行間 それは、記憶の中と全く同じ「相模原 涼」の姿をしていた。
恐る恐る抱きしめてみれば、腕の中に収まる感触も、記憶の中のそれと違わない。
声も、仕草も、笑顔も、何もかも。
目の前にいる彼女は、自分の知っている「相模原 涼」のままだった。
本来ならば二度と会うことの出来ない人が、そこにいる。
本当ならずっとこのまま彼女と話していたいと思う。
太陽のない世界で、リンドウの花が咲くまで、今までのこと、言えなかったこと、ずっとずっと話していたいと、そう願ってしまいそうになる。
もう一度見たいと思っていた笑顔が向けられると、懐かしくて、同じくらいに悲しくて、心臓がギュウっと締め付けられたように痛んだ。
記憶の中と同じ感触。
記憶の中と同じ仕草。
記憶の中と同じ笑顔。
目の前にいる相模原涼は、記憶の中の彼女と寸分違わない姿でそこに存在している。
そして、だからこそ否応なしに理解してしまう。
彼女は、本当の相模原涼ではない、ということを。
彼女を失って4年になる。
4年もあれば、どんな人間にも変化はある。
それは、加齢による見た目の変化かもしれない。或いは、生活環境による仕草の変化、言葉遣いの変化、挙げていけばいくらでも見つけることができるだろう。
けれど目の前にいる彼女にはそれがない。
涼さんが本当に生き続けていたというのなら、記憶の生き写しのような彼女など存在するはずがないのだ。
この不可解な日々について調べていた中で見つけた、雑誌の一節を思い出す。
命は不可逆のものであり、死者が蘇るなんて錯覚に過ぎない。
だからここにいる彼女はきっと、”俺の記憶の中の涼さん”なんだろう。
「――それじゃあ私はもう帰るけど、五百住くんにもよろしくね」
腕時計を見た彼女は、そう言ってベンチから立ち上がる。
ゆるりと振られたその手を掴むと、記憶と同じ柔らかい手の感触が伝わってきた。
驚いたように目を瞬かせる彼女に向かって口を開く。
たとえ彼女が本物じゃなくても、否、本物じゃないからこそ伝えなくてはいけない。
「涼さん」
未練はないなんて、口が裂けても言うことは出来ない。
今だって、彼女と過ごした日々を夢に見る。
俺は弱いから、叶うならもう一度、彼女のいた日常を取り戻したいと願ってしまう。
けれどその願いが成就してはならないものであるということもわかっている。
ここで”記憶のままの涼さん”を選び、五百住を捨てるなんて選択をしたら、本当の涼さんに顔向けができなくなってしまう。
もっと一緒に居たい。話がしたい。他愛のないことで笑って、喧嘩して、触れ合いたい。
そう叫ぶ本心を抑え込んで、精一杯言葉を絞り出す。
「あなたに会えてよかった」
優しくて、強くて、世界で一番愛しい人。
彼女の隣に居て恥ずかしくない人間になれるように。
彼女の向けてくれた好意に値する人間で在れるように。
別れたくない、離れたくないと、感情は叫び、胸が痛む。
だが、今はそれを気にしている場合じゃない。
きっと彼女に会えるのはこれが最期だ。
だから伝えたかった感謝の言葉を、言えなかった別れの言葉を紡ごう。
未練を、後悔を、断ち切るために。
「あなたの隣に立てたことは、俺の一生の誇りです」
その誇りを胸に生きていくために。
彼女に恥じない人生を、これからも歩いて行くために。
グレーのスーツを着た小柄な背中が、少しずつ遠くなっていく。
遠くなる背中が、周りの植物が、視界の中で少しずつ滲んでいく。
頬を水滴が伝っていく。
喉が震えて、嗚咽が漏れそうになる。
泣くなといくら自分に言い聞かせても、涙がボロボロと溢れてきて止まらなかった。
どのくらい1人でそうしていただろう。不意に携帯が震えて、五百住がここに着いた事を知らせる。
きっと、今日もう一度五百住は死に、代わりに彼女を蘇らせるつもりなのだろう。
そんなことを許すものか。
乱暴に目元を拭い、深く息を吸う。
「……こんな場所に、あいつを置いてなどいけるものか」
ここへ置いていくものなど、この弱い心だけで十分だ。
五百住を陽の下へ連れ帰る決意と共に、俺は黄泉への一歩を踏み出した。