2024回目の言葉年を越す。
国々、時には年代によって、さまざまなな意味を持つその時間は、今に至るまで、たくさんの人の中で特別視されてきた。
もちろん、多くの喧騒の中で日々を淘汰される桜川にとってもそれは存在したが、悲しいかなとても残酷な時間になっていた。
元より、桜川にとって時間の経過ほど恐ろしいものはない。
老若男女が恐れ慄く小説を書いたとしても、桜川自身にとって最も怖いのはその小説の締切なのだ。
年越しとは、まさにそれを実感するものであり、来年こそはと言うよりも明日こそはと言う思いで蕎麦を啜る。
締切に向けて、間違いなく担当編集者は「年を越したのだから」と口にするだろう。一つ一つの締め切りを丁寧に確認しては、それまでの日数をカウントダウンする。そうしてじわりじわりと日がない事を伝えてくるのだ。
ずるずると吸う蕎麦も味がしないようだ。
悶々と視線を机に向ければ、原稿とPCと本の山が今にも倒れそうな絶妙なバランスで積んである。
人生のようだ!と笑い飛ばしたら、そのバランスは簡単に崩れた。あーっと、呆然に畳の上に広がったそれを見て、手に持ったままにしていた蕎麦をまた啜る。
どうせすぐに積み上がるのだからと別に片付けをする気はない。過去にそうやってお茶やらご飯やらを巻き込んだ経験から、作業机で飯を食べない事を徹底して良かったと苦笑して、ふぅーと息を吐く。
天井は冷たい。電気照明は日本家屋によくあるぶら下げ式のもので円になったそれはしっかりと光っているが、熱を持っているわけではない。
暖房器具といえばストーブくらいで、桜川は灯油の切れたそれを見て唸りながら、蕎麦をまた啜る。もう、ほとんど残っていなかった。
「さて、そろそろやるかぁ。」
そう言って畳へ直に置いていたおぼんの上に、皿や箸をまとめ、しっかり両手で持って立ち上がる。
井草の擦れる音を聞きながら、寒さに震える肩を我慢して台所に向かえば、すりガラスが我を超えていけと鎮座している。
もちろん、両手が塞がっていても足は空いているのだから、すりガラスなど敵ではない。ガラスの嵌め込まれたフレーム部分に足先を引っ掛けて、そのフレームを押すようにしてやれば、台所は二畳ほどの狭い板張りの空間とともに現れる。
いつぞやから浸け置きされたままの食器と、料理の汚れをそのままにした狭いシンクが、ここぞとばかりに桜川のやる気を削いでいくが、とはいえ年を越したのだからとどうにか踏みとどまる。
明日でいいなどと何度繰り返した事か、ついぞ来年にまで持ち越したのだからもういいだろう。そう思ってしっかりと向き合う事を決めると、割と手際良く去年の汚れは落ちていった。特別な事などない。ただの皿洗いなのだから。
蛇口から飛び出した水は、地下やら空気やらの温度の低さに引っ張られ、キンッと指先を攻撃してくる。どうにか温度を高く持ってほしいと思うが、温度が上がるよりも水道代が気になって、洗い物を着々と済ましてしまう。
やっと暖かい温度が出るようになった頃には、もうあとは台拭きでそこらを拭く程度のことしかしていなかったが、ついでにと少し手を温め洗って仕舞いにする。
「あとはどうしようか。」
そうやって綺麗になったシンクと食器を眺めて、振り返る。
来た道を辿るとまではいかないが、開いたままのすりガラスのスライドドアの向こう側は、作業机と散らばった紙が大半の空間を陣取る八畳ほどの和室がある。
さっき雪崩れた人生が、嘲笑うかのように変わらずそこにみえる。
元来なら散らかっているのも気にならないし、そう言った本やら紙やらの感触や匂いが好きだ。さほど困る光景ではない。
しかし、一般的にいえばまさに“汚い”に限るだろう。
「新年あけたのにねぇ。」
と、壁にかけた時計を見れば、短針は12時を、長針は30分を指していた。
せっかくならば部屋も片付けてしまおうと、入ってしまったスイッチを切らずに腕を捲る。しっかりと肘より上でずれないように留めれば、夜中の大掃除はテキパキと進んでいった。
本棚をそろそろ新調するべきかと思案しながら、もう所狭しと物が入って何が何だかわからない棚へ本を押し込む。
原稿用紙やメモは、ひとまず全部一つにまとめて、後でしっかり選別できるように1箇所にまとめた。
使い勝手の悪くなった灯油ストーブを隅に追いやり、少しばかり狭すぎるローテーブルを部屋の中央に陣取らせる。
どこに何が飛んで行っているのかわからない布団一式は、一枚一枚畳んで重ねて押し入れへ。
そうすれば、いっそ物がなさすぎるほどの8畳の部屋が出来上がり、今度はその中央で机の上にPCを置き、いくつかのファイルを重ねておくと、集めた原稿用紙を分け入れて、メモを必要な書類に貼り付けて仕舞う。
黙りこくった桜川の手が止まり、再度時計を見やれば、10分ほどが経過していた。
「案外やろうと思えばできるんだよね。」
そう言いながら、今度はまた立ち上がる。
大きく伸びをして、ぐっと上半身を倒せば床に手をつくようにして前傾する。
両足の間あたりで指先が畳に触れて、膝裏が伸びている感覚がする。足の裏から脹脛を通って腰辺りまで、筋肉か筋かが繋がる感覚があって、それが総じて引き延ばされている。
気が済むまで何度でも深呼吸をして足を伸ばし、前屈を繰り返せば、体が少し温まり自然と次にすることに思考はシフトしていく。
あとは何があったろうか。
去年は何をし損ねたろうか。
