宵闇に消えるは、 いつの日か。「ネタが、、ないよ、、」
そう言って畳に大の字になったのは担当作家の一人。桜川祈だ。
ぐるぐると腹を鳴らし、よくわからない呻き声と共に腕を伸ばす。彼女は一般的な女性と比較するとか弱い見た目であり、髪は前髪だけが妙に長い。
その髪のせいで瞳は隠れてしまっているが、頬へと流れていく黒いそれの隙間からは薄紫の光がやんわりと見え、それを嫌がるように頭を掻くと彼女は起き上がった。
服装はYシャツにカーディガン。
ついでのように引っ張りだした服は膝に掛けるだけで防寒としてはほぼ意味を成していないが、この部屋にはこたつ以外の暖房器具もなく、彼女の作業机になっているそれも今は鳴りを顰めている。
狭い部屋の中、紙ばかりでただ散らかっただけの空間は客観的に見ていた担当編集者である大崎から見ても悲惨な物だった。
大崎も身を擦って暖かさを求める。
刈り上げた首筋から後ろ頭に掛けては特にだが、そうでなくても季節は冬、12月の真っ只中という環境で、よくも薄着で居れる物だと桜川の身を不思議に思う。
掛けていた丸メガネは若干曇り、このままでは凍死してしまうのではと、大崎は改めて桜川の布団を引っ張り出した。
引っ張り出したと言っても、それはずっと紙の下に放置され散らかった部屋の一部に化していたもので、
それを引っ張って桜川に掛けると、空間を作った布団の上へ移動するよう声を掛ける。
流石に身の危険を感じたのか桜川はおずおずと移動していくが、よく見ればズボンも生地の薄い夏物で靴下さえも履いていない。
尚更、大崎は目を疑い、その身を心配せざる終えなくなっていた。
桜川の様子を見つつ、散らかった紙を集めるが、思いの他重なっているそれらをいくら拾っても畳は顔を出してくれない。
仕方ないと軽く踏み場だけは確保して、台所へ向かうとそこに料理をした形跡などはなく必要最低限の料理器具が埃を被っていた。
かろうじて水道は凍ってないようで、蛇口を捻れば綺麗な水が出てくる。
ざぁざぁと、ステンレスの跳ね返す水の音に、勿体無さを感じて気は焦るが、
それを鍋に入れて火にかけてと、大崎はとにかく少しでも暖かいものをと準備をする。
手に跳ねた水の感覚がどこか遠い。
今度は火にかけた鍋を気にしつつ、畳部屋へと戻れば、桜川は完全に布団に潜ってしまっていた。
頭だけがそこから出ていて大崎を見ると申し訳なさそうにする。
瞳も眉も見えないせいでそれは感覚的な察しでしかないが、大崎は「気にするな。」と続けると、パソコンの乗ったコタツの天板をそのまま落とさない様にと動かした。
元来であればテーブルに固定されているはずの天板だが、桜川が一度こたつとして使用した後は毛布を挟むか挟まないかは気分であり、天板を固定するネジは何処かへ行ってしまったらしい。
大崎はこたつ布団らしいものを探す。
見渡してもそれらしいものは無いが、気付けば鍋がコトコトと音を立てていて、その湯気に急いで台所へと向かう。
火を止めるとすぐにぷくぷくと鍋の中は落ち着きを見せていくが、湯気は変わらず、大崎のメガネを曇らせていく。
「桜川先生。こたつ布団は?」
「‥‥捨てたんだ。」
「?‥‥買ってないとかじゃなくて?」
「うん。」
どこか声が低い。
これは本当に桜川の声だろうか、大崎は疑問はそのままにして布団に潜り込んでいる彼女を確認する。
彼女はケロッとした表情でそこにいるが、変な違和感がついて回る。
確かに彼女は小柄でか弱いが、こんなに小さかったろうか。
いや、もっと根本的な違和感がないか。
人の顔と体の比率はこんなものだったろうか。
そもそも布団はこんなにも空間の余るものだったろうか。
何故、こたつ用の布団はないのか。
強い痛みと共に、大崎の意識は飛んだ。
「おい!!こんなところで寝るなっ!」
思い切りの良い音がする。
それは頭を叩いた音で、ぐわんと頭の中を痛みと一緒に音が駆け抜ける。
大崎はハッとして痛みのある箇所に触れながら顔を上げた。
見上げればそこには編集部の同期である名鹿助と、平素と変わらない編集部社内の様子が広がっていた。
一つ指摘するならば、窓の外はどんよりとしていて暗い。時計を見やればその短針はすでに12の数字を超えている。
「な、あ?ん?」
「ん?じゃねぇんだよ、仕事して寝落ちすんなっ!
