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    RINGO_03

    @RINGO_03

    好きなものをポイポイするよ。
    正直ピクシブよりこっちでの投稿のほうが最近は多いよ。
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    RINGO_03

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    追記:ごちゃごちゃしてきたんで移転しました→https://privatter.me/user/elma03

    境界の灯夏の猛暑を抜けて、ようやく落ち着いた気温になったと思っていたのもつかの間、不意打ちのように冷たい風が吹き抜けた。
    フィオナは、寒さに我慢できず試運転も兼ね今年初めて暖炉に薪をくべた。少しずつ広がる炎の暖かさで室内の温度も徐々に暖かくなってくる。
     暖炉の前には、椅子に腰かける彼女と家族である小さな狼――モフモフが、彼女の足に丸まるようにして寄り添っていた。ふわふわの毛並みが暖かくも少しくすぐったい。
     フィオナは椅子に座ったまま体制を少し崩して、足元のモフモフに手を伸ばし軽くつついた。
    「モフモフ、もっと暖炉に近いほうが暖かいよ?」
     しかし、当の本人は耳をぴくりと動かすだけで知らん顔。まるでここで良いんだよとでも言う様に微動だにしない。
    (今年も暖炉より、私にくっついているんだね)
     フィオナは、心の中で苦笑しながらそれ以上は何も言わず、足に伝わる暖かさにほっとしながら、気を取り直して手元の刺繍に目を戻した。

    北部の辺境にあるこの小さな宿屋は、フィオナにとって両親から継いだ大切な場所だった。もっとも繁盛していた昔に比べて、今では宿屋というより食事処という役割の方が大きい。訪れる客も、近隣住民や、駐屯地の兵士たち、時期になれば里帰りに来る顔なじみの人々。宿泊客はまばらで、のんびりとした雰囲気の中で切り盛りしている。
    フィオナは、この場所を失いたくはなかった。どんなに都会にあこがれる気持ちが浮かんでも、ここに訪れる人たちの笑顔や変わらずとも穏やかな風景を守りたかった。

    暖炉のぱちぱちという音で、フィオナはふと目を開けて、自分がまどろんでいたことに気が付く。
    「……暖かくて眠くなっちゃうね」
    彼女はそうつぶやくと、小さく笑いながら傍らにいるモフモフに手を伸ばした。その柔らかい毛並みを優しくなでると、モフモフは返事をするかのように「クワッ」と欠伸を一度した。彼女はその反応に、クスリと笑った。

    一方、このフィオナの足元に寄り添って寝ているモフモフはただの狼ではなかった。
    彼は3年前北部で起こった人間と魔族との大規模な諍いに巻き込まれ、命からがら逃げ延びた末、この宿屋にたどり着いた魔族だった。
     当時の彼はボロボロで傷だらけだったが、フィオナに保護され手厚い看病の末なんとか命をつなぎ留められたのだ。

    本来の姿はもっと大きく、しっかりとした体躯の狼の姿だった。だが逃げる間際、魔族と正体がばれないようにと、急ぎ仲間が掛けてくれた魔法によってその体躯は縮められた。それは一時的なもののはずだったが、魔力を回復しきれていない彼は未だにその魔法を解除することができずにいる。

     それでも、モフモフは今の小さな狼の姿でもそれほど不満を感じてはいない。
    むしろ満足とすら思っていた。
    望んでもいない争いに彼は疲れ果て、今の平穏な日々は贅沢なほど心地よかったからだ。

     暖炉の薪が割れる音が耳に届き、モフモフは片目を薄く開いた。揺れる炎をじっと見ると逃げる間際の凄惨な光景を思い出す。炎の海、死体の山、指し示した手、そして手に残る血の感触。

     体がブルリと震えた。

     今瞳に映る炎は、自分の体を温めてくれる優しいものの筈なのに、その記憶が彼の心を冷たく締め付けた。モフモフは苦しみから逃れる様に、体を丸め、さらにフィオナの足元に体を寄り添った。
     今はただ、このぬるま湯のような心地よさに身を委ねたい。
     彼は静かに目を閉じた。暖炉の炎は再び彼を眠りへと誘う。
    フィオナと過ごす幸せが彼の罪悪感をほんの一瞬だけ忘れさせてくれた。


    穏やかな日々も、一通の手紙で幕を引いた。

    モフモフがいつものように朝ごはんを貰おうと食堂へ向かうと、フィオナが嬉しそうな様子でこちらに駆け寄ってきた。彼女の手には手紙が握られており、その顔は満面の笑みだった。
    「聞いてモフモフ!あのね、幼馴染の子がお手紙をくれたの!」
     (幼馴染?)
     魔族の彼には聞きなれない言葉に小首をかしげるが、フィオナがこんなにも嬉しそうに話す姿を見るのは久しぶりだった。彼女の笑顔があまりにも眩しく、理由はわからないままでも、彼自身も心が自然と弾む。
    「それでね、仕事の都合でこっちに引っ越してくるみたいなんだけど、寮が工事中らしくてね。それが終わるまで、ここに下宿させてくれないかって書いてあったの!」

     フィオナは手紙を夢心地な様子で、再び見つめた。
    その様子は本当に幸せそうで、目が輝いている。
    その幼馴染というのがフィオナにとって何か特別な存在だという事は、モフモフにも伝わった。その事にすこしだけ引っかかるものを感じたが、自分にとって彼女の幸せが第一で、その笑顔が何より大切なのだ。そう、自分に言い聞かせた。
    「ワォン!」
     良かったな、という祝福の意味も込めて彼は一声を上げた。


    フィオナは自室のベッドに腰を下ろし、膝を抱えたまま考えていた。手紙を貰った日から再会を心待ちにしていた気持ちを思い返す。

    彼が宿屋に現れた瞬間、彼女の心は高鳴った。元々幼少の頃から顔の整っていた彼は、その面影を残しつつ端正な顔立ちの青年に成長していたからだ。
    しかし、その胸の高鳴りは彼の一言で凍りついた。
    「……フィオナ、さん?」
     名前に付けられた「さん」という敬称。それは距離感を示すものであり、幼馴染として共有していた親しみを一瞬で打ち消すほど冷たく感じられた。
    まるで他人のように話す彼にフィオナは困惑を隠せず、聞こうと思っていた事も、思い出話も、頭から一切消え去ってしまった。

    心がざわつく中、思い出したのは彼が突然姿を消した日の事だった。
    引っ越すことも、行先も分からない状態で、ポストに残された丁寧だが急いで書いた痕跡のある手紙には「急に家族の都合で引っ越すことになりました。ありがとう、さようなら」と綴られたその文字に、その時は家族の都合なら……という少し悲しい気持ちを抱きながらも遠くへ行ってしまった彼の幸せを願ったが、今日のエリオットの固い表情と言葉が一瞬持ってしまった疑念を再び抱いてしまう。

    (もしかして、私が何か……?)

