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    杣おつと

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    杣おつと

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    K先生の元許嫁が出てくる小話です。
    村井さんの帰郷後くらいの時間軸。
    許嫁は一言しか喋ってませんしそんなに絡みがありません。
    タイトルが思い浮かばずすみません……。

    K先生の元許嫁が出てくるK富の小話「ただいま戻りまし」
    「うわぁあああ一也くんおかえりちょうどよかったーッ!!」
    「とみながせんわぶっ」
     その日、下校した一也が診療所の扉を開けた途端、富永が叫びながらもの凄い速さで飛び出してきた。目を丸くする一也に、そのままタックルのごとく抱きついてくる。衝撃で背負ったランドセルの中身が抗議のごとく音を立てたが、富永の胸にぎゅうぎゅうに抱き込まれてるせいで、当の一也は押し潰された第一声以降まともに喋れなかった。
    「んぐぐ、もごご」
    「富永」
    「K先生っ!ちょっくら往診いってきやす!一也くん手伝ってくれるよな!?」
    「もごもご、ぐむむ」
    「ウンウン快諾ありがとうね!いい子だなぁ一也くんは帰ったらアイス食べようか僕がいいことあった日用に取っといてるとっておきのヤツ食べなぁ!ですのでお二人は、どうぞ心置きなく!」
    「……うむ」
     こんな時間から往診なんて、どうしたんですか?ていうか、富永先生とK先生以外に誰かいるんですか?
     真っ暗な視界の中、一也はなんとか声を出そうとするも、あまりの圧迫にやはりモゴモゴと間抜けな声しか出せない。それどころか富永は、そう疑問を呈されるのを見越して、言わせまいとより強く抱きついてるようなのだ。
    「すみません、富永さん。一人も……」
     ──あ、女の人の声だ。聞き覚えのない、申し訳なさそうな声。抱き込まれた一也からは見えないが、Kや富永と同年代ではなかろうか。かずとって、確かK先生の名前。でもここではその名で呼ぶ人は滅多にいないのに。
     思わず動きを止めたその隙を見逃してもらえず、富永は一也の上体をホールドしたまま、ぐるんと反転させ、診療所の外へ引っ張った。何も見えず声も出せない一也は富永に連行されるまま、来た道を戻らざるを得ない。これでは人生で二度目の誘拐だ。
    「それじゃあごゆっくり!」
    「んんん〜!」
    「わははは、一也くんもやる気満々だな〜!?こりゃウカウカしてらんねーぜっ」
     もう内容どころか口調まで頓珍漢な富永に無理やり引き摺られつつ、羽交い締めされた腕からなんとか少しだけ顔を出す。遠のいていく診療所の玄関には、どんなに危険な容態の患者を前にしても諦めず、力強く立ち向かうKが、少し困った顔でこちらを見送っていた。それから恐らくすぐ後ろにいるのだろう誰かを振り返っていたが、一也からは見えなかった。

     案の定、富永は往診ルートではなく、診療所の裏手にある川のほとりへ一也を連れてきた。連行してきた一也を解放するや否や、はぁ〜っと大袈裟な声を出してその場にへたり込む。一也もその辺の岩にちょこんと腰かけた。
    「危ないところだったねぇ一也くん」
    「何がですか?」
    「女の人、いたでしょ?許嫁なんだよ、Kの」
     何故かばちん!とウィンクしながら放たれた富永の言葉に、一也は目を真ん丸にした。
    「いいなずけ」
    「あー、えっと、許嫁ってのは、将来大きくなったら結婚する約束をした人のことだよ」
     言葉の意味は知っている。なんなら母の麻純が、クローンである自分の、オリジナルの人間とそういう間柄であったことも知っている。富永は一也を時々妙に幼く扱うのだ。それが一也を思いやるあまりの副作用だと理解はしているので、今はあえて突っ込まず、こくんと頷く。自分の母がそうであったように、裏の一族のKにもそういう相手がいるというのは、考えてみればさほど驚きもない。
