フロリドが喧嘩するだけ。二人ともママ大好きだよねって話右側にだけ鈍い音が響いた。周囲から一斉に息を呑む音が聞こえる。そう感じた数秒後に、リドルはドサリと床に倒れ込んだ。
鼻の奥が熱い。打たれた頬を抑えながら眼前の人物を睨み上げる。バチバチと火花が飛びそうな程に鋭い視線が交わった。
「いきなり暴力に訴えるなんて、やはりキミは礼儀がなっていないね」
上体を起こしながら冷静に口を開くリドルに、フロイドは隙の無い低い声で返す。
「前から想ってたんだけどさ、金魚ちゃんの言葉の暴力もすげーひでぇよ」
「言われても仕方が無い奴にしか向けないさ」
「暴力だって自覚あんじゃん」
ジリジリと距離を詰めるフロイドの迫力に、それまで二人の周囲を囲んでいた野次馬が後退し始める。既に逃げ出した生徒も数人。
「それでも結果的には物理的に先に手を出した方が負けだよ。そして……」
瞳孔も口も開き、敵意も鋭い歯も剥き出しになっている人魚に全く怯まず、リドルはやにわに立ち上がると、そのままの勢いで拳を上に振り上げる。その動きが予想外だったのか、動きを止めたフロイドはもろに頬に拳を喰らい、よろりとよろけた。
「これは正当防衛だよ。よってボクに非は無い!」
ぐいと乱暴に手の甲で鼻血を拭きながら勝ち誇ったような声で叫ぶ同級生を見下げ、フロイドはコキコキと拳を鳴らした。
「……はぁ……? 何度か勝ったくらいでナメてんじゃねえよ」
「すまないね、弱い上に堪え性の無いキミをまたボクが正してしまって」
「ふざけんなよ。訂正しろ」
「嫌だね」
乱暴に襟元を掴まれた小さい体躯がぶらりと宙に浮く。上から顔を近づけたフロイドは「あぁ?」と目を見開いて凄む。遠巻きに見ているギャラリーがざわめく。
「オレのママを侮辱するとか金魚ちゃんでも許さねぇんだけど」
「何度でも言おうか。キミの粗野な振る舞いは目に余る。母親が躾を怠ったとしか考えられない」
「……ほんっと、正しさの基準が自分だけだよねぇ。てかさ、いーの。オレはママにいっぱい愛されて育ったし、親父だって本当にオレのことを想ってくれてるの。それでオレは満足なの」
「へぇ、でもそれって端から見ると本当に可哀想――」
リドルが煽り返す前に、フロイドは更に言葉を重ねる。
「金魚ちゃんはさぁ。本当にママに愛されてたわけぇ? 厳しくされすぎて、愛されてるって思い込んでただけじゃないの? それにパパはちゃんと金魚ちゃんのこと見てくれてた? 金魚ちゃんからはママの話ばっかでパパの話出てこないけどっ! グゥッ……」
ニヤニヤしながら喋り続けていたフロイドの腹に、リドルの膝が綺麗に入った。身体をくの字に曲げて彼を放りだした人魚に、リドルは地面から再び立ち上がりもう一発入れようと立ち上がる。
と、そこでようやく駆けつけたトレイが、リドルを後ろから抑えた。遅れてやってきたケイトもその隣にしゃがみ込み、リドルの頬を魔法で冷やし始める。
「離せ、トレイ!! ケイトも! コイツ、人の母親を、両親を侮辱してっ……」
「あぁ? 金魚ちゃんが先に言ってきたんじゃん」
「それは!! お前の態度が!! 悪いから!!」
「ねぇリドルくんリドルくん、そろそろクロッケー大会が始まっちゃうよ! 遅刻したらマズいって」
こそ、と耳打ちされた内容に、烈火のごとく燃えていたリドルの瞳はスゥと理性を取り戻す。立ち上がっていた触覚も普段通りの綺麗なハート型へと収まった。
「……そうか。ありがとう、ケイト。もうそんな時間か、こうしてはいられない。さっさと行くよ!」
トレイの手を借りてすっくと立ち上がったリドルは、怒りのオーラを纏ったまま立ち尽くすフロイドに一瞥もくれずに早足で去って行った。
「……ってことあってさぁ。クッソむかつく」
「それが今日の不調の原因ですか」
モストロラウンジの厨房。絶望的な出来のフロイド作パフェを眺めながら、アズールは溜息をついた。
「リドルさん関連でお前の調子が崩れるの、もう何回目でしょうね……」
「それでも出勤してきただけ偉いですよ、僕ならそんなことを言われたらショックで食事も喉を通らなくなってしまいます」
横から口を挟むジェイドに、眉間に出来た皺を抑えながらアズールは低い声で呟く。
「ジェイド、フロイドを甘やかすのは大概にして下さい。フロイド、今日は帰っていいので明日は万全の状態で頼みますよ」
「えー、一人になると考え過ぎちゃってダメだから今日は働いてたい~」
「結果を残せないなら働かなくて結構です。どうしてもというのなら何も考えず客に愛想でも振りまいて来て下さい」
「はぁ~~~~い」
ブラブラと両手を振りながらフロアへと向かう片割れを見、ジェイドは楽しそうに笑う。
「いいんですか、アズール。もしお客様に絡んだりしたら……」
「大丈夫ですよ、こういうときのフロイドは逆に気持ちの悪いくらい誰かに愛想良く接したりするので。そうしてまたどうでもいい相手を勘違いさせるんですが」
「おやおや。それは売上げに繋がりそうで景気の良い話ですね」
「ええ。今頃きっとどこかのテーブルに勝手に座って高いメニューを注文させようとしている頃だ」
フロアからフロイドの不自然なくらいに浮かれた声と、限定モクテルのオーダーが複数入ってくるのを確認すると、アズールは機嫌が良さそうな笑みを浮かべてVIPルームへと消えていった。
「……リドルさんもフロイドも、触れられて痛いところが似ているのかも知れませんね。だからこそぶつかるのでしょうが」
トールグラスに青いシロップを流し入れる。ジェイドは今日起こったことの話を思い出しながら目を細めた。
バースプーンをくるくると器用に回してステアをすると、カラ、と澄んだ氷の音が耳に届く。
まるで厳しい冬の後の、氷が薄くなって割れていく春の音のようだ。あれはこんなに小さな音では無く、暴力的なまでに恐ろしく大きく響くものだけれど。
ジェイドは彼らの心と故郷の季節に思いを馳せると、それからヒトデ型のフルーツをグラスに飾った。