     あの時自分が何かしてしまったのでは?自分が知らないうちにエリオットを傷つけるような事をしていたのではないか?その結果が今日の彼の遠ざけるような態度だとしたら。次々と浮かんでくるのは、そんな悪い考えばかりだった。
    「どうしよう……」
     彼女は膝を抱きしめ、小さな声でつぶやく。

     そんな彼女の足元から「大丈夫か?」という様に顔を出したのはモフモフだった。
    エリオットを部屋まで案内し、説明をした後のフィオナは表情も硬く、いつもはしない失敗もしていた。そんな不自然な様子に体調でも悪いのかと、この小さな家族は気遣ってくれたのかもしれない。
     フィオナは無言のままモフモフをそっと抱き上げ、その小さな体を優しく抱きしめる。伝わる体温が少しだけ不安な気持ちを和らげた。
    「モフモフ……」
    彼女から発せられた聞いたこともない弱々しい声にモフモフは、耳をピクリと動かし、彼女に注意を向けた。

    普段明るく優しい彼女が部屋の隅で縮こまり、瞳に涙を浮かべる姿はとても痛ましく見ていられなかった。その様子を見るだけでモフモフの中で怒りが沸々とわいてくる。
    (エリオットとかいう奴のせいで……)
     名前しか知らない顔の知らない人間に対してだが、フィオナから笑顔を奪い傷つけただけで十分だった。彼女を傷つけた相手に対して何かやらねば気が済まない。

     そんな彼の反応に気づくことなく、フィオナは彼の柔らかい毛並みに顔を埋めたまま、震える声を漏らす。
    「……どうしたら、あの頃みたいに話せるかな……」
     モフモフの中でフィオナを守りたいという気持ちが強まっている事をフィオナは知る筈もなく、モフモフのその温もりに少しだけ心を救われていたのだった。


    今日は他に宿泊客もおらず、エリオットが滞在している部屋を探し出すことは簡単だった。
    泣き疲れて眠ってしまったフィオナの腕からそっと抜け出し、モフモフはいても立ってもいられず、彼はさっそくエリオットの部屋の前に来ていた。
    (さて、どうやって中に入ってやろうか)
     考えた末、モフモフはドアに何度か体をぶつけて、すぐに陰に隠れた。
    間もなく「はい」という返事と共にドアは開く。
    その隙にモフモフは素早く部屋に滑り込んだ。
    「……あれ?ノックされたと思ったんだけどな?」
     エリオットは首を傾げ、周囲を見渡した後ドアを閉め部屋に戻った。

     モフモフは家具の陰に身を隠し、そっと様子を伺う
    (あれがフィオナの言っていた、幼馴染のエリオット……)
     隙間から見えるのは、すでに届いていた自分の荷物を整理する姿だった。
     やがてエリオットは、荷物の片づけに一区切りついたのか、深い息をついてベッドに倒れこんだ。手で顔を覆い、じっと天井を見つめている。
    「……緊張していたからって、どうしてあんな態度とってしまったんだろう」

     それを聞いた途端、モフモフは再び怒りを燃え上がらせるが、手紙を貰って再び会えることを楽しみにしていた彼女の、モフモフが寄り添っているときには見た事もない笑顔を浮かべていたフィオナを思い出し、怒りとは違う感情がモフモフの中で沸いてくる。
    (幼馴染……)
     フィオナにとって特別な関係の、エリオット。特別だからこそ彼の態度一つで、あんなに悲しい顔をするのだろう。

    ――ふと、モフモフは考えてしまう。
     (……俺じゃダメなのか?人間じゃないから?話せないから?――特別に、なれない?)

     エリオットを見る彼の目はいつの間にか怒りから羨望に変わっていた。怒りと悲しみと嫉妬が胸を埋め尽くす。

    (俺がコイツだったら、フィオナにあんな顔をさせないのに……!)

    気が付けばモフモフの体は黒い靄と化し、ベッドで休んでいるエリオットの体へ吸い込まれるように溶け込んでいく。
    その瞬間、ベッドの上の彼の身体がびくりと跳ねた。
    「……!」
     エリオットの瞼がぴくりと震え、ゆっくり開かれる。
    呆然とした目つきで天井を見つめていた彼が、突然上体を起こすと、自分の手を凝視した。
    その手を開いたり握ったりを繰り返し戸惑いに満ちた声で呟く。
    「……なんだ、これ?」
     発した言葉に彼自身が驚いた様子で、喉に手を当てる。
    「喋ってる?人間の言葉を、俺が……?」

     自分は先ほどまで、物陰からエリオットの様子を伺っていたはずだ。
    しかし、そのあとの記憶はなく、気づけばベッドの上にいた。
     モフモフは未だに混乱していたが、一つ嫌な予感が脳裏を過る。
    それを確かめたいと、彼が部屋を見渡すと目に留まったのは、壁際に立てかけられていた姿見だった。
     さっそくベッドから降りようとした瞬間、彼はさっそく後悔した。
    「うわっ!」
    思う様に足が動かず、体がぐらつく。四足の体ならばすぐさま移動できる距離も、慣れない二足歩行では容易ではない。
    モフモフは、先ほどよりも慎重にベッドから足を踏み出すが、視界に見える人間の裸足の足に違和感で背筋がぞわりとする。
    足のどの部分で床に立てばいいのかすら分からず、危うく床に倒れこみそうになるが、慌てて壁に手を着き、なんとか転倒を免れて息を吐く。
    そのまま壁伝いに体を支えながら何とか鏡の前へよろよろと歩みを進め、ようやく鏡の前へ辿り着き、姿見に映る自分を覗き込む。
    「……嘘、だろ?」
     モフモフは言葉を失った。

     鏡に映っていたのは、先ほどまで自分が見ていたエリオットだった。
     青い瞳を大きく開き、茶色い髪が乱れたままの、間違いなく彼の姿だった。震える手を伸ばし、そっと鏡の表面に触れると冷たくて硬い感触が指先に伝わり、これが何の変哲もない鏡だという事が分かる。
     それでも映る姿が現実であると受け入れるには時間が必要だった。
    「なんだ、これ……なんで俺がコイツの体になってるんだ……?」

    困惑と混乱と思いがけず自分の思ってしまったこと――
    (俺がコイツだったら、フィオナをあんな顔をさせないのに……!)
    それが現実になり、どこか罪悪感めいた感情が胸の中をざわつかせ、彼は頭を抱えながら考える。
    (……こんな芸当ができる手段は、魔法だろうが俺は一切使っていない。)
    怒りに任せてエリオットに詰め寄ろうとはしたが、少し懲らしめてやろうと思っただけ。――あの姿で精々できることと言えば、寝床を荒らしたり、耳を引っ張ったり。その程度の嫌がらせの筈だった。
    それがどうして今、自分はエリオットになっているのか、皆目見当がつかない。

    モフモフは、鏡に映るエリオットの姿をじっと見つめる。
    これが自分の意思で動いている事を未だに信じることが出来なかったが、どうしようもなく抑えきれない興奮が、ある言葉を彼に喋らせた。
    「……フィオナ」
    気が付けばその名前が唇から零れていた。
    自分の耳に届いたその声に、モフモフは息を飲む。普段、動物の声帯では絶対に発することのできない言葉を――まして、フィオナの名前をこんなにはっきりと呼ぶことができたのは、初めての事だった。
    心臓が高鳴り、体が熱くなる。
    (これなら……俺はフィオナの、――)