    「その方が会いに来たってことは、 K先生は結婚するんですか?」
    「いやね、厳密に言うと【元】許嫁でさ。K先生が昔……独りぼっちになった時、解消を申し出たんだって」
    「あぁ……」
     Kの過去は、一也が自分の出生を知った後日、改めて聞かせてくれた。一也を拐かそうとした村井の事情を知るには避けて通れないことだからと、母を亡くし、父を失い、執事の村井に置いていかれた、かつての日々を自ら一也に話したのだ。その時のKは、その日々にあった筈の自身の心情を一切漏らさず、起こった事実のみ話していた。けれど、それを聞き終えた時の一也の胸は、悲しみや切なさで張り裂けそうだった。今でも思い出すだけで胸が小さく、しかし鋭く痛む。富永もそうなのだろう、独りぼっちになった時と言った瞬間、少しだけ表情を曇らせていた。
     若くしてこの村でたった独りの医者となり、同時に裏の一族の運命を継承した重責。そして恐らく何よりも、二度と同じ悲劇を起こさない為に。Kは許嫁との婚約を解消したのだ。本当なら誰よりも助けが必要だった筈なのに。一也も、富永も、それを悟っていた。少しの間、川のせせらぎが沈黙を流していく。
    「……許嫁の人は、それから村を出て、看護学校に入学して看護師になって、東京の病院に勤めてたんだ。で、K先生は特例で免許取ってからあっちこっちで手術してたろ?東京にも行ってたし。彼女の勤めてた病院にもスーパードクターの噂が流れてきて、もしやと思って今日来たんだって」
    「なるほど」
    「だから、修羅場になってたら危ないところだったねってわけ」
     もっとも、Kに限って修羅場なんて起こさないとは思うけど……と付け足す富永の顔は、普段の明るい、時にオーバーなくらいの感情表現で接してくれる姿とは程遠く、張り詰めていた。二人の傍を流れる小川のように、静かで、透明で。手持ち無沙汰そうに屈んだ足元の小石を弄るその姿は妙に小さく、何故だか一也の心を掻き立てる。思考はうるさいくらい次々と湧くのに、そのどれもが一也の小さな世界で知る言葉では当てはまるものがなくて。ただ唯一分かる焦りという感情へ呼応するかのように、木々が風でざわめいた。
    「だ、大丈夫ですか、富永先生」
    「おれェ?なんでよ」
     気付けば訳も分からず出ていた一也の言葉に、富永は笑いかけた。限りなくいつもと同じ、だけれど決定的に何かが違う、穏やかな笑みだった。
    「許嫁の人が此処に戻るなら、単純に人手が増えていいよね。家も代々看護師だったらしくてさぁ、まさに君のお母さんと一緒だ。だからあんな優秀な看護師なんだろうなァ」
    「……」
    「あぁ、そうだこれも言ってなかったね。許嫁の人が来てすぐ急患がきて、村井さんとKと三人で手術してたんだよ。僕はちょうど薬を届けに行ってたから、その手術の途中に戻ってきたんだけど、手術の補助や術後の処置や患者さんのケアを彼女が全部完璧にこなして何よりKとも阿吽の呼吸で、後で村井さんに聞いたら手術自体も凄く早く終わってて……Kの一族を支える為にずっと努力してた人なんだよね」
    「富永先生……」
     弱々しい一也の声がけに、富永は苦笑してみせた。
    「ちょっとは医者としてまともになったと思ったのに、全然そんなことなかったって痛感したよ。でもそれが現実だから、仕方ないさ。 おれがどんなに頑張っても、K先生は二年程度で近付けるような人じゃない。ましておれには恵まれたものもない。医療に身を捧げる本当の覚悟もなかった。分かってる。不相応でも俺は此処で勉強させてもらうって決めた。それなのに……まだ落ち込めるほど頑張ってもないだろおれは……ウン……彼女にも、勉強させてもらわなくちゃ……ここの診療所だと看護師との連携って全然ないし……」
     後半は完全に一也を忘れて、富永は自分に言い聞かせているよだった。小石を握りしめた手は、力の強さで白くなっている。
     一也の前で、富永はいつだって明るく元気で、その豊かな表情を見ていれば、彼がどんな気持ちでいるかなんてすぐに分かった。それだけ富永が自分に気を許してくれているのだとうれしくて、でもそれは富永の全てではなかった。
