翻る悪夢 ──ぺたぺた、キシリ。
素足で木の廊下を歩く感触、足元の床が軋む音。
それだけで「ああ、またこの夢か」と理解する。
今よりも少し低い視界で、古びた日本家屋の廊下を歩いて行く夢だ。
夢だと理解したところで、足は止まらない。これは”そういうモノ”なのだ。もう何年も何年も見続けている、あの日の出来事を忘れさせないためのものなのだから。
夢は記憶を整理するためのものだと言うが、ならばどうして同じ日、同じ時間の夢を自分は繰り返し見ているのだろう。
真面目に考えたこともあったが、今ではもう何も感じなくなってしまった。この出来事が衝撃的すぎて強く脳裏に焼き付いていると、ただそれだけのことなのだろう。
ザラリとした砂壁の廊下は、家の北側にあることもあっていつも薄暗い。
茶菓子と麦茶の乗った盆の上で、グラスの氷がカランと涼し気な音を立てた。
外から聞こえる蝉の声が、今は夏の真っ盛りであることを知らせている。この日は随分暑かったのだと、そう思い出させるように。
──ペたペた、キシリ。
足音が響く。
この先の襖を開ければ、誰よりも慕っていた従兄の変わり果てた姿があると、自分は知っている。
それでも身体は勝手に進み、またあの日の光景を繰り返そうとする。
力なくだらりと垂れ下がった華奢な肢体も、その体から滴り落ちる体液も、変色し、赤黒くむくんだ顔も、全て覚えている。
だというのに、懲りずにこの体はあの日の光景を見せつけようと前に進む。
「史人さん、入るよ」
口が勝手にそう動いて、今よりも幾分高い声で呼びかける。
手に持っていた盆を床に置き、廊下の突き当り、少し建付けの悪い引き戸に手をかけて、力を込める。
そうして開けた戸の向こうでは、いつものように人間が一人、首を吊って死んでいた。
だがそこにあったのは、いつもと同じ従兄の身体では、ない。
瞳孔が開ききって、どろりと濁った両目が、こちらをじっと見下ろしている。
力なく垂れ下がった、大柄で逞しい肢体には、嫌というほど見覚えがある。
何を思っていたのだろうか。死して尚きつく握りしめられた右手の中には、くしゃくしゃになった手紙が――自分宛ての遺書が握られている。
あの日、あの時と同じ場所にぶら下がっていたのは、大事な相棒の体だった。
「良かったね、アキ」
呆然と、ありえないはずの遺体を見上げる自分の肩を優しく叩いて、懐かしい声が告げる。
柔らかな声と仕草は、彼の放つ死臭とはあまりにも不釣り合いで、気持ちが悪い。
冷たく固い屍肉の掌が、優しく優しく、頭を撫でる。
「お前に遺書をくれる子が、もう一人できたみたいだよ」
そう言って、後ろの誰か――いつもならこの部屋で縊死している筈の従兄の死体は満足げに嗤う。
自分の代わりにぶら下がった、根小山慈の首吊り死体を見上げたままで。
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「──、チカっ‼」
咄嗟に発した自分の叫び声で、文字通り飛び起きた。ドッドッドッドッと早鐘を撃つ鼓動も、全身を濡らす冷や汗も、ひどく不快だ。
荒い呼吸を鎮めるように、何度か深く息をすると、ようやく心臓も頭も落ち着いてくれた。
「……クソみたいな夢だとは常々思ってたが、それにしたって」
まさかレベルアップしてくるとは思わなかった。
あまりにもリアルに描き出された相棒の死体は、夢の産物だというのに強く脳裏に焼き付いて、まるで本物を見たかのような心地になる。
だが、夢は夢だ。根小山とは昨夜も一緒に仕事をしたし、どうせ今日も昼過ぎ頃に店やってくるだろう。そして退屈だ何だと言いながら、いつも通りカウンターの隅で店の中を眺めている。その筈だ。
だから、大丈夫。あれは単なる夢なのだと、冷たくなった手を握りながら自分に言い聞かせる。
ゆっくりと手の開閉を繰り返せば、指先に少しずつ体温が戻ってきた。
窓を見れば外は薄暗く、夜が明けるまでまだ時間があるようだ。一度シャワーで汗を流して、もう一度寝直そう。
ああそうだ。そろそろ店に置く雑誌を新しくしないといけないのだった。次に起きたら根小山に連絡をして、買い物を手伝わせよう。
そんなことをしなくとも、昼になれば姿を見れるだろうことはわかっている。けれど今日ばかりは、少しでも早く彼の無事を確認したいのだと、嫌な焦燥感が胸を焼いていた。
ベッドから降りて、シャワーを浴びるためにフローリング張りの床を歩く。
──ぺたり、ぺたり。
足に伝わる感触は、あの夢の廊下とよく似ていた。