    そこまで考えて、モフモフはその考えを打ち消すように頭を振った。
    「いや、こんなことしている場合じゃないだろ……!」
     高ぶりかけた感情を無理矢理押さえつけ、現状を整理するために目を瞑る。
    ――この身体で何が起こっているのかを知る必要がある。
     意識を集中させ、この身体の内側に感覚を向けた。奥深くまで探っていくと、大きな力の塊のような存在を感じた。それは静かで重々しいが、炎が揺らめくような律動を刻み、「生きている」感触を持っていた。
    (……これがおそらく、エリオットの魂だ。)
     モフモフは直感的にそう感じた。これが自分のものではないことは明白だ。
    ――つまり、エリオットは生きている。

     いまだに全容が分からない状態だが、少なくともこの身体の主に危険が及んでいないことを確認できた瞬間、モフモフはようやく緊張が少しだけ解くことができた。
    「ふぅ……」
    大きく息を吐きながら、無意識に髪をかき上げる。
    「とりあえず、人死には出てないみたいで助かった……」
     この身体の決定的な何かが失われていないか心配していたがそれも杞憂に終わったようだ。その一方で彼は、自分の行動に違和感を覚えた。
     前髪をかき上げる……?自分は元々狼で、そんな仕草をする必要ないはずなのに、無意識に……?
     寧ろ自分の方が、この身体の影響を受けているのではないのか?
    そう考えた途端、モフモフはじわりと嫌な汗をかいた。

     大きく息を吸って、吐く。
    「……いや、まだ大丈夫だ。とにかく早いとこ、ここから出ねぇと」
     モフモフは、冷静になる為に自分に言い聞かせるように呟く。
     その時だった。

     コンコン

     軽めの音が静寂を破り、心臓が跳ねる。モフモフは驚きのあまり腰を抜かしかけた。
    (……!!!起きたのか?!)
     彼女は自分を抱いて寝ていたはずだ。起きていたとしても、この部屋に尋ねてくるとは思わなかった。
     「……エリオット、少しだけ……良い、かな?」
     ドアの向こうから聞こえたのは、どこか遠慮がちなフィオナの声だった。
     きっと昼間の出来事のせいだろうとモフモフは察した。
     未だに慣れない二足歩行でよろよろとドアの前まで移動する。途中で壁にバランスを取りながら、やっとのことで辿り着くと、ドアスコープを覗き込んだ。

     フィオナは目線を下に下げて立ち尽くしていた。元気がない事は一目でわかる。
    今すぐにでも、励ましたい気持ちが溢れそうになり、ドアノブに手を掛けた。
    しかし、彼女が用事があるのは、あくまでエリオットであり、自分ではない。
    (仮にこの事が見抜かれたとして、自分がエリオットの体の中にいるとどう説明すればいい?自分自身まだ何も理解できていない。……そんな状況で彼女と会うのは良くない。)
    ドアノブを握っていた手の力が抜けた。

    「……エリオット。」
     寂し気な、その声を聞いてしまったら、もう駄目だった。
    口が勝手に言葉を零す。
    「……ごめん、今、手を離せなくって。ドアを開けられないけど……どうかした?」
    (やめろ!)
     モフモフは心の中で叫んだ。関わってしまったら、戻れなくなる――そんな気がするのに。
    「!!……エリオット、起きてたんだね。あ、あのね、引っ越してきたばかりだから、何かお手伝いできるかなって……」
     自分の言葉に、フィオナが反応して、喜んでくれたことが嬉しくてたまらない。
     心臓が苦しくなるくらい、どんどん熱くなっていく。
    「ありがとう。けど俺ももう休むところだったから、大丈夫……また機会があったらお願いしても良い?」
     その言葉を発すると、扉の向こうのフィオナの嬉しそうな息遣いが聞こえた。
     ここに来た時よりもずっと明るい声になっている。
    「……!うん、分かった。いつでも呼んで!」
     その声を聞いて、モフモフは泣きたいくらいに胸を熱くなるのと同時に締め付けられる。
    遠ざかる足音は、弾むように軽くなっていた。その音が、さらに胸の痛みを強くする。
    (……求めてるのは、俺じゃない、エリオットだって。分かってる。……分かってるよ。)
    扉を背にずるずるとしゃがみ込んだ彼は、手で顔を覆うと、痛みに耐える様に体を丸めた。

    しばらく体を丸めたまま動かなくなっていた彼は、その間もこの状態の解決方法を必死に考えていた。
     頭だけでも動かしていないと、何かに飲み込まれそうだったからだ。
    (……だが、魂なんてものを扱えるほど高度な魔法を使える奴なんて――)
     
    「あっ……」

     ――いた。
     思い浮かんだのは、逃げる間際に自分をこの子狼へと変えた人物。
     直接的な暴力こそが力の証とされる魔族には珍しく、あの男は魔法を好み、やがて卓越した技術を自ら生み出していった。

     脳裏に浮かんだのは、自分に向けて穏やかな口調で説明する彼の声。
    「……これはもし貴方が逃げることになってしまっても、安全に回復できる手段になります。条件は……そうですね、貴方が負の感情を一定時間以上感じたら。で、どうでしょうか?」
     そう言うと、彼はモフモフの額にそっと手をかざした。
     
    「たしか……その魔法の名前は……」
     モフモフは顔を上げて、唇を震わせながら呟く。
    「……共生の魔法……」
     あの男は確かそう呼んでいたはずだ。
     他種族の中に魂を宿らせる魔法で、その中で術者の魔力や生命力の回復を安全に、そして効率的に行う術式だった。だがそれは緊急時に発動する仕組みになっていたはずだ。

    「……自動発動する魔法にエリオットが巻き込まれたってこと、か……?」
     モフモフは歯を食いしばる。
    (確かに、エリオットに対して負の感情は抱いていた……でも、今じゃねぇだろ……!)
     自然と握りしめた拳にも力が入る。
     「くそ……あの時もっと話を聞いときゃ良かった!」
     当時の自分は、逃げるような状況になるとは微塵も思っていなかった。発動することもないだろうと高を括り、肝心の解除方法すら覚えていない。
     もどかしさが渦巻く。過去の自分の浅はかさを痛感しながら、モフモフはこの現状をどうするべきか必死に頭を巡らせた。
     この身体をエリオットに返す。そして、できるなら今日の事は全てなかったことにしたい。ドアの向こうで何も知らず嬉しそうな彼女の声を思い出して、その気持ちは強まった。
    (きっと、ここにいる限り、俺はどんどん欲しがってしまう。)
     この身体で自分の欲を満たすことは、とても身勝手だという事も分かっている。それでも、フィオナに伝えられて、触れ合える。それができるこの身体はモフモフにとって最高の器だった。
    (でも、それはきっと、フィオナが望むことではないだろう……俺は、彼女を悲しませたくはない)
    モフモフは自嘲するように笑うと、ゆっくりと手を開いた。手は静かに震えていた。