寝るならソファに行けっ!
っていうか帰れっ!!」
怒鳴りつける名鹿の声がやけに頭に響く。
多少乱暴なのも、二度寝を防ぐためだろうと思うと優しいものだが、ただ彼の粗暴が荒いだけとも言える。
うぐうぐと疲れた様子を見せながらも、大崎はぐっと伸びをした。
手元の机は、使い慣れたパソコンと諸所の書類で溢れている。
その全てに現実味を感じないのは、書類がごっそりと変わったからだろう。
「お前さ、いくら何でもじゃないか?」
「?‥なにがだ?」
「桜川せんせの事だよ。次の新作、短編集にするんだろ?」
「あぁ、その話か。珍しく詰まっていたから息抜きに短編を勧めたら熱が入ったらしくてな。」
「作家の調子を見るのは大事だけどな、お前あのセンセを甘やかしすぎだろ。」
「そうでもない。」
そう言いつつも、確かに多少無理もあった。
だが、別に新作を完全にやめたというわけではなく、それと並列して短編集の制作に取り掛かることになったというだけで、後者には期限もない。
本当に息抜きのものを、作品としてまとめるという、作家としても編集者としても仕事の擬似練習をしよう程度の感覚だ。
逆に言えば、そんな事を出来る作家は他にはいないだろう。
名鹿は納得していない様子だったが、薄いブラウンの髪をガシガシと掻くと、「無理だけはすんじゃねぇぞ。」と念を押す。
大事な言葉だなぁと、なぜか他人事なように思いながら頷いた大崎は、再度手元の書類を見て目を細めた。
それは、早速と書き出された文字の羅列。
桜川の癖のある文章は、一人称のまとまりに欠けるのが最早味だという人もいる。
視点がコロコロと変わる読みにくさについていけるか否か、それが重要なのだと、大崎はため息をついた。
それは、作家としては致命傷なのだがと思いつつも、それを超えて評価されるのがネタの良さだった。
そうであってくれないと困る。実際に色々回って見に触れ目で見たものを彼女は文章にしているのだから。
大崎はすでに日を越えようというのに、その文書に目を通す。
休む気はないのか、と名鹿にはどやされたが、単純に読みたくなったと伝えれば、数回目のため息とともに名鹿は席を立った。
大崎の視線が辿るのは、それぞれの主人公達が経験した奇怪な物語だった。
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1.雨宿りに好かれる
雨が降っている。
背中に背負っているギターは今日に限って布製のギターバックだ。
濡らすわけにもいかず、一人の女性はシャッターの閉じた店先で閉じられず残された雨除けテントの中にいた。
女性の携帯が鳴る。見ればそこにはバンド仲間からの連絡があり、それぞれにどうやら雨で足止めを喰らっているらしい。今日の練習は難しいかもしれないと、遠く雨空を眺めるしかなかった。
「かくいう私も、人のこと言えないなぁ。」
そう呟く声はよく通る。
それもそうだろう、彼女はとあるバンドでギターボーカルを務めている。その声色に惹かれる人は多く、それなりにそれで食べていける彼女は、一部の人からすれば憧れの人物でも在る。
もちろん本人にそんな気はなく、彼女は少し濡れてしまった髪を一度解くと結び直した。
「もしかして、雅楽川さんですか?」
「!っ、、、なに?」
突然横から声がする。
ポニーテールを結び直すために腕を上げていて視界は随分と限られていたが、それでも、声色だけで嬉しそうであることが感じ取れて、雅楽川と呼ばれた彼女はびくりと肩を揺らした。
違いなく、彼女は雅楽川だった。
だからこそ尚更、雅楽川は少し身構えた。
しかし、そんな事はお構いなしに、相手は楽しげに言葉を続けていく。
「やっぱりそうですよね!
