山の神様ととんぼさんの話(パロ)昔々あるところに。山に囲まれ真ん中に川の流れる土地がありました。
そこには小規模な村がいくつかあり、戦の世でありながら人々は平和に暮らしておりました。
ところが、ここの所数年、天気がおかしく、日照りのあとに長雨となったり、夏なのに妙に寒かったり、空から氷のつぶてが降ったりと、畑が上手く育たず、人々は大変困っておりました。
これは山の神様の怒りに違いない。
誰ともなくそんな声が呟かれました。
「違うよ」
と声を上げたのは端の村の小さな子でした。
この子はある戦の折にどこかから一人ぼっちでやってきて、親の名前も自分の名前もわからなかったので、村人みんなでなにかと面倒を見て育てている子です。
大きな桑の木のある小屋にいるので「くわな」と呼ばれていました。
「お空はどうしようもないけれど…畑を良くすれば大丈夫だよ」
くわなは変わった子で、村の子と遊びもせず、山に出かけたり一人で畑を作ったりしており、いつも見えない誰かとブツブツと喋っていました。
大人たちはそんなくわなの言う事は聞こうとはしません。
周囲の村からも、「山の神様の怒りを鎮めるにはどうしたらよいか…」という声が聞こえ始めました。
その声は、村々の総意として、村の中でも一番大きく周囲を取りまとめる、『惣』と呼ばれる村の長にも届きました。
長の名は蜻蛉切と言い、誰よりも背が高く、誰よりもよく締まった筋肉を持った若武者でした。
蜻蛉切は一見鬼のようにも見えるその巨体でしたが、顔立ちは穏やかかつ静観で、またとても村人想いの優しい長でもありました。
「……話は聞いた。では、この俺が直接山に伺いを立てに行こう」
蜻蛉切はこう言いました。
「なりません!」
周囲の者は口々に言いました。
「あの山には恐ろしい神様が住んでおられるのです。いくら蜻蛉切様とはいえ無事ではすまないでしょう」
蜻蛉切は笑います。
「なればこそだ。女子供を贄に捧げたところで、どうなるか分からないのなら、俺が直接出向いた方が早い」
そう言い、早い方がいいだろうと早速山に行く支度を始めました。
山に向かう最中、小さな影が蜻蛉切に駆け寄ってきました。くわなです。
他の村人は、くわなの話は頭の少々おかしな子、戦でみなしごになったのだから仕方ない、そっとしておいてやろう、くらいにしか思っていなかったのですが、蜻蛉切はくわなの話を時々聞いてやることがありました。
そうするとくわなは頭がおかしいどころか、地形や植物の種類を把握し、どうすれば植物が育つか、どのような土地が適しているのか、また雲の動きがどう変わるのかを分析し、話すことが出来る子でした。
実際、くわなの作る小さな畑は、青々と茂っていて、凶作の年もなんらかの収穫をあげていました。
蜻蛉切もくわなの話を聞くうちに、だんだん可愛らしく思えてきて、時々ふたり親兄弟の様に過ごしている姿が見られました。
「くわな」
蜻蛉切は歩みを止め、くわなの目線に合わせてしゃがみました。
「とんぼきりさま」
くわなは前髪で眼をすっかり覆い隠しているのですが、歪んだ口元に気持ちがそのまま現れています。そんなくわなに蜻蛉切は優しく微笑みかけました。
「……くわな、心配には及ばない。古来、山の主は相撲が好きと聞く。話が通らぬなら一戦交えるまで」
蜻蛉切の大きな掌の下で、小さな頭が震えています。
「とんぼきりさま、その…」
「ん?」
「こたびの悪天候は、大地のせいじゃなくて…北の風が変わったんです。何年も続くものじゃないから……その」
なんとかなります、そう言うくわなの髪を蜻蛉切はくしゃくしゃと撫でました。
「くわな、お前の言いたいことは分かった。でもな、今村々に必要なのは安心感なのだ。このままでは、お前のような子供や、おなごを生贄に出さねばならないとも言い出しかねない。なに、山の神も正面から話し合えばそう悪いことにはなるまい」
蜻蛉切の言葉に、くわなの頬に今度こそ大粒の涙が流れました。
「……せめて、これをお持ちください」
涙をぬぐいながら手渡したのは、黄色と白の紐を編んだ小さな輪のお守りでした。
蜻蛉切はそれを手首に嵌め、
「では行って来る」
と手を振りました。
山の神の住むという山は険しく、行く手を阻む巨石や、見たことも無い大木が次々と現れました。
遥か昔に神域を示す為に置かれた石柱を蜻蛉切は見つけ、
「ここまででよい」
とついて来た村人を追い返しました。
暫く、不気味なほど静まり返った森を行ったところで蜻蛉切は立ち止まり、大きく息を吸って、
「山の神!!山の神、祢々切丸どのはおわすか!!村のおとな、蜻蛉切が参った!!御目通り願いたい!!」
山々に響き渡るような声で言いました。
「……願い事か」
暫くすると、静かな声が返ってきました。
その瞬間、周りの空気がさあっと変わって、しんと澄んだ空気が降りてきました。
蜻蛉切目の前に現れたのは、大きな蜻蛉切よりも更に大きな身体の男。
その目は穏やかに見えますが、鋭さ、厳しさを兼ね備え、まさに山の力強さと厳しさをそのまま表していました。
頭には木の根のような鹿の角のような冠を被り、肩と腰には獣の皮を纏っています。