そう思ううちに自然と体はストレッチから机の前へと移動して、座り込んでPCをつけると傍に置いたスケジュール帳を開いた。
そこで、やっとインターホンが鳴る。
思うより遅かったのだなぁと、下ろしたばかりの腰を上げて玄関へと向かうと、ビニールの袋を片手に、なにやら色々と詰め込んであるらしいリュックを背負った担当編集者の姿がある。
「やぁ。」
「あぁ。新年あけましておめでとう。」
「うん、あけおめ。今年もよろしくね。」
「今年もよろしくお願いします。桜川先生。」
「ふふっ、まぁ入っておくれ。
去年の仕事は去年のうちにと思って、てっぺんすぎるギリギリまで粘ってみたから、まだ推敲が済んでないけれど。」
「昨年よりは急ぎの案件はなかったはずだが。」
「三が日は休みたいだろう?」
「‥‥もう少しお前のスケジューリングには余裕が必要か。」
「今のままでいいさ!我が、勝手にやりたいだけだから!」
そう言って立ち話もそこそこに編集者、大崎直紀は桜川祈の部屋に足を踏み入れる。
ゆっくりと特に困惑した様子もなく、しかし、丁寧に靴を整えてから持っていたビニール袋は桜川に渡した。
少し重いそれには、何やら豪勢な食事が詰まっている。ほとんどがスーパーで買った出来合の惣菜だが、いくつか使い古したタッパーがある。
首を傾げていれば、大崎は桜川と一緒にビニール袋を覗き込んで中を指さす。
「これは編集長から、こっちは名鹿。こっちは新人の二人から。あと、朱癒堂先輩から。
去年悲惨な年越しだったからだろうな。三が日はそれぞれに来れそうなら来るって言ってたぞ。」
「ありゃ〜、随分気を使わせちゃったねぇ。」
「まっ、当たり前だな。」
「それで、直紀は?」
「俺はお前の部屋の片付けと、休息のかくに、、、」
そう言いつつ、大崎が八畳の畳部屋へと足を踏み入れる。
そこにはある程度整えられた空間があり、多少乱雑に見えても、平素を思うと充分な空間が広がっていた。
なるほどと、一人の作家の人間的な成長に感動しながら、自分の気遣いが必要なかったかと少し安心して息を吐く。
振り返れば、シンクや食器も片付いていて、桜川が空いた空間でビニール袋から一つ一つ品物を出しているのが見える。
タッパーは蓋を開けて中を確認して、冷蔵庫へ入れたり、そのまま端に整えておいたり、そのほとんどがおせち料理だったこともあってか、テキパキと三段をすると、桜川は驚くほど笑顔で笑って見せた。
「おせちなんて何年振りだろう!
ありがとう、直紀!」
「あぁ、、今度編集社の皆にも礼を言いに来い。」
「そうさせてもらうよ〜」
桜川は一つだけ、小さめのサイズで硬めに作ってある栗きんとんをひょいと口へと放り込むと、お茶沸かし始める。
しかし、その後ろから顔を出した大崎は、「あとはやる。」と告げると、当たり前のように食器棚の端からお茶パックを取り出した。
「我らは随分と不可思議に見えるかなぁ。」
「ん?」
「異性同士だと言うのに、お互いそう言った感情は持ち合わせていない。
でも、我としては誰よりも信頼に足る人物だと思っているよ。」
「‥‥‥そうだな。いわば腐れ縁だ。」
「うんうん、でも、なんだろうね。それだけではない。運命というのは、すごく難しい。」
「俺も、お前も、弟を守れなかった。
だが、死んだわけじゃないし、この後悔は互いの中に燻っているだけだ。」
「そうだね‥‥。弟に、彼らに。会うことが怖いんだ。」
「あぁ、その気持ちはわかる。もう2度と、会えない。会わない方がいい。」
「それでもね。」
「心配しないわけでもなければ。」
「会いたくないわけでもない。」
二人して、まるで互いの言葉を借り合うようにして静かな空間に言葉が落ちる。
どちらとも拾うでなく、ただ茫然とした空間に広がった空気感は、なぜか先ほどよりも綺麗に感じる。
「我は、たくさんの後悔をしてるし、
それが我なんだなぁとも思う。」
「だが、相手が同じように後悔を抱いていてるのかは別の問題だ。」
「そう、それは我らには判別できない。」
「本当は気にしないことが生きやすいんだろう。だが、悪いが“気にしない”というハードルの高さは」
「「想像以上だ。」」
バツンと言葉が重なって、静かに二人はため息をついた。そうして、どっと途端に笑い出す。
足をバタつかせて笑う桜川と、軽く口元を押さえて笑う大崎は、至極楽しそうだった。
「ねぇ、直紀。
今年は、今年こそはあの話を君にもしたい。
出来るなら小説として出版したい!」
「あぁ、いつでも聞く。お前の腹のうちがしっかりと固まったらいつでも相談しろ。
なにせ、お前は俺が最初に見出した有名作家だからな。」
人生とは長い。意図も容易く崩れるし、割と簡単に整うこともある。
だが、一生崩れたままのこともある。
結局のところ、それを整えることができるのは本人だけで、振り返ってみれば何が悪いと感じるのかは人それぞれに違うのだ。
二人からすれば、その人生の崩れはよく似ていて、しかし、その結果は随分と違った。
あぁ、世界はなんて悲しいのか。
辛さを抱えながらも、穏やかに過ごせているのは、前に進んでいるからだろう。
湯の沸く音がする。
火を止めて茶葉を投げ込めば、ゆっくりゆっくりとそれは味を出して行く。
今年も変わらず、湯気に揺蕩う哀れみばかりに目を向けて、悲劇の嘆きで行き交う世界は神話に消える。
そうして二人もまた、耐え難くも美しい世界の淵に立つ。