    鳥のさえずりが聞こえる。
    エリオットは重たい瞼を開けた。
    明るい天井を見て、朝だという事がぼんやりとした意識の中でも分かる。
    彼はのろのろと頭を掻きながらベッドから身を起こした。
    「んっ……」
     今日は引っ越しの予備日で休みだったはずだ。完全には覚めていない体を引きずるようにして備え付けの簡易な洗面所へ向かった。蛇口を捻り気持ちの良い温度の水で顔を洗えば眠気も幾分かマシになった。タオルで顔を拭いて鏡を見る。
    (……そういえば、昨日フィオナと話をしてから片づけをして――…そこからの記憶がない)
     久しぶりに会う幼馴染に対してあまり良い対応ができなかったと、エリオットも感じていた。
     会うのは数年ぶりだし、特に引っ越してからやり取りもしていなかった。それなのに今回の頼みをきいてくれた彼女には頭が上がらない。
     そんな負い目を少し感じながら、いきなり以前のような口調で話すのも失礼かもしれないと無難な敬語で話してしまった。
     ……それ以上に彼女は少女から女性になり綺麗になっていたというのが最大の理由だが。
    (僕があんな態度だったからか、フィオナもあの後硬い表情だった……)
     自分の不甲斐なさに、はぁー…と顔にタオルを押し付けながら大きくため息を吐く。
     気を取り直して、服を着替えて身支度を整える。
    (ご飯は……一階の食堂だったかな)
     そう思いながら、洗面所から一歩踏み出そうとした瞬間、不意に足が止まった。
     鏡に映る自分の姿を見つめたエリオットは、寝癖が右側に跳ねていることに気づいた。
    (あ……寝癖が)
     自然と右手が動き、髪をそっと手櫛で整える。
    「……あれ?」
    手が髪を整えている様子を、どこか他人事のように感じながら、エリオットは首を傾げた。
    しばらく鏡に映る姿を見守っていると、寝癖は綺麗に治り、手は自然と動きが止まった。
    (自分が考えより先に……体が動いていた?)
     止まった手を目の前で、動かす。
    先ほどの動きと違い、自分が動かしている。という感覚があった。
     まるで自分の腕が勝手に動いたような、妙な違和感が脳裏を過ったが、エリオットはまだ寝ぼけているのだろうと自分を納得させて、考える事をやめた。

    (……食堂に行って、彼女に挨拶をしたら昨日の態度を謝ろう。それで叶うのならば、以前のように話せたら……)
    エリオットは頭の中で何度か、シミュレーションをする。
    「……よし、行こう」
     ようやく納得のいく結果になったのか、彼は覚悟を決めて自室を後にした。

    主に宿泊客が使う朝の食堂は静かで、窓から差し込む柔らかい朝日がテーブルを照らしていた。
    「おはようエリオット、昨日はお疲れ様。ご飯できてるよ」
     エプロン姿のフィオナがこちらを向き、微笑みながら声をかける。
     その声に反応するより早く、エリオットの視線は彼女の姿をとらえて言葉が詰まった。
     部屋で何度もしていたシミュレーションも吹き飛んでしまった。
    (自然に……自然に……)
     頭の中で自分に言い聞かせながら、エリオットは口を開く。
    「……おはよう、フィオナ。その、昨日は固い態度でごめん。緊張、してしまって」
    (こんな年齢にもなって……。)
    エリオットは恥ずかしさと申し訳なさで、視線を下げて首元に手を掛けた。
     その言葉に、フィオナは小さく肩をすくめた。
     嫌われていた訳ではないことを知って、胸をなでおろした。
    「ううん、私もエリオットが立派になっていて緊張してたから。……嫌われてなくて安心した」
     フィオナはふっと笑みを浮かべて、安心したように彼を見つめた。
     その笑顔にエリオットは思わず目を奪われる。
    「嫌いに……嫌いになるわけないよ。これからよろしく、フィオナ」
     エリオットは少しぎこちない笑顔で、手を差し伸べる。
     クスリと笑い、フィオナは差し出された手を優しく握る。
    「うん、よろしくね。エリオット」
     二人は笑い合い、かつての穏やかな空気に戻りつつあった。

    朝食を終えたエリオットは、再び自室へと戻った。
    扉を閉めると、静まり返った部屋のベッドに安堵の息を漏らしながら腰を下ろす。
    (誤解が解けて良かった……ちゃんと伝えられてよかった)
     ほっと肩の力が抜けて、無意識に髪に手が触れる。
    ふと、エリオットは朝の出来事を思い出してため息をついた。
    (朝が弱いからって、自分の考えている事と体の動きが合わないだなんて……ぼけてるんだろうな……)
    「しっかりしないと。」
     明日からはこの地域の駐屯地での勤務が始まる。久しぶりの故郷での生活に加えて、新しい環境に緊張がないと言えば噓になるが、それ以上にフィオナがいるこの場所に戻れて、関われることが嬉しく、気を引き締めようという思いが強くなる。エリオットは、自分に言い聞かせるように口に出す。
    彼は、気合を入れる様に立ち上がり、昨日できなかった引っ越しの荷物を片付けようと箱を開き始めた。


    荷物の片づけを終えたエリオットは、部屋に足りないものを補充するために宿屋近くの個人商店へ向かうことにした。
    彼の荷物は元々少なかったため、片付け自体は短時間で済んだのだが、久しぶりの故郷に、どうせなら懐かしい場所を歩き回りたいと買い出しに出掛けることにしたのだ。
    歩くたびに目に映る懐かしい光景に、フィオナと過ごした記憶を次々に思い出して心が弾んだ。
    しかし、それとは裏腹にいくつもの店が閉まっているのを見て、彼は驚きを隠せなかった。
    (……あそこのパン屋さんも閉まってる。そういえば昔、フィオナとパンを半分こにして食べたっけ)
     記憶の中の光景がよみがえり、足が止まる。思い出の中より大分色褪せた建物が、自分のいなかった時間を嫌でも感じさせる。
     できるのならば、ずっとここにいたかった。今更そんな気持ちが沸いてしまう。
     しばらく歩き、目的の商店がまだ営業していることに、エリオットは安堵の息をついた。
    (ここは変わっていないんだな……良かった)

    必要なものを買い揃え、袋を片手に宿屋へと向かう道すがら、エリオットはつい道草を食ってしまった。かつて遊んだ広場や公園――足は自然とそうした場所へ向かい、更に自分の事を覚えている近隣の住民に話しかけられ、気づけばすっかり夕暮れの時間になっていた。
    (思ったより遅くなっちゃったな、昼ご飯の事、フィオナに謝らないと)
     赤く染まる空を見上げながら、エリオットは少しだけ歩みを速めて宿屋の扉の前に立つ。
     荷物を持ち替えながら、ドアノブに手を掛けた瞬間だった。

     蠟燭の炎がゆらりと揺れる様に意識が揺らぎ、消えた。
     ドアノブの少しひんやりとした感触、肌寒く感じる温度、袋を引っ張る指の重みも、すべて煙のように闇に溶けていく。