私ファンなんです!いつも応援してます!」
「そう、ありがとう。」
「わぁ!しゃべっちゃった!どうしよつ!
あのあの、今度のライブ行くんです!
今日は練習ですか?」
「まぁ、うん。」
「やっぱりそうなんだ!嬉しいなぁ!」
推しに会って気持ちが昂るのは、雅楽川もよくわかる。しかし、まだポニーテールを結び直している最中で相手の顔を見る事もできず、雅楽川は何も今話しかけなくてもと内心げんなりとしていた。
元より人見知りな彼女にとって程の良い返しをする事もできず、なんだか申し訳なさを感じる。だが、そんな事は気にした様子もなく、相手は話を続けていった。
「ここだとギター塗れませんか?大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。」
「よかった!僕の家近くなんです!
よかったら、雨宿りしていきませんか?」
「それは嫌。」
ふと違和感が雨風のように抜ける。
もちろん家に呼ばれた事もそうだが、相手は僕と言ったか?私と言ったか?なんだかまとまりがない。
一人ではないかとも思ったが、気配だけ辿れば確かに一人だ。
何に焦ったか、ゴム紐が滑る。髪から指先に滑る水滴が、冷たさを助長させては流れていく。
「そうですか?残念だなぁ。
でもそうですよね。突然聞かれてほいそれと一緒に行くのは危ないですよね。」
「‥‥‥。」
「どうしたんだい?動きが止まっているよ?
髪、上手く結べないのかい?」
「ッ‥‥‥。」
「出雲さんはそぅめいだね。雨通りにはきっと好かれているんだよ。」
違和感が途端大きく膨れ上がり、心臓の音が響く。
冷たさは、指先だけだったか。隣から感じる冷気は雨のせいか。
隣を見る事ができず、髪を結ぶ体勢のままじっと鼓膜を揺らす声に意識を傾けていく。
ふと、汗が頬を伝って顎から滴った。
視界に入ったのは、それが地面に落ち切る前に、掬い取る“ナニカ”だった。
黒いモヤだと言えばそう。
白い手のひらだと言えばそう。
青い紐だと言えばそう。
黄色い舌だと言えばそう。
ただ、危険だと判断するには十分だった。
ギターのことを気にかける事も出来ず、雅楽川は走り出していた。
バチャバチャと足元の水は跳ね返りズボンが濡れていく。降り注ぐ雨はなぜかその時だけ一層強くなったように思う。まるで行く手を阻むように。
正解はわからない。
一番近くに居たであろうバンドメンバーの元まで、彼女が足を止めることはない。
息が切れ、開いた口に入ってくる雨の味ばかりが不快感を増やしていく。
水浸しなのは身体中だ。しかし、足が限界を迎えてガクッと水たまりに崩れ落ちた時、彼女はやっと気づいた。
自分の髪がバサリと顔の横に落ちてくる。
髪紐がない。確かに結び損ねてはいたが、それでも髪に引っかかってはいたはずなのに。と、そっと視界を確保しようと髪に触れる。
顔を上げれば、驚いた顔をしたバンドメンバーが傘を片手に走ってきてくれているのが目に入る。
安心して膝を起こして立ち上がれば、雨音に混じって水溜りは言った。
今日は、髪紐で我慢する。と。
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2.桜田門
ふと、名前を呼ばれた気がした。
振り返るがそこに人の姿はない。
藤川君頼は、刑事という職業柄背後からの視線には多少過敏である自覚があった。
故に、その程度であれば平素は気にしないのだが、時間にして丑三つ時。警視庁内はまだまだ人の行き来があり、事案は絶えず溢れている。
もし、誰かが自分を呼んだのならば、もしかしたらと、振り返ったのだ。
しかし、そこに人は居ない。