     ふと、いつか聞いたKの言葉が蘇った。
     ──富永は、誰よりも医者であろうと努力している。俺よりもな。よく見ておくんだぞ、一也。
     確か、富永が急患の対応をしていた時だ。Kは村の外で手術を頼まれていて、富永と村井で執刀していた。一也はいつも通り見学させてもらい、手術が終わって尚も患者の移動や片付けに忙しない二人の邪魔をしないよう、こっそりリビングへ戻ると、こちらも外での手術を終えて戻ったKがいた。何があったか聞かれ、先ほど行われた術式を復習がてら説明する。それを静かに聴き終えたKが言ったのが、あの言葉だった。
     あの時は驚いたというか、正直その意味をよく分かっていなかった。富永のことはもちろん、素晴らしい医者だと思っている。心から尊敬している。だけれどKが自分より上だという部分には、K先生だって常に患者の為に全身全霊であたっているのにと、どこか腑に落ちなくて。
     それが、今やっと分かった。富永は、Kや一也のような、生まれながらにしてスーパードクターの素質を備える特殊な血筋も、特異な生い立ちもない。医者の家系の三代目で、人よりは医療に馴染みのある育ちだろうが、それだけだ。孤高の医者となるべく血をつなげたKの一族のように、恵まれた肉体も、頭脳も、何もない。
     なのに彼は、血を僻むこともなく、不平不満を抱くこともなく、ただひたすら、己の未熟さを恥じている。Kが為すことを、自分が出来ないことを悔しがっている。
     そして、自分より相応しい人間がKの隣にいる光景に傷つきながら、それでも富永はより良い医者になる道を選ぶ。

     ぱしゃん!と小さな水音が立った。魚でも跳ねたのだろう。富永がはっとした顔で思索を止め、一也を見上げる。
    「ご、ごめんね。変なこと聞かせちゃったね、忘れてよ一也くん」
    「い、いえ、別に、気にしないでください」
    「……あーでも彼女が村に戻ったら、村井さんも君もいるし、僕なんて要らないって言われないかなぁ……」
    「そ、んなことないですよ!富永先生が、いらない訳ないです!」
     ──なんて怖いことを言うんだ、富永先生は。その過小な自己評価に対し、一也は悲しさやもどかしさなんかより、もはや恐怖を覚えた。
     まだランドセルを背負う身の一也は、自ら望んだ部分があると言えど、たったひとりの肉親から遠く離れ、見知らぬこの土地へやってきた。その中で、どれだけ富永の人当たりの良さや思いやりの深さに助けられたろうか。守るべきひとりの子どもとして、常に心を向けてくれる姿勢に頼っているだろうか。
     それを素直に言ってみても、いやいや一也くん君はね、元からとってもしっかりしてたんだから、僕が世話できてることなんてほとんどないし。なんたってK先生がいるんだから。僕なんかいなくてもなんにも問題なかったでしょう。富永は、きっとそう言う。心から。
     確かにKは、医者としてだけでなく、人としても心からの尊敬に値する立派な人だ。世の中にはこんな凄い医者が、いや人間がいるのだと思った。彼の下にいれば、道を踏み外すことはないだろう。だがその隙のない孤高さへ単身で付き従うには、一也はまだ子どもだ。それにKとは違うスタイルで患者に向き合う富永の姿は、医者を目指す上でも大切なものを見させてもらえている自覚がある。
     でも、富永に今それを伝えても。しかも守るべき子どもである自分が言ったとしても。彼には幼い慰めに聞こえてしまうのだろう。そして一也は知らない。仮にKからの言葉なら変わるかといえば、そんな問題でもない、ということを。
     富永は自己評価が低い。だが、その上で抱く目標は尋常でなく高い。そしてそこへ向かって努力を続ける覚悟は、Kとの出会いで一度は激しく揺さぶられたが、そこから二度とぶれないものになった。富永は、第三者から見たスタートラインのずっと奥にいると本人は思っていて、きっと誰が思うよりも遥か彼方に見えているゴールを、常に全力で目指し続けている。そんな彼を動かせるのは、一也でも、Kでさえもない。彼自身しかいないのだ。