     「―――っあ?!」
     不意に浮かんだ闇の中から引き戻される感覚。急に水から上げられたように、呼吸が荒くなり、心臓の鼓動が耳元で響く。
     急に掛かる重さに、足が少しだけバランスを崩しかける。気が付くと、エリオットの姿をした何かが、目を見開いた。
    「あれ……俺は?」
     漏れた声は低く響いた。彼は周囲を見渡す。
     見慣れた宿屋の扉、手に持っている荷物。そして沈みゆく夕日が長い影を作っていた。
    「これは……どうして」
     相変わらず自分の身体と違う感覚に戸惑いながら、彼――モフモフは自分がエリオットの身体の主導権を奪っていることに気が付いた。


    昨夜、モフモフはエリオットの体の中で焦燥と困惑の一夜を過ごした。
     結局、自分の体は戻らず、エリオットの体からも出られないまま、時間だけが過ぎていった。これには彼も「どうすりゃいいんだ」と頭を抱えた。
     しばらく考えた後、少なくとも、すぐに解決できる問題ではないことを悟ったモフモフは大人しくエリオットの体で休むことを決めた。

     翌朝、エリオットが自然に目を覚まして彼の意思で動いている様子を視覚と感覚を通じて確認したモフモフは肩に荷が下りた心地だった。
    (とにかく、エリオットが体を動かせているのは良かった。だが――……)
     エリオットの体から抜け出せていない問題に直面する。
     モフモフは慎重にエリオットの体内で何ができるのかを確認し始めた。まず、視覚や聴覚などの感覚は共有されていることが分かった。
     そして、完全にエリオットの体を動かせないものの彼の行動に少しだけ介入することができるらしいことも。
     例えば、今朝の「寝癖を直す」という行動がそうだった。エリオットが寝ぼけた様子でそのまま部屋から出ようとした瞬間、反射的に手を伸ばして乱れた髪を整えてしまった。
     まさか、動かせると思わずモフモフも驚いたが、それよりも先に信じられないという気持ちの方が先だった。
    (なんでこいつ、この頭で外に出れるんだ?!)
     エリオットの姿が鏡に映った瞬間は良かった。昨夜は驚きのあまり、まともに顔なんて見られなかったから、改めてみれば人間の美醜は良くわからないが、整っているであろう顔立ち――…だったが、自分の見た目には無頓着、顔は洗っていたが眠気の取れないとろとろとした顔はそのままで、寝癖も直し切れていない。
     モフモフは、手紙を貰って喜んでいるフィオナの顔を思い出す。
    (この髪でフィオナに会うつもりだったのか?……信じられない。せめてあいつを失望させるなよ!?)
     魔族でありながら、人間の身目を気にする自分もおかしいが、エリオット本人が気にしていないことが一番おかしいと感じる。
     
     その後、モフモフはエリオットの一日を彼の内側から観察し続けた。昨日の事をフィオナに謝罪する場面や買い物の道すがら、近所の人間と会話する彼の様子を見て、少しずつ彼に対する見方が変わってきた。
    (悪いやつじゃなさそうだな……)
     
     フィオナとの会話で見せた不器用な誠実さや、近所の人々に向ける柔らかな態度。それは、モフモフが関わってきた数少ない人間たちとはどこか違っていた。
    (……まぁ、ズボラなところは許せないが)

     そう考えると、少しだけエリオットに対する警戒心が和らいだが、とはいえ彼の体に宿る原因が分からないままでは、自分の存在が彼にとって迷惑になる可能性は否めない。
    (まずはこの状況をどうにかしないと……)
     
    モフモフはエリオットの体の中で思案を続けていた。この身体からどうやって抜け出せばいいのか。
    ――宿主であるエリオットと視界を共有しながらも頭の片隅で脱出の方法を模索する。突然、視界が一瞬途切れた。

    そして次の瞬間、彼はこれまで感じていなかった重みで自分が外に立っていることに気づいた。

    「は……?」

     低い呟きが口から洩れる。その声は紛れもなくエリオットのもので、驚きに目を見開き、周囲を見渡した。自身の右手にはエリオットが買った日用品の入った袋がしっかりと握られている。そして目の前には宿の扉があり、ちょうどドアノブに手を伸ばそうとしていたところだった。

    「……待て、エリオットはどこだ?!」

     混乱しながら意識を内側へ向ける。すると昨日と同じ感覚――魂と呼ぶであろう大きな力の塊が体の中に納まっているのを感じ取った。
    「……そこにいるな」
     
    内心でホッと胸を撫で下ろす。
    しかし、同時に状況が全く分からないことに不安を覚えた。ドアのガラスが反射して映す自分の姿は明らかにエリオットで、ドアノブに差し出された左手を恐る恐る動かせば、思ったように動く。モフモフは大きくため息をつきながら、手で顔を覆った。
    「…くそっ、早くこの状況を何とかしたいってのに」
     エリオットに危害が無い事は幸いだった。
     しかし、それ以上にこの器は魅力的すぎる。入って視覚共有する程度ならまだしも、動かせてしまえば自分が何をしでかすか恐ろしくてたまらない。
    「気が狂いそうだ……」モフモフは小さく呟いた。

     混乱を抱えたままモフモフは再び意識を内側に集中した。助けを求める様にエリオットに呼びかけようと試みたが、彼の意識は無いようで、寝息を立てるかのように穏やかに、ただその場を漂っていた。
    (眠っている…?こんな状態で?なにか条件でもあるのか…?)
     モフモフは頭をひねるが、自分がこの状態になるのは昨夜と合わせても二回だけ。しばらく様子を見るしかないと観念した。

     気を取り直して宿の中に入ろうと、ドアノブに手を掛ける。だが、次の瞬間、ドアが勢いよく開き飛び出してきた人物にぶつかってしまった。
     「っ……!!」
     思わず袋を手放し、体が後ろに倒れる。その拍子に相手もバランスを崩し、押し倒されるような形で覆いかぶさった。
     「フィオナ?!」
     倒れたまま、目の前にいる相手を見てモフモフの声が漏れる。
     見上げた先にいたのは間違いなくフィオナだった。彼女は下敷きにしたエリオットを見て、顔を真っ赤にしながら涙目になっていた。
     「エリオット……!モフモフ見なかった?!」
     その言葉に、モフモフは一瞬動揺する。
    (…俺?)