自分が歩いてきた道が同じ様に続いていて、勘違いかと、彼はまた足を振り出した。
また、声がした。
また、振り返る。
また、誰も居ない。
彼は頭を掻いた。目の下にこさえた隈は飾りではなく、初めてでは無いこの現象は、疲労からか、果たして偶然か、幽霊かなどと思案する。
立ち止まった脚を、明日の書類のために動かしたいと振り出せば、やはり自分の背中に向かって声が投げかけられる。
今度は立ち止まることはせず、足を繰り返し前に出す。
一歩出せば、一回。
一歩出せば、一回。
一歩出せば、一回。
飽き飽きするほど繰り返しても、それは背中に向かって変わらず投げかけられる。
10歩ほど歩いてから、もう一度振り返る。
やはり、そこには誰も居ない。
「はぁ。」
ため息は、まだ終わっていない仕事と現状を天秤に掛けて出た副産品。
気にしないという選択をしてまた歩き出すと、その時は声はしなかった。
代わりに、足音がついてくる。
もう、気にしないと決めたのだからと、藤川は自分のデスクがある部屋へと向かう。
部下は全員帰宅させ、今は自分だけがひっそりとチーフとしての仕事を済ませているだけの空間は、とても寂しい。
着いてこられた所で面白いものなどないのになぁと、藤川は部屋の前まで来て足を止めた。
それはほんの気まぐれだった。
「‥‥君も、先に帰りな。」
そう口にすると、背中で聞いていた足音は、少し余分に足踏みをした。
そうして、数分だけ沈黙が続く。
藤川は本当に少しだけ疑問に思ったが、すぐに理解した。
「お疲れ様。」
返事はない。
しかし、足音は徐々に藤川から離れていった。
ただしく来た道を帰るようにして。
今だけは、振り返えらずドアを開いた。
自分の仕事場は、変わらず一人分のデスクの光で寂しくしている。
それでいいのだ。
桜田門は建ってから43年。
繰り返し、色々な刑事がこの空間を闊歩し、そして殉職した。
この部屋を、過去使っていた人の中に、何人仕事中に命を落とした人がいるのか。数知れない。
もちろん、その大半は望み半ばであったろう。
「あぁ、うん。
良いんだよ。もう、仕事しなくて。」
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3.呪い髪
芸能の仕事をしていると、時々やはり人の念とは強い物なんだなと感じる事がある。
別に幽霊を信じてるわけじゃないし、なにか巻き込まれたのかと言われると、そう言うわけでもない。
撮影前に清めたり、お祓いをしたり、とにかく割とよくある話なのだ。
愛川佳夕。まだ芸能の仕事を始めて長くない彼女でさえもそう思うのだから、目の前に立つ古参とも言える番組ディレクターからすれば、もっと身近に思う話なのだろう。
「何度言ったら分かるんだ?
君は本当に頭の無いやつだな。」
それはただの暴言だった。
だが、愛川は口を縛ったようにして黙り込んで下を向く。
元来の彼女の性格を知る人ならば、この光景は肝を冷やす物だったろうが、それでも愛川は肯定も否定もせず、ただじっと下を見ていた。
「お前の代わりなんていくらでもいるの!
わかぁる?ねぇ?聞いてるのかぁ?」
ディレクターは顔を覗き込む。
愛川は視線を一点に集中して外さない。
反論もなく反抗的な態度ではあるが睨んだりしているわけでも無い。その様子に過剰なほど大きなため息を溢して、ディレクターは「次同じことしたらこのスタジオから出てってもらうからな!」と怒鳴りつけて踵を返した。
やっと愛川はその背中を睨みつける。
しかし口を開くことはせず、溜まったイラつきをゆっくりと吐き出した息に乗せると、グッと背筋を伸ばした。
「だ、大丈夫?ごめんね、助けられなくて、、」
「ふぇ?あっ、うんん!いや、いえ!
