いい夫婦の日「いい夫婦の日なぁ。」
「‥‥まっちゃん?」
ふと、鼓膜を揺らしたのは、呆然と窓の外を見る友人の声だった。
11月22日。
どこでそんな日だと聞いたのか、友人の、松川智治の表情は晴れない。
よりにもよって、何故それを口にしたのか、黒川は考える。
交番の中で、仕事中、自分と松川しかいない。
そんな空間は、彼にとっては亡き妻を思い出し口にできる数少ない空間だ。それは黒川の心情を顧みない行動ではあるが、それで怒るような浅い仲ではない。
互いに経緯を知り、亡くした重みも、罪悪感も、形は違えど持っている。
だからこそ、口にできるのだ。
「さっき、一課長とあってな。
あそこの奥さんが早く帰ってこいって言うから、
急いで仕事を終わらせたいって愚痴ってた。
理由を聞いたら、『今日は良い夫婦の日だから』って」
「‥‥、なにか、するの?」
恐る恐る聞いてしまった事に少し後悔するが、松川は三年経つ中で大きく成長している。
だからこそ、聞いてもいいラインは徐々に狭く小さくなっていた。
「なにか、、なぁ、、、
いや、特に、なんも。
できる事も限られるしな。
せめて、今日は娘の好物でも作ってやるくらいかな。」
「あーね。確かに、それはいいかもね。」
松川は、何が良いかと思案を始めた。
妻に向けることの出来ない愛情を、今は同じように残された長女に与え、びっくりするくらい松川は1人の男としても、夫としても“出来た人”になったと、黒川は思う。
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「いい夫婦の日だって。」
「そうなの?」
桜川愁は、手早く晩御飯を作るねぇさんと呼んでいる女性に話しかけた。
首を傾げたねぇさんは、わかりやすく取り落としそうになったフライパンをしっかりと掴み直す。
一度、火を止めて、向き直ったかと思えば、愁が座るテーブルに鍋敷きを準備し始める。
「いいの?帰んなくて。」
「帰らないんじゃなくて、帰れない。でしょ?」
「‥‥。」
黙り込んだ愁に、ねぇさんは言葉を続ける。
「私は貴方が殺した人間。
生きていると分かったら、大事になる。
それは死んだ事になってる貴方も同じ。
貴方にとっての本当の“ねぇさん”と、
私にとっての“夫”と“長女”。
そうやって自分の周りにいる人に
無闇に危険が訪れないように
身を隠すしかない。
そう提案したのは、貴方でしょう。」
「うん。」
「でも、嬉しいよ。
そうか、いい夫婦の日か。
なら、もう少し料理を増やしてもいいかな。」
「何を作るの?」
「夫が好きだったもの。」
「‥‥俺も食べて良いの?」
「‥‥うん。夫はね、そんな事で怒ったりしないから。」
愁は頭を掻く。
ねぇさんはひどくできた人だった。
いっそ、清々しい程に、怖いくらいに、
覚悟と愛の深い人間だった。
そして、その中心は、いつ口を開いても夫だった。
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「お父さんおかえりっ!」
「おう、明音。帰り道暗くなったけど、
そろそろライトとかいるか?」
「ぜぇーんぜん暗くないよ!大丈夫!」
「街頭のある所歩いてんだろうな?」
「うん!」
玄関で自分を出迎えた娘を抱き上げて、室内へと進む。
扉にもきちんと鍵を閉めて、リビングまで行けば、『おかえりともじ!』と妻の声がした気がした。
娘を下ろせば、『おとぉうさんわたしもー!』と次女の声がした気がした。
娘が学校の荷物を広げたテーブルへ向かうのを視線でおって、そっと仏壇に手を合わせる。
妻と次女の写真には笑顔の2人が写っている。
「今日は、いい夫婦の日らしい。
お前なら、知ってるかもしれないな。
花束とか、もうそんなキザな事できる歳でもねぇけど、お前なら物より時間が欲しいって言いそうだなって。
だから、今日は好物食べて、明音が笑ってる顔。
しっかり見ててくれ。」
そう言って、くるりと踵を返すと、キッチンに立つ。手を洗い手慣れた様子でエプロンをつけ、そうして冷蔵庫から材料を引っ張り出す。
「私も作りたい!」と長女が声を上げると、「よしっ、んじゃエプロンとってこい」と伝え、子供用のまな板と包丁、そして踏み台を準備する。
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「おいしっ!おかぁーさんおいしいよ!」
「ふふっ、でしょ!お母さんの得意料理だからね!」
「うま。」
3人で食卓を囲む。
ねぇさんと、次女の智音と、愁。
歪な関係性の3人でも、熱々のハンバーグを前にすれば、穏やかな時間が流れていく。
とろりととろけるチーズは、肉汁と混ざって少し濃いめのソースがよく合う。
次々と口に放り込めば、智音と愁の皿はすぐに空になった。
同じようにねぇさんも頬張る。
『俺のお手製。これが一番得意なんだ。』そう言っていた夫の笑顔が浮かぶようで、ふと、涙腺が緩くなる。
しかし、きっとそれを我慢して少し赤くなった顔を少しだけ立ち込める湯気に隠す。
「お片付けは手伝ってくれる?」
「智音やるよぉ!」
「愁くんはしなぁーい!」
「はいはい。」
そう言って、食べ終われば残る口に残る美味しさだけを噛み締めた。
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夜風が沁みるベランダ。
タバコを吹かせながら、松川は空を見た。
ズキズキと心臓が痛む。それは持病のようなもので、名がついた疾病としては心身症の類だと言う。
それもそうだろう。
妻と次女が目の前で絶命したあの瞬間から、松川の心は壊れたままだ。
前に進んでも、それが治るわけではない。
精神的な疾患は寛解することはあれど完治することは無い。
ずるずると壁に伝って座り込めば、タバコの煙が周囲に立ち込める。
咽せそうな空間で、ただぼたぼたと流れ落ちる涙を、彼は自分で止められない。
自責も後悔も、そして恨みも、
今はもうどこに向けたら良いか分からない。
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「いい夫婦の日かぁ。」
ふと、建物のベランダに出て、ねぇさんは呟く。
思い出すのは、夫との楽しい日々ばかり。
どんなに帰宅が遅れても、約束を違えても、喧嘩しても、絶対に謝ってくるのは彼からで、不器用に許してもらえるように言葉を選ぶ姿が子供みたいで、いつも許してしまう。
警察官として、夫として、いつだって自分を守ってくれた。
そんな夫を失いたくない。
そんな夫との間に出来た子供たちを守り抜きたい。
だからこそ、今ここにいる選択をしたのは、
ねぇさん自身だ。
「ねぇ、智治。きっと智治なら、
どんな絶望の中にいたって、
誰かを諦めないでしょう?
自分のことは簡単に諦めちゃう癖に。
だから、酷な事してるって分かってるの。
私達のこと、きっと智治はずっと諦められない。
諦められる訳がない。
それでも、生きている時間があれば
きっといつか
貴方に、謝れる日が来ると思うから。」
しっかりと両手を握って月に向かって願う。
どうか、今日も彼が生きていますようにと。
ただそれだけが、ねぇさんの、
松川智治の妻のできる事だった。