     フィオナは慌てた様子で何かを考えこむような顔をした後、小さく「あっ」と声を上げた。エリオットの体の上から起き上がり、少しだけ息を整えて口を開いた。
     「…えっと、モフモフっていうのは、うちの家族で……昨日から見かけていなくて心配で探していて…あっ!あの子は数年前から一緒に住んでいる小さい狼で……」
     早口で話す彼女の様子でどれだけ焦っているかが分かる一方、モフモフは彼女の言葉を聞きながら自分の中で何かが音を立てて崩れるような感覚を覚えていた。

    (小さい狼…?家族…?)
     フィオナの焦った顔を見た瞬間、モフモフの胸の中には言いようのない感情が沸き上がり、その熱で気づけば言葉が溢れ出ていた。

     「……3年前だよ」
     その言葉にフィオナは「え?」と一瞬体が硬直し、驚いた表情でモフモフ――エリオットを見上げた。
     「……モフモフの事はよく知ってる。3年前からこの家の家族になった、小さい狼の事だろ?」
     フィオナは眉を顰め、困惑した表情を浮かべる。
     「……説明、してなかった、よね?」
     フィオナの声からは、先ほどまでの焦りが消え、疑問の色が濃くなっていた。
     「エリオットにはね。」
     「じゃあ、どうして……?」
     彼女がそう問いかけると、モフモフは息を吞んだ。一瞬だけ目を閉じてゆっくりと深呼吸する。言葉を紡ぐことを止めることはできなかった。
     「…俺がモフモフだから」

     モフモフの胸に、フィオナの口から洩れた「家族」という言葉が小骨のように深く突き刺さり、心をざわつかせた。
     それは暖かい響きではあるが、同時に彼にとっては自分が彼女に抱いていた感情と、彼女が自分に向けていた感情の違いをはっきりと明示する言葉だったからだ。
     
    モフモフは、胸が締め付けられ苦しくなっていく。徐々に冷え切っていくことを嫌でも感じてしまった。
    (「家族」……。おまえにとって俺はただの「子狼」でしかない……)

    そして彼の冷え切った心は、再び人間の、エリオットに対する妬みが燃え上がり始めた。ずっと分かっていたのだ――エリオットの目を通してみたフィオナの表情が、明らかに自分に向けていたものとは違うことを。同じ笑顔でも愛おしさの種類が違う事も、頬の赤らみも、瞳の輝きも、全てが違うことを知ってしまったのだ。

     今、自分の手には偶然にもエリオットの身体がある。フィオナの目の前にいるのは彼女がそうした特別な感情を向けている「エリオット」そのものだった。

    (フィオナ…お前が思っているよりも、俺はずっとお前の事を――…)
     
    モフモフは、目の前にいるフィオナを見つめた。その視線は真剣で、どこか切なさを秘めている。
    「……フィオナ、きっとお前は今、幼馴染の男がわけのわからないことを言い出したと思っているだろう?」
     エリオットの姿をした彼は、低い声でそう切り出した。
    「いきなり、自分が家族のペットだって言われたら、誰だって混乱する。」
     
    その言葉にフィオナはさらに困惑した。彼が何を言いたいのか理解できないまま、ただ彼の姿を見ることしかできなかった。口を開こうにも何を聞けばいいのかも分からない。

    モフモフはフィオナの姿を一瞥すると、自嘲的に笑った。
    (家族のペット。……あぁ、きっとお前はそう思っていたんだろうな。)
     彼はフィオナを強く責めるつもりはなかった。彼女を傷つけるつもりはない――ただ、自分の存在を伝えたかった。それがどれだけ難しい事でも。

     モフモフは、困惑しているフィオナの体を優しく支え、彼女を起こした。軽く乱れた彼女の髪を整えようと手を伸ばしかけるが、視界に映った自分のものではない手に気づき、開きかけた手は少しずつ閉じていった。視線を閉じていく手を見つめながら、少しだけ下げる。

    「……そうだな、エリオットが分からないことを話せばフィオナは信じてくれるか?」
     そう言いながら、頭を上げてフィオナの目を真剣に見つめた。
    「えっと……エリオット?」
    フィオナは自分自身の事をまるで他人のように話す目の前の人物を確かめる様に彼の名前を呼んだ。その声には、ほんの少しだけ迷いが滲んでいた。
    しかし、モフモフは彼女の呼びかけに軽く首を振り、優しい口調で否定する。
    「だから、俺はエリオットじゃないよ。」
     悲しそうに笑いながら、モフモフは覚悟を決めてゆっくり息を一度吸うと口を開いた。

    「……そう、だな。それこそ3年前――」
     モフモフは目を伏せた。当時の事を思い出しながら語るその声は低く、どこか懐かしさを滲ませている。
    「俺がこの宿屋にやっとのことで辿り着いたときの事だ。丁度天気が荒れていて、俺は濡れて弱りきっていた。……そんな俺を、フィオナたち家族が迎えてくれたんだよな。」
     そう語りながら、彼はそっとフィオナの背を撫で始めた。
    「……こうやって元気になって、大丈夫だから、頑張って、って」
    (どうして、その事を知っているの…?)
     その時その場にいたのは、自分と母親とモフモフだけだった。誰かに話したこともない。擦られる背中から感じる安心感とは裏腹にフィオナの心臓の鼓動は速くなっていく。
     フィオナは目の前のエリオットを驚きの表情で見つめた。
    その視線に気づくと、モフモフは優しく微笑んだ。
    「……俺が大きくなったら森へ帰すんだよって、フィオナのお母さんから言われた時、お前、悲しそうな顔をしてたよな。」
     名残惜しそうに、静かに身体を離しながらモフモフは苦笑いをする。
    「だから俺、一生このまま、子狼の姿でいいやって思ったんだぜ?」
     フィオナはその言葉を聞いて息を呑んだ。目の前のエリオットの姿をした人物が語る、本人は知りえない記憶。それは正しく確かにあった出来事だった。
     そんなことある訳ない。信じられない、でももしかしたらと躊躇いがちに口が開いた。
    「……モフモフ?」
     彼女の震える声に、モフモフは息を呑んだ。心臓が高鳴り、全身が熱を持つような感覚に襲われた。嬉しさで今すぐにでも触れたくて、抱きしめたくて仕方なかったが、フィオナを怖がらせたくない一心でその衝動を押し留めた。深呼吸をして、いつの間にか握りしめていた拳の力を解いた。

    「……いつまでもこうしちゃいられないだろ?」
     モフモフはフィオナの髪を名残惜しそうにそっと撫でると、立ち上がり、彼女にも立ち上がるよう手を差し出した。
    フィオナは少しだけ躊躇しながらもその手を取る。その小さな手が自分の存在を認めてくれたような気がしてモフモフは喜びをかみしめながら、彼女をゆっくりと立たせた。
    「……後で話そう」
     そう告げると、彼は散らばった日用品を袋にまとめ始めた。ひとつ、ふたつと拾っていく自然な動きに、先ほどまでのやり取りが、全て幻だったのではとフィオナは思ってしまう。
    彼は淡々と作業を終えると、何事もなかったかのように荷物を片手に宿屋に入っていく。
    入る間際フィオナを軽く一瞥すると、早く入るようにとでも言う様に扉を開けたままにして、エリオットの部屋がある二階へ向かって行った。

