きみの永遠にはなれない「すまない黒野君。答えはノーだ」
脳天をガツンと殴られたような気分だった。残酷なまでに平淡で穏やかな声が耳の奥で谺する。
握り締めすぎて震える拳を隠すように、玄武は泣きそうな顔で不器用に笑って見せた。
玄武が生まれて初めて落ちた恋は、密やかで前途多難なものだった。
まず懸想した相手が悪すぎる。元教師でありながらアイドルを志し、夢のために真摯でストイックな姿勢を崩さないような人物に、真面目が服を着て歩いているようだと言っていたのは誰だったか。
何より一番の壁となるのは、相手が同じ男性であるということだ。
同姓での交際は今時珍しいことでもないが、職業柄、そして相手の性格からして受け入れられるのは前途多難と言えるだろう。
己もまた追いかけて叶えるべき夢を抱いている。玄武と同じくらいの年若い仲間達がアイドルとしての熱意や展望を語らっている姿に、そっと頬を弛めた彼の人を意識し始めたその瞬間から、この想いが報われることはないだろうと早々に諦めてしまっていた。
ただただ静かに道夫への好意を募らせながら、それを周りに悟らせるようなボロは出さぬよう細心の注意を払っていた。
ユニットが異なるために同じ現場で従事することは殆どなかったが、少しの関わりあいから十分すぎるほどの幸せを感じとることが出来たため、これ以上を望むことも無い。
生い立ちゆえか、玄武はその実普段からは考えられないような繊細さと臆病さを持つ少年である。
大事な相棒である朱雀やプロデューサー、事務所の仲間に迷惑を掛けるくらいなら己の感情など隠してしまおうと、ずっと心の一部に蓋をして日々の生活を送っていた。
けれどそんな気持ちを殺しきれず、ほろりと口から零れ落ちた言葉に驚いたのは、きっと相手よりも自分の方だったろう。
S.E.Mのメンバーである次郎や類と居る時にだけほんの少し砕けた雰囲気になる道夫に、羨ましい等とどの口が言えようか。教師時代からの長い付き合いである二人に親しげになるのは至極当然だ、そこに嫉妬心や独占欲を抱くだなんて馬鹿げている。
特別扱いをしてほしいと言える間柄でもないのに。ましてやこの気持ちは告げぬと自分で誓ったことであるのに。
目線で追うだけの日々に嫌気が差すなんて思いもしなかった玄武は、己で思っているよりも弱った顔をしていたのかもしれない。
ある日の昼間、事務所で次の企画の参考書類に目を通していると白い紙面に影が落ちた。疑問に顔を上げれば隣に佇む道夫が此方を見下ろしていた。
「黒野君、少し話をしたいのだが良いだろうか」
彼の目線が玄武と机を挟んだ一人がけソファにちらりと移った。それに是と答えれば、無駄のない動きで其処へ腰かける。書類を軽く纏めながら話とはなにかと切り出すか迷っていると、居住まいを正した彼が此方を真っ直ぐに見つめていたので開きかけていた口を閉じた。
「近頃なにか悩みごとは無いだろうか」
…ああ、本当に真っ直ぐな人だ。真正面から言葉をぶつけてくるのは彼が言葉を偽るのを得意としないせいだろう。波風立てぬようそれとなく聞き出すのは他の二人の方が向いていそうだ。
相手を思うからこその態度なのだと分かっているが、きっと彼は教師時代随分と生きにくかっただろう。
その真っ直ぐさは玄武としては好ましいものであるが、本人を前にして言えるなら端から悩んでなどいない。
「いいや、悩みなんて特に無いぜ。どうして急にそんな事を言うんだい」
「……最近ボンヤリとしていることが増えたように思う。意見を聞かれて質問の内容を聞き返すなど以前ではしなかっただろう。特に一人の時によく考え込んでいるようだし、もし私に出来ることがあるなら力になりたい」
