自分の名前だけ認識できなくなる鉢その日は、雷蔵が「委員会の準備がある」とかで俺より先に起きて出ていった日のことだった。
目が覚めると、俺は自分の名前を思い出せなくなっていた。
「雷蔵、八左ヱ門、勘右衛門、兵助…。
俺以外の名前は覚えているな。」
軽く記憶のテストをしてみるが、特に問題はなさそうだった。
「まさか自分の名前がわからなくなるとは。
素顔が思い出せなくなったことはあったが、名前を忘れたことなどなかったのになぁ。
まぁ、提出する課題に名前は書いてあるし、確認すれば済むことだ」
俺は早口で呟きながら、課題の氏名欄を確認した。
確認したのだが、そこに名前は書かれていなかった。
正確にいうと、氏名欄が墨のようなもので黒塗りされていた。
「……っは、はは
誰かのいたずらか?こんなことされる心当たりは……、
まぁ、あるな……」
だが、誰にも気づかれることなく忍び込んで細工をすることができる人物となると限られてくる。
そして、そんなことができる人物は、こんないたずらをするとは思えなかった。
いたずらのことは気になったが、ひとまずは八左ヱ門に名前を聞いた方が早いだろう。
俺は急いで八左ヱ門のもとへと向かった。
〜
部屋に着くと
八左ヱ門はちょうど着替えを終えたところだった。
「八左ヱ門」
「おはよう!どうしたんだ?」
「実は頼みたいことがあってな」
明るい調子で声をかけると、すぐに返事が返ってきた
「頼み?なになに?」
級友に頼られたことが嬉しかったのか、瞳がきらきらと光った。
俺は、ほっとして軽く息をはき
部屋に入り腰を下ろした。
「実は自分の名前が思い出せなくてな」
「名前が?変装の達人も大変なんだなぁ」
八左ヱ門は困ったように笑う。
「まぁな」
「よし!わかった。名前を呼べばいいんだな」
「あぁ、頼む」
よかった、これで
「■■■■!」
「…?」
聞こえたのは確かに八左ヱ門の声だった、はずだ。
だが、発せられたその音はノイズのような形容し難いものだった。
「悪い、もう一度言ってくれないか…?」
はやく、名前を
「わかった。■■■」
まただ。
不快なノイズが脳を叩く
耐えられなかった。
「……っ、八左ヱ門!どういうつもりだ!!
俺をからかっているのか!?俺は、真剣に話をしているんだ!!」
俺は叫んだ
「なんだよ!?どうしたんだよ、いきなり!」
「ちょっと、何があったの!?廊下まで声が聞こえてるよ!」
委員会の準備を終えたのだろう雷蔵が、声を聞きつけてこちらに来ていた。
「雷蔵…」
君なら私の名前を
「どうしたの?■■■?」
あ…
「……、雷蔵、君まで…。なんで。
…2人してなんなんだ!日頃のいたずらの仕返しのつもりか!?」
雷蔵と八左ヱ門が眉を下げた。
「本当にどうしたんだよ!!」
「もういい!課題に細工をしたのも雷蔵だったんだな!道理で気配に気がつかないわけだ!」
「ちょっと待ってよ!何のこと」
俺は、1人取り残されたような孤独感に耐えられなくなって部屋を飛び出した。
〜
無我夢中で走っていると
兵助と勘右衛門に遭遇した。
「あ……」
今は、会いたくなかったのに。
勘右衛門は驚いたように丸い目をぱちぱちと瞬かせ
「あれ?どうしたの?そんな急いで」
様子がおかしいことを察したのだろう。
こちらを気遣う声が聞こえた。
「…何も、なかったから。だから何も言うな…頼むから」
いやだ。もし、お前たちからあの雑音の様な声が聞こえたら、私は本当に1人になってしまう
怖い
気がつくと私は、2人を突き飛ばして逃げ出していた。
〜
校庭の隅にうずくまる
とにかく今は人に会いたくなかった。
名前だけは、自分の名前だけは
嘘ばかりの自分の唯一の本当だったのに。
あいつらと繋がれる唯一の本当だったのに。
それなのに、どうして、
ずっと一緒にいたのに
仲間だと思っていたのは私だけだったのか?
思考はどんどんマイナスの方向へと向かっていた。
勘右衛門と兵助も、そうなのだろうか…。
私だけが、あいつらと繋がっていると思っていたのだろうか。
〜
忘れたくなかった。
俺の名前を呼ぶ仲間の声が好きだった。
今日だって、いつもみたいに
名前を呼んでもらえると思っていたのに。
どうしてこんなことになってしまったんだ。
…あれ、いつも、どんな風に名前を呼ばれていたんだっけ