間抜け面を晒していただろう。リックの半開きになった口から涎が垂れそうになっている。俺はそれを見て、ふっ、と力が抜けた。
「……くく」
つい溢れた笑みは自分でも呆れるほど甘かった。リックはその音にも反応せず、赤い顔のまま寝入っている。
ソファの背もたれにぐんにゃりと仰け反って寄りかかる姿も、俺を眠らせるために開けた酒で先に眠ってしまうのも、悩みを無理に聞き出そうとしない、そのいじらしさも……。
首を痛めそうな角度で、少し息苦しそうになっている頭の下に手を入れて起こしてやる。少し迷って、俺の身体に寄りかからせる事にした。
近くなったリックの寝息の音と共に、何かのテーマソングらしきものが聞こえた。すっかり忘れていたテレビの存在を思い出して顔を向けると、画面にはエンドクレジットが流れていた。硬派にキメるリック・ダルトンとその名前が映る。それを見てから、口を開けて眠るリックに視線を戻す。俺がやにさがった顔をしても、怒る人物はすっかり眠ってしまっている。
姿勢のせいで服がズレ、詰まった襟首が窮屈そうだった。リックから遠い方の腕を動かして服を整える。服と首の間に差し入れた指先に触れる肌はあたたかく、指を留めてそっと撫でると、リックの心臓が熱く脈打っているのが分かった。
瞼が少しずつ重くなるのを感じていた。リックがもたらした睡魔は心地よかった。
リックの寝息とテレビの音楽だけが鼓膜に届く。香るのはシャワーを浴びたリックのにおい。俺の体に寄りかかる彼の重みと体温があたたかい。
目を閉じてしまえばそれ以外は何もない、穏やかな空間だった。
リックの呼吸音につられて、俺の呼吸も深くなっていく。
……リックを寝室に運ばなければ。
……そしたら俺は……今日は泊まっていいんだっけ?
……まだ……聞いてなかった……。
……リックは……俺を眠らせたがってた。
……ここで寝ちまっても……。
…………。
テレビの音に、2つの寝息が混ざる。
戦場はもう遠く、火薬の匂いはしなくなっていた。