大丈夫です!」
人を寄せ付けないように気を張っていたのに、ずかずかと足を振り出し愛川に話掛けたのは同じ撮影をしていた女優の1人だった。
愛川よりもずっと経験が深く、なんならこの場において最も丁重に扱われているはずの人物。
もちろん、その様相はとても美しく長い茶髪の髪が綺麗に整えられ、その手はそっと愛川の手を取った。
「うんん、何が原因だったのかもなんとなく聞いたよ。
愛川ちゃんは悪く無いから、辛かったら言ってね。」
「いえ!本当に大丈夫なんです!
こーゆーの言われるのは慣れてますし、
何よりアタシは言い返さなかったから!
えらいでしょ!」
女優は目を丸くした。
まだ高校生である愛川は、どんなに歳上から圧を掛けられようが、どんなに理不尽な言葉を投げかけられようが、全く折れはしない。
それは、逆に取れば反省もしないという代償の元成り立っているが、今、この瞬間においては、愛川の強さとして有り有りと証明され、女優はそれを目の当たりにした。
「ふふ、愛川ちゃんは強いね!
そうだ、よかったら撮影の後にお話ししない?
局のラウンジで、少しでいいから。」
「えっ!いいんですか!」
愛川は二つ返事に了承を返す。
もちろん、側から見れば愛川に断る権利すらないほど2人の間には歴という差があるのだが、当の本人達はそんな事気にしてはいない。
撮影は残りわずか。愛川は自分の立ち回りを見極めながらそれを終えた。
マネージャーにも伝えてラウンジへと飛び出す。そこには「用事があって先に行っていると思うから」と伝えられた通り、あの女優の姿がある。
「遅くなりました!」と返事をすると、女優はにっこりと笑った。
そこからは向かい合って座って談笑が続く、最初こそ緊張していた愛川はすぐに敬語もぐずぐずになってしまって、それすら許してもらってと、女優に甘えながら話題を続けていく。
もちろん、愛川とは違って次の撮影がある女優の事も考慮して時間もきちんと決め、2人は愚痴も嫌悪もない楽しい時間を過ごした。
時間が近づいた頃、愛川は“本当は次の主演の話とか、聞いた方が良かったのかな。”と思案した。
あまり仕事に踏み込んだ話をする気にならず、普段の生活の事を聞いたり伝えたりに集中していた話題を思って口籠もると、女優は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
その声は柔らかく、まるで友達と話をしているようにさえ見える。
愛川は少しだけ畏まって、女優の瞳をしっかりと見た。
「えっと、あの、私ばっかり話しちゃったし、その、
次の主演の事もきっとあるだろうって思って、なのに、私全然お役に立つようなお話出来なくて。」
たじろぐ愛川に女優はやはりか目を丸くした。
その後すぐ、女優の瞳はスッと色を無くしたが、愛川が謝罪をするより先に元の表情へと戻る。
一瞬のことに困惑する愛川に女優は自分の鞄から一枚の紙を取り出して渡してきた。
「これ、呪い紙って言ってね。
嫌な相手の名前を書いたら呪えるの。
あげるよ。」
「えっ?」
突然の話題の変換と差し出されたものに、愛川は紙と女優の顔を交互に見る。
断れば、この先の女優業に関わるかも知れない。だが、こんな物受け取りたくない。
それが愛川の答えであり、しばし考えて愛川は真剣な表情で女優の顔を見た。
「私!要らないです!
もし、それが本当なら!
いらないです!」
「なんで?さっきのディレクターの名前でもいいんだよ?