蜻蛉切は圧倒されそうになりましたが踏みとどまり、ぐっと目の前の男、いや神をしっかりと見据えました。
「我が名は蜻蛉切と申す。そなた、山の神、祢々切丸どのと見受ける。そなたの言う通り、願いがあって参った」
「聞けぬな」
「え」
蜻蛉切の言葉が終わるや、祢々切丸は言いました。
「……下の村の不作の事であろう。我が力の及ぶところではない」
「……しかし」
蜻蛉切を突き放すように祢々切丸は続けます。
「人が死ぬのも自然のならい。穏やかに慎ましく生きるが好い」
「だが!」
蜻蛉切は叫びました。
「自分はこのまま帰るわけにはいかんのだ。祢々切丸どの、この俺と一度手合わせ願いたい。もしも俺が勝てば―」
「……面白い。よかろう、勝てば禁足地になっている森を一部分けてやろう。獣の肉も獲れようぞ。負ければお主の命を貰う。いいな?」
「望むところだ!」
蜻蛉切は着物を脱ぎ捨て、筋肉の盛り上がった美しい上半身を見せました。祢々切丸はふっと笑って自らも毛皮を脱ぎました。
轟音が木々の間を響き渡り、谷を渡っていきました。
くわなはふもとの里で大地に耳をぴったりとつけてそれを聞いておりました。
「とんぼきりさま……」
小さな願いを聞くものは誰もおりません。
蜻蛉切と祢々切丸は一昼夜、素手での殴り合いを行っておりました。
神を相手にしているにも関わらずほぼ互角、それどころか蜻蛉切はいまだかつてない高揚感を覚えておりました。
体躯に恵まれ力の強すぎる蜻蛉切とまともに戦える相手など居なかったのです。
そして、蜻蛉切はもっと強くなりたいという想いを密かに胸に抱いておりました。
今まさに自分より強い相手と向き合い、さらに強くなろうとしていることに、蜻蛉切は喜びを感じていました。村人の為にここに来たのにと自分を律しますが、血が滾るのを抑えられません。
しかし、いつか人の身体には限界がきます。
とうとう蜻蛉切は膝を折りました。
「……ここまでか」
蜻蛉切はどこかすがすがしい気持ちで祢々切丸を見上げました。
すると、祢々切丸はすっと蜻蛉切に手を差し伸べます。
「……我とここまで打ち合ったのはお主が初めてだ。否、人の子ならばはじめの一合も持つまい。その命、失くすのは惜しい。どうだ、……神にならぬか」
考えてもいなかった申し出に、蜻蛉切はあっけにとられました。
神の世界に来いというのは、人の世には戻れぬという事。
蜻蛉切の頭に、村人の姿がよぎります。
あるいは、自分が神になれば、彼らを救うことが出来るのではないか?とそう考えた時。
はさはさと小さな、鋭い羽音がしました。
鷹だ、と蜻蛉切は思いました。
一羽の鷹が木々の間を縫って、まっすぐに蜻蛉切の元へ飛び込み、その爪で差し出されていた祢々切丸の腕を浅く斬りつけました。
「……む?」
蜻蛉切は眼をこすりました。鷹かと思ったのですがそれは鷹ではなく、……人の様で、人でないものでした。
それは蜻蛉切を庇う様に腕を広げ、祢々切丸に向かって怒りの声を上げます。顔を覆う前髪の間から、金の瞳が覗いていました。
「……まさか。我も見るのは初めてだ。お主は……“江”か」
蜻蛉切には何のことかわかりません。ただ、目の前の異形が、自分を守ろうとしているのだけは分かりました。
「お主がそこまで言うのなら、この者を神の世界にいざなうのは今は諦めよう。
……人よ、蜻蛉切と言ったか。お主の心意気、強さに免じて、禁足地の一部を村に分けてやろう。代わりに、獲れた獣を山へ捧げるのを怠らぬように」
「……は!!」
蜻蛉切は深々と頭を下げました。
顔を上げると、祢々切丸はもう居ませんでした。
少し離れたところに、あの異形がいました。猛禽を思わせる脚の爪が無惨に割れて、血を流しています。
「……お前のお陰で助かったようだ。礼を言う」
蜻蛉切が歩み寄ろうとすると、異形は木の陰に隠れました。怯えたように蜻蛉切を見るその姿に、見覚えがありました。
初めて出会った時、その子は蜻蛉切に怯えて桑の木の陰に隠れたのです。
それから少しずつ近づいて来て、蜻蛉切の目を見て笑ったのでした。
そしてその子もその異形も、今の蜻蛉切も同じ黄色と白の紐を編んだお守りを腕に付けていました。
「……くわな?」
異形の前髪の間からぽろぽろと涙がこぼれました。
山の恵みで村々はその年を乗り切り、翌春は穏やかな気候となりました。
山から戻った蜻蛉切は早速畑の改革に乗り出し、まず水源を整えて畑を潤しました。
次にたい肥の工夫、農具の工夫といとまがありません。
それらは全てあの日から一緒に暮らし始めた桑名の知識と知恵でした。
桑名の瞳はあの日以来金色のまま戻らなくなってしまいましたが、それを知るのは蜻蛉切だけです。
「山の神の間で語り継がれているあやかしの話があってな。それは人の間にどこからともなくやってきて、しばし共に過ごした後、霧の様に消えてしまうあやかしだ。別に害を成すわけではない、しかしその正体を見たものはいない。詳しいことは何もわからんのだ……それらをさして『江』と言う」
奥の間で寝そべるのは遊びにやって来た山の神、祢々切丸です。
蜻蛉切をすっかり気に入り、時々こうして酒を飲みにやってくるのでした。
蜻蛉切は桑名を肩に乗せ、青々と茂る畑を見下ろしながら、幸せそうに笑いました。