      一也は聡い少年なので、そこまでは気づかなくとも、富永の金剛石の心を感じている。だからこそもう、黙り込むしかなかった。先ほどから俯きがちな子どもの顔に、富永はやってしまったと苦笑する。
    「あーあ、君にそんなこと言わせて、本当に大人としてもダメだな僕は、たくさん困らせてごめんね。……僕もまだK先生に学びたいし、君の力にもなりたいから、なんと言われようと、此処にいさせてもらうようお願いするつもり!K先生は優しいから、頼めばなんとかなるさ」
     いつもの顔に切り替えた富永の顔を見て、そこでやっと、一也はこっそり息を吐いた。だって富永は、言ったことは必ずやり遂げる人だから。


     時は遡る。
    「あのさぁ……一人の許嫁の家、空き家になってたよな。今どうしてんのか知ってる?」
     その頃、診療所には新進気鋭の若き医学博士がいた。氷室俊介というその男は、明日は往診なのでもう寝ときます、二人ともおやすみなさいと富永が就寝の挨拶をして引っ込んでからきっかり五分後、そう話を切り出してきた。それを受けた診療所の主ことKは、部屋の隅の机で論文を読んでいる。その姿に動揺は全く見えない。いつか氷室から尋ねられるのは分かっていたのだろう。その涼やかな横顔は、幼なじみながら男前だと認めざるを得ない。
    「村井さんが出てすぐ、診療所を守ることに専念する為、俺の方から婚約関係は解消させてもらったんだ。それからほどなくご家族で村を出て、彼女は看護学校に通って看護師になり、東京の病院に勤めているそうだ」
    「近況は知ってんのか。やり取りはしてんの?」
    「この頃は年賀状だけだな」
    「あっそう。……あのさ、婚約解消したのって、ご両親の件があってのことなんだろ?だったらもう医師免許も取れたんだし、より戻したらいいじゃねーか。というか、向こうさんに免許取れたこと教えてるか?」
    「……」
    「……なんでだよ?一人あの子と仲良かったじゃないか。俺とお前ほどじゃあなかったが、女子の中では一番だったろう。頭も良くて看護師としての姿勢や技術も子どもの頃から叩き込まれてて、結婚も満更って訳じゃなかったろうに。少なくとも俺はそう見てたね」
     氷室がまだ村にいた頃、一人とはよく連んでいたのだが、そうすれば必然的に許嫁の彼女とも会っていた。
     彼女はKとよく似ていた。普段は物静かながらも、いざという時には忌憚なく自分の意見を述べて人を引っ張り、運動も勉強もそつなく完璧にこなした。そしてKと同じくらい、誰かを救うことへの情熱を秘めていた。美しく長い黒髪をきっちり後ろでまとめ上げ、定規をあてたようにしゃんと背筋を伸ばす姿は、今でも鮮明に思い出せる。少し苦々しい気持ちと共に。富永の前では彼女の話を出さなかったが、村にいた頃、氷室が勉強で勝てなかったのは、実はKと彼女の二人なのである。
     二人が許嫁なのは皆知っていたけれど、実際に許嫁らしい交際をしていた訳でもなかった。たまに話したり、一緒に帰る程度。それも二人の後ろで聴いたことがあるが、ほぼ医療談義だった。家族ぐるみでの付き合いもあったようだが、小さな村ではそんな付き合いなどその辺にごろごろある訳で、他の知り合いや親戚と比べて特別親密、という程ではなかった筈だ。何度かK親子の手術現場にお邪魔することもあったけど、そこで彼女を見かけることもなかった。
     Kはおもむろに論文を読んでいたパソコンの画面を閉じ、氷室の方に身体を向き直した。──お、こいつ話す気あんのか。話を振った張本人ながら、内心驚く。Kはこういう下世話な話題を好む男ではない。なんとなく話を濁されて終わりになると踏んでいたのだが。
    「俺と彼女は、確かに気は合ったし、人として信頼していたが、正直生涯寄り添うことまでは考えられなかった」
    「お前はそうでも、向こうは違ったんじゃねーの?」
    「いや、同じだよ。俺と彼女はよく似ていたから。だから気は合うし、友人ならいいのだが、夫婦として共に生きるのは厳しいと思っていた。あまりに自分と似過ぎていて、人としては好ましくても、そういう魅力は感じられなかった。それは二人で話し合って確認したから、間違いない」