    まだ頭の整理ができていないフィオナは宿に入っていく彼の背中をじっと見送った。先ほどまで家族を必死に探していた焦りは、今はもう影も形もなかった。
    (彼は、本当にモフモフなの……?)
     けれど、モフモフは自分の知る限り、ただの狼だった。小さくて愛らしくて、時折気まぐれでこの宿屋の周辺を散策していた、大切なフィオナの家族だったけれど人間の姿になるなんて思ってもいなかった。まして昨日引っ越してきた幼馴染のエリオットと同一人物だなんて、到底信じられる話ではない。けれど――
    (……エリオットに伝えていないことを知っていた。)
    「偶然、じゃない……よね」フィオナは自分自身に確認するように声を出した。

     フィオナの中で先ほどまでのやり取りを思い出す。3年前の記憶、モフモフを家族に迎え入れた日、母が話した言葉。それらはエリオットに話した覚えは一度もなかったはずだ。それなのに、目の前の彼はそれを知っていた。

     しかも事実、昨日からモフモフの姿を見かけていない。気まぐれな性格だから、晩御飯時になればひょっこり戻ってくるだろうと深く気にしていなかった。けれど、こんなに長い間見かけないことは一度もなかった。
     だからこそフィオナは、不安に駆られて仕事の空き時間を見計らって外に探しに回ろうとしていたのだ。まさかそれがこんな状況になっているとは思ってもいなかったが。
     胸の奥で、まるで大切な何かが少しずつずれていくような、もやもやとした重苦しい感覚が広がっていく。

    「フィオナちゃーん!」
     宿の中からお客さんの声が聞こえ、フィオナはその声にハッと現実に引き戻された。
    「あっ、はーい!」
     慌てて返事をしながら、彼女は足早に宿の中へと戻って行った。

    今は分からないことばかりで不安が募る。けれど、彼は話すことを約束してくれた。エリオットの姿をしてはいたが、自分に対しての態度や起き上がるときに差し伸べてくれた手――…今はそれを信じるしかないのかもしれない。
    まずは目の前の事からしっかりしなくちゃ―そう自分に言い聞かせるように、フィオナは足を前に踏み出した。

     モフモフは部屋に入ると、ドアをそっと閉めてその場に立ち尽くしていた。先ほどフィオナの髪に触れた右手をじっと見つめる。
    (フィオナに、伝えられた――。)
     触れた熱を逃がさないように右手を握りしめる。胸の奥に小さな炎がともるような感覚がした。これはエリオットの身体で、本来ならば決してやってはいけないことだと理解している。フィオナを困惑させるだけでなく、エリオットに対しても本人の承諾もなく勝手に身体を使っているという事がどれだけ罪深い事か分かっている。ただ、それでも――。
    (触れられた。話せた……俺自身の思いを、伝えられたんだ。)
     狼の姿では伝えられなかった、叶わなかった願いが今エリオットの身体を借りて初めて実現したのだ。
     この身体の主であるエリオットの為にも、一刻も早く自分はここを出るべきだ。それが分からないほど愚かではない。だが理性とは裏腹に、指に触れたフィオナの髪の感触やお互いが重なった時の熱がどうしようもなく、この身体を手放したくないという強い感情が芽生え始めていた。
     モフモフはため息をつきながらベッドに腰を下ろすと、無意識のうちに右手を抱きしめる様にして身を丸めた。
    (もう少しだけで良い……もう少しだけ、このままでいさせてくれ)
     握りしめた手の中には、フィオナの温もりが残っている気がした。自分の思いを伝えられた喜びと、この身体を離れるべきだという葛藤の狭間で彼は息を殺すように、そっと目を閉じた。


     夜の静けさを破るように、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。モフモフは、ベッドから立ち上がるとドアをゆっくりと開ける。
     そこには、カゴを片手に緊張した面持ちのフィオナが立っていた。「後で話そう」と言われたが、胸につっかえる気持ちをどうにかしたくて、いつもより早めに仕事を終わらせてきたのだ。
    「……こっちから行くのに」
     モフモフは小さく息をつきながら、ドアを開けて彼女を招き入れる。
    フィオナは何も言わずに部屋に入ると、くるりと振り向いて、モフモフをじっと見つめる。
    「……今日も夕飯、食べに来なかったけど、どうして?」
     フィオナの声はどこか静かながらも鋭く、彼を見つめる瞳には疑念と困惑が浮かんでいる。モフモフは彼女のまっすぐな視線を一瞬だけ受けた後、軽く肩をすくめて微笑んだ。
    「心配させたな……いや、大した理由じゃないんだが、俺は人間の作法を知らないからコイツに恥をかかせると思ったんだよ。」
     そう言いながら、彼は無意識に小首をかしげた。子狼だった頃のモフモフの癖だ。そのことに気づいたフィオナは、じっと彼を見つめた。
    「流石にフィオナも、狼みたいに飯を食うエリオットなんて見たくないだろ?」
    「お、狼みたいに……?」
     フィオナは言われた瞬間、モフモフの食事風景を思い出してしまった。勢いよく骨付きの肉にかぶりつく姿、器に顔を突っ込むようなしぐさ。母も「小さいけれど食べっぷりは一人前だね」と笑っていた。どう考えても人間の食卓にはなじまない食事の様子が脳裏によぎり、彼女の顔は一気に青ざめた。
    (エリオットが?!あの食べ方は流石に……!)
     想像しただけで背筋が凍えるような気持ちになり、フィオナは慌てて首を横に振った。
    「大したことだよ!お客さんもびっくりするし、エリオットだって困ると思う……。だから、その……ありがとう」
     そう言ってから、視線を落とす。自分が目の前の“エリオット”になんと呼び掛けていいのか分からず、しばらく迷った末に確認するように尋ねた。
    「……モフモフ、で良いのかな?」
     彼女の不安そうな目が、自信なさげにモフモフを見上げる。その表情に、モフモフは一瞬言葉を失い、胸の奥が暖かくなった。こんなにも一生懸命に自分を受け入れようとしている彼女が愛おしく、心に優しく沁みていく。
    「おう」
     短く返事をすると、彼は柔らかく微笑んだ。
     それだけで、フィオナの顔に少し安心の色が広がったようだった。

    「昼間、コイツが近所を回った時に爺さん婆さんから果物やら漬物やら貰ってたから、それを食ってたんだが……流石に足りないな」
     モフモフは少しばつが悪そうに言いながら、腹を擦った。フィオナは納得した様子で頷く。
    (きっと、それが帰りが遅くなった理由なんだろうな……)
    彼は優しいから、話好きなお年寄りたちの話を最後まで聞いてあげたのだろう。きっと最初は「大丈夫です」と貰い物を遠慮しただろうが、押しの強さに負けて受け取った姿が目に浮かぶ。フィオナは自然とクスリと笑みを漏らした。
     そんな彼女の表情を見たモフモフは、彼女が考えているのはエリオットの事だろうと察し、少し複雑な気持ちになる。
    (昨日まであんなにぎくしゃくしていたってのに……)
     どこか面白くないと考えてしまう自分が嫌になり、モフモフはフィオナに聞こえないようにため息をついた。
     しかし、そんな彼の思いを知る筈もなく、フィオナは手に持っていたカゴを差し出した。
    「そうかなと思って、おにぎりを持ってきたよ」
     彼女はカゴの蓋を開け、包まれたおにぎりを取り出してモフモフに見せる。モフモフは一つを手に取り、しばらくじっと見つめた後、小首をかしげながらクンクンと匂いを嗅いだ。
    「……これは?」
     訝し気に尋ねるモフモフに、フィオナは少し笑いながら説明する。
    「おにぎりだよ。ご飯を握ったものっていえばわかる?」
    「ふぅん……」
     モフモフは短く返事をすると、そのまま大きく口を開け、おにぎりを頬張った。その食べ方にはどこか野性味があり、朝食の時に見たエリオットの礼儀正しい食事風景を思い出して、フィオナは改めて彼とエリオットは違う存在だという事を実感する。
     モフモフは、大きな一口をもぐもぐと食べると目を丸くし、ガツガツと口に勢いよく詰め込むと「……おかわり、あるか?」と頬にご飯粒をつけたまま聞いてきた。その様子にフィオナは思わず笑ってしまった。

