「すみません」
不意にかけられた声に振り向くと、水色の瞳がニコリと微笑んだ。
「男性向けのマッサージの体験やってるんですけど、お兄さんよければやっていきませんか」
タダですよ。という言葉と一緒に渡されたのは、ありふれた名刺サイズの広告。
いつもなら「俺は暇じゃねえよ」と一蹴するそれを受けとったのは、今思えば、そこから既に始まっていたからだろう。
「受けてくれるの?嬉しいな。じゃあこっちへ、どうぞ」
自然に手を引かれて、雑居ビルの地下へと足を踏み入れる。薄暗い階段を降りる俺の背中に追いすがった夏の日差しと喧騒が、一筋の汗となって首筋を伝い落ちた。
「ゆっくりしていってね」
カラン。
ドアに付けられたベルが、安っぽい音を立てて閉まった。
◆
パーテーションを捲ると、どこからか甘い匂いがした。
「高校生なの?」
渡されたタオル地のガウン(施術着というらしい)に着替える俺に、男は驚いた声を上げた。
「かわいい顔してるなとは思ったけど──ごめんごめん。からかってるんじゃないよ」
睨みつけた視線を、男はもろ手を挙げて受け流す。俺は舌打ちを一つ漏らすと、脱いだ服を下着ごと籠に突っ込んだ。
「大和アレクサンダーくん、高校2年生……あ、僕はミナトっていいます。よろしくな。
ちなみにどこか痛いところとか、凝ってるところはある?」
「ない」と答えると、なにやら書き込んでいた男──ミナトはふむふむと頷いてペンを置いた。
「それじゃ、そこに寝転んで。まずはうつ伏せで。首、肩、背中をマッサージしていきます」
言われた通りに寝転ぶ。最初に首を触られて、耳の後ろ当たり、後頭部の窪みをキュっと押された。
「ここ結構凝っちゃう人多いんだけど、どう?」
指の腹で数回揉みこまれた後、うなじの筋肉の流れにそって押し流される。数回繰り返されると、頭がスッと軽くなる気がした。
「そこまで凝ってはないね。姿勢いいからかな。でも普段あんまり意識的に伸ばしたりするところじゃないから、気持ちいだろ?」
目を閉じて曖昧に頷いた俺に、ミナトが笑う気配がした。
「あ、この辺張ってる。トレーニングのしすぎじゃないか?」
指が下りてきて、首から鎖骨への筋や、首と肩の境目の筋肉を解される。がっしりとしたミナトの手は力強さも申し分ない。疲労していた筋肉を緩急をつけてグニグニと揉まれると、全身の力が抜けて、思わずため息が漏れた。
右頬を組んだ腕に預けて脱力する。息を深く吸い込むと甘い匂いがして、どうにもこのまま眠ってしまいそうな心地だ。
「背中もすいぶん張ってるな──アレク、オイルマッサージ試してみない?」
名前を呼ばれて、薄っすらと目を開ける。俺の頭の横に移動したミナトは、ワゴンから白いボトルを取り出した。
「僕が作った特製のオイルなんだけど──身体を温かくしたり、筋肉をリラックスさせる効果があるんだ。あといい匂いがするから、アロマテラピーの効果もあるよ」
アロマ……?
聞きなれない言葉に鈍った思考が止まる。ただ、ミナトがボトルの蓋を開けると、さっきから香っていたあの甘い匂いが溢れ出たので、ああこの匂いだったのかと腑に落ちた。
「嫌だったらしないけど……」
そう言うミナトに、別に嫌ではなかったから、好きにしろとだけ返した。
「ほんと?じゃあ、ちょっと失礼」
ミナトはニッコリと笑うと、俺のガウンに手を伸ばした。言われるがままに腕を抜くと、あっさりと上半身を剥き出しにされる。「脚も塗るから」と裾を太腿までたくし上げられたところで、そういえば自分が下着を履いていないことに気が付いたが、別に男同士で困ることもないだろう。
「」