さっきからずっと世間話ばっかりで、愛川ちゃんからは人の悪口が出てこないじゃない。
そんなんじゃいつか辛くなっちゃうわよ?」
愛川はキッと、初めて女優を睨みつけた。
感情の変化がはっきりと表情に出た愛川に、今度は女優がたじろぐ。女優の瞳は本当に心から愛川を心配していた様だが、その割には黒く澱んでいた。
「アタシ!人のこと悪くいう自分って
可愛くないから嫌なんです!」
とても、はっきりとした、愛川らしい答えだった。
ディレクターなど、彼女の人生では小石であり、輝かしいスポットライトを浴びる自分にとっては取るにたらない。
そう言っているのが、女優にも伝わる。
睨みつける瞳は、可愛くない自分を嫌う故。
「あぁ、そう、そっか。
うんうん、そういう事ならこれは要らないね。
ふふっ、ありがとう!
なんだか愛川ちゃんと話すと童心に帰れて楽しいや。
また、話そうね!」
女優はそう言うとすくっと立って、それからそっと愛川の頭を撫でた。
愛川は素直に頭を手のひらに擦り付けると、「私もまだ話したいです!ありがとうございます!」と返事をする。
踵を返した女優の後ろ姿が見えなくなるまで、じっと愛川の瞳は離れない。
しかし、どっと噴き出た汗は本物だった。
後日、聞いた話だ。
あの番組ディレクターは、撮影セットの間に挟まって死んだらしい。
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4.夜分に失礼
人の体と言うものは、
なんでこんなにも苦労が多いのか。
と、思ったことはないか。
宇治川楽都は、机上に広げた本の山を見てため息をついた。
事例報告とは、医療関係者においては避けては通れぬ道だ。
自分が担当したことのある“事例”について各種団体に報告するためのものであり、自身の階級を上げるために必要であったり、はたまた同じ病気の人の治療に役立てるために必要であったりと、多方面において必要不可欠な仕事の一つ。
もちろん、先生や教諭を持たず自分で調べ、根拠を持ち述べるという経験を積むための、一つの自己学習の場にもなる。
表面的にはプラス面が多く大事なことではあるが、日々の業務の多さとその責務の重さにプラスされると、単純に時間と体力の限界があり宇治川はまさにその葛藤に苛まれていた。
「うぅ、うぅ、誰かぁ。」
「またやってるのか?」
「うん、でも、この事例はやっぱり報告するべきだと思うんだぁ。」
「今回はどんな事例?」
「脊椎損傷の院内介護における云々。」
「うんぬんっておまえ。」
「だってぇ。」
ぐずぐずと机に伏せる。
野次やら助言やら色々と飛び交う中で、「ひとまず寝たら?」と言う言葉が徐々に増えていく。
「頭も回ってないだろう。」と暖かいココアが机上に置かれ、その湯気に自然と視線が向く。
ずっと寝ていないとかそう言うわけではないが、この事例の為に結構な時間を割いているのも事実で、つい考え込んでしまう性格が合いなって疲れが抜けきらない。
それを分かってこうして甘やかしてくれるからと、宇治川は頷いて体を起こした。
お礼を言ってココアを飲めば、甘さが口の中に広がっていく。
左右に揺れながらも、自分の服を揃えて風呂場へと向かう。お湯を先に溜めながら、ポツリポツリと独白を連ねる。
「今回の事例はね、僕の担当患者さんの言葉がきっかけだったんだけど、
長く入院されている人でね。
「どうか活かしてほしい」って真剣に話をしてくれたから、
絶対人の目につく形に収めたいんだ。」
「その気持ちだけで、充分だよ。」
「うーん、でも、それでも、
やるって決めたからには、頑張りたいんだ。」
「無理がないようにな。」
「うん、今日はちゃんと休んで寝るよ。」
「それがいいよ。」
「寝落ちないようにしなきゃ。」
「シャレになんねぇなぁ。」
「気をつけるね。」
「そうしておくれ。」
「ねぇ。」
「なぁに?」
「君は誰?」
途端、声は止んだ。