前職と最年長ということからか、普段から道夫はよく周りに気を配っているようだ。けれど頭を悩ませている要因が貴方だ等と言える筈もない。強面だと自負している己の寄った眉に臆することもなく、君の力になりたいなんて本気で言ってくる彼に、今度こそ玄武は頭を抱えたくなった。
ふと動揺した隙に手から紙の束が滑り落ちる。慌てて拾おうとソファから降りて膝をつけば、同じように跪いた道夫との距離が近付いたことに体が変に強張った。
顔が伏せられたことで重い前髪が表情を隠す。バサバサと乾いた紙の音。
玄武の手が止まっていることを不思議に思って上げられた顔が、睫毛の長さが確認できるくらいに近かった。
窓から差し込む陽に照らされてふと細められた淡い色の瞳を見たら、込み上げた言葉が自然と口から転がり出ていた。
「道夫アニさんが好きだ」
いつもは切長の瞳がまるく見開かれる。その音が自分の発した物だと認識した瞬間、沸き上がるのはやってしまったという後悔だ。
けれど覆水盆に帰らず。転がり出た言葉は今さら無かったことには出来ない。
「すまない、今のは嘘……いや嘘じゃないんだが言うつもりはなくて…って、俺はなにを言ってるんだ……! 頼む道夫アニさん、今のは忘れてくれ」
取り繕おうとすればするほど焦って墓穴を掘ってしまう。
一人慌てふためく玄武を他所に、道夫は何やら考え込んでいるようだった。そんな想い人の顔を見ていられずに俯いていると、机の上に纏め終わった書類を置いた彼が口を開く気配がする。
「すまない黒野君。答えはノーだ」
脳天をガツンと殴られたような気分だった。残酷なまでに平淡で穏やかな声が耳の奥で谺する。握り締めすぎて震える拳を隠すように、玄武は泣きそうな心持ちでひとつ深呼吸をした。
「は、は……そうだよな…俺なんかがアンタみたいな人に好意を寄せるなんて出過ぎた真似だったぜ。本当に、すまねえ…」
上手く笑えている自信なんてこれっぽっちも無かった。無理やり上げた口角は引きつっているし、眉根は寄って酷い目つきだろう。
ギリギリと軋む奥歯と爪の刺さる掌が痛い。熱くなる目頭が煩わしくて、ともすれば逃げ出そうとする体を抑え込んだのは、同じく優しい凪いだ声。
「話は最後まで聞きなさい。正直なところ、私は今とても驚愕している。ドッキリ企画かなにかではないかとも考えてしまった……けれど、真面目な君のことだから冗談でないのは分かるし、きっと沢山悩んだのだろう」
頬に触れた手にビクついた肩を宥めるように指が目元をなぞり、膝の上で握り込む自分の手を睨み付けていた顔が上向かされた。
「そんな君の思いを否定したくない。受け入れる、というのは難しいけれど……私は忘れたくない。だからその提案はノーだ。私を好いてくれて有り難う、黒野君」
許された、と思った。決して報われたわけではないけれど、この人の事を好いたままでいいのだと許しを得た。予期せぬ形で手元から転がり落ちてしまった恋心は、打ち捨てられることなく丁寧に拾い上げられて輝いたままでいる。
「お、れは……これからも此処に居て良いのか…?」
震える声に、そっと縦に振られる首。通い合うことはなかったけれど、これからも傍に在っても良いと無言の肯定で示される。
きっと暫くしたら何事も無かったようにいつも通りの日常に戻るのだ。けれどもう玄武の恋を否定する枷は無い。
胸が痛くて、痛くて、切なくて苦しい。愛しいなんて陳腐な言葉では言い表せないくらいこの人の事を大切に思っている。
柔らかく笑う道夫に募る恋情が瞳から雫となって溢れだす。抱き締めることは出来ないから、己より幾分細い肩に額を押し付けて玄武は声を圧し殺して泣いた。
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