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    rashi_fuku

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    異説・狂人日記の探索者(https://charaeno.com/6th/wCDoXrPWNSQp1V2fgpEBu)の卓前SSです。卓前なのでシナリオ概要以上のネタバレはないです。精神科医を目指すきっかけ的な部分を書いてみました。
    タイトルは「ジュネーブ宣言」より

    楽しみだな〜〜〜!!!

    自由と名誉にかけて 「その震えは一生残るだろうなあ」
     長年の知己で信頼している医者に、気の毒そうに言われて仕舞えば諦めもつくというものだ。俺は「そうか」と答えて、小刻みに震える右手の指先を眺めた。戦地で被弾した右肩。銃弾はかなり遠方からのもので、そのせいで弾が肩に留まって組織や神経を焼いた。その後の処置も酷かったのは縫合痕で分かるが、戦地でのことだ、文句も言えまい。とにかく確かなのは、俺はもう外科医としては役に立たないということだ。
     「まあ、お前だったらどこかでかい病院か大学の相当の椅子に座れるんじゃないか?いつまでも前線にいるだけが医者じゃないぜ」
     後進の育成に回れ、と、彼は言っている。俺もそれが一番いい道だと思った。経験や知識を若い医者に教えることも、結果人を救うことに繋がるのだから。
     「……考えとくよ」
     「前向きにな。俺も声かけられるところにはかけとくからさ」

     煙草に火を点ける。家に帰って家族に話さなければと頭では分かっているが、気が重い。妻はなんてことのないように「まあ、そうですか」と頷いて、さっさと夫の次の仕事を見つける算段をつけそうな気もするからそれはいい。
     じゃあ、俺はどうしてこんなにも家に帰りたくないのか。
     すっかり紫色に変わった空に、煙が混じって消えていくのを眺めたところで、答えは出ない。家に向かって歩き出す。長年履いた革靴を、重たいと感じたのは今日が初めてだった。
     玄関の引き戸を開けると、妻の鶴子が奥から出てくる。
     「おかえりなさい」
     「ただいま」
     俺が傍を通る時、鶴子がすん、と鼻を鳴らした。煙草の匂いに対する無言の批難に、だんまりで返す。少しでも言い訳をすれば十にも百にもなって返ってくるので、これが最適解だ。
     「お医者さまは何て?」
     「……ああ、」
     上着を脱ぎ、ボタンを外すことに集中するふりをする。結論を言う時間を稼いで、一体何になるというのか。
     「手の震えは一生残るそうだ」
     たっぷり時間を使って、何でもないことのように告げる。妻の表情は変わらない。
     「医者でいるのも今日までにする。こんな手じゃ、ひと針だって縫えもしない」
     分かりきっていた事実を口にしただけなのに、ああ、本当にもう医者でいられないのだな、と、ようやく頭の深い部分で理解できた。
     「他の仕事を探すよ。大工なんてどうだろうな」
     冗談を言ったつもりが、妻は怖い顔をしていた。違う。これは、泣くのを耐えている顔だ。俺が戦地から帰ってきて、玄関を開けた時に見たのと、同じ顔。
     「あなたは、お医者さまじゃないとだめなんでしょう」
     「……そんなことないよ、」
     「だったらもっと平気な顔してちょうだい」
     両手でぱしん、と頬を挟まれる。やわらかくて白い手のひらは、春も終わりだというのに冷えていた。
     「そんな顔して、医者をやめるなんてよく言えたものね。何のために諦めようとしたの?私たち家族のため?」
     「……違う」
     妻の手を握り、やんわりと落とす。
     「諦めたふりをして、こうやって君に引き留めて欲しかったのかもしれない」
     妻は呆れたように息を吐く。
     「お医者さまのくせに弱っちいこと」
     「医者と弱っちいのは関係ないだろ」
     「それで、もうやめるなんて言わないでしょう?」
     「うん」
     「でも手は使えないんでしょう、どうするの」
     「それは、まあ。考えてみるよ」
     名案はまだ思いつかないが。少なくとも、医者をやめるという選択肢はなくなった。今はそれだけで十分な気もした。
     
     後日。まるで俺の境遇と示し合わせたかのように遠方の昔馴染みから精神科の医者が足りないから来ないか、と連絡があった。それに対する断りの手紙を書いていても、精神科医、という文字が頭から消えなかった。
     内臓や皮膚の上を触るわけじゃない。幸い、知識に飢えた学生時代に臨床経験もあって資格も持っている。手を使わなくとも、患者を診れる。
     精神科でなら、俺は、まだ医者をやれる。
     「鶴子!お義父さんが空き家持ってただろう、郵便局の前あたり」
     ばたばたと台所に入ってきた俺を鶴子は見遣り、首を捻った。いまさら気付くが、手にペンを持ったままだった。
     「持ってますけれど、なに?借りたい人がいるの?」
     「いるよ」
     俺は両手を広げてみせる。
     「俺だ」

     そうして呉脳医院が開院して三年になる。出血も炎症も見えない病に、“完治”という言葉はなく、医者ができることはあまりにも少ない。それでも、「昨日は少し眠れました」と笑う男や、「はじめておかあさん、と呼んだの」と泣く母親の姿を見ると、まだまだやらねば、と思うのだ。
     生まれて不幸だと思う人が、ひとりでも少なくなるように。
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