     モフモフはおにぎりを食べ終わると、塩や米粒がついた指をペロペロと舐め、満足そうな顔で一言「ごちそうさま」と言った。
     フィオナは「お粗末さまでした」と答えながら、カゴの中から布巾を取り出して彼に手渡す。モフモフがその布巾で手を拭いている間、フィオナは一度視線を落としてから、意を決したように顔を上げた。
    「……それで。あなたはどうしてエリオットの姿になっているの?」
     静かな部屋に彼女の真剣な声が響く。モフモフは布巾を握りしめたまま、どこまで話すべきかと頭の中で考え込んだ。
    「最初に言うが……俺はその、魔族なんだ」
     視線を下げて、苦し紛れにそう口を開いた。原因に魔法が絡んでいる以上、ただの動物と言い張るのは難しいだろうと思ったからだ。
    (怖がられるかもしれないな……)
     モフモフは内心の不安を隠しきれず、恐る恐るフィオナの顔を伺った。
    「……?そうなんだ?」
     その反応に、モフモフは呆気にとられた。
    「怖くないのか?魔族だぞ?」
     彼は少し声を張り上げて尋ねた。
    「確かに驚きはしたけど、3年も一緒にいて私はモフモフに何かされたわけじゃないもの。怖くないよ」
     フィオナの言葉はあまりにもあっさりしていて、モフモフは胸に張り詰めていた緊張がふっと緩むのを感じた。
    「……そうか」
     自然と口元が緩み、思わず微笑む。

    モフモフは言葉を選びながら、たどたどしく説明をし始めた。
    「魔王が倒された騒動で、俺たちが住んでいたところにも被害があって、ここになんとか逃げてきたんだ。」
     その言葉には、いくばくかの真実と嘘が混じっていた。
     本当は自分がその“魔王”と呼ばれるものであり、この状態にしたのは自分の側近の魔族だ。しかし、フィオナにそのすべてを話す勇気はなかった。“魔族”でさえ、受け入れてくれるか不安だった。だが流石に“魔王”までは彼女がどう思うだろうか。フィオナを信じていないわけではないが、彼は彼女に拒絶されることが何より恐ろしい。知り合いの魔族がかけた魔法が突然発動し、気が付いたらエリオットの中にいたという形にして話を濁すしかなかった。
    「それで、その魔法の解き方がわからない。って事かな?」
     フィオナは魔法について全く知識がないながらも、真剣な眼差しでモフモフに問いかける。その姿を見て、モフモフは少しだけ良心の呵責を覚えながらも、バツが悪そうに頷いた。
    「……そういう事だな。」
     フィオナは「うーん」と小さく唸り、考え込むように頬に手を添えた。
    「とりあえず……エリオットにそのことを伝えた方が良いんじゃないかな?なにか意思疎通ができれば、状況も少しは進むかもしれないし。」
     彼女の言葉は正論だった。先ほどまで、この身体を手放したくないと思っていた自分を正しい道筋に導いてくれている。
     モフモフの胸にわずかな疑問と悲しさが広がった。
    (……もし、このまま俺が狼の姿に戻ったとして、今までのようにフィオナは接してくれるのか?今の俺は対等に話せていても、また“ペット”に戻るんじゃないか?)
     彼は小さく息を吸い込み、気持ちを整理するように呼吸を整えた。
    「……今は、完全に寝ているみたいだから、明日やってみるよ。」
     自分に言い聞かせるように言葉を響かせる。彼女の優しさとまっとうな提案に背を押されながらも、彼の心には、まだわずかに葛藤が残っていた。

    「……部屋まで送らなくてもいいのに」
     話が一区切りつき、モフモフがフィオナを彼女の部屋まで送る途中、フィオナが少し困ったように呟いた。
    「元々俺からフィオナの部屋まで行くつもりだった。……今日は俺の話を聞いてくれてありがとう。」
     モフモフは優しく微笑みながら言った。その穏やかな表情にフィオナはどうしてもエリオットを思い出してしまう。彼がエリオットではないと分かっていても、同じ顔に見つめられると意識せずにはいられず、気づけば彼女の頬はほんのり赤く染まっていた。
    「こっちこそ、話してくれてありがとう……。」
     はじめこそ顔を見つめて話していた彼女は、徐々に恥ずかしさを隠すように視線はそれていき、声も少しずつ細くなっていく。その様子にモフモフは胸の奥に渦巻く感情を抑えきれなくなっていく。
    (やっぱり、コイツに好意を抱いているんだな……)
     考えてみれば、この状況になった原因はフィオナに対する自分の気持ちと自分が願ったものを易々と手に入っているエリオットへの妬みだったのかもしれない。そしてフィオナの心がどちらに向いているのかも、あまりにも明白だった。
     だが、エリオット本人に知られることなく彼の身体を使ってフィオナに手を出すのはフェアではない。理性ではそう理解している。だが、ここまで惚気られてもなお何もせずにいるのは、モフモフの性分には合わない。
    (……いつか、俺を、俺として意識させてやる。おまえがコイツを意識するのと同じくらいに。)
     モフモフはフィオナの前髪にそっと手を伸ばし、ふわりと優しく撫でると、不意におでこに口付けをした。掛かった重さでわずかに彼女の身体が揺れた。
    「え?」
     フィオナの目が大きく見開かれる。唇が触れたおでこは熱を持ち、名残惜しそうに離れる。自分が何をされたのか理解すると、驚きと戸惑いで口をパクパクさせながら、彼女の顔はみるみる真っ赤に染まっていった。
    「フィオナは寝る前、俺の頭を撫でたり、抱きしめたり……こうやって触れていただろう?人間の作法かと思ったが、その様子じゃ違うみたいだな。」
     モフモフは彼女の反応を楽しむかのように、悪戯っぽく口の端を少し持ち上げた。そして彼女が反論をする間も与えず、軽く手を振って「おやすみ」と告げると、そのまま背を向けて立ち去った。
     フィオナはその場に立ち尽くし、赤い顔でおでこに手を当てて小さく呟く。
    「……そんな、そんなに毎晩なんてしてたっけ…?」
     夜が深まる静かな廊下に心臓の音だけが響いていた。
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