    「ガキの頃にんなこと確認し合うか!?はー、そりゃまぁ確かに気は合ってるわ」
    「それでも一族の為に夫婦となる必要があるなら、受け入れる覚悟はあった。ただもしも必要がなければ、別々の道を行こうと決めていた。あの頃はそんな未来などほぼないと思っていたが、それでも優秀な彼女が、この村でしか生きられないのはもったいないと思っていた」
    「……へー」
     珍しく言葉の多いKの姿を新鮮に感じながら、氷室は思い出す。学生の頃、二人はKの両親のように、あの診療所を切り盛りするのだろうと信じていた。氷室だけでなく、二人を知る皆がそう思っていた。けれど同時に、そうなるにはこいつら、妙に歯痒い距離があるんだよなぁとやきもきした気持ちも感じていたあの日々は、そんな引け目がKの中にずっとあったからなのだろう。Kのそれは彼女にだけでなく、恐らく氷室にもあった。もっとも氷室は、勝手にそんな遠慮をされるのが嫌で、わざわざ突っかかってやったが。
    「──父も、村井さんも診療所から去った時、彼女の宿命を断ち切る理由に使えると思った」
     そんな誰よりも思慮深い親友らしからぬ不穏な言葉に、氷室の思考が底から浮かび上がった。
    「もちろん、婚約解消の件はすぐには頷いてもらえなかった。謂れのない噂は流れるだろうし、あまりいい方法ではない。だが何より彼女は、俺だけが背負うべきものではないと言い続けてくれた。彼女のご両親も。だけど俺は、彼女がここに縛られず外で生きるきっかけになれるなら、それだけでこの村で死ぬのに十分だった」
     だから、俺は此処に残るから、君は村を離れていい、自分のやりたいことを目指してみて欲しい。Kの説得に彼女のみならず、両親も思うところがあったのだろう。結局婚約を解消し、許嫁一家は村を出て、彼女は広い外の世界へ旅立っていった。それでも届く年賀状には、何かあればすぐに呼ぶように、必ず力になる、という一言がうつくしい字で毎年添えられていて。そしてKからも毎年、俺は問題ない、君の健闘を祈る、と書き続けた。
    「なるほど、お前が彼女と離れた理由は分かった。だがなぁ、お前はないと言うけどもしも、もしもだぞ?実は彼女がお前に気持ちがあって、いやもしかしたら離れてから気付くこともあるやもしれん、それでお前が正真正銘の医者になったと知ったら、ここに戻ってくるかもしれないだろう?」
    「しつこいぞ、俊介。……確かに村に戻ることはあるかもしれんが、俺たちは決してそういう間柄じゃ」
    「仮につってんだろ。マジに一ミリもないのかぁ?誰かとそういう仲になりたいとか思わねーのぉ?」
     食い下がる氷室に、Kは僅かに困惑した顔を見せた。氷室とて、そこまでして二人によりを戻して欲しいと思っている訳ではない。Kが何もなかったと言うなら、本当に友情や親愛以外のものはなかったのではないか、とも思っている。二人はよく似ていた、いやKの言う通り、似過ぎていた。Kと彼女が並ぶ姿はなんだか鏡写しのようで──そんな自分と等しい存在に、安心することはあれど、より近づきたい気持ちは生じないのかもしれない。
     それにさっきはああ言ったが、Kが恋人の存在を望まないなら、それでも全く問題ない。そんなこと、いくら親友と言えど口を出すものじゃない。
     ただ氷室は、彼女のことを聞く振りをして、別の事実を確かめてみたかったのだ。だからあえて、下世話な話題を押し進める。
    「……無理だな。考えられない」
     そしてKはそんな氷室の真意を知ってか知らずか、氷室が予想していた言葉を零した。
    「今は、富永がいるから」
     真っ直ぐこちらを見つめながら言ったKの台詞を黙って受け止めてみせながら、氷室は内心ガッツポーズをしていた。そうそう、それを聞きたかったんだよ、俺は。
    「富永に俺の持つ技術や知識を伝えて立派な医者にすることに、全力を尽くしたいんだ。そういう余裕はない」
    「ほォ〜?随分入れ込んでるねぇ、富永くんに……彼にはそこまで見込みがあるのか?」
    「俊介、お前が気付いてないとは言わせんぞ」
