ガキの頃、よく港へ行った。家にいてもろくなことはなかったし、街に行っても同じくろくなことがなかった。そう言うとき、港でただ出入りするだけの船を見るのが楽しかった。灰色にくすんだ空と、青ぐらい海が遠くまで広がった港は、他の色がほとんどない。錆だらけのコンテナと倉庫の向かい、コンクリートでできた所々欠けた係留場が海と空の水平線に向けて飛び出している。
いろんな船がそこに着いて、すぐに出て行ったり、しばらく留まっていたり。同じ船を見ることも何度かあった。どんな船が来ても、いつでも港はそこにあって、変わらなかった。ずっと、船を待ってくれている。それだけのその世界が好きだった。
拒絶もせず、どこかに消えたりもせず。
けれど、ある日きゅうに港に行くのが嫌になった。いまいましいとすら思った。今ならわかる、ただ妬ましかったのだ。船が。帰る場所がある船が。
最後に覚えている港のことは、背中に強く吹き付けるすえた匂いの粘った風のにおいだった。
ゆっくりと目を開けると、黒いカビがところどころに散らばった白い天井が目に入った。かすかに水が落ちる音がして、そちらに目をやると、高く吊るされた点滴パックからゆるやかに自分の腕へと伝う管が見えた。ぽと、ぽと、と透明の雫が落ちてきていた。
いつからここにこうしていたのか、すっかり硬くなってしまった首を捻じ曲げて反対側に顔を向けると、見知った男の姿があった。窓のへりに頭をもたせかけ白いカーテンを敷き込んで目を閉じている。眠っているのだろう。柔らかい光が、その輪郭とまぶた、まつげ、鼻の先にはちみつの色の光を落としている。
ずいぶんとやつれちゃいないか。
そう思った。やわらかそうだった頬は削げ、目の下がはけで塗られたように黒い。伊達男にしてはめすらしく、服もずいぶんとよれて汚れているように見えた。覗く襟の内側が黒ずんでいる。
起こしては悪いという気持ちより前に、口が勝手に動いていた。「ファティ」読んだつもりの声は、からっからに乾いていて音にならない。声というよりでかいため息だ。開いた唇が割れたのか、錆の味がうっすらとした。伸ばそうとした手は少し持ち上げるだけで震えた。もう一度、名を呼んでみる。
「ファティ」
先ほどと同じように空気だけが漏れた、音は出ていない。
だというのに、眠る男はまつげをゆっくりともたげた。しばらく蝶が休むようにまつげは小さく上下していたが、自分の姿を認めたとたん、ぱっとつややかな黒目を表した。こちらを認めた瞬間、目が濡れたように見えたのは気のせいだったろうか。眉根を寄せ、くちびるを噛むように引き絞った、その表情に、体の軋みよりも遥かに強い痛みが胸をおそう。
こうなる前、最後の記憶は、目に映る人間みんなショッキングピンクのマーブル模様になって溶けていく様子だった。異常な寒さと熱さが繰り返し襲ってきて、頭がひどく痛んで腹の中のものを全部吐き出す。自分の吐いたゲロもショッキングピンクだった。俺もあれになっちまうんだあれになっちまうんだと、何度も叫んだ。舌の上に、えぐいすっぱさと血の味が広がってえづき、また吐く。仰向けに倒れ込むとゲロが喉に流れてくる。息ができない。苦しい。
誰かが俺の名前を必死に呼んでいる。
ここでぶっつりと記憶は切れていた、そのあとは何も。
あれらすべてヤクの過剰摂取によるものだったと今ならわかる。あれから何日経ったのだろう。
「バカ野郎」
掠れた声がなじってくる。こんな時、こんな言葉だというのに、ファティの声はどこかやさしい。ずっとそばに居てくれたのだろうか。おそらく、そうだろう。固い椅子の上で横にもなれず、少し眠り、起きては、ずっと。
「ごめん」と謝ったところで、この男は「気にするな」と返すだろう。謝ることすらさせてもらえないのだ。やさしいやさしいこの男は。仕方なく「ただいま」と返してみる。ファティ一瞬ぽかんとしてから、「なんだそれ」と呆れたように言う。それから手で目元を覆うと、椅子にもたれて笑った。口元は笑いの形をしていたが、指の隙間から見える眉じりは下がっていた。指だってふるえていた。ごめん、心の中で繰り返す。どれだけの時間、信じて、ただ待ってくれていたのか。待たせていたのだ、自分の弱さに頭から逃げ込んだまま、ずっと。
瞬きもできず、ただファティを見つめる。視線に気づいたのかファティは指の間から少しだけ目を覗かせて、それからやっと顔を上げた。もう、いつものファティだった。
「なんか欲しいものあるか?」
欲しいもの、と頭の中で反芻する。何か食べたいなんて思いもつかなかったし、タバコだって今はごめんだ。じゃあ何がほしい?そこまで考えて「港に行きたい」と、口から勝手にかさかさとこぼれた。港へ、青と灰色だけしかない、俺を待っている懐かしいあの場所へ。いまは他に何もいらない。
ファティは、そうだなと返す。うっすらと弓形にしなる口元、ふせたまつげの下で細められた濃い黒い目。その笑みをまだ見ていたいと思うのに、まぶたがどんどんと落ちてくる。眠りがまたやってきた。ファティ、名を呼ぶ。また声にならなかった。それでも、ファティの手がゆっくりと伸びてくるのが見えた。
眠りに落ちるその寸前、頬にふれた手がひどくやさしくて、泣きそうだった。