     さも当然、という幼馴染みに、俊介は思わず苦笑した。それはそうだ。俊介だって、海外の最前線で研究を続ける若き俊英の医学者である。単身飛び込んだ実力主義のハードな職場で、人を見る目はかなり養われた。知らん振りしてやろうかと思ったが、生来の負けず嫌いの方が買ってしまう。
    「まぁそうだな、富永くんは大したもんだ。この村にもあんな馴染んちまってさぁ。一人は感謝した方がいいぜ。なんせ一番教えるのが難しい心構えの部分が出来上がってんだから、後は知識詰め込んで、経験積ませるだけで一流以上になる。育てるのはさぞ楽しいだろうなぁ」
    「……言っとくが、毎日必死だからな。責任重大だ」
    「でも楽しいのは否定しないんだろ?」
     ぐ、と言葉に詰まる幼馴染みの顔は新鮮だ。それだけで遠路はるばる、この村に来た甲斐がある。以前すっぽかした会見なんて、久しぶりに日本へ戻るならやってこいと、氷室の所属している研究機関側が勝手に用意してきたのだ。そんなオマケのせいで本来の目的が損なわれるのは真っ平御免である、というのがドタキャンした氷室の主張だ。すっぽかして正解だった。
    「富永、だけじゃない、これからは、表の一族の子も、俺が教えることになるだろう、となると益々気を引き締めねばならんし」
    「はいはい、分かってるよ」
     辿々しい親友の弁に、氷室は思わず心から笑っていた。
     ──分かってるよ、富永くんの存在が、お前をどれだけ救ったのか。この数ヶ月、診療所に居座り二人の光景を眺めていれば。Kがどれほど富永の成長を見ていたいのか、彼の背を押してやりたいと願っているのか。
     富永は気付いていない。必死にKの手技や背中を見つめて学ぶ彼は、Kの瞳に浮かぶ色にまで気づく余裕がない。だが今は、それでいいのだろう。完璧超人のような氷室の幼馴染みも、ああ見えていっぱいいっぱいなのは本当のようだから。
    「まぁともかく、お前と彼女の間にそういう感情がないとして、いつか村にやって来ることがあったら、そこんとこ富永くんには絶対に誤解されないようにしろよ」
    「……」
    「そんな顔しても駄目だぜ、お前は言葉が少な過ぎるし、富永くんは鈍感過ぎるんだから」
     自覚があるらしいKが、不承不承ながら頷く。その姿にまたしても氷室が吹き出してから数年後。彼女は村に戻ってきた。


     帰ってきた富永と一也を診療所で迎えたのは、Kひとりだった。彼はまるでいつもの外来終わりのように、診察室の椅子に座ってカルテの整理をしていた。
    「彼女もう帰ってしまったんですかァ!?」
    「あぁ、様子を見に来ただけだし、明日は遅番だが仕事だからと」
    「そ、そんなあっさり……診療所は俺がいますから、今からでも許嫁さんと一緒にいてあげてくださいよ!帰りのバスの時間までまだ間に合いますよね!?」
    「元・許嫁だ。お前、もしや俺がよりを戻したとでも思ってるのか?」
    「え、戻さないんですか」
    「そんなつもりはない」
     真っ直ぐ富永の目を見て、Kが言う。それを受けて黙り込む富永を、一也はハラハラと見上げていた。何故か、その顔が少し険しくなったからだ。
    「あの、もしかして僕に何か原因があるんでしょうか」
     Kは言葉を返すのを、ほんの一瞬、躊躇ったように見えた。富永はそれを見逃さない。
    「それなら、僕が出て行きます」
    「えっ」
     思わず声を出してしまい、一也は慌てて口を押さえた。ちらりと覗き見たKも、微かに目を見開いている。富永先生、どうして、 さっき何があってもここにいるって言ったのに。
    「彼女はこの村のことも、貴方のこともよく知っていて、貴方を支える技術も知識も経験も十分ある方です。あの人がいてくれるなら、僕の何倍も貴方の助けになります。Kが僕にいろいろ責任を感じてるのは分かりますけど、僕はなんとでもなりますから。Kはご自分のことをまず考えてください」
     懸命に口元をおさえる一也は、思わず天を仰いだ。なるほど、あの富永の鋼の決意を翻せるものが、確かにあった。それはKだ。富永が自分の夢や願いよりも優先する存在。
     肝心のKはというと、表情は全く変わらない。だが二人より背の低い一也の視界には、Kの手が強く握り込まれているのが見えていた。なにか、何か言ってください、K先生。心の中で一也は叫んでいた。僕は富永先生と離れたくない、けれどきっと誰よりも離れたくないのは。だからこの人を、絶対にはなさないで。
    「……考えたさ」
     ようやく、Kが言葉を発した。おもむろに椅子から立ち上がり、真っ直ぐに富永を見る。
    「ずっと、考えていた。彼女が戻ってくる前から、考え抜いた上でとうに決めたことだ。だから口出しするな」
    「……」
    「富永、この際だから言っておく。お前は、お前が望む限り、此処にいろ。俺から富永を追い出すことは、この先何があっても、絶対にない。その代わり、引き止めることもしない。お前が決めるんだ」
     しん……と音が消えた。一也はそんな錯覚さえ覚えた。Kは、Kの精一杯のかぎり、富永に傍にいてくれと言っている。それがK一族の宿命に近しい一也には分かったからだ。孤高の医者として生きる宿命を背負った上での、本当に、瀬戸際の、最大限の。
     富永はそれでも尚、しばらく黙っていた。というより、言葉を失っていたようだった。Kに
    言葉をぶつけられてから明らかに揺れる瞳は、次第に焦点を定め、真っ直ぐ伸ばしていた頭をがばっと下げた。
    「……出過ぎたことを言いました、すみません。K先生。どうか、まだ此処にいさせてください!」
    「無論だ」
     そうして、頭を上げた富永はいつもの笑顔で。Kもいつもの力強い眼差しで。それを見た一也はようやく息を吐いた。ついでに膝にも力が入らなくて、床に座り込んでしまう。
    「か、一也くん!?どうした!?」
    「す、すみません、なんか、力が……」
     そんな一也を、Kがひょいと抱えると、リビングの椅子まで運んで座らせた。
    「富永、何か温かい飲みものでも持ってきてくれないか」
    「は、はい!」
     リビングを飛び出し、慌ててキッチンに向かう富永。それをしっかり見送ってから、Kは膝をつき、座る一也に目線を合わせ、微笑んだ。
    「悪かったな、一也。俺がこんなやり方しか出来ないせいで」
    「とんでもないです、僕が勝手にハラハラしちゃって……でも、なんとなく、K先生のあの言葉が、富永先生には一番効く?のかな?と、思うので」
    「……そうだといいが」
     少し力の抜けたKの微笑みはそれはそれは美しく、自分ではなく富永に見せた方がいいのでは、と一也は思ったけれど。ドタバタと音を立てて戻ってきた富永は、恐らくKがそうしていたからなのか、なぜかその反対側の一也の隣で、同じく膝をついてホットミルクのマグを差し出してくれた。
    「あっ一也くん、アイス!僕のとっておきのアイスも!あとでちゃんと持ってくるからね!」
    「なんだお前、そんな約束をしたのか」
    「今回は迷惑を掛けたなと反省してるんで……」
    「そうか。よかったな、一也。俺は食べさせてもらったことがないぞ」
    「……け、K先生も食べます?」
    「ほう、いいのか?」
    「いいですよ、ちょうどあと二個ストックあるんで」
    「……それだとお前の分がなくなるだろ」
    「別にまた買えばいいですし」
    「いやそれなら受け取れん」
    「買った僕がいいって言ってるんだからいいですよ」
    「だがらといって軽々しく自分の分まで差し出すな」
    「むー……じゃあ、半分こならどうです!」
    「はんぶんこ」
    「あ、そうか。気にしますか、そういうの」
    「別に気にはしないが」
    「じゃあそうしましょう!へへ、おれも食べれてラッキー」
    「だから元々お前の分だろう」
     大人二人はなぜか座り込んだまま語り合っている。そんな彼らを珍しく見下ろしながら一也が飲んだホットミルクは、ほのかな甘